ホリプロの歴史/堀威夫

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焦点:タレントを長寿化する方法


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1975年 スカウトキャラバン


我々芸能プロダクションにとって才能のある新人タレントの発掘というのは、業務の中でも非常に大きなウエイトを占めており、これが成功するかどうかが会社のライフラインにダイレクトに関わってくるといっても過言でないでしょう。

堀威夫(ホリプロ・社長)の回想,2000年

(*)引用文に「文字色」を採用。青字(肯定的)・緑字(中立的)・赤字(否定的)のニュアンス。


ホリプロの歴史/要約編

焦点:タレントを長寿化する方法

芸能界の2傑として歴史に名を残す人物を挙げろと言われれば、筆者は迷わず堀威夫(ホリプロ・創業者)と田辺昭知(田辺エージェンシー・創業者)を挙げる。

このうち、ホリプロはスカウトキャラバンを開発して、女優の定期採用の道を切り開いたのに対し、田辺エージェンシーはタモリという稀有な芸人の才能を開花させ、芸能商品としては異例の長寿商品"タモリ"を創造した。両者の経営判断に違いはあれど、芸能商品の長寿化という面から学ぶべき点は多い。

第一に考えるべきは、テレビというメディアが大衆性を獲得した1980年前後に両社はタレントの売り出しに成功した点である。1980年代前後は消費財メーカーが相次いで広告を出稿した時期に当たり、各社とも巨額の広告宣伝費を投下。このとき、ホリプロは榊原郁恵、田辺エージェンシーはタモリをそれぞれTVCMに出演させ、TVCM需要の流れを捉えた。

第二に考えるべきは、芸能商品の長寿化である。ホリプロは女優という旬の短い商品を扱う関係上、スカウトキャラバンを通じた定期採用の道を切り開く一方、田辺エージェンシーはタモリを一過性の強いお笑い芸人ではなく、司会者という地位を開拓させて長寿化を達成。両社ともに、1980年代から2000年代というテレビの黄金時代に一時代を築く。

そして極め付けが、21世紀のインターネットという媒体の登場に対し、堀威夫は「わからない」と明言している点が重要である。これはこれで潔い。すでに、Youtuberを掌握するのはUUUMという新興会社が独占する体制が整いつつあり、ネットにおける旧来の芸能プロは惨敗が確定した。

今後、ネット発の著名人が続々と誕生するバブル期が到来するが、Youtuberもかつてのテレビ同様、激烈な競争に晒され、商品寿命の最大化が懸案事項となる。この文脈において、1970年代の芸能プロの経営判断、特に堀威夫、田辺昭知の考えは参考になる。人間を商品として管理するという根底はテレビでもネットでも同様であり、いつの時代も、最後には利害を超越した信頼関係がモノをいう。


もくじ

1. 本編のみ


ホリプロの歴史/本編

背景:1953年 テレビ民間放送

1952年に日本テレビ(正力松太郎・創業者)は財界の出資を得てテレビの民間放送を開始。ところが、当時、テレビはキワモノとされ、映像コンテンツ産業の覇権は映画会社が握った。そのため、芸能界=映画スターと同義であり、俳優は映画会社に所属。さらに映画各社は映画スターのテレビ出演を拒むことで、映画の地位を保つなど、テレビと映画は水と油の関係であった。

そこで、日本テレビなどの民間放送局は、映画会社の息がかかっていないミュージシャンに着目し、テレビ出演を依頼し、タレント斡旋業者が次々と誕生する。


源流:1960年 芸能プロに転向

1960年に堀威夫はミュージシャン(ギター担当)を辞して芸能人のマネジメント業に専念するために東洋企画を設立。ところが、経営の不和により堀は自らの会社を追い出されてしまった。そのため、1963年に堀威夫は新会社・ホリプロを設立し、再びマネジメント業に復帰する。

一方、堀のマネジメント参入の5年前、1955年に渡辺晋は東京・新橋でナベプロを創業し、ジャズミュージシャンのマネジメント業務を開始。そして、1958年に渡辺晋は日劇で無名の新人を次々にデビューさせてテレビ業界に送り込み、芸能界を席巻した。特に、ナベプロのザ・ピーナツはテレビ出演で大成功を収める。ピーナツの売り込みについて、のちに渡辺晋は以下のように回想した。


渡辺晋(1968)

フジテレビの「ザ・ヒットパレード」という番組、いまでもありますが、あれがテレビ企画に参加した最初だと思います。フジの開局(注:1957年)のころで、いわゆるユニット番組を共同でやろうじゃないか、ということになった。ギャランティーはすごく安いものでした。担当ディレクターも3ヶ月もつかないといった具合で、大変な冒険でした。それが今でも続いているわけで、タレント育成にはうってつけの番組です。

よく渡辺プロはコミでタレントを売る、といいますが、私はコミとは決して思わない。タレントにテレビならテレビの場を与えたということなんです。

1968/11/08読売新聞朝刊p19「タレント作りを語る・渡辺晋」


  :1968年 ナベプロが牛耳る

1960年代初頭に芸能界は渡辺晋が率いる"ナベプロ"が業界を席巻し、後発のホリプロは苦戦。1962年に読売新聞は「夫婦で軽音楽界牛耳る」(*1)と題して、ナベプロの急成長を以下のようにリポートしている。


読売新聞(1962)

2人が結婚したのは1953年、そして1955年に2人は協力して新橋の小さなビルに間借りして渡辺プロを作った。自分たちが大好きなジャズを演奏しているプレーヤーたちの地位を少しでも向上させたかったためだという。

渡辺プロは、その近代的な経営手法でジャズ界に着々と地歩を築いていったが、なんといってもその名前が一躍クローズ・アップされたのは、1958年はじめの日劇でのウェスタン・カーニバルだった。若い人たちが熱狂的なエネルギーを爆発させたがっていることを機敏にみてとった夫婦は、ビートを持つ無名の若い新人を日劇のステージに立たせ、次々とスターを作った。

平尾昌章、山下敬二郎、ミッキー・カーチス、守屋浩、井上ひろし、水原弘、坂本九、ザ・ピーナッツ、藤木孝、中尾ミエら、ここ4年間のトップスターはみなこのコースを通ってきた。

1962/10/29読売新聞夕刊p6「夫婦で軽音楽業界牛耳る」


一方、1960年代を通じて堀威夫はプロダクションの経営に苦戦。のちに堀威夫は「差し押さえが我が家にまでやってきたりしました。様々な失敗の思い出のある一時期です」(*2)と語っている。


(*1)1962/10/29読売新聞夕刊p6「夫婦で軽音楽業界牛耳る」

(*2)2000/07バンガード「私の戦後50年史・堀威夫」


  :1976年 ナベプロに迫る

1960年代を通じてナベプロの1強が続き、"タレント帝国"とも形容されたが、芸能プロに対する社会的な信頼は低かった。1968年にナベプロに入社した大里洋吉(のちのアミューズ・創業者)は「渡辺プロの大卒定期採用で僕らはすでに8期生。でも親は泣いていました。大学まで出たのに"付き人"かと。まだ芸能がそんな目で見られる時代だったんです」(*1)と語っている。

それでも1970年代を通じてホリプロは、山口百恵、森昌子、石川さゆり、といった女優の育成に成功。特に、1974年に山口百恵の人気は社会現象となり、1974年12月に読売新聞は「山口百恵の異常なブームや、めったに泣かない森進一の"顔中涙"(日本歌謡大賞グランプリ)など、話題に事欠かなかった歌謡界」(*2)と評価した。

ホリプロは女優商品のヒットにより、ナベプロを猛追。1976年に評論雑誌は「ナベプロ王国の牙城に迫るホリプロ社長・堀威夫の実力」(*3)と題して、以下のようにレポートしている。


新評(1976)

一昨年、渡辺プロの売り上げは50億円、ホリプロは25億円という。差は相当あるが、ホリプロは目標より10億ばかり多い売り上げを得ている。渡辺プロに対抗できるプロダクションの誕生。これは1位があって100位以下しかないといわれていたこの業界では、大きな意味がある。従来、帝国といわれた渡辺プロでは、人気タレントを多数抱え、その前座や共演という形で次々と人を育て、人気を獲得していった。当然テレビ局などへの発言力も強まり、ますますよ代貸し、他のプロダクションのつけ入るスキを与えなかったのである。

ホリプロが、渡辺プロに肉薄したことは並大抵のことではない。確かに堀さんは、プレイヤーだったこともあり、音に対する感受性も鋭く、タレントを見る眼は定評がある。ホリプロの初期の頃舟木一夫をデビューさせ、グループサウンズの波が去るのを待って和田アキ子を売り出した手腕を見てもわかる。しかし、見る眼だけで今日のホリプロを築けたわけではない。ひと口でいえば、仕事に対する厳しさ。自分にノルマを与え、いためつけながら石を貫き通す姿勢。先を読む力もそのあらわれといえる。


堀威夫(1976)

私たちは、自分たちの歩く道をきちんと示すことによって、芸者置屋説をひっくり返していかなくてはと思っています。そのためにはマネジメントの価値を分かってもらいたいわけです。

芸能プロダクションの場合、他の商品との比較で言えば、製造〜直売システムです。そんな商品でも製造から小売までにいろいろ間に入って、パーセンテージで利益がもたらされています。原価とセールスプライズの間には当然差がありますよね。デパートが休みのとき、デパートの品と同じ値段でデパートの前で売れるかというと売れません。私たちの仕事もそれと同じだと思ってます。

マネジメント価値がデパートの名前に匹敵するものであれば、暴利とはいえないのではないでしょうか。商品にブラインド価値があるように、芸能プロにもこうしたマネジメント価値はあるわけです。もっとわかりやすくいえば、渡辺プロ+ピーナツ=100としますと、渡辺プロ−ピーナツはいくらになるかです。この差が小さければ小さいほど、マネジメント価値は大きいということになります。

1976/10新評「ナベプロ王国の牙城に迫るホリプロ社長・堀威夫の実力」


(*1)2010/02/23日経新聞夕刊p9「アミューズ最高顧問大里洋吉氏」

(*2)1974/12/20読売新聞夕刊p5「異常なブーム・山口百恵」

(*3)1976/10新評「ナベプロ王国の牙城に迫るホリプロ社長」


勝負:1976年 スカウトキャラバン

1976年にホリプロ(堀威夫・社長)は運任せのスカウトではなく、見込みのある芸能人のオーディションを開催する方針を打ち出し、ホリプロ・スカウトキャラバンを開始。ホリプロは女優陣を充実させることで、特定女優に売上の25%以上を依存しない体質づくりに乗り出した。

1976年9月にホリプロは1億円を投じて第1回ホリプロ・スカウトキャラバンを開催。投資額の内訳は、6000万円が予選会の経費、4000万円が優勝者のプロモーションであった。スカウトキャラバンのスポンサーには江崎グリコがバックにつき、優勝者にはグリコCMへの出演を確約する。

のちに堀は以下のように述懐している。


堀威夫(2000)

我々芸能プロダクションにとって才能のある新人タレントの発掘というのは、業務の中でも非常に大きなウエイトを占めており、これが成功するかどうかが会社のライフラインにダイレクトに関わってくるといっても過言でないでしょう。

この新人タレントの発掘のために始めたホリプロ・タレントスカウトキャラバンというのが今年で25年目になりました。この企画は毎年1回、全国に我々スタッフが出向き、タレント予備軍を集め、優勝者をデビューさせるというもの。タレントの発掘は、街でスカウトするような場合もあるわけですが、それですと運とか巡り合わせなど他動的要素に非常に左右されてしまいますから、この方法ばかりに頼っていてはシステマティックなきちんとした事業とは言い難い。

2000/07バンガード「私の戦後50年史・堀威夫」


経過:1977年 シンデレラ榊原郁恵

1976年の第1回スカウトキャラバンで榊原郁恵(17歳・厚木東高校)が優勝し、グリコへのTVCM出演権を獲得するとともに、1977年に芸能界デビューを果たす。ただちにホリプロは榊原郁恵の売り込みに奔走し、わずか半年後に郁恵はスターとなる。

1977年5月に読売新聞は「榊原郁恵・ただいま"走り回るシンデレラ"」(*1)と題して、榊原郁恵に関して以下のようにリポートした。


読売新聞(1977)

タレントスカウトも、念の入ったことをやりはじめた。このコのキャッチフレーズは"1億円のシンデレラ"。ホリプロダクションが、全国1.6万人の候補者の中からピックアップした。

お金の話になると、郁恵ちゃんは心細い顔をする。「すごく責任があるみたいです。かたくなっちゃいます」。17歳。神奈川県立厚木東高校から堀越学園に変わり、ただいま、知名度アップでマスコミ(放送局)を走り回っている。1億円の減価償却・・・。あどけない表情に、この問いかけは酷かもしれない。

ことしの1月デビュー(コロムビア)で、「私の先生」のあと、「バス通学」がひとチャートの上位に進出している。この撮影(フジのヤング歌手バレーボール大会)のときも、ニキビの高校生がぞろぞろくっついてきた。「ファンクラブつくっちゃったんだ」。1億円うんぬんに関係なく、若者にはアイドルが必要なんだ。

1977/05/29読売新聞朝刊p27「ただいま走り回るシンデレラ・榊原郁恵」


そして、1978年12月に読売新聞は夕刊一面記事で榊原郁恵を写真付きで紹介。榊原郁恵は「この前も、渋谷の街を歩いていたら、郁恵ちゃん、って肩叩かれて。それでハーイって振り返ったら、知らないおばあちゃんがニコニコしていました」(*2)という体験談を披露など、日本のテレビスターとしての地位を確立する。

のちに堀威夫はスカウトキャラバンの効果について、以下のように語っている。


堀威夫(2000)

合理的なシステムで人材を発掘できるようにタレントスカウトキャラバンを25年前につくったわけです。そして第1回目の優勝者が榊原郁恵。最初の優勝者であった彼女がスターになったからこそ、今日までこのシステムを継続させることができました。やはり一度目が失敗すると、その後がなかなか続かなかったのではないかと思います。これ以降、ホリプロのタレント供給源は、このスカウトキャラバンが主流になっていきました。

25年間、スカウトキャラバンをやってきたうち、今でもきちんと芸能界にスターの地位を確立して生き残っているタレントは10人を越えるでしょうか。榊原郁恵をはじめ、堀ちえみ、井森みゆき、山瀬まみ、鈴木保奈美。今売り出している深田恭子にしても、皆このホリプロ・タレントスカウトキャラバンの出身です。3割ぐらいは華々しくスターとして羽ばたいて行っています。

しかも、このシステムから出てきたタレントというのは、勝手に独立するというトラブルは滅多にありません。素人の時から私どもと出逢い、デビュー前にはここでレッスンを受けたりしているためプロダクションへの帰属意識が非常に強い。いわゆる渡り芸人というのではありませんから、他所の飯を食ったことがないのも事実です。ですからこのシステムは非常に会社への定着率が良いのです。しかし彼女たちは純粋培養のようなところもあり、そういう意味での弱点もあるかもしれませんが、それ以上に多くのメリットをもたらしてくれたシステムであったと思います。

(参考:各タレントのキャラバン参加年:榊原郁恵=1976年、堀ちえみ= 1981年、井森みゆき=1984年、山瀬まみ=1985年、鈴木保奈美=1984年、深田恭子=1996年)

2000/07バンガード「私の戦後50年史・堀威夫」


(*1)1977/05/29読売新聞朝刊p27「ただいま走り回るシンデレラ・榊原郁恵」

(*2)1997/12/22読売新聞夕刊p1「来年は"まねっ子"脱皮」


  :1980年 山口百恵の引退

1980年に山口百恵は結婚を機に芸能界を引退。1980年に読売新聞は「いま放送界の"百恵フィーバー"は最高潮」「コンサートの入場券は即日売り切れ、自伝"蒼い時"は初版20万部が翌日売り切れという騒ぎ。百恵と周辺が落ち着きを取り戻すまでにはまだまだ時間がかかりそうだ」(*1)とレポートした。

ホリプロにとって山口百恵の引退は売上の減少を意味したが、すでに榊原郁恵をはじめ、"第二の山口百恵"としてスカウトキャラバンから次々と女優がデビューしており、引退の影響を最小限に抑えることに成功した。一方、1981年に同じく引退したピンクレディーを扱う新興芸能プロは、後継育成が間に合わず倒産するという結末に終わり、明暗が分かれた。

ホリプロの特定経営のスターに依存しない経営手法と、渡辺プロの凋落について、1981年に田辺エージェンシー代表・田辺昭知は以下のように評価している。


田辺昭知(1981)

渡辺プロダクションの体質は、たとえば布施明の場合のように、結婚してアメリカで生活するという申し出に対して、自分のプロダクションからスターが出て行くのだという危機感はまったく持たず、「なかなか成長したものだ。結構だろう」と快諾してしまうような体質です。布施以外の所属アーティストの独立問題の場合でも、これとほぼ同じような態度で決着をつけてきましたから、かつては芸能界に一台王国を築いて君臨していたナベプロも、退潮著しい現在のような状況になってしまいました。

一方、ここ数年間、猛烈な勢いで渡辺プロの牙城に肉薄してきたホリ・プロダクションの場合は、森進一の場合と同様に、スーパースター山口百恵の独立問題をめぐってトラブルに発展しかねない事態を迎えたことはご承知の通りです。結局、山口百恵が三浦友和との結婚を決心し、引退したことで、ことなきを得ましたが、そのことでプロダクション側は安堵する都いう体質があります。これは渡辺晋・美佐夫婦と、堀威夫さんの世代的な違いでしょうか。

1981/07月刊新自由クラブ「タレントが世にでるまで・田辺昭知」


(*1)1980/10/04読売新聞夕刊p9「最高潮・百恵フィーバー」


  :1989年 吉本に並ぶ収益力

1989年にホリプロは株式を公開。1989年に日経金融新聞は「吉本興業に並ぶ収益力」「芸能関係では吉本興業に次ぐ株式公開だが、音楽芸能が主体のプロダクションとしてははじめてである。山口百恵、森昌子、和田アキ子などのタレントを世に送り出し、企業としても急成長した。芸能プロダクションという仕事の社会的な認知を得ることと、優秀な人材の確保が株式公開の最大の狙い」(*1)とレポートした。

のちに、堀威夫は業界の歴史について以下のように語っている。


堀威夫(2000)

戦後の芸能界の変遷、歴史を私の目からいていくと、やはり一番象徴的な出来事であったのがテレビの誕生とともに芸能人日する価値観がガラっと変わったことだと思います。(中略)テレビが登場する以前は、「私には絶対なれるわけがない」という人がスターでした。この一番良い例は原節子です。神秘的で作られた存在、庶民には手の届かない遠い世界に住んでいうのが、いわゆるスターです。

しかし、テレビという媒体が誕生してからは、「私でもなれそう」という人が次々とスターになっていきました。特別な例を除いては、ほとんどすべてがそうです。テレビで誕生してテレビでスターになった人というのは庶民の感覚から非常に近い存在でした。しかし、映画で誕生したスターというのは違います。高倉健にしても勝新太郎にしても、「私は絶対にあのようにはなれない」という人たちばかりです。

この2つの意識の差というのは非常に大きいものだったのではないでしょうか。このような価値観の変化、大衆の嗜好の変化という、ちょうどその変革の幕開け時代に我々の会社は産湯をつかって生まれたのです。ですから、テレビの発達、あるいはテレビの浸透度合いに便乗する形で私どもの会社が伸びていき、数多くのスターが育っていきました。もしこのテレビの登場以前に我々の会社がスタートしていたとしたら、この新しい変化に対応しきれなかったかもしれません。

2000/07バンガード「私の戦後50年史・堀威夫」


(*1)1989/02/10日経金融新聞p15「吉本興業に並ぶ収益力」


  :2000年 戦略がわからない

2000年にITバブルが起こり、光ファイバーが日本全国に敷設された。このためにインターネットが新しいメディアとして台頭するとともに、衛星放送でも多チャンネル化が進行する。

メディア環境の激変について、2000年に堀威夫は以下のように語った。


堀威夫(2000)

メディアの世界は、今述べたテレビの創世記と同じくらい、もしかしたらそれ以上に大きな変革期を迎えています。現在、テレビは多チャンネル化、あるいは双方向化というように変わろうとしています。これは非常に大きな革命であると同時に、この状況に対してどのような戦略をもって望むべきなのかは、私は正直言っていまのところ分かりません。現在、私はまだ確たるものは持てておりません。

少なくともいままでのやり方ではダメだということは明らかに見えてきています。今までは一人のアイドルを作り上げるためにはなんでもいいからテレビに数多く出せば良い、露出が多ければ多いほど効果的で、マスコミに常に顔を出していることによって確実にスターになり得た時代であったのです。

しかし、これからのテレビのチャンネルが200チャンネル、300チャンネルというのが当たり前になってくると、一般の庶民だれでもがテレビというメディアに出ることが可能になてくるのです。そのような時代に数多くテレビに出るというだけでスターになることは絶対に不可能です。むしろテレビに出ないから、スターになるということだってあり得るのではないでしょうか。

非常に通俗的な表現かもしれませんが、やはりこれからは本物の時代になっていくでしょう。つまり相当の実力がなければスターになれない、漫然と画面に出ているだけではもはや意味がなくなってくるだろうという気がしています。また多チャンネルになると、スターの資質、ファンのありかたとして最大公約数を必ずしも求めなくても良いということも起こってきます。

今までのスターというのは、ファンの嗜好の最大公約数によって成り立っていました。特にテレビ媒体を通じたスターというのは最大公約数のスターなのです。これは実のところ個々のファンにとってみれば、全員に少しずつ不満が残るということになるのです。しかしこれが多チャンネルになるとその焦点はピンポイントになってきます。つまりマスの媒体ではなく、ミニの媒体が数多く登場する都いうことです。

そうすると、200万人、300万人もの大勢のファンをテレビを通じて求める必要がない。その代わり5万人ピンポイントで捕まえているというような人が、スターとして生き残っていく時代になるのではないでしょうか。しかし今言ったようなことが、これから実際にどうなっていくのかというのは、正直なところまだわからないのですが・・・。

2000/07バンガード「私の戦後50年史・堀威夫」



Historical PICK

1945〜1973年 

none

1968/11/08読売新聞朝刊p19「タレントづくりを語る・渡辺晋」


1973〜1997年 

1976/10新評「ナベプロ王国の牙城に迫るホリプロ社長・堀威夫の実力」


1997〜2025年 

2000/07バンガード「私の戦後50年史・堀威夫」


社史

準備中


CEO&Performance

1963〜2002年 堀威夫

後日追加


Note/Ref.

コメント

なし



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