オリエンタルランドの歴史

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誰がカネを出す?

オリエンタルランドは東京ディズニーランドの運営に特化した企業であり、米ディズニー社にライセンス料金を支払うことで、日本で唯一ディズニーランドの経営が可能な企業である。いわば独占的な障壁を持つ企業と言える。

オリエンタルランドの歴史で重要なのは、莫大な投資(現在換算で1,000億円以上)が必要な東京ディズニーランドの建設に対し、どのように投資資金を賄うかという点であった。

そもそも日本の東京にディズニーランドを誘致しようとしたのは京成電鉄の川崎千春(社長)である。1960年に千葉県の漁村であった浦安に目をつけて子会社・オリエンタルランドを設立し、漁業補償交渉「漁業補償交渉を開始を参照」と埋め立てによって土地を確保するところまではうまくいったが、資金面で大いに苦労する。

天王山は1970年代後半であった。1977年に京成電鉄が経営危機に陥ると、メインバンクは海千山千と思われていたディズニーランド計画を諦めるように要請。さらに、オリエンタルランドの出資者であった三井不動産も計画を実質的に中止するように要請し、ディズニーの誘致は危うくなる。

絶体絶命の危機に対し、手を差し伸べた「投資家」が千葉県と興銀(みずほ銀行)であった。オリエンタルランドの高橋社長は三井不動産の大反対を押し切り、千葉県と興銀を味方につけて資金を確保。1984年に東京ディズニーランドの開業を実現した。

開業後、ディズイーランドは東京という優良立地を生かし、日本一のテーマパークへと発展。TDLの成功を見て、全国にスペイン(三重県)、オランダ(長崎県)をモチーフにした競合テーマパークが出現したが、東京という立地と、ディズニーという唯一無二のコンテンツを握るオリエンタルランドだけが、生き残る。

ちなみに、他の競合は一発屋で終わり、有形固定資産が莫大な負債に化けてしまった。その意味で、オリエンタルランドはテーマパーク業界における稀有な成功者であった。

とはいえ、オリエンタルランドはTDLの経営に際して、莫大な投資を続ける必要がある。これは、テーマパークの鮮度に敏感な消費者をリピータとして魅了し続けるため、投資を一時もストップできないことからくる、宿命でもある。

それでも、2000年代を通じてオリエンタルランドは有利子負債を圧縮し、自己資金で数千億円の投資が可能な状態なっており、資金面での懸念はほぼ解消した。ここに、オリエンタルランドは資金に困らずに、自分の意思で投資できるようになる。

東京ディズニーランドというと、そこで働く従業員が良い意味でも悪い意味でもピックアップされることが多いが、オリエンタルランドの経営という観点では「莫大かつ継続的な投資判断」が重要である。


オリエンタルランドの沿革

1959年 京成電鉄がディズニー誘致を計画

1960年 京成電鉄が「株式会社オリエンタルランド」を設立

この頃より、浦安地区と漁業補償交渉を開始

1962年 米ディズニー社を表敬訪問

1962年 浦安にて土地買収の交渉開始

1964年 埋め立て造成工事を開始

1974年 ディズニー社と提携合意

1975年 埋め立て工事を完了

1977年 京成電鉄が経営権を放棄

1977年 出資者の三井不動産が計画中止を要請

1979年 ディズニー社と正式契約

1980年 興銀が金融支援を約束

1980年 東京ディズニーランド建設開始

1983年 東京ディズニーランド開園

1996年 東証一部に株式を上場

2001年 東京ディズニーシーを開業


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1961年 漁業補償交渉を開始

時代背景

1950年代まで東京湾は漁業が盛んな海であり、コンビナートは形成されていなかった。このため東京湾の千葉県沿いには漁村が数多く点在しており、浦安地区は海苔、ハマグリやアサリなどの貝類を主軸とする漁村の一つであった。

ところが、1950年代に川崎製鉄が東京湾を埋め立てて千葉製鉄所を建設。千葉県は漁村から重化学工業を中心とするコンビナートへと急速に変化をと遂げつつあり、三井不動産が中心となって次々と東京湾の千葉県側の埋め立てを実施した。

埋め立てはアサリやハマグリなどの漁場の死を意味した。このため、東京から近い浦安地区も埋め立ての波が押し寄せており、1950年代を通じて浦安では漁業を生業とすることが難しくなりつつあった。

決断

1959年に京成電鉄(川崎千春・社長)は浦安地区に着目し、商業・住居地区の開発とともに、一大レジャーランドの建設を計画。1960年に京成電鉄(36%)、三井不動産(32%)、朝日土地興業(32%)の3社の出資により、東京へのディズニーランドの誘致・運営を目的とした株式会社オリエンタルランドを設立した。(注:途中で朝日土地が抜け、京成52%、三井不動産48%の出資比率となった)

経過:交渉成立

1960年より、オリエンタルランドの社員で酒豪であった高橋政知が浦安の漁業関係者と漁業補償交渉を実施。連日連夜、大金を使って浦安の漁業関係者と飲み明かし、徐々に関係者を説得したという。

この時、高橋は一人一人と説得するのではなく、組織を取りまとめる影の実力者を突き止め、実力者を先立って説得することで、交渉を推し進めた。高橋は酒を飲んでは、すぐにトイレで吐き出すことで少しでも酔わないように陰で工作をし、漁業関係者との飲み比べて一目置かれるようになった。漁業関係者に認められるには、酒の飲み比べて勝つことが必須であったという。

交渉を通じて、高橋は「とにかくレジャーランドを造りたい。海が汚れて漁業では食えないじゃないか。あなたの海をいたずらに犠牲にはしない。必ず立派な遊園地を造ってみせる」(*1)と説いて回り、最終的に漁業補償交渉の締結に至った。

(*1)1999/07/13日経新聞朝刊p40(私の履歴書・高橋政知-12)

経過:埋め立て完了

1962年に京成電鉄は浦安地区の埋め立てを千葉県に要請し、1964年より埋め立て工事を開始。この時、京成電鉄はディズニーランドとともにホテルの土地を確保するために、100万坪の土地を手配した。ディズニーランドが完成する前にホテル周辺の土地を抑えることは、必達事項であった。

埋め立て工事は1974年に完了。これにより、ディズニーの誘致を行う土地の造成が完了したが、この時点でディズニーがオリエンタルランドと正式な契約を結ぶ確証は無く、ディズニーは売上高の10%のロイヤリティーを要求を提示するにとどまった。

外部評価

三井不動産(1977)

深刻な経営危機に陥り、再建に真剣に取り組まねばならないこの時期に、再建と直接関係ないレジャー計画への投資は無理がある

1977/06/21読売新聞朝刊p8「金融機関、支援せず」


1977年 計画の続行

時代背景

1973年にオイルショックが発生し、1975年ごろから日本経済は不景気に突入。とくに不動産価格の値下がりが顕著となり、多くの新興ディベロッパーが消滅するなど、不動産業を取り巻く経済環境が悪化した。

不況の中、千葉県を拠点とする京成電鉄の経営も悪化。不動産投資の失敗に加え、本業である鉄道業の不振が重なり、経営危機に陥ってしまう。1977年に京成電鉄は73億円の損失を計上し、無敗に転落した。

京成電鉄は千葉県の成田と東京の上野を結ぶ私鉄路線であり、千葉〜東京方面へのアクセスに重要な路線であった。ところが、1960年代以降に、地下鉄東西線の開通、総武快速線の開通が相次ぎ、京成電鉄は「青砥」を経由する関係上所要時間が相対的に長い路線となり、競争力を失った。このため、本業と多角事業(不動産)がともに行き詰まってしまう。

1979年にはディズニーランド誘致の発案者である川崎千春が京成電鉄の社長を退任。以降、日本興業銀行(現みずほ銀行)が実質的に経営を支配した。

親会社の京成電鉄の経営危機により、オリエンタルランドも経営危機に陥る。取引銀行もレジャー施設の建設を疑問視し、三井不動産も計画の中止を要請。三井不動産の坪内社長は「ディズニーランドなんて前世紀の遺物だ。日本人には、すぐに飽きられるよ。米国側に10%ものロイヤルティーを払って採算が合うわけがない」*と言ったと伝えられている。

*1986/08/18日経ビジネス「夢を紡いだ男」

決断:ディズニーランド誘致

取引先銀行と出資者である三井不動産の中止要請にもかかわらず、オリエンタルランドは高橋政知が中心となってディズニーランドの誘致を決行。高橋は「私は、この時初めて思ったのだ。どんなにひどい妨害や邪魔が入ろうとも、私は意地でも東京ディズニーランドを造ってやろうと。たとえ相手が親会社の三井不動産であろうとも、この計画を壊そうとするものは容赦はしない、親会社をけ散らしてでも進んで行こう」(*1)と決心した。

1988/07/18日経ビジネス「開き直ってやった、ディズニー」

経過:興銀が融資を決断

ディズニーランド建設には1,000億円の資金が必要であり、最終的には日本興業銀行の副頭取・菅谷隆介が興銀を含めた協調融資を決断。興銀という強力な投資家を得て、オリエンタルランドはディズニーランド計画の続行に成功した。

計画遂行が確実となり、オリエンタルランドはディズニーと正式契約を締結し、東京ディズニーランドの建設が正式に決まった。

このため、オリエンタルランドの高橋は「今でも、あの時興銀がOKしてくれなければ、東京ディズニーランドは実現できなかったと思っている。私にとって、菅谷さんは終生の恩人である」(*1)と感謝の念を語っている。

1999/07/24日経新聞朝刊p36


1983年 東京ディズニーランド開園

時代背景

1970年代までの遊園地といえば、子供の遊び場という概念が普通であった。だが、東京ディズニーランドの出現により、大人が遊ぶテーマパークという一大市場が日本にも出現。日本人の所得も増加しつつあり、高額な入場料を払って遊ぶことへの需要が生まれつつあった。

決断:東京ディズニーランド開園

1984年4月15日にオリエンタルランドは東京ディズーランドを開業。従来の日本の遊園地の市場規模が年間1,000億円であったのに対し、オリエンタルランドは建設に1,000億円を投じており、市場規模に匹敵する金額の巨額投資により東京ディズニーランドを開園した。

経過:年間来場者数1200万人

東京ディズニーランドの損益分岐点(年間来場者数900万人)を1987年度に突破し、この年に1200万人となった。ディズニーの成功により全国各地にテーマパークの建設が相次いだが、日本でディズニーを運営できるのはオリエンタルランドのみで、競合はディズニーではないテーマを据えたテーマパークを開業した。

だが、1990年代にバブルが崩壊し、地方に出現したテーマパークの運営会社相次いで苦境に陥る。長崎のハウステンボス、三重の志摩スペイン村は、それぞれ華々しくオープンしたものの、リピーターを獲得できず、赤字を垂れ流す問題事業となった。


投資キャッシュフロー推移

一貫して継続的な巨額投資が必要なビジネス。


有利子負債残高

巨額投資を必要とするものの、2010年代は投資資金を自分で賄えるようになった。


大株主・保有経緯(2018年)

京成電鉄

ディズニーランドの誘致発案者。実質的なオリエンタルランドの創業者だが、1970年代に京成電鉄が経営危機に陥り、経営権をオリエンタルランドに移管して経営再建を行ったため、大株主としての地位にとどまる。このため、京成電鉄は収益源になるはずだったディズニーランドを手放すこととなり、大きな痛手となる。


三井不動産

1960年代にディズニーランドの建設にあたり、千葉県の埋め立て地の手配、資金面で支援した。だが、1970年代に京成電鉄が経営危機に陥ったため、ディズニーランドの建設から実質的に撤退・・・するはずだったが、千葉県とオリエンタルランドの説得により、結果として建設を継続することになった。


千葉県

1970年代にディズニーランドの建設にあたり、莫大な投資が必要なために開業に後ろ向きであった三井不動産を説得し、開業に一役を担った。


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