日本テレビの歴史/正力松太郎

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焦点:誰が、なぜ、テレビ局を作った?


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1950年代のテレビ局分布地図

勝負:1951年 テレビ放送免許を申請


「テレビは一種の文化革命である。同時に国家的事業である。一新聞社、一事業家の力でよくなし得るものではない。だから読売はもちろんのこと、朝日も毎日も一緒にやろうと言っている。そして財界の全面的支援を得なくてはならぬ。また、そうでなくては10億の資本など集まらない。(注:ラジオの)民間放送がヨタヨタしている最中に、一足跳びにテレビをやろうというのだから、夢のような話と考えるかもしれぬが、僕は必ず実現してみせる確信がある

正力松太郎(日本テレビ・社長)の発言,1951年


(注)一部引用文に「文字色」を採用。青字(肯定的)・緑字(中立的)・赤字(否定的)のニュアンス。


日本テレビの歴史

源流:1924年 読売新聞の再建

日本テレビの源流は、1924年に経営不振に陥った読売新聞を、警視庁出身の正力松太郎が再建に乗り出したことに始まる。

大正時代までの有力紙は朝日新聞と毎日新聞であった。朝日新聞の創業者・村山竜平は明治時代に新聞の概念を「政党政治の機関紙」という位置付けから「商業紙」へと転換し、新聞の全国展開を達成。また、毎日新聞の本山彦一は朝日新聞に追随して商業紙の路線を追求した。これに対し、読売新聞は文芸作品の充実に注力したために、日露戦争における速報合戦で敗北し、大正時代までに経営危機に陥る。正力の読売再建は崖っぷちからのスタートとなった。

そこで正力は、興行路線という異色の新聞経営を目指す。その切り札が、プロ野球チーム「巨人軍」を創設であった。自分で大衆ニュース(野球)を製造して、自分の新聞で流すという興行新聞が完成する。正力の再建によって、読売新聞の発行部数は5万部から数百万部へと激増したという。

また、1937年に正力は財界の出資を募り、東京に後楽園球場を新設。従来の野球が明治神宮球場での大学対抗が主体であったのに対し、プロ野球としての独自の拠点を開設することで、職業野球という新しいスポーツを創造した。


背景:1945年 共産勢力の台頭

終戦後、共産勢力が日本でも台頭。1945年の敗戦を機に、日本の大企業は軍需喪失により人員削減を実行するが、労働者は赤旗の下にストライキを敢行して反発。日立、東芝、スズキ自動車などでは、特に壮絶な労働争議が発生したために、財界人は共産勢力の「賃上げせよ、リストラ撤回せよ」という言い分に苦慮した。


(参考)日立製作所の歴史:労働争議に関する詳しい記述あり


GHQは日本の民主化と共産勢力の抑止策としてテレビの普及を推奨し、1946年にNHKに対してテレビの技術研究の再開を許可。だが、廃墟と化した都会で電話さえ通じず、ラジオも十分に普及していない現状で、テレビは高値の花であった。そのために、GHQは、ラジオの民間放送の開始を優先し、戦前から続くNHKのによるラジオ独占放送を崩すことを優先した。ラジオの民間放送は1951年に実現する。

それでも、人々のテレビに対する期待は大きく、1950年に読売新聞は「テレビジョンというものは案外楽しめるもので、野球の試合などは、テレビジョンで見たほうが、下手に外野席の隅で実物を見るよりも、かえっていいくらいである」「ラジオ放送では「かまえました、かまえました。・・・」とむやみに早口で、アナウンサーだけ興奮していて、こっちはなかなかついていけない。その点、テレビジョンの方は、かまえているところが見えるのだから、大変具合いい」(*1)という論説を掲載した。


(*1)1950/01/20読売新聞夕刊p1「テレビと野球」


勝負:1951年 テレビ放送免許を申請

1951年10月に読売新聞は「わが国最初のテレビ放送として財界、言論界の代表が中心になり準備をすすめていた日本テレビジョン放送網株式会社では、このほど資金面その他一切の準備が完了したので、設立発起人代表正力松太郎氏から2日、電波監理委員会にあて、正式にテレビジョン放送局免許を申請した」(*1)と報道。正力松太郎は、テレビへの参入を正式に発表し、日本テレビは東京都千代田区麹町に基地局の建設を決定。同時にアメリカからの技術導入(送信機はRCA製・TTAH10kW)を進める。

テレビの将来性について正力は「テレビは一種の文化革命である。同時に国家的事業である。一新聞社、一事業家の力でよくなし得るものではない。だから読売はもちろんのこと、朝日も毎日も一緒にやろうと言っている。そして財界の全面的支援を得なくてはならぬ。また、そうでなくては10億の資本など集まらない。(注:ラジオの)民間放送がヨタヨタしている最中に、一足跳びにテレビをやろうというのだから、夢のような話と考えるかもしれぬが、僕は必ず実現してみせる確信がある」「現来、アメリカが日本でテレビをやろうというのは、デモクラシーの宣伝と反響宣伝が目的である」「それに早い話が、田舎からわざわざ歌舞伎座を見に来る必要もないし、映画も家で観れる。広告にしても、新聞で読んだり、ラジオで聴くのと違って、テレビは実物をみせるのだから、広告価値は絶大である」(*2)と語り、さらに正力は「僕は余生をテレビジョン事業に捧げたい」(*2)と意気込んだ。

これに対し、NHKは「当分テレビはやらない」という方針を撤回し、急遽テレビ免許を申請。これに対し、正力松太郎は「元来NHKは公共放送として、全国にラジオを普及させる責任を負うているにもかかわらず、(中略)その普及率は56%にすぎない」「本来の業務を放棄して、もっぱらにテレビジョンのために多額の経費を支出せんとするのは、はなはだしき不合理といわねばなりません」「月額200円の視聴料によって、果たして経営できるでありましょうか」(*3)「今までNHKがテレビの研究に何億とか使ったそうだ。僕は無駄な金は一切使わないでアメリカの協力を仰ぐつもりだ」(*2)という声明を発表した。


(*1)1951/10/03読売新聞朝刊p3「中央局の免許申請」

(*2)1951ダイヤモンド「俺はテレビジョンをやる」

(*3)1951/11/10読売新聞朝刊p2「民間企業か、官僚化か」


1952年 日本テレビだけに予備免許

1952年8月1日に電波監理委員会は「公営の日本放送協会(NHK)、民営の日本テレビ放送網、ラジオ東京(注:TBS)、日本テレビ放送協会、全日本放送株式会社、文化放送、中部日本放送など出願7社のうちから日本テレビ放送網株式会社(代表正力松太郎氏)に初の予備免許」(*2)を付与すると正式に発表した。

日本テレビへの免許許可の理由について、委員会は「(1)工事設計は法律及び規則に定める技術基準に適合する。(2)財界、実業界の代表的人物数名の支持をうけ、それぞれ出資確認も提出済みであって、かつ事業運営のための広告収入についても、確実な見通しもあり、事業を維持する財政的基礎が十分」(*2)とし、1社に絞った理由は「現在の経済状態、賠償未払いなどの事情も考えて、現状では2局以上の放送局解説は無理であるから、この際は国家犠牲と大衆負担のない民営1社に免許を与える」(*2)というもので、最後は財務基盤の優劣が決め手となる。

一方、TBSに関して、委員会は「ラジオ事業の現在の基礎が固まっていない、社業の基礎確立を待ってテレビ放送を実施する事を適当とす」(*2)と判断し、免許申請を受け付けなかった。このため、すでに新聞収入が安定していた読売系の日本テレビが先行する。

日本テレビの免許取得に際し、正力は「それはよかった、日本の経済状態では3本はもちろん、2本さえ無理だ。民営に許可が下りた事は言論自由の建前からも非常に結構な事だ。また、視聴料をとって大衆に負担をかける事はいけないというわれわれの主張が通ったことは喜びにたえない。民間テレビの出現によって日本文化は急速に発展し、みなさんからも必ず喜んでもらえると思う」(*2)と語った。だが、予想外の結末に焦ったNHKも、すぐにテレビ免許を取得する。

一方で、テレビ免許問題に奔走した財界人・原安三郎(日本化薬・社長)は「テレビはラジオの場合と異なり、放送費が高くつくので。受像機の少ない地方放送局でそれぞれ独立放送を行ったのでは採算が取れず、結局、東京などを主とした中継放送による以外ない」「なんといっても最大の問題は、テレビ受像機の数である。現在、わが国の総数は2000台近くとされているが、これでは商業放送など採算がとれるわけはない」「わが国のテレビ放送はまだ試験期であり、現在の日本の経済力からみて、むしろ早きに失した嫌いさえ無しとしないが、既にやりだした以上、(中略)社会に大きな影響があるテレビ文化を正しくわが国に発達させるため、全部の協力が必要である」(*3)と総括した。


(*1)1951/10/03読売新聞朝刊p3「中央局の免許申請」

(*2)1951ダイヤモンド「俺はテレビジョンをやる」

(*3)1953/05電波時報「日本のテレビの現状と課題」


1953年 日本テレビ開局

1953年8月28日に日本テレビはテレビ放送を開始。開局に際して吉田茂(日本国・首相)は「私は祝辞を述べる資格はありません。マッカーサー元帥(中略)と相談し、テレビは日本ではまだ贅沢であると、反対運動をしてきました。正力君にも、これは正気の沙汰ではあるまい、とまで申したのであります」(*1)「この反対を押し切って、正力君はこの大事業を完成されたのであります」(*1)と祝辞を述べた。また、正力は「開局のこの日を迎え、私どもが念願していることは、テレビの大衆化である」「こうしてテレビを通じてわが国の政治、経済、文化の各方面に寄与するとともに、新しい広告の媒介として役に立ちたいと思っております」(*2)と抱負を語った。

開局翌日から、日本テレビはプロ野球・巨人軍のナイター中継(東京後楽園)を実施。また、プロレスの中継(千駄ヶ谷・東京体育館)も開始し、興行放送を通じてテレビの視聴者を獲得する。ここに、千代田区麹町の発信所から、後楽園・千駄ヶ谷のスポーツが中継される時代が到来。東京が名実ともにテレビ文化の中心となる。


(*1)日本テレビ社史

(*2)1953/08/28読売新聞夕刊p1「日本テレビ放送網華やかに開局式」


(参考)日活の歴史:テレビの台頭によって経営が崩壊した映画会社


経過:1961年 後楽園独占

1960年に日米安全保障条約の改定に伴う大規模デモが発生したが、その当日には後楽園球場で満員の巨人戦を行われた。ここに、テレビと野球が、共産勢力の台頭の抑止力として発揮される。

1961年に読売新聞は日本テレビについて「後楽園独占、プロレス中継と左右両翼へ大物を打ち分けるる実力はまさにナンバーワンの貫禄十分」(*1)と評価。磯田(日本テレビ・広報室次長)は「NTVでは今回大相撲のカラー中継に成功したが、これにプロ野球、プロレスリング、プロボクシングの3つを加えたスポーツのカラー中継を中心に、カラーの普及に努める」(*1)と展望し、スポーツ重視の姿勢を打ち出す。

そして、1960年代を通じてテレビのキラーコンテンツは"巨人戦・相撲・プロレス"から"巨人戦・ドラマ・歌"へと変化。1963年に読売新聞は「石原裕次郎といえば日活、三船敏郎といえば東方と、直ちに所属会社を連想させる看板スター、たとえばそこまでいかないまでも、映画界では会社が多数のスターを育て上げた例がある。ところがテレビ界には同名を連想させるような大スターはNHKの小林千登勢、TBSの中村竹弥らごく少ない」「現状ではいろいろな困難もあるだろうが、TBSテレビの成功例をみせられると、テレビ局もそろそろスターづくりに精を出しても良い時代が来たと思うわれるのだが・・・」(*2)と問題提起する。

この議論に関し、日本テレビの阿木芸能局長は「民放でスターを育成することは非常にむずかしいですね。映画会社のようにポスターそのほか新人売り出しに使える予算もありません」「スポンサーに費用を出させれば、という意見もあるが、スポンサーがタレントのめんどうをみるのは、自社提供の番組に出ている間だけ。結局は手間ヒマをかけてスターをつくるより、醸成スターを使った方がめんどうがなく、安上がりにつきます」(*2)と語ったが、石川南(TBS・プロデューサー)は「テレビ局は絶対に人気スターを育成すべきです。対スポンサーとか局内の事情とか、いろいろ悪条件はあるが、現実に人気スターが生まれ、そのスターの出演する番組がヒットすればスポンサーにとっても局にとってもプラスになる」(*2)と反論した。

軍配はTBSにあがった。1967年にダイヤモンドは「東京放送(注:TBS)と日本テレビ、この両社は、いわば民間放送業界の正横綱ともいうべき存在である。」「しかし、最近の"星取表"をみると、この両横綱の成績には格差が生じてきた。東京放送の躍進に対し、日本テレビの伸び悩みがハッキリしてきた」(*)と指摘。また、1968年に読売新聞は「視聴率を稼ぐTBSドラマ・うまいスターづくり」「4月の新番組の「肝っ玉かあさん」は、5月2週で28.8%という高い視聴率を出し、ナイター中継と四つに取り組んでもひけをとらない成績」(*3)と評価。それでも一貫して巨人戦は、日本テレビの視聴率を支え続けた。

1993年に氏家斉一郎は「プロ野球の巨人にしろ何にしろ、ウチの事業は全部正力さん(松太郎氏=日本テレビの創始者)が始めた事業。いつまでも過去の遺産だけではだめだ」(*4)と語り、巨人戦頼みに危機感を表明。それでも日本テレビは巨人人気とドラマのヒットに支えられ、2003年まで「10年連続で“視聴率四冠王”」(*5)を達成し、1980年代から急速に視聴率を稼ぎ始めたダークホース・フジテレビを再び抜いた。

だが、2004年に巨人戦の平均視聴率は12.2%に落ち込み、1965年の集計開始以来の過去最低を記録。2005年に日経新聞は「巨人戦の視聴率の低迷は深刻だ」「巨人戦だけではなく、他の番組も全般に視聴率が振るわない点も見逃せない」(*5)と指摘し、市場関係者は「地上波の全国ネットで流すコンテンツではなくなった。見直しが必要だ」(*5)と主張した。


(*1)1961/01/14読売新聞夕刊p5「テレビ局ことしの作戦は」

(*2)1963/03/19読売新聞夕刊p12「テレビ界のスター・育成には賛否両論」

(*)1967/09/25ダイヤモンド「日本テレビ・東京放送」

(*3)1968/06/08読売新聞夕刊p7「視聴率を稼ぐTBSドラマ」

(*4)1993/05/07日経産業新聞p7「テコ入れが実った」

(*5)2005/08/16日経金融新聞p5「巨人戦視聴率が低迷」


現状:2014年 Hulu日本事業の買収

2005年に久保伸太郎(日本テレビ・社長)は「放送制度で守られた地上波の無料広告放送に依存できる時代は終わった。若い世代は携帯電話やパソコンで情報を購入することに全く抵抗感がない。競争の土俵は地上波から衛星波、ブロードバンドに広がり、無料広告放送だけでなく、有料課金サービスも増えていくだろう」「テレビは究極の受動的な娯楽装置であり、受動的に情報を入手する装置としては王様であり続ける。確かに通信やIT(情報技術)の企業は規模が大きいが、コンテンツ、つまり番組の制作能力ではどんな大きな企業にも負けない。番組制作に経営資源を集中して勝負する」(*1)と展望を語った。

そして、2014年に日本テレビは米Huluの日本事業の買収を発表。月額980円の動画配信サービスへの参入を決めた。だが、2017年に日経産業新聞は「もはやライバルはテレビ朝日やTBSなど民放地上波だけではなくなっている。コンテンツを消費する場がテレビからスマートフォン、タブレットへと多様化。リビングでの視聴は生活スタイルの一形態に過ぎなくなった。LINEやネットフリックスなどSNS・動画配信サービス企業が入り乱れ、視聴者の時間を奪い合う異次元の競争が激化している」(*2)という課題を指摘した。


(*1)2005/06/18日経新聞朝刊p13「地上波、広告依存は限界」

(*2)2017/02/21日経産業新聞p3「SNSに焦り、大幅改編」


各テレビ局の選択(動画事業)

・2008年 (Appleがiphoneを日本で発売)

・2013年 アマゾンジャパン:有料動画配信

・2014年 日本テレビ:Hulu日本事業を買収

・2015年 ネットフリックス:定額動画配信

・2015年 テレビ朝日:CAと合弁(AbemaTV)

・2016年 フジテレビ:定額動画配信


各テレビ局の選択(不動産事業)

・1953年 TBS:陸軍施設跡地を買収(赤坂)

・1962年 テレビ朝日:洋酒工場を買収(六本木)

・1997年 フジテレビ:河田町本社跡地を売却



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