新宿三丁目交差点角地を買う方法

伊勢丹はいかにして超一等地を手に入れた?

#不動産の話 #2019/8/18

筆者が所有する古地図(新宿三丁目交差点の古地図・大正末期〜昭和初期ごろ)

日本を代表する買いたくても絶対に買えない土地

世の中の不動産好きなヒトは2パターンに分かれる。一つ目のグループは、単純に不動産売買が好きで、いかにして儲けるかが好きな人たち。不動産会社の敏腕営業マンとして目をギラギラさせるヒトもいれば、不動産オーナーとして日々物件情報と睨めっこしているヒトもいる。みな、いくらで買った、いくらで売った、の商売世界を生きている。世の中の大半の不動産好きはこの手の「儲け話大好き系」に該当する。

2つ目の不動産好きのグループは極めて特殊かつ少数である。儲け話にはほとんど興味がない。興味があるのは、ある特定の場所がどのように変化してきたのか、その長期的な過去を妄想すること。不動産の面白さを、長期的に役割や価値が変転し続けることに見いだし、同じ場所にたって現在とは全く異なる過去の意外性を発見するのが、たまらなく面白がる不思議なヒトたちがいる。筆者も「妄想大好き系」の不動産好きに属している。

今回、取り上げた「新宿三丁目交差点角地」の不動産の話は、1つ目の売買に興味があるヒトには全く参考にならず、逆に2つ目の妄想に興味がある少数のヒトにとっては面白い話である。なぜ、儲け話系のヒトには参考にならないかといえば、新宿三丁目交差点角地という超一等地は、ほとんど絶対、売り物として出ないからである。日本を代表する買いたくても絶対に買えない土地と言って良い。

新宿三丁目交差点角地は、日本を代表する繁華街であり、非常に地価の高い交差点の一つである。日本一高い地価は東京の銀座四丁目交差点付近であるが、新宿三丁目交差点付近は、銀座に追随する地価を記録している。東京の主要繁華街といえば、東は銀座、西は新宿であり、新宿三丁目は東京の西側の中心地と言える。そして、この交差点の角地に何があるのかといえば、巨大な百貨店を構える伊勢丹(現三越伊勢丹HD)である。

今でこそ、百貨店業界は衰退産業となり、業界再編が相次いでいるが、1970年代までの百貨店は小売業の王者であった。あまりに強すぎて中小売業者が苦境に陥ったため、1950年代に日本政府が「百貨店法」を制定し、百貨店の増床を規制することで勢力の拡大を阻止するほどであった。1970年代以降にダイエーなどのGMS、1990年代以降には専門店や外資ブランドの路面店の増大によって百貨店は「なんでも揃う」という優位性を失ったが、今でも伊勢丹新宿本店だけは別格で、2018年時点で日本一の売上高(年商2,741億円、2018年3月期)を誇る旗艦店の座を維持している[*1]

身も蓋もない話をすれば、伊勢丹の強さは、マーチャンダイジングやオペレーションにあるのではなく「新宿三丁目交差点の角地」という一等地に店舗を構えている点にある。巷には「伊勢丹の強さ」についてオペレーションの観点に着目した書籍が流通しているが、この手の分析は百貨店経営の本質をついていない。東京西側の超一等地に店を構えることが、伊勢丹と他の百貨店との大きな違いだからである。

1960年代東急百貨店に副社長として、伊勢丹から転職したプロ経営者・山本宗二氏は、伊勢丹時代は仕入れと販売を担当して「百貨店の神様」と業界内から賞賛されたが、東急時代は渋谷での百貨店経営に苦戦している。百貨店経営の本質は、1に店舗立地の選定、2にオペレーションにあり、店舗立地の選定を誤ると、どれほどオペレーションが優れていようと絶対に成り立たないというのが、百貨店業界の歴史であった。

伊勢丹で特筆すべきは、新宿の超一等地に店を構えることもさることながら、土地を自ら所有している点にある。百貨店の中には高島屋のように南海電鉄、JR、日本生命などに賃料を支払って店舗を営業してきた「ヤドカリ型百貨店」もあるが、伊勢丹新宿本店はあくまで自社保有である。つまり、超一等地に店舗を構えているが、法外な賃料を払う必要なく営業を継続できる点が、伊勢丹の強さである。

したがって、そんな超一等地である新宿三丁目交差点角地の土地が売りに出されることは考えにくい。三越伊勢丹HDが経営危機に陥って、どうしても土地を手放す必要が生じれば別だが、仮にそうなっても超高額物件なので一般人には手が出ない。よって、目先の儲け話が好きな不動産好きにとって、「新宿三丁目交差点角地」は縁のない物件だろう。だが、過去妄想が好きな不動産好きにとっては、興味が尽きない土地である。

なぜ、伊勢丹は超一等地を買えたのか?

ここで、一つ疑問が思い浮かぶ。伊勢丹は新宿三丁目交差点角地という土地を所有しているが、一体、どのようにして手に入れたのだろうか?超一等地であれば売り出されるものでもないし、運良く売りに出された時に買うにしても莫大な資金が必要となる。なぜ、伊勢丹が買うことができたのか?この謎を紐解く一つのカギは、100年スパンの超長期で起こった「東京圏の人口移動」にある。

実は、100年前の1920年頃、新宿三丁目という土地はそれほど繁栄していなかった。当時の古地図を読み解くと面白いが、三丁目には目立った商業施設はほとんど存在せず、国鉄新宿駅(現JR)の三丁目方面のメインの出入り口の目の前には、何と高等学校が存在していた。新宿三丁目は路面電車の走るメインストリート沿いにはかろうじて商店が集積していたが、一歩裏道に入れば民家、医院、パン工場が点在しており、大繁華街には程遠い存在だった。歌舞伎町方面も、この時代は繁華街ではなく住宅街であり、鬱蒼とした雑木林が広がり、きらびやかなネオンは一切なく、むしろ自然が多い閑静な住宅街であった。

では、100年前の東京を代表する繁華街はどこにあったのかといえば、浅草である。当時の主要な娯楽であった演劇場や映画館が集積し、全盛期には多く人が道を行き交い、メインストリートは一が多すぎて、人ごみをかき分けるのが大変だったという言い伝えが残っている。なぜ、浅草が東京を代表する繁華街だったのかといえば、100年前の東京の人口が隅田川周辺の東側に集積していたからである。

1920年代までの東京という都市は運河を中心に形成された。自動車や鉄道といった、大量輸送の交通機関が存在しない時代において、最も安いコストで物流が可能な手段は「水運」という水上交通であった。このため、浅草、日本橋、神田には運河が張り巡らされ、江戸という水上都市を支える物流インフラとして機能していた。この流れを汲み、明治時代以降も東京は両国、浅草、日本橋、神田、そして銀座といった「東海岸」が商業の中心地となった。

東京が「水運の時代」から脱却する起爆剤となったのが、1923年9月1日に発生した関東大震災である。この震災により、東京の「東海岸」は軒並み廃墟となり、多くの一が家を失った。その一方で、自動車や電車といった新しい、かつコストの安い陸上交通手段が発達しつつあり、新宿・渋谷・池袋といった東京の西側に居住空間が広がり、徐々に東京の西側に人々が集積するようになった。1920年代から1930年代にかけて、東急東横線(渋谷〜横浜・桜木町)や、小田急電鉄(新宿〜小田原)、京王井の頭線(渋谷〜吉祥寺)といった郊外電鉄が相次いで開業し、居住空間のフロンティアが西側に広まったことで、東京は「水運の時代」から「電鉄の時代」へとシフトした。そして、戦後の高度経済成長期にはマイカーが普及し、環状七号線などの幹線道路が整備されたことで、東京にも「自動車の時代」が到来した。

イラスト:筆者作成

電鉄の時代、そして自動車の時代という大きな交通手段の変化による人口移動というトレンドを早い段階で捉えたのが伊勢丹であった。伊勢丹が新宿三丁目の土地を買収し、巨大な店舗を構えたのは1930年代であるが、このタイミングは新宿がまさに「電鉄の時代」として全盛期を謳歌する直前であった。

興味深いことに、1930年代の同業者、すなわち三越、高島屋、松屋、松坂屋といった老舗百貨店が出店を目論んだ土地は「銀座」であり、新宿への本格進出を果たしたのは、三越と伊勢丹の2社だけであった。当時、銀座の中央通りこそが日本一の繁華街として発展すると判断した百貨店の経営者が大半であったが、すでに銀座は繁華街として発展しており、物理的な出店スペースは限られていた。このため、銀座を目指した百貨店各社は、かろうじて出店に成功したとしても、その面積は制限されてしまった。一方、新宿三丁目はまだ未開の地であり、潜在的なスペースが存在しており、土地取得のライバルが少なかったことが、のちの伊勢丹が飛躍する大きな要因となっている。

伊勢丹が新宿進出の功労者は、創業家の2代目小菅丹治である。1920年代までの伊勢丹は神田に店を構える小さな商店であったが、小菅は百貨店として伊勢丹を発展させることを決意し、関東大震災の直後に出店立地の調査を実施。この時に、新規出店の候補地となったのが、銀座、日比谷、新宿であった。このうち、出店面積が小さい銀座を候補から除外し、社内では日比谷と新宿のどちらに出店するか議論が紛糾したが、小菅は「新宿は発展する」と考えて新宿三丁目を選択。1931年7月に実施された東京市電所有の土地の入札に参加して伊勢丹が落札に成功し、創業の地(神田付近の店)を捨てて、新宿進出にすべてをかけた。

2代目小菅丹治が新宿を選択した理由は、東京が西側に発展するという長期変化を見据えたためであった。新宿には国鉄(省線=JR)が乗り入れていたが、その他にも私鉄路線が乗り入れる計画があり、小菅は新宿が交通の要衝として発展することに期待した。一方、銀座は繁華街としては優れていたが、主要交通機関は路面電車と地下鉄銀座線に限られており、銀座線の開業を除いて大きな交通の変化があったわけではなかった。

伊勢丹増資趣意書(小菅丹治社社長・1931年)

ここに弊社は、新宿をもって、最適の地と信じ、ますます百貨店の特色を発揮し、公衆日常の生活機関たる使命を完了せんがために、最良の形勝地一千余坪を破格の廉価にて手に入れました。新宿が近来、飛躍的発展をしたことは周知の事実で、一昨年、東京鉄道局の試みた調査により、新宿駅の乗降客が東京、上野すらを凌駕し、”横綱は新宿”と確定したことは、世間の記憶に新たなところであります。

しかし、これは省線のみの実情で、この外、まだ、小田急、京王、西武の諸鉄道がこの地より放射し、市内交通の諸機関もまた、この所に蝟集し、日夜呑吐する数十万の子女が文字通り肩摩轂撃するここぞ、公衆の文化的生活の必要機関たる百貨店の存在すべき、唯一無二の要地であります。

1964「商道ひとすじ」長沼皎平

だが、1931年の時点で新宿は未開の地であり、 進出に疑問を抱く関係者が大半で「新宿進出なんてのは、いわば、砂上の楼閣のようなものじゃないか。いつ崩れるかわかったものじゃない」[*2]と言い切る人もいたという。伊勢丹は新宿進出のための資金を捻出するために株式会社化と増資を実行するが、資金調達には苦労しており株式を「もう実に拝むようにしてようやく持ってもらえた」[*3]という。

なお、伊勢丹社内の新宿反対派の社員は、伊勢丹を独立し、別会社・美松を起業して日比谷への出店を試みる。(ちなみに、美松は日比谷公園前という客足の少ない立地条件が災いし、1935年に百貨店としての営業を停止した)

したがって、同業者が殺到した銀座でもなく、伊勢丹の元社員が進出を主張した日比谷でもなく、2代目小菅丹治が新宿という「未開の土地」を選択したことが今日の伊勢丹の発展の原動力になっている。

なぜ、伊勢丹は新宿に巨大な店舗用地を確保できた?

ここまでは東京の人口移動と出店地域の選択というマクロの話をしてきたが、ここから先は少しマニアックかつミクロな話をしたい。

1930年代の新宿三丁目の百貨店戦争(1935年頃に作成された「火災保険特殊地図(土地製図社)」を元にした「新宿盛り場地図」を参考にした)。イラストは筆者作成

1931年に伊勢丹は新宿進出を果たし、1933年に新宿店を開業したが、実はこの時点で新宿三丁目の交差点の土地は確保できていなかった。伊勢丹の店舗は、交差点から一つとなりの南北に細長い土地にあり、交差点角地は別の人物が確保していた。この人物が新宿三丁目交差点の角地で何をやっていたのかというと、何と驚くことに、百貨店「ほていや」であった。つまり、伊勢丹は新宿進出を果たしたが、進出先として選んだ土地は、すぐ隣に百貨店がある区画だった。

実は、伊勢丹の小菅丹治は確信犯的に隣に百貨店がある区画を取得している。伊勢丹の新宿店を建設する際、小菅は、間隣に存在する「ほていや」と床の高さを同じに合わせた。つまり、伊勢丹はほていやに対して一騎打ちを仕掛け、仮にほていやが負けた場合に、伊勢丹がほていやを買収することで、三丁目の交差点角地を確保することを目論む。逆に、伊勢丹が競争に負ければ、ほていやが伊勢丹を吸収する形となる。つまり、小菅丹治は新宿三丁目で生きるか死ぬかの勝負をしており、小菅丹治は自分の子供に「こんど思い切って新宿へお店を出すことになったが、もしこれに失敗したら、おまえは小僧にいかなければならない。いまから覚悟していてくれ・・・」[*4]と伝えたという。

写真:筆者撮影(伊勢丹とほてい屋の競争は経済メディアを賑わせた)

実業の日本(1931年)

地味な道を歩いてきた伊勢丹が新宿に進出して、大活躍をしようとするまでにはよほどの決心がいったろう

始めて新宿へ飛びだろうと考えたのは、昨年の5月である。ちょうど京王電車の前の350坪のところへ乗り出すつもりであったが、250坪は空き地になっているが、後の100坪ばかりが店がある。そのごたごたで、ついに延び延びになってきた。そのうちに、市電の車庫敷地が売り物に出た。そこで同じ新宿に出るなら思い切って、もっと大きいものにしよう。松住町(筆者注:神田付近)は発祥の地ではあるが、地の便があまり良くない。新宿はこれからなお賑やかになってゆく。新宿を本店くらいにしようと腹を定めた

さぁ・・・、こうなれば、いよいよ伊勢丹も大きく新宿に進出する。そこで三越、ほていや、二幸、新宿松屋の各デパートが相並んで新宿中心に目覚しいデパート合戦を展開するであろうと、興味の瞳を見開いている人もある。

新宿はほてい屋の横にあるてんぷら屋などがとり退けられて、ほてい屋が角になって広い立派な道路になる。それにほてい屋と並んでほてい屋をしのぐ伊勢丹がぬうと建てば、ちょっと変なものであるが、やがてほてい屋も伊勢丹に合併ようにした方が得策ではあるまいか...(中略)...震災後、急テンポの発展をしためまぐるしい程であるが、なお一層発展してゆくであろう

1931/08実業の日本「新宿に躍り出んとする伊勢丹」

伊勢丹の開業後、競合の「ほていや」は商品の安売りで対抗するが、これの施策が失敗してほていやは経営危機に陥り、ほていやvs伊勢丹の熾烈な競争は伊勢丹の勝利に終わった。1935年に伊勢丹は「ほていや」の買収を決断し、新宿三丁目の交差点角地を確保。さらに、ほていや・伊勢丹の両店舗の連結工事を実施し、伊勢丹は新宿三丁目に大規模店舗を確保した。

ほていや買収後の伊勢丹には次々と幸運が舞い降りた。伊勢丹店舗の交差点の反対側(新宿駅方面)には、路面電車の車庫が存在していたが、1945年の終戦後に路面電車の路線が歌舞伎町方面に移設されたため、巨大な敷地が空き地となった。そこで、伊勢丹は路面電車の車庫跡地を1952年に取得して増床スペースを確保し、広大な敷地を活用することで、東京随一の売り場面積を確保した。

伊勢丹の幸運はさらに続く。1960年代に入ると、伊勢丹は新宿三丁目で最大規模を誇る百貨店となり、同地に存在した東京丸物・新宿店という新興百貨店は競争力を失ったため、伊勢丹が同店舗を買収し、さらなる増床を実施した。旧東京丸物は、伊勢丹のメンズ館として開業し、伊勢丹は東京随一の品揃えを誇る百貨店として成長する。

また、伊勢丹は店舗周辺の土地を積極的に買収し、自動車用の駐車場を業界でいち早く設置した。1960年代から1970年代にかけて、百貨店にマイカーで買い物に出かけるというライフスタイルが浸透した時に、伊勢丹は収容台数の多い駐車場を完備することで、自動車社会の到来にも対応した。これらの施策の結果、1960年代までに伊勢丹新宿本店は日本を代表する百貨店に成長し、三越や松坂屋などの老舗百貨店と並ぶ存在となった。

そして、伊勢丹新宿店にとって大きな幸運となったのが、地下鉄駅の設置である。1950年代に丸の内線が開業し、伊勢丹店舗に直結する新宿三丁目駅が開業したが、本当の幸運は21世紀に入ってから訪れた。2008年の副都心線・新宿三丁目駅が開業し、2013年までに副都心線は西武線・東武東上線・東急東横線といった大きな輸送力を持つ私鉄路線と相互乗り入れを開始。副都心線の開業により、従来は渋谷を利用していた東横線の顧客、さらに池袋を利用していた西武池袋線・東武東上線の顧客が新宿三丁目に流れやすくなる形となり、伊勢丹の新宿本店を潤した。

このような経緯を踏まえると、伊勢丹は新宿に進出するという決断を下したからこそ、結果として新宿に付随する様々な幸運を享受することができたと言える。

交通利便性を考え抜く

伊勢丹の新宿進出の歴史を紐解くと、「伊勢丹はいかにして超一等地を手に入れた?」という冒頭の答えは明らかになる。それは「超一等地ではない時代に土地を購入する」という身も蓋もない結論である。当たり前の事実であるが、1931年の伊勢丹の新宿進出の際に関係者の間で疑念が生じたことを考慮すると、不動産売買で「当たり前」を遂行することは案外難しい。

では、伊勢丹の歴史から学べることは何か。それは、東京の人口移動という超マクロな現象を見据えることが、不動産を見る上では不可欠であるということだろう。そして、そのドライバーは常に交通手段の変化にある。伊勢丹の小菅丹治は新宿進出に当たって、早稲田大学の学生を雇い、新宿駅を含む中央線の主要駅の交通人口の調査を実施し、定量的な確証を得た上で新宿への進出を決断した。つまり、人々の主要交通手段の輸送量を計測することが第一歩となっている。

面白いことに、2000年代以降、東京では「都心回帰」が鮮明となり、世田谷区・杉並区・練馬区といった郊外ではなく、港区・千代田区・中央区といった土地への人口集積が進んでいるが、このドライバーも交通利便性の変化である。あまり意識されないが、2000年代以降の東京圏の大きな変化は地下鉄網の充実にあった。大江戸線、南北線、副都心線が相次いで全通したことで、都心部の一部の地域の交通の利便性が向上し、それぞれの駅前の大通りに中〜高層マンションが建設され、結果として東京都心部の人口が増大する要因となった。

世の中には、東京vs地方、都心vs郊外、といった二項対立を作り上げて、その「良し悪し」を議論する風潮があるが、本質的には交通利便性が高く、産業が存在する場所に人が集まり、世間の感傷論には一切左右されない。そして、最後に笑うのは二項対立の議論を繰り広げる評論家ではなく、一貫して交通利便性の高い土地とは何かをマクロとピンポイントの両面で考え尽くして決断を下したビジネスパーソンであり、このことは今も昔も変わらない。

漠然とした抽象論を振りかざすのではなく、狙いを定めた特定の駅・場所に降り立ち、現地の実情をその目で確かめた上で、土地の過去〜現在〜未来を妄想する。そんな売買以外の不動産の楽しみ方も悪くないと思う。



Reference

  • [*1]三越伊勢丹HD・IR資料「2019年3月期決算説明資料」
  • [*2]1964「商道ひとすじ」長沼皎平
  • [*3]1990「伊勢丹百年史 : 三代小菅丹治の足跡をたどって」
  • [*4]1963/12/02ダイヤモンド「伊勢丹社長・小菅丹治(下)」
  • 1931/08実業の日本「新宿に躍り出んとする伊勢丹」
  • 1968/08/19ダイヤモンド「"平凡に見えて非凡"な経営に徹する伊勢丹」
  • 1969/06/09ダイヤモンド「東急百貨店の戦略と苦悩」
  • 1972/01/08読売新聞p1「地価日本一・新宿が銀座を抜く」
  • 2014/03/04日経新聞朝刊p13「常識破る改装、新宿躍進」