ゴールドマンサックス証券の歴史

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概説:現地化を推進

日本市場の攻略は、日本の有力財界人に一任する。



背景:1971年 ニクソンショック

1971年8月15日に、リチャード・ニクソン(合衆国・大統領)は「米、金交換を停止」(*1)と発表し、日欧を「通貨調整交渉の場」に引きずり込む。これにより、先進主要国の通貨切り上げは現実的な問題となり、一連の出来事は"ニクソンショック"と名付けられた。

1971年に日経ビジネスは「円は22年ぶりに、360円の手綱から放たれた」「ここ1、2年の活発な円切り上げ議論とその結末は、いくつかの自戒をこめた貴重な教訓を残した。その一つは、日本はすでに好むと好まざるにかかわらず、“世界の中の日本”としてしか生きられないこと、もう一つは、展望のないその場しのぎの対策は結局高くつく、などである」(*1)と指摘する。

のちに金融関係者はニクソンショックについて、以下のように振り返っている。


デリック・モーン(ソロモンブラザーズ・アジア証券・東京支店長、1987)

世界の金融制度は1970年代になって特にフローディング制(注:変動相場制)が拡大したことと、ユーロ市場が急成長したことにより、従来の固定相場制から大きく脱皮することとなった。すなわち、これまで国際的な資本の移動を抑制していた制約条件の多くが取り払われ、各国で海外の人々にも金融市場を解放しようという動きが活発に(なった。)

1987/4 財政金融ジャーナル


松沢卓二(富士銀行・頭取)

ニクソン・ショック以降の日本経済は、それまでの温室的環境から一転して、国際社会の荒波に身をさらすことになる。各部局面で国際化は急速に進展していった

1985 私の銀行昭和史


1971年12月20日に、1ドル360円から308円への切り上げが実現。これにより、日本の円の価値、すなわち人件費が高騰したため、日本企業は高い給料を支払える事業に転換するか、逆に香港などの安い人件費の新興国に工場を移すという、いずれかの決断に迫られた。

1971年のニクソンショック以降、世界の企業は"多国籍化・国際化"を志向する時代に突入する。


(*1)1971/08/16日経新聞夕刊p1

(*2)1971/09/06日経ビジネス「緊急特集」


背景:1972年 メリルリンチの進出

1970年9月1日に日本政府は第3次資本自由化を実施。この流れを受け、1972年には「外国証券会社法」が成立し、外国証券会社の日本支店の開設が可能となった。このため、日本の中小証券会社の関係者は"金融機関も外資に乗っ取られるのではないか"と危惧する。

この時、華々しく日本進出を果たしたのがメリルリンチであった。いち早く、1972年に東京支店(三井不動産・霞が関ビルに入居)を開設。しかしながら、日本政府は東京証券取引所の会員権を外資に付与しなかった。よって、東証での有価証券の売買に関して、外資は日本の会員会社に委託手数料を支払う必要があり、ほとんどの外資は支店ではなく駐在所を設置するにとどまった。

1970年代を通じて、メリルの日本での存在感は絶無であり、野村証券の天下が続く。

1970年代に外資金融が苦戦した理由について、松沢卓二(富士銀行・頭取)は「外国資本が日本の銀行業に進出を図っても、日本における規制や行政指導があまりに強く、勝手な行動はできないから」「日本ではテーク・オーバー・ビット(TOB)、公開買い付け」については株主が容易に応じないらめであろう」(*1)と結論付けた。


(*1)1985「私の昭和銀行史」松沢著

(*2)1990/01/01


源流:1974年 GS東京駐在所

1974年にGoldman Sachsは日本進出を決断したが、東京支店ではなく東京駐在所を設置。主に情報収集を目的とし、証券業務の事業化には至らなかった。

ところが、1980年前後に日米貿易摩擦が深刻化し、米国は摩擦緩和の交換条件として、日本における金融自由化を要請。これにより、日本での外資規制が緩和せれる見込みとなり、1983年にGSは東京駐在所を東京支店へと格上げした。


  :1987年 外国四大証券の一つ

1985年に日本政府は東証会員権(メンバー)をGSやメリルといった米系金融機関に付与。これにより、外資証券各社は会員権という箔付けを獲得し、日本市場における業務拡大に乗り出す。東証会員権の開放が、日本における実質的な外資金融"元年"となった。

1987年にアトキンソン(GS・東京支店長)は日本での業務について以下のように語っている。


アトキンソン(1987)

1974年に苗木を植えて以来、今日まで肥料をやり続けてきました。その間、1983年には東京支店となり、また1986年には東証のメンバーに入るなど、着実に実を結び、毎年業績の向上を図ってきました。例えばメンバーに入ったことのメリットは、直性売買に伴う実利的なこと、国際的なプレステージの高揚などいろいろあげられますが、先立っては、お客から「外国の四大証券の一つ」と言われたりしましてね。これもメンバーになったためと思っています。

日本の顧客にあった全ての商品を、サービスできるようにすること。多様化し変動の激しい市場の中で、顧客の要望に答えていくためには一つだけオファーできるというのでは弱いですからね。起伏の激しい中になって、長期的にも成長力を保っていけるような総合的な業務戦略を図っていきたい。

1987/09銀行時評「シェア拡大へ積極展開はかる外国証券」


また、198年に銀行時評は外資金融の相次ぐ日本進出について、以下のように描写している。


銀行事業(1987)

東京市場がニューヨーク、ロンドンと並ぶ世界のドル箱市場に成長するにつれ外国証券の上陸作戦も年を追って激しさを加えている。先に大蔵省は米国大手商業銀行の証券子会社4社を含む10社10支店に証券業免許を内示したが、すべて免許を取得すると、在日外国証券の数は合計46社48支店にも達する。当然、"青い目の陣取り合戦"も日増しにエスカレートする一方だ。

そうはいっても、1972年に米国メルリリンチが対日進出第1号として支店を開設してから1984年までの13年間、在日外国証券の数はわずか10社11支店にすぎなかったことを考えれば、ここ3年間は凄まじいばかりの上陸ラッシュだ。

ある中堅証券のトップが言う。「好況に沸く今は、"売り物"がないが、市況が悪化すれば外国証券による国内証券の買収劇もせきを切ったように巻き起こるのではないか」。それぞれ異なる思惑を秘めながらも、証券国際化時代はまさに本番である。

1987/09銀行時評「シェア拡大へ積極展開はかる外国証券」


ところが、1987年10月に世界的に株価が暴落し、ウォール街に冬の時代が到来。欧米証券各社は人員削減の嵐に見舞われた。


勝負:1988年 東京支店の増員

1988年にJohn Weinberg(Goldman Sachs・会長)は「昨年10月の株式市場の暴落後も、当社の国際戦略は全く変わっていない。東京市場でもニューヨーク、ロンドンと同様の業務を展開し、金融のグローバル化に対応できる人員を確保する」「東京支店では、今後日本企業のニーズが更に高まるとみられるM&A(企業の合併・買収)や日本株のセールスなどの分野で人員増を考えている」(*1)と語り、日本事業の継続と増員を決断した。

1984年の時点でGS東京支店の人員は18名であったが、1986年に従来の虎ノ門三井ビル(霞ヶ関3-8-1)からアークヒルズ(東京・赤坂)に移転。この移転に際して、GSは同居する競合外資に比べて1.5倍のオフィススペースを確保しており、1988年の増員の際の布石となった。このため、1980年代後半の外資金融会社はアークヒルズに集積し、盛んなスカウト合戦が繰り広げられる。

1980年代後半から、1990年代にかけてGS東京支店は、夜の接待を駆使して日本の大企業・社長(財界・奥の院)に対する営業を開始。のちに日経新聞は、GSの営業作戦について「大企業相手のどぶ板営業の5年」(*2)と描写している。


(*1)1988/02/11日経金融新聞p1「暴落後も戦略変えず、日本で増員も検討」

(*2)2006/01/04日経新聞朝刊p1


勝負:1994年 現地化を推進

1994年4月にGSは、日本興業銀行の大物・石原秀夫(興銀・元副頭取)をスカウトしてGS証券・会長に抜擢。さらに、石原秀夫はGS本社のパートナーにも就任する。

この衝撃的な人事について、日経新聞は「大手邦銀の経営トップ経験者が海外の有力証券会社に移籍するのは初めて」「日本でも銀行と証券の垣根が低下すると同時に、外国証券が東京市場で着実に地歩を固めつつあることを象徴している」(*1)と報道した。

1994年に石原秀夫はGSの日本事業について、以下のように語っている。


石原秀夫(1994)

一年以上前から話はありましたが、当時は興銀リースの再建中で、受けることはできませんでした。しかし、1993年度決算が黒字になり、再建を軌道に乗せることができたので受けることにしました。これまで外国証券会社に行くのは証券界出身が多く、銀行出身は珍しいですが、これは銀行と証券の垣根の低下がもたらした現象でしょう

日本では約600人が働いており、日本企業や政府機関とコンタクトできています。ただ、従来は東京市場が国際化する波に乗って急成長してきましたが、それも来るところまできています。日本企業はこれまでゴールドマンを外国会社としてメニューに加えてきましたが、これからは、どの証券会社を選ぼうか、というときに、その候補になりたいと考えています。その際、ゴールドマンの世界的ネットワークが強みになります

日本で働いているのは米国人と比較的若い日本人です。ゴールドマンが今後、外国会社としてでなく、日本に十分根を張った会社として顧客にサービスを提供するためには、日本での仕事のやり方に習熟した者が役に立てる面があるでしょう。私の興銀での40年の経験を役立ててもらって日本的な仕事のやり方をとり入れ、ゴールドマンを日本に根付かせることが私の役割だと思っています

1994/04/12日経金融新聞p3「興銀リース社長石原秀夫氏」


(*1)1994/04/08日経新聞朝刊p7「会長に石原秀夫前興銀副頭取」


経過:1994年 提案力で食い込む

1994年の石原秀夫の就任に際して、GSは顧客を集めたパーティーを開催。この時、従来はGSに対して、絶対に顔を見せなかった企業の社長が多く出席し、GS証券は日本の大企業という顧客の獲得に成功した。

1994年7月に日経新聞は「提案力で食い込む」(*1)と題して、以下のようにGS証券を評価している。


日経新聞(1994)

米投資銀行のゴールドマン・サックスが日本の大手企業に食い込み始めた。日本に進出して20年、「顧客との長期の信頼関係を築く」(ジョン・ワインバーグ本社上級会長)戦略が実を結びつつある。裁定取引など流通市場に力を投入していち早く高収益を上げたソロモン・ブラザーズやモルガン・スタンレーには出遅れたが、米国で培った企業金融のノウハウをもとにした提案力で次第に強みを発揮している。

実働部隊である東京支店の投資銀行部門は、ともに30歳代の持田昌典、槙原純両常務が共同責任者。昨年まで米国で勤務した槙原氏は「企業に食い込むのは日本が最も時間がかかる」と指摘する。大手証券や都市銀行の力が強く、決定権のある経営者に話を通すのも簡単ではない。元日本興業銀行副頭取の石原氏の広い人脈が、ビジネスの糸口になるとの期待がある。

1994/07/18日経新聞朝刊p5「ゴールドマン・サックス証券」


一方、1980年代に日本で最も成功した証券会社・ソロモンブラザーズは、1990年代に現地化を徹底しなかった。このため、ソロモンは野村証券、大和証券、山一証券が強い日本市場への食い込みを諦め、GSとは逆に日本における引受業務の拡大を見送る。

結果として、ソロモンは一貫して裁定取引などの商品売買(トレーディング)で収益を確保し、GSは営業力の強化を通じた引受業務(投資銀行・仲介)を強化するために日本企業との関係を深めるという道を選ぶ。


(*1)1994/07/18日経新聞朝刊p5「ゴールドマン・サックス証券」


  :1997年 不良債権は宝の山?

1997年12月にGS証券(石原秀夫・会長)は、日本の銀行が溜め込んだ不良債権を購入する方針を決断。GSの不良債権や土地の購入について、日経新聞は一面見出し記事を含めて、以下のように指摘している。


日経新聞(1997・一面記事)

米大手証券ゴールドマン・サックスが邦銀の持つ不良債権の大量購入に動き始めた。不動産担保付き債権を中心に、1998年中に最大5000億円を購入する考え。第一弾として東京三菱銀行からこのほど125億円の不良債権を一括購入し、他の大手都市銀行とも交渉に入った。ゴールドマン社は日本の地価が底値に近づいたと判断、購入不動産の将来の値上がり益を見込んでいる。

1997/12/22日経新聞朝刊p1「米証券ゴールドマン、邦銀の不良債権購入」


日経新聞(1998)

日本の銀行が手を焼く不良債権を、欧米の投資家が担保不動産とともにせっせと買い上げている。地価が下落し、十分採算が合うとの読みがあるだけでなく、土地の利用価値を的確に測り、土地を再生させる彼ら独自の手法が、不良債権を“宝の山”に変える可能性があるからだ。このままでは、日本はバブル処理のノウハウさえ蓄積できずに終わりかねない。

バブル期の土地取引で痛手を受けた日本の企業や金融機関は、いまだに新たな不動産投資をする余力に乏しい。こんな日本勢をしり目に、欧米投資家が不良債権を着々と買い上げているわけだ。例えば、経営環境の厳しい邦銀の中では優等生といわれる東京三菱銀でさえ、買い手ではなく、売り手の立場。日本経済再生への最大の課題である不良債権問題に風穴をあけようとしている主役は、あくまで外資である。日本の金融機関は手をこまぬいているのが実情だ。

1998/03/22日経新聞朝刊p13「不良債権は宝の山?」


すでに、GS米本社は1990年代初頭に、米国で破綻したS&L(貯蓄金融機関)の再生に関与し、ここで不良債権の処理ノウハウを獲得。その内容は、不良債権を処分する際に、特別目的会社に売却した上、特別会社が不良債権を小口化してリスクを分散。このリスクが軽減された不良債権を多くの投資家に発売するという手法であった。

さらに、1990年代を通じて日本株安・米国株高という状況が定着。世界の余った資金が日本に集まりやすいという時代背景も、GSにとっては追い風になるが、1998年6月に石原秀夫が67歳で急逝してしまう。


  :2004年 最強金融集団

1998年にNTTドコモは東証一部上場を申請。約1兆円が動くと予測されたドコモの上場は"メガディール"と言われ、証券会社の各社が主幹事を獲得すべく、熾烈な営業攻勢を展開した。そして、ドコモは野村や大和といった老舗ではなく、米GSと日興証券の2社がドコモ上場の共同主幹事に選定し、GSは日本における存在感を獲得する。

また、ドコモは上場資金の活用について、GSのアドバイスを受けて、巨額買収を立て続けに実施。ドコモは買収とその失敗により、結果として莫大な損失を計上したが、GSは巨額の手数料収入を獲得する。

この功績により、1999年に持田昌典がGS東京支店長に就任。ところがこの人事に対し、GSの社内では「持田氏の名を満天下にとどろかせた数々の大企業案件も、それ以前から顧客に地道に通い、関係を強化してきた担当者がいた。自分たちを押しのけて、持田氏がニューヨークに実績をアピールしている」(*1)という批判が巻き起こったという。

一方、2001年にヘンリー・ポールソン(GS・会長)は"日本は長期的に見て一段と有望市場になる"と展望し、一貫して日本市場の強化を続けた。1980年代は18名であったGS日本法人の人員は、2004年には1200名へと拡大する。そして、GSの日本法人は六本木ヒルズ(2003年開業)に入居した。

2004年に日経ビジネスは「日本を買う最強金融集団」(*1)と題して、GSを特集。以下のように評価した。


日経ビジネス(2004)

日本経済の中枢に根を張った外国の会社がある。黒子に徹してきたから会社名さえ知らない人も多い。米大手証券のゴールドマン・サックスだ。日本に上陸して30年、金融をリードするだけではなく、産業再編の隠れた主役も務めてきた。知る人にとっては世界で一番きになる会社でもある。

「以前なら興銀に行くような学生までもがゴールド案の採用試験を受けるようになった」。ゴールドマンを最近やめたOBはこう話す。東京大学など有名大学の成績優秀な学生が金融を志望する場合、かつては旧日本興業銀行(現みずほコーポレーション)を目指したもの。今や、優秀な人材はゴールドマンに流れている。毎年40人程度の採用に対して、数千人の応募がある。

日本の金融業界が過去と決別する中で、ゴールドマンが日本市場での存在感を高めていった背景には何があったのか。「ロングタームグリーディー」。これは短期的な収益を追い求めるのではなく、顧客と長期的な関係を築き、機が熟したら大きく儲けるという、ゴールドマンの考え方を示した言葉だ。

もっとも日本市場で盤石な地歩を築いたゴールドマンだが、ひと頃の勢いを失いかけているようにも見える。(中略)圧倒的優位が薄れた背景には、競争が激化する中で、他の外資系証券や日経証券がキャッチアップしてきたという側面がある。同時に持田氏おともにゴールドマンを支えた社員が、会社を去り始めているという事実と無関係でないだろう。

かつて体験したことのない再編に巻き込まれた経営者は、経営の助言をゴールドマンに求めた。だからこそ、風土が異なる日本でウォール街流のやり方を謳歌できた。しかい、同社のやり方が日本で知り尽くされてきた今、次なる商機を貪欲に求め始めている。

2004/09/13日経ビジネス「ゴールドマンサックス・日本を買う最強金融集団」


(*1)2004/09/13日経ビジネス「ゴールドマンサックス・日本を買う最強金融集団」


  :2012年 厳しい収益環境

2007年のリーマンショックを機に投資銀行は壊滅的な打撃を受け、GS証券でも人員削減を実施。それでも、2012年に日経新聞はGSについて「バブル崩壊後の日本で最も成功した外資系金融機関」(*1)と高く評価した。持田昌典(GS証券・社長)は以下のように語っている。


持田昌典(2012)

M&A(合併・買収)の助言や、株式・債券の引き受けなど投資銀行業務は厳しい収益環境が続いている。特に、日本のM&A市場は以前から欧米に比べ厚みがない。欧米では必ず1日に10件はM&Aの発表があるのに対し、日本では発表が無い日がある

ゴールドマンも世界の全地域でうまくいっているわけではない。日本法人はグループの中でも、グローバルとローカルのバランスの良さが注目されている。日本の外資系の中では当社は最も現地化している(中略)東京の投資銀行部門にはいま外国人が一人もいない。その代わり、欧米だけでなく南米やアフリカ、東南アジアのバンカーが毎週およそ10人は来日する。日本オフィスはローカル色が強いが、サービスはグローバルだ。今や国内企業同士の合併でも、高い品質の助言をするにはグローバルな情勢理解が不可欠だ

2012/09/24日経新聞朝刊p5「日本での収益の柱は」


2008年のリーマンショック以降、外資金融のボロ儲け・高額給料という恵まれた時代は終わりを告げた。

さらに、2010年代を通じてインターネットのサーバーが増強されたことで、Fintechが台頭。2014年に元GS証券社員・加納裕三はビットフラヤーを創業するなど、世の中のお金の流れは"巨額ディールの仲介手数料"から"ネット技術"へと推移した。

ところが、2017年の時点で東大・京大生の就職人気ランキングは「1位:マッキンゼー」「7位:GS」(*1)となる。これを"エリート学生の悲劇"と言う。


(*1)2017/08/04日経産業新聞p19「日本企業の片思い」



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