三井不動産の歴史

Last Update

作成意図

250社

日本橋 vs 丸の内

三井不動産の歴史上、最大の誤算は、明治時代に丸の内の買収を見送り、日本橋・兜町の土地を買収したことにある。明治時代は水運の全盛期であり、水路が巡らされた日本橋に物資とひとが集積していたが、大正時代に交通手段が水運から鉄道へと推移すると三井が獲得した日本橋・兜町の地価は相対的に下落。1920年代に山手線が環状運転を開始したことで東京駅の優位性が決定的になった。

このため、大正時代の時点で、丸の内=三菱の優位と、日本橋=三井の劣勢が鮮明となる。交通のパラダイムシフトに対し、三井不動産は対応できなかった。以降、三井不動産の歴史は、持たざるものによる不動産事業の歴史となる。

ちなみに、戦前に三井不動産は、日本橋地区の一体的な再開発を計画するが、周辺の地権者が猛反発。結果として三井は不動産事業に出遅れたうえに、三井グループの本社を集約させる土地を確保できなかった。戦後に三菱地所が三菱グループを丸の内に集約できたのに対して、三井グループの本社は離散。ここに財閥グループとしても、三井はオフィスの土地不足というハンデを背負う。

三井不動産は有望な土地を持たないハンデを克服するため、1962年に日本初の超高層オフィスビル(霞が関ビル)の建設を決断。建築基準法が改正された直後に建設に着手し、鹿島建設とともに、前代未聞の高層建築を完成させた。以降、三井不動産は高層ビルを武器に、三菱地所に応戦し、新宿や赤坂など、都内各地に高層ビルを次々と建設した。

一方、三菱地所は1960年代にビルの高層化を否定し、高さ61mで統一されたオフィスビルの建設を続行。さらに三菱は新宿副都心への進出を見送ったため、住友不動産や三井不動産などの弱小不動産会社は次々と東京都内に高層オフィスビルを建設。三井不動産はTBSと提携して赤坂地区の開発に手を出すなど、徐々に不動産会社としての頭角を現した。

ところが、2000年代に三菱地所は丸の内の再開発を推し進めて次々と高層オフィスを充実し、高層ビルは普及品となった。東京駅に近いという最高の立地条件を生かした丸の内は、オフィス+商業の複合的な町として復活した。一方、三井不動産は三菱のようにまとまった土地を都内に所有しないという事情から、三菱地所に対しては相対的に不利な状況にある。

このため、2000年代に三井不動産の岩佐弘道(現会長)は日本橋を中心に、東京都心部における再開発を推進。2018年時点でも、岩佐会長は日本橋の復権を唱えており、三菱に対抗する動きを見せている。だが、今後、大正時代に起こった水運→鉄道ような交通のパラダイムシフトがない限り、丸の内と日本橋の地価が逆転することは考えにくい。


近年の投資判断

2000年代における投資判断を振り返る

投資キャッシュフローの推移

注:決算は3月期

2001年 赤坂9丁目地区再開発地区計画(1800億円)

2002年 日本橋一丁目計画(450億円)

2002年 三井本館街区再開発計画(500億円)

2008年 丸の内一丁目地区建替計画(457億円)

2008年 三井生命大手町ビル取得(1185億円)

2008年 グランドトウキョウノースタワー建設(702億円)

2014年 日本橋二丁目地区第一種市街地再開発事業(1040億円)

2015年 新日比谷プロジェクト(1322億円)

2015年 日本橋室町三丁目地区第一種市街地再開発事業(1977億円)

2017年 米・55Hadson Yards(1428億円)


時代背景

2002年に日本政府は都市再生特別措置法を制定し、都市における再開発の推進を後押しする方針を決めた。とくに、東京では都心部にもかかわらず、老朽化した低層階の建物が残り、高層ビルによる再開発が進んでいない地区が多数存在しており、これらの土地の高度利用を通じて、都市における経済活動の円滑化を図ることが急務となる。

すでに、1998年に三菱地所は2代目丸ビルを着工を決断し、2002年に丸ビル(二代目)を開業。2003年には森ビルが六本木ヒルズを開業するなど、東京の都心部で土地の高度利用が急速に進んだ。

三井の本拠地である日本橋も変化に見舞われ、特に1998年に日本橋の老舗百貨店・白木屋の源流を組む東急百貨店日本橋店の閉店が決まり、再開発が急務となった。三井不動産も日本橋の再生のために、2005年に日本橋三井タワーを開業し、以降も相次いで都心部における高層オフィスビルの建設を進めた。


決断:東京都心部の再開発

2001年に三井不動産は、六本木・防衛省跡地の土地を1800億円で落札。このうち、60%が機関投資家、残り40%が三井不動産が資金を捻出することで、「東京ミッドタウン」として再開発する方針を決め、2007年に東京ミッドタウンとして開業した。当時は、1800億円の落札価格は「高値」だと批判されたが、三井不動産は開発を決断する。

2000年代前半に、六本木は大江戸線・南北線の2つの地下鉄が相次いで開業し、さらにオフィスビルが大量に出現。利便性が飛躍的に向上した。また、森ビルがネットベンチャーや外資系金融機関を六本木ヒルズのテナントとして誘致したことから、それまでパっとしなかった六本木という街は、時代の最先端の街へと変貌を遂げた。

また、2007年に三井不動産は長期経営計画「新チャレンジ・プラン2016」を策定し、東京都心部におけるオフィスビル用地の取得を中心とした保有事業の強化を決断した。特に、都市再生において、23区内における日本橋、日比谷、飯田橋、五反田・大崎、豊洲地区の開発を積極的に推進する方針を決めた。

2008年に三井不動産は約3400億円の設備投資を実行し、東京都心部の一等地における不動産の取得および大規模ビルの建設を決断した。大型取得案件としては三井生命大手町ビル(簿価1185億円)、建築案件としてはグランドトウキョウノースタワー(簿価702億円)が主たる設備投資であった。


結果:成功

2008年以降、三井不動産は目立った特別損失を計上しておらず、投資が失敗した形跡はない。東京ミッドタウンの土地も、1800億円以上の時価となっており、2000年代の三井不動産の投資は「成功」だったと言える。

のちに、岩佐弘道は「東京ミッドタウンは成功だった」という趣旨の発言をしており、三井不動産の社内でも成功事例として認識されているものと思われる。

*2000年代の投資FCのうち、年間最大投資額の70%以上の特別損失を計上した場合に「失敗」と判定する。


立役者:岩佐弘道(社長)

2000年代を通じて、三井不動産の都心再開発を経営者は、岩沙弘道である。2001年に社長に就任し、都心における再開発を指揮。2011年に三井不動産の会長に就任するまでの10年間に渡り、再開発の旗振り役となった。特に、東京ミッドタウンの建設にあたっては、「東京を代表する次世代の街づくりをするんだ」(*1)という意気込みを持っていたという。

岩佐弘道は三井財閥の本拠地である日本橋への思い入れが強く、2018年には「ポスト平成の時代には、何としても五街道の起点にして江戸の中心、東京・日本橋をよみがえらせたい」(*2)という意気込みを語っている。

*1 2018/12/22週刊東洋経済

*2 2019/01/05週刊東洋経済


作成意図

250社