決断社史

長期視点をビジネスパーソンに広めています by 作者

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上記写真は全て筆者撮影(2枚目:阪堺電車、3枚目:大井川鉄道崎平駅付近)


決断社史 - 事例集

成熟期 販売促進 北米進出 アメリカで醤油は作れない

2019年7月13日(事例no.20)[9000字]

[2801]キッコーマン

醤油&テリヤキでアメリカを掌握

1956年にキッコーマンは米国西海岸への醤油の本格輸出を開始し、テレビへのスポット広告の出稿、スーパーマーケットでの醤油を使った料理「テリヤキ」の実演販売を実施。醤油の使い方を販売促進活動を通じて啓蒙することで、徐々に販売量を伸ばした。そして、需要の伸びが確定的となった1968年にキッコーマンは醤油の現地生産を決断し、1973年にウィスコンシン州に醤油の新工場を稼働した。稼働前は醤油の海外生産は不可能という神話があったが、工場の稼働により神話を打ち砕くことに成功し、醤油が工業製品であることを証明した。


栄枯盛衰 ロードサイド出店 価格破壊の旗手 本業低迷

2019年7月11日(事例no.19)[7500字]

[8219]青山商事

紳士服大手の栄枯盛衰

1974年に青山五郎(青山商事・創業者)は同業他社に先駆けてロードサイドへの出店を決断。低価格スーツを大量に仕入れることで原価を低減し、出店面では賃料の安いロードサイドのポテンシャルに着目した。販売面では利益連動型の報酬によって従業員のモチベーションを維持しつつ、広告宣伝に惜しみなく投資することで業容の拡大を目論む。


経営者の決断 創業期 世界分業/SPA 原点は宇部

2019年7月11日(事例no.18)[1.1万字]

[9983]ファーストリテイリング

宇部興産ではなくGAPを見据える

ファーストリテイリングの前身は、宇部新川駅前の商店街に店を構えた紳士服店"小郡商事"である。銀天街は宇部興産本社のすぐそばにあり、1950年代までは宇部で産出される石炭を採掘する現場に近かったことから、石炭による活況に沸いた商店街であった。だが、1960年代の石油輸入自由化に伴い、石炭は斜陽化。宇部興産の宇部市内の拠点に勤める従業員数は徐々に減少し、自動車の普及による郊外の発展という変化もあり、1980年代までに駅前商店街である銀天街の活況は失われた。


経営者の決断 衰退期 雇用維持 東洋一の名山

2019年7月6日(事例no.17)[1.1万字]

[5706]三井金属

斜陽鉱山からスマホ材料への大転換

東洋一と呼ばれた神岡鉱山の優位性が、三井金属が同業他社と比べて業態転換に出遅れる原因となった。1978年に三井金属は最終赤字に転落したが、尾本社長は労働組合の意向を勘案して、段階的な人員削減を選択。最終的に三井金属が祖業の神岡鉱山での採掘を中止したのは2001年であり、同業の住友の別子銅山閉山から29年遅れた。


経営者の決断 衰退期 雇用維持 石炭は斜陽ではない

2019年7月4日(事例no.16)[9000字]

[1505]北海道炭礦汽船

悲劇的な大投資

1962年に石油の輸入自由化が実施され、高コスト体質の国内石炭産業は行き詰まる。だが、萩原社長は石炭斜陽論を否定し、夕張や幌内で採掘される製鉄向けの原料炭による再起を試みた。1968年に北炭は政府補助金などを用いて夕張における新炭鉱の新設を決断して228億円を投資。斜陽産業における積極投資として注目を集めた。


経営者の決断 衰退期 雇用維持 安楽死業界

2019年7月3日(事例no.15)[5000字]

[1503]住友石炭鑛業

衰退産業と心中した名門企業

住友石炭鑛業は北海道内に高品位の原料炭を産出する炭鉱を所有してたことから、1960年代を通じて脱石炭(多角化)ではなく、原料炭を中心とした石炭業に集中投資する方針を決めた。ます、採算性の悪い九州の炭鉱を相次いで閉鎖し、続いて北海道の原料炭を産出する赤平に最新鋭の立坑を設置。高品位の原料炭を住友金属工業、新日本製鉄、川崎製鉄などの高炉メーカーに販売することで、企業の存続を図る。


経営者の決断 衰退期 事業撤退 社内の大反対

2019年7月2日(事例no.14)[1万字]

[5713]住友金属鉱山

社内の大反対を押し切り祖業から撤退

1961年に非鉄金属の輸入自由化が実施されると、効率の良い露天掘りが主体の海外鉱山(カナダ・チリ・オーストラリア等)に対し、海面下数百mの地中を掘る高コストの国内鉱山の経営は行き詰まる。住友金属鉱山は社内の反対を押し切り、別子銅山の閉山を決断。閉山を前に、海外資源開発(ベスレヘム鉱山)に共同参画して株式を取得し、同プロジェクトの成功後にか部式を売却。売却益を別子銅山の閉山費用にあてることで、円滑な業態転換を試みた。


経営者の決断 新事業 技術開発 13社vs1社

2019年7月1日(事例no.13)[1.2万字]

[6773]パイオニア

13社vsパイオニア1社の光ディスク開発競争を勝ち抜く

1970年代を通じて石塚庸三(パイオニア・社長)は技術陣を強化し、大手電機メーカーと新製品開発の面で戦う方針を掲げた。まず、NHKから有名技術者をスカウトし、当時普及しつつあった映像メディア機器への参入を検討。当時は磁気テープ式のVTRに参入する企業が多かったが、パイオニアは相対的に競合が少ない映像ディスクへの参入を決断した。


経営者の決断 成長期 サービス網 社員の反対

2019年6月28日(事例no.12)[7000字]

[6005]三浦工業

サブスクリプションを1972年に考案

1972年に三浦保(三浦工業・社長)は新型小型ボイラの発売と同時に、メンテナンス料金の徴収を必須する3年契約のサブスクリプションモデルを導入し、増大する点検ニーズに有償で応える体制を整える。さらに、日本全国にサービス拠点を設置することで、サービス体制の充実を図った。決断に際して、社内、代理店、顧客は「サービスの有償化は割高になる」と主張し、三浦社長の決断に反対したという。


経営者の決断 創業期 設備投資 銀行の反対

2019年6月26日(事例no.11)[1万字]

[5403]川崎製鉄

妄想力が富を生む

終戦直後に川崎製鉄(西山弥太郎・社長)は、重工業を中心に日本経済を復興させるため、最新鋭の設備を備えた銑鋼一貫の製鉄所の新設を決断。当時の同社の資本金は5億円であったが、投資予定額は160億円という途方もない金額であり、通産省、日本銀行、同社のメインバンクである第一銀行は西山構想を無謀と判断して融資を拒んだ。


経営者の決断 栄枯盛衰 店舗立地 名門の悲劇

2019年6月24日(事例no.10)[8000字]

[非上場]松菱

名門地方百貨店の悲劇〜再起

1936年に谷政二郎(43歳)は浜松市街地に百貨店"松菱"を開業することを決意。地方百貨店・丸物の社員という安定したキャリアを投げ捨てて、1937年に浜松鍛冶町に松菱を開業した。松菱の進出にあたっては、地元業者からの強い反発があったが、谷は松菱の株式の一部を浜松の地元業者に与えることで利害関係を一致させた上で、浜松進出を果たす。


経営者の決断 新事業 まちづくり 関係者の疑念

2019年6月23日(事例no.9)[1.1万字]

[8251]パルコ

渋谷の街を再興したのは元教師のアウトサイダー"増田通二"

パルコは積極的な広告宣伝投資により若者の集客を目論むが、ヤングマーケットの中心は池袋ではなく、渋谷と原宿であった。そこで、1973年にパルコは渋谷進出を決断。店舗の立地は渋谷駅から数百メートル離れた場所で、小売業としての成功は「絶望的」と揶揄された場所であったが、パルコは"まちづくり"によって悪い立地条件を克服する。


経営者の決断 成長期 まちづくり プロ経営者

2019年6月20日(事例no.8)[1.3万字]

[8232]東急百貨店

"百貨店の神様"は渋谷の街を再興できるのか?

1934年に東急電鉄は百貨店事業に参入するために、渋谷駅直結のターミナル百貨店(東急百貨店)を開業した。当時、東京の百貨店は銀座や日本橋などの中央区に立地していたが、東急はターミナル百貨店という市場を東京で初めて開拓した。終戦後の1950年代に東急百貨店(渋谷駅本店)は増床を重ね、1坪当たり売上高で新宿伊勢丹や日本橋三越を凌駕して東京No.1に躍り出るなど、ターミナル百貨店の躍進に注目が集まった。


経営者の決断 成熟期 合理化 社員の反対

2019年6月14日(事例no.7)[1.1万字]

[5223]小野田セメント

日本で初めて事務にコンピューターを導入した大企業

小野田セメントは戦前に朝鮮半島と中国大陸におけるセメントの現地生産で業容を拡大した。日本国内(内地)は浅野セメントのシェアが高く、価格競争も厳しかったため、小野田セメントは内地事業の赤字を外地の利益で補填していた。このため、当時の新聞は小野田セメントについて「大陸経営に最も積極的にして、然も最も成功せる」と評価した。


投資家の決断 ノーリツ鋼機 衰退期 社内の抵抗

2019年6月11日(事例no.6)

グローバルニッチメーカーから"投資会社"への業態転換

ノーリツ鋼機の祖業は写真を現像するための業務用機械である。創業者の西本貫一は戦前から和歌山県で写真店を営んでいたが、写真の現像工程の自動化(=能率化)のポテンシャルに着目してノーリツ鋼機を設立。写真現像機の開発に本格的に乗り出した。


従業員の決断 セーレン 成熟期 入社1年目で左遷

2019年6月10日(事例no.5)

名門企業を窮地から救ったのは新卒入社1年目に左遷された男

高度経済成長期の北陸は日本有数の合成繊維産地であった。1950年代に日本でナイロンやポリエステルといった新しい繊維が普及すると、これらの原糸を大手繊維メーカー(川上)から買い付けて川中工程の染色加工を施すセーレン(福井本社)は急成長を遂げた。セーレンは、加工した繊維を商社を通じて北陸各地に存在する織物会社(川下)に販売する委託加工ビジネスの独占的企業で、合繊業界の川中部分を担っていた。

社内新規事業 新製品開発 業態転換 一流企業 衰退産業


経営者の決断 ノーリツ 創業期 能率教

2019年6月6日(事例no.4)

銭湯業界を破壊した海軍出身の20代の起業家

20代起業家 倒産再起 クーデター 新製品開発 破壊的革新


経営者の決断 ピジョン 創業期 オッパイ社長

2019年6月3日(事例no.3)

ボロ会社を立て直すため、数百人の成人女性の乳首を吸って哺乳器を開発した男

新製品開発 高シェア長期維持 クーデター シベリア抑留


経営者の決断 森ビル 成長期 インベーダー森ビル 世界一の富豪

2019年6月2日(事例no.2)

元経営学者、約20年の忍耐を経て'世界一の富豪"となる

大規模再開発 先駆的事例 関係者説得 大勝負 経営学者


経営者の決断 赤井電機 成長期 成熟期 名門企業の悲劇

2019年6月1日(事例no.1)

ボーナス日本一、高収益、グローバル展開で一世を風靡したが、2001年に民事再生法を申請

新製品開発 スカウト 能力給 社長急逝 民事再生法


Who?

自画像(7歳)

作者の経歴

2011年より社史研究を開始。2018年からは長期視点をビジネスパーソンに広める活動をしており、2060年までこの活動を続けます。

元投資ファンド勤務、アラサー。長期視点が好きです。


愛読書5選

  • 交通公社時刻表1972年2月号
  • 私の履歴書・経済人(全18巻)
  • 日本会社史総覧(全3巻)
  • 会社四季報(1950年〜現在)
  • 東京都全住宅案内図帳・1961年版

  • 時刻表の魔力

    私の原点は5歳の時に読み始めた時刻表にあります。小学生の頃は「暇すぎて時間を持て余していた」ので、時間つぶしに家の本棚に置かれたJR時刻表を読むことが唯一の楽しみでした。毎月の楽しみは、時刻表の全ページを眺めて、どの項目が変化したかのチェック。特に、毎年3月は特別で、同時期に行われる大規模なダイヤ改正の度に「あ!あの特急の行き先が期間限定で(高松から松山)に変わった!!」と感動していました。最も読んだ回数の多い時刻表は1972年2月号(復刻版)です。小学生の頃に新旧時刻表の比較で培った本能が、私の時間軸=長期的視点=社史へのこだわりの原点だと思います。

    ですが、そのうちに単に時刻表を読むだけでは物足りず、全国の路線図を模写したり、空想で臨時列車を走らせたり(時刻表に書き込む)、果ては空想の鉄道路線の時刻表を自作するなど、時刻表を核に興味関心が形成されていきます。私の視力が落ちた原因は、小学生の頃に親に止められるのを無視して時刻表を書きすぎたからです。その頃の私にとっては、視力よりも時刻表が大事でした。夏休みの宿題の読書感想文を時刻表で書こうとした時、「時刻表は本ではない!」と学校の先生から言われて、ショックを受けたのもこの頃です。

    中学生になると、時刻表を片手に電車の写真撮影に凝るようになりました。2000年前後は名鉄7000系全盛期で、被写体には事欠かず、名鉄電車撮影が鉄道ファンの間で盛り上がった黄金時代に巡り合ったことが幸運だったのです。ちなみに、パノラマカーなどの希少列車の撮影には、全列車の運用研究が必須で、名鉄電車時刻表と、名鉄系の個人サイトを参照しつつ、目当ての列車の運用を推測することが楽しくて仕方ありませんでした。

    写真:7000系パノラマカー。知多武豊〜富貴にて筆者撮影


  • 名鉄パノラマカー・編成数の推移
  • 単位:編成数

    出所:「パノラマカー栄光の半世紀」を参考に筆者作成

    鉄道ジャーナル(1999)

    1961年に初めて7000系が登場して、すでに38年になる。デビュー当時は斬新なデザインから名古屋鉄道のシンボルカーの地位を築いたが、経年劣化やその間の輸送形態の変化、後進の新系列の登場などから、現代にマッチする車両としてはきびしい状況下に追い込まれてきたことは否めない。しかし、名古屋鉄道の代表車両といえば、現代でもパノラマカーと答える人が数多いことも事実である。

    ...(中略)...車両数が減少し本線の優等列車からは退いたとはいえ、大いなる存在をアピールし続けてきたパノラマカーは、おいそれとは消えないだろう。いずれ全廃の日を迎えても、名古屋鉄道のパノラマカーを利用していた人々、観光で乗車した人たちの記憶の中で永遠に生き残ってゆく。すでに消え去った他の鉄道における代表的な名車のように。

    1999/9鉄道ジャーナル「パノラマカーに乾杯・名古屋鉄道とともに歩んだ38年を称える」


    個人的に名鉄電車で好きだった車両は5500系(5515F、5517F、5513F)で、碧南〜弥富の直通急行が5500系の重連(SR2+SR2)で運行される日は最高の一言で、必ず撮影に出向きました。重連の確率は非常に低く、SR2のうち5300系が5編成、5500系が3編成、しがたってSR2+SR2が5500系の重連になる確率は約10%。5500系はリバイバルカラーで様々な色の組み合わせが期待できたため、重連の日は、気合を入れて沿線でカメラを構えたものです。

    P4、P6、NSR、SR2、SRs2・・・。今思えば、良き時代でした。

    写真:筆者のお気に入り列車は5513Fによる碧南急行。中京競馬場前〜有松にて筆者撮影


  • 名鉄5500系 - 編成数の推移
  • 単位:編成数

    出所:筆者作成


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  • 2019年6月 決断社史を新設
  • 2019年5月 The社史を閉鎖
  • 2017年4月 The社史を新設

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