マッキンゼー日本支社の歴史

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概説:かつての本業は"経営教育"

マッキンゼー日本支社と1973年の石油危機。実はこれに経済学者、経営学者も加えると、コンサル業界の栄枯盛衰が見えて来る。石油危機後、世の中は通貨と石油価格が乱高下する"不確実性の時代"となり、この変化への処方箋という需要が高まった。

これに対し、経済学者とエコノミストたちは"将来の予言=石油価格はいくらになる"と予測して自滅。一方、マッキンゼーは不確実性に対処する人材の育成を提言し、経営学者は変化適応の重要性を"経営戦略"として示した。これにより、オイルショックを機に経済学者が死滅し、コンサルタントと経営学者が市民権を獲得する。

そして、マッキンゼーは大前研一という現地人を抜擢登用することで、日本支社は日本の大企業のコンサルティング=2代目経営者の育成、という案件を獲得。大前研一は、日本企業の2代目経営者に対して、米国における企業の提携相手を紹介し、企業の国際化のお手伝いをすることで絶大な信頼を獲得する。

つまり、マッキンゼー急成長の本当の要因は、非・創業経営者の人材育成+企業の国際化の達成、というサポート需要の獲得にある。世間の人は、マッキンゼーが企業に提言するというコンサル会社という側面を見るが、日本支社の成り立ちの経緯を見る限り、実は2代目経営者への教育・国際化支援というのが本業である。その証拠に、大前研一はマッキンゼー在籍時にNBIという教育機関を立ち上げ、マッキンゼーを去ったのちに再びビジネススクールを設立し、株式上場を果たした。

ところが、2000年にインターネットが普及したことでビジネスのルールが激変。マッキンゼーの主要顧客である大企業が統合・再編の嵐に見舞われ、逆に名もないベンチャー企業が力を発揮する時代に突入。つまり、2代目経営者の育成という需要が消え、今度は新しくネット起業家の育成という需要が急増した。ネット起業家の育成を担ったのは、マッキンゼーではなく、1950年代から起業家教育に力を入れてきた米スタンフォード大学である。



背景:1971年 ニクソンショック

1971年12月20日より、合衆国・ニクソン大統領は1ドル360円から308円へと円切り上げ=ニクソンショックを実施。一方、日本政府は資本自由化を推し進め、外国企業に日本進出を防止する障壁を徐々に取り除く方針を決め、日米欧で同時へ憩い的に企業経営の国際化=多国籍化が進行する。


  :1971年 マッキンゼー上陸

1971年4月21日に、米マッキンゼーは日本政府から東京事務所(東京丸の内・富士ビル10階)の設立の許可を受け、日本進出を決断。日経新聞は「マッキンゼーが上陸」「同社はすでに数年前から日本市場を綿密に調査する一方、わが国から各種コンサルティング業務を受託するなど、実績と経験を積み重ねながら、対日進出の機をうかがっていた。わが国のこの種のコンサルティング需要がここへきて急にもりあがってきたことと、同社の対日進出準備がようやく整いだしたので、本確定に対日進出に踏み切ったもの」(*1)と報道した。

そして、1972年末にウォールトン(マッキンゼー・社長)が来日し、雑誌・プレジデントのインタビューに応じる。プレジデントは「日本の会社の多国籍企業化路線は正しい選択か。またその公算やいかに・・・。」(*1)と問題提起するとともにマッキンゼー社を紹介。この対談で、ウォールトンは以下のように語っている。


ウォールトン(1973)

日本は3つの不足から多国籍企業化を迫られると思います。第1に資源、第2に余剰労働力、第3に土地の不足です。いずれも海外に求めざるをえなくなってきています。ひとつ問題になるのは、というよりも貴方がたがよく問題にするのは"日本はこの面で出遅れている。まだどこかで受け入れ余地があるのか"ということですが、その答えはアメリカのテレビ市場が示しています。テレビはイギリスで発明され、アメリカで大量生産されましたが、現在のアメリカ市場は日本に明け渡しているのが実情です。むしろ遅いことには利点さえあるはずです。他国の人が犯してきた間違いを繰り返さずに済むんですから・・・。

マッキンゼー社の場合、多国籍化に踏み切ったのは1957年で、現在は世界11カ国に16のオフィスを持っています。我々の会社は車内の一定の資格者がパートナーとなり株式を所有する形態を採っていますが、その中にはアメリカ人と同様にフランス人、ドイツ人、イギリス人、オランダ人、北欧人らが参加しています。その発言は対等。

というのは、国籍を問わず一人の所有率は5%までというポリシーがあるからです。われわれの最高意思決定は、こうしたわけで、完全な多国籍人グループにより行われているのです。いまのところ日本人のパートナーはいませんが、できるだけ早くそうしたいと思っています。

今度来日し、日本のマネージャーと話してみると、そんなことはありえないという意見が多い。"言語の障壁がある。生活環境が違いすぎる"といった点をあげます。しかしこういったことは、現在多国籍企業が存在する国々で50年前に言われたセリフです。日本人の生活様式や意識は変わってきている。(中略)これからの国際語は、外交を別にすると英語だと私は思うが、これは日本人の若者の多くが受け入れている言葉です。そうなれば言葉の面は、日本の会社の多国籍化にとって、早晩、大した問題ではなくなるでしょう。

1973/12プレジデント「条件成熟だが"make haste slowly"」


プレジデント・守岡道明(1973)

日本企業は多国籍化でき、またしなければならぬようだ、その際の戦略いかん?日本的な多国籍化の道はあるのだろうか。答えは"たったひとつの、どの会社にとってもベストの方法は存在しない"というものだった。

ウォルトン社長は同じような意味の発言を幾度か行った。"経営にゼネラルセオリーなし"というのは多国籍企業化戦略に限らず、マッキンゼー社のコンサルティングの基本的な立場でもあるようだ。

1973/02プレジデント「条件成熟だが"make haste slowly"」


このとき、ウォールトンの通訳を務めたのがマッキンゼー・日本支社に勤務する大前研一であった。大前は対談の終わりに守岡に対して「実は私はこういうのを書いているんですが、出版できるかどうか、機会があったら見てやってください」(*2)と述べ、自らの思考をまとめたノートを渡している。


(*1)1971/04/22日経新聞朝刊p9「マッキンゼー上陸」

(*2)2012/08/06PRESIDENT Online「"企業参謀"誕生秘話(1)」


背景:1973年 オイルショック

1973年10月にオイルショックが発生し、石油価格が暴騰。中東の激安石油に依存していた日本企業は設備投資を軒並みストップさせるなど、大混乱に陥る。

また、マッキンゼー日本支社は1970年代前半を通じて日本市場の開拓に苦戦。このため、マッキンゼー本社は日本撤退を視野に入れつつ、日本の業務を大前研一という若者に託すという決断を下した。

のちに大前研一は、オイルショックの混乱と社会情勢について、以下のように語っている。


大前研一(1977)

石油危機当時、企業は、未曾有の出来事ということで大混乱状態に陥っていた。私自身も、自分がコンサルタントを引き受けている会社がどうなるかについて、はっきりした見通しができなかった。なぜ見通しが立てられなかったといえば、大きく分けて3つの不確定要素があったのです。

1つは、日本経済そのものがどうなるか、予測が立てにくかったこと。2つ目は石油危機の影響を受けてもなお伸びる業界なのか、ほかの産業にとって替わられてしまうのか、これがにわかに判断できなかったこと。三番目としては、その企業が属している業界の盛衰の中あで企業がどうなるのかについて、見当がつけにくかったことの3つです。以上、3つの不確定要素を踏まえると、当時の私にはどういう答えが正解なのか、というより問題を解くカギが全然なかった。

しかし、コンサルタントとしては、みんな不確定要因だから・・・では済まされない。そこで、自分が預言者のような発言をする代わりに、そうした問題についてはっきり意見を述べられる人はいないか、と必死になって社内を探し回った。ところが企業というのは、あるいはこれまで必要でなかったからかもしれないが、まったくの無防備状態で適任者がいなかった。

これではどうにもならない。自分のことはさておき、これからの企業には、トップと違った角度から、今挙げたような問題を含めて全体をみる参謀的スタッフが、どうしても必要だと考えついたわけです。

高度成長時代、もしくは一定のパターンで企業活動が展開できた時代ならともかく、前提条件が不定で流動的となると、この人たち(注:専門家)や、いままでの組織、知識だけでは不十分です。どうしても全体を見渡してゴーなのか、ストップなのか、あるいはまたUターンするのかを的確に、かつ迅速に判断するに判断するのに必要なアドバイスをできる人材がトップは欲しくなる。

1977/09プレジデント「不確定時代の新企業参謀・大前研一」


勝負:1975年 企業参謀を出版

1975年に守岡道明(のちのプレジデント・社長)は、数年前に大前研一から受け取ったノートの原稿を面白いと感じて出版を決意。そして、1975年に大前研一(マッキンゼー東京支店・社員・32歳)は"企業参謀"を出版した。

大前は企業参謀を通じて経営判断を担うトップ以外の人材の必要性を説いたところ、企業参謀は出版から1年の間に16万部を売る大ベストセラーとなった。1975年に大前研一は、オイルショック後の経済環境について以下のように語っている。


大前研一(1975)

私はマッキンゼー社の世界23箇所の事務所でコンサルティングの依頼を受けたテーアの内容について、石油危機以後どんな変化があったのか調べてみた。もちろん一番増えているのは、従来の成長戦略(多角化、海外事業、合併・吸収など)から、既存戦略再評価、財務管理(とくにキャッシュフロー管理)、組織再編成などであったが、企業目的再定義というものがいくつかあり、目を引いた。

一方、事業を続ける必要が本当にあるのか、といった観点から、事業の本質的見直しを依頼されたケースも一段と多くなっている(米国においては冷熱機器、有機合成化学など、ヨーロッパにおいては自動車、造船、繊維、銀行、油脂など)。危機を乗り越えるには、方向を見失わないためにも、確固たる信念と明確な目標が必要であることはいうまでもない。とくに経営環境が変わって1年以上が経た今一、新しい環境の中で生きるための「なぜ事業を営むのか」という大義名分を明らかにすることによって、迷いとためらいからの脱却を図る必要があるのではなかろうか。

とくに石油危機(すなわち資源不安定と新価格体系)およびインフレと不景気に同時に見舞われたここ1年ぐらいの間は、従来、企業環境を比較的よく把握していた会社でさえも、自信喪失してしまったかの感がある。

1975/10マネジメント「何が"企業戦略"で問われているか・大前研一」


経過:1980年 住友銀行が収益no.1

企業参謀は1975年の発売から1年で16万部を売るベストセラーとなり、マッキンゼー東京支店にコンサルティングの依頼が殺到。大前研一は、もともとコンサルティングの活用に積極的であったオムロン(立石一真・社長)からの依頼を獲得した。これにより、マッキンゼーの日本撤退という最悪の事態は回避された。

オムロン(京都本社)は制御・自動化部門は堅調であったが、電卓事業は苛酷な電卓戦争に敗北。大前研一はオムロンの次期社長ら若手と議論を通じて"事業の資源配分の適正化"を訴え、電卓事業からの撤退を提言する。これによりオムロンの業績は回復基調に向かい、マッキンゼー東京支店=大前研一の関西財界における評価が高まった。

のちに立石義雄は「会社が危機に直面した時、大ナタを振るわなければとトップは内心誰でもおもうでしょう。でもそれにともなう軋轢を考えると、尻込みしてしまう。失敗したときの責任を恐れてトップを勇気付ける社員もいません。その点大前さんは全く違いますから」(*1)と絶賛している。

また、1978年に大前研一は安宅産業の倒産で痛手を負った住友銀行(磯田一郎・頭取)の組織改革にも従事。住友銀行は総本部制の導入といった組織改革を成し遂げ、1980年に都銀収益no.1に返り咲く。日本を代表する優良企業の業績回復に寄与したことで、マッキンゼー日本支社は日本の経済界で認められた。

マッキンゼーの活用と住銀の組織改革について、1980年に磯田一郎は以下のように語っている。


磯田一郎(1980)

一言で言えば「顧客志向型」にしたということです。(中略)具体的に言いますとね、東京、大阪両営業部にRM(リレーションシップ・マネジメント)という制度をつくりまして、オフィサーを30人ほど置いております。それぞれが、たとえば松下電器産業さん担当とか、三洋電機さん担当とか、個別会社グループ別に担当を決めるわけです。そして、担当者は松下さんなら、松下さんのあらゆる相談に乗るようにしている。会社別ですから、いろんな相談が持ち込まれます。

いやー、私も当初は批判的だったんです。米国のコンサルタント会社に、日本の、それもわれわれのやっている銀行業務の中身なんてわかるはずないと思っていましたから。ただ、やらないとあとで悔いが残るのがいやで、数億円ぐらいですむなら、やってもらおうと踏み切ったのです。

結論からいいますと、非常に役立ちました。一つにはマッキンゼー社にこちらの中身を教えるということで、うちの行員が勉強したことです。組織面では、合議制の改革は全く私の考えですが、RMは完全にマッキンゼー社の意見を導入したものです。

それと、国際業務についての意見は参考になりました。彼らの話によると、日本の金融機関の能力、現状からいって3年間は途上国向けにやって、4年目ぐらいから米国など先進国で国際業務をやったほうがいいと言ってましたね。もっとも、現在ではそんなことは言ってられませんし、私の考えではことし1年は国際業務はイランの問題などもあって、むしろ"踊り場"だと思っています。

1980/02/25日経ビジネス「磯田一郎氏が語る利益重視経営」


(*1)1986/12/22日経ビジネス「大手町のスーパーマン・大前研一」


  :1986年 大手町のスーパーマン

1980年代を通じて、大前研一は新卒採用を重視し、留学制度を中心としたマッキンゼー日本支社における人材育成システムを整備。1986年にマッキンゼー日本支社は、東京大学の卒業生を中心に5名を内定を出すなど、人材獲得の面でも優位に立った。

大前研一について、1986年に日経ビジネスは「大手町のスーパーマン」「顧客には優良企業がずらりと並ぶ。著書はビジネス書として記録的な売れ行きを示す。経営コンサルタントの頂点に立ったマッキンゼー日本支社、大前研一。日本的なしがらみや建前の前にとらわれない徹底した理論は、妥協や汚れを一切拒否する痛烈なまでのナルシシズムから生まれた」(*1)と描写している。

また、1970年代には"まがい物・占い師"と揶揄されたコンサルタントという職業は、マッキンゼー日本支社=大前研一の活躍により高い地位を確立。コンサルタントの世間評価の逆転について、1987年に日経新聞は以下のようにリポートしている。


日経新聞(1987)

経営コンサルタントが最近、大学生の間でもてもての人気職種になってきた。高給、知的な雰囲気、大前研一氏のような“スター”への可能性・・・。どうやらカッコいいイメージが定着しつつあるようだ。

コンサルタント会社に学生の人気が集中しはじめたのは、ここ2、3年。会社側は東大、一橋、東工大、早稲田、慶応などごく限られた大学の学生に説明会の日時を知らせているだけなのに、とにかく学生は集まる。4、5年前までは、「毎年50人ぐらいしか問い合わせがなかったのに」(ある大手)とここ数年の変わり方に驚く。

数年前までコンサルタントといっても曖昧(あいまい)なイメージしかなかったが、住友銀行、野村証券、日本生命など今をときめく企業がマッキンゼーを活用。さらにマッキンゼー日本支社長の大前氏自身が経済評論家としても名を知られるようになり、コンサルタントの印象はぐんと向上したことは間違いない。

1987/08/24日経新聞朝刊p44「なぜ“もてる”コンサルタント」


また、1987年に大前研一は過度に持て囃されるコンサタント業について、以下のように語っている。


大前研一(1987)

われわれは、クライアンとのことは一切外部に出さない。どこがクライアントか言ったことはない。これがマッキンゼーの信用ですよ。自分たちの仕事についても、自慢も弁解がましいことも一切言わないし、言う立場にもない。われわれはお客さんと一緒に仕事をしますが、実行するのはお客さんの方ですから、結果がうまくいったかどうかについては、われわれは言う立場にない。そういう立場から言うと、マッキンゼーについてかかりたり言われたりしていることの大半は的外れですよ。

最近もある月刊誌に記事が出ましたが、内容を読むと、しかるべき人に然るべきインタビューをした形跡もないし、結局、風聞の域を出ていない。われわれが仕事をやったこともない話まで出ていますし、こちら側が評価するに値するような分析をしっかりやっているかどうか疑問です。クライアントに対するフォローはしっかりやっていますし、やりっぱなしということは絶対にない。

それと、果たして「マッキンゼー流」というものがあるのかどうか、ということですよ。われわれは決まりきったやり方というのは持っていない。それぞれのお客さんに合ったやり方でやっていく、というのが基本ですから。ただ、これまで非常に多くのケースをやってきて、問題を与えられれば、それを解決していくというプロセスを踏んできた人間、例えば私とか、若松、横山、千種といった人間がいて、こうした人間を中心に経験が蓄積されている、ということはあります。

私は何が嫌いかというと、ノウハウで見せる人間になることを嫌う。つまり、やり方というものをわれわれが知っていてお客さんはしらない。ノウハウがあるかないか、ということだけでわれわれの商売をする、ということを私は嫌っている。だからノウハウ商法的アプローチというものがあったら、それは全部公開することにしている。だから、それは「マッキンゼーシリーズ」という本の中に全て書いてある。(中略)私は、それでも価値を生み出せる人間しか入らない。そうでなければ本当のコンサルタントにはなれない、といっている。ノウハウで食っているコンサルタントは卑屈ですよ。

1987/01決断「大前研一のすべて」


そして、教育制度の完備を見届け、1994年12月に大前研一はマッキンゼーを退社し、後任の横山禎徳にマッキンゼー日本支社の運営を託す。


(*1)1986/12/22日経ビジネス「大手町のスーパーマン・大前研一」


  :2013年 マッキンゼー学校

1990年代から2000年代を通じて日本の大企業はリストラおよび東南アジア進出、企業買収に明け暮れたため、マッキンゼーはこれらの案件を獲得。同時期に米系金融機関・ゴールドマンサックスも日本企業の不良債権処理・買収案件で頭角を現したため、2000年代にマッキンゼーとゴールドマンサックスの2社は日本で最も成功を収めた外資企業となる。いずれも早くから現地人=日本人に運営を任せたことで、日本の大企業という顧客の獲得に成功した。

ところが、2000年にネットバブルが起こると、経済を動かす主役が大企業からネット系ベンチャー企業へと推移。このため、従来の大企業を顧客とするマッキンゼーとゴールドマンサックスは、顧客の弱体化に見舞われた。さらにマッキンゼーからはネット企業へと人材が流出。マッキンゼーの元社員・南場智子はDeNAを上場させるなど、時代の潮流が”マネジメント/教育”から"何かを創り出す"へと大きく変化した。

2000年以降、マッキンゼーの社員は相次いで"マッキンゼー本"を出版。1997年に山一証券が破綻したことで、日本のサラリーマンは"ビジネスマン"に進化する必要性を感じ、マッキンゼー出身者が書いた著作や、ビジネス学校の需要が急伸。これにより、ネット時代の到来という変化にもかかわらず、"マッキンゼー"がブランドとして市民権を獲得してしまった。結果として1980年代に大前研一がマッキンゼー流を否定したものの、21世紀に入り、世間はマッキンゼー流を信じてしまう。

そして、2013年に週刊東洋経済は「マッキンゼー学校」(*1)と題した特集記事を掲載し、「各界で活躍するリーダーを育成するマッキンゼーのスキルは秀逸。「1%の課題に集中せよ」「情報をグルーピングすれば課題が見える」など、次世代リーダーを目指す若手ビジネスパーソンの糧になるものが多い。マッキンゼーの最強メソッドを身に付けることで、ステップアップを目指していこう」(*1)と紹介した。

つまり、2000年代以降にマッキンゼーの社員・元社員はコンサル対象を大企業の役員から、一般企業の社員・ビジネスマンへとシフトした。終身雇用の終焉に伴い、個人のキャリア形成の重要性が高まった需要を捉えたものの、長続きしない可能性が高い。

2010年代に入り日本人はキラースキル、すなわちコンピューティングの重要性に気づいたが、この次元に突入すると「グローバル化」「キャリア形成」の必要性を訴えマッキンゼー卒業生に出番はない。肝心のコンピューティング"スキル"を付与できないために、マッキンゼー卒業生の優位性は崩れつつある。一方、グーグル卒業生=エンジニアの需要が高まっており、世代交代は近い。


(*1)2013/07/12週刊東洋経済「マッキンゼー学校」


  :2013年 斜陽寸前の業界

マッキンゼーが過度に評価される風潮について、2013年に上山信一(マッキンゼー・元パートナー)は以下のように危機感を抱いている。


上山信一(2013)

1960年代、優秀な若者は当時の花形、繊維業界を目指した。その後、対象は電機、自動車、 そして金融へと変わっていった。

そして今、若者たちの関心はコンサルティング業界、特に外資系に向いているらしい。聞いてみると、「各界で活躍する人の中に外資系コンサルティング出身者が多い。スキルが身に付く」という。しかし当のその業界出身の私にしてみると、違和感がぬぐえない。いつの世も若者たちは斜陽寸前の業界を目指すのか・・・教訓は世代を超えて受け継がれていかないのか・・・と。

今、もし外資系コンサルティング会社が魅力的に見えるとすれば、それは40年ほど前の米国人たちの決断(注:日本支社運営を大前研一という現地人に任せるという判断)がスゴかったことに由来する。

私は思うのだ。コンサルティングという仕事、特に外資系では日本への参入という創 成期に数多くの人材を鍛え、育て、世の中に送り出した。しかし、もはやそういう時代ではないのではないか。若くして野心にあふれる若者たち(かつての大前氏や堀氏のような)には、コンサルタントを目指すよりもむしろ起業してほしい、あるいは選挙に出てほしいと思うのだが、読者はいかがお考えだろうか。

2013/12/26日経ビジネスOnline「マッキンゼーは、もてはやされ過ぎだ」


(*1)2014/04/09日経産業新聞p1「マッキンゼー卒、実力は」



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