地銀がベンチャーキャピタルだった時代

任天堂をハンズオンで育てた京都銀行

#ビジネスの話 #2019/8/19

「京都企業」を育てた京都銀行元頭取・栗林四郎。

イラストは依頼作成(日本国際貿易促進協会京都総局webを参考にした)

高度成長期のリスクマネーの供給源は地銀

当たり前の話だが、起業や成長投資には資金が要る。私が企業の歴史を調査する時には「誰がカネを出したのか」を常に気にするが、この当たり前の事実を調べることは案外難しい。〜年に創業した、〜に株式会社化した、〜年に増資したという事実を確認することは比較的簡単だが、では、誰がカネを出したのかという固有名詞の特定は至難を極める。なぜカネを出したのかという考察に至っては、当事者の証言が残っていない限りほぼ不可能である。社史を紐解いても、そこには事業家・経営者・従業員という視点はあれど、投資家という視点で書かれたものはほぼ存在しない。黒子としての投資家の宿命で、時間が経つと、どうしても「カネを出した」という事実は忘れ去られがちになる。

長年、企業の歴史を調べる中で、投資家という観点からナゾを紐解くことには難渋してきたが、一つの突破口を見つけた。それは、たまたま図書館の書庫で発見した「都市銀行融資系列と地方銀行の関係」(1965)という調査書である。この調査書には、日本全国の地銀が当時、どのような企業に資金を融資しており、またどの企業の株式を何%保有しているのかという一覧が載っている。つまり、地方銀行が、どのような企業にどの程度融資ないし株式投資という形で関与していたのかが一目瞭然となる資料であった。これを読んでいくうちに「かつての日本では地方銀行がベンチャーキャピタルとしての役割を果たした」という仮説が浮かび上がった。(注:ここでは上場後の投資もベンチャーキャピタルの範疇に入れた)

1950年代の日本はカネ不足の時代で、大企業は世界銀行などの欧米の金主や、日本長期信用銀行・日本興業銀行といった長期金融機関ないし財閥系銀行の融資、日本生命などの保険会社による株式投資を通じて資金を調達し、業容を拡大することができた。だが、問題は地方の零細企業の資金調達である。カネ不足の時代にあって、高度経済成長期というチャンスをものにするために、起業家は資金を自分で捻出するか、銀行からの融資を受ける必要があった。つまり、大半の起業家にとっては、地方銀行や都銀の支店が貴重な投資家であり、日本の高度経済成長期を支えた企業の創業期は、地方銀行からの融資(Debt)および株式投資(Equity)に支えられてきた面もある。(当時は、銀行でも株式を10%保有できた)

ホンダ、任天堂、日本ハムといった日本を代表する企業も、かつては零細企業にすぎず、銀行の融資に支えられて業容を拡大した。ちなみに、零細企業であったホンダが1950年代に経営危機に陥った際に手を差し伸べたのは三菱銀行の京橋支店であった。そして、京都を地盤とする任天堂は京都銀行、香川で創業した日本ハムは百十四銀行(高松本社)という地方銀行の支援のもとで、高度経済成長期に業容を拡大した歴史がある。つまり、1950年代の日本では地方銀行や、都市銀行の地方支店がベンチャーキャピタルの役目を果たし、支援先の企業経営をカネの面で支援した。

しかし、よく考えれば、地方銀行に集まる資金は「地元のカネ」である。預金者としては地方銀行がリスクマネーを扱うことは好ましくないが、高度経済成長期の地方銀行は積極的に調達資金を零細企業、すなわちベンチャー企業に融資し、場合によっては株式も取得している。なぜこのような「荒技」ができたかといえば、当時の地銀の頭取は「新しい産業・企業を育てなければ、地域の発展はあり得ない」と考え、あえてリスクを犯すことを厭わなかったからである。だからこそ、地方銀行は実質的な「ベンチャーキャピタル」として成長資金を地元企業に供給し、地域の産業振興の担い手となった。

なお、現代人からすれば、高度経済成長期の日本企業といえば、人口増加が約束された中で「楽」に成長したと思われがちだが、必ずしもこの考えは正しくない。この時代の制約は企業成長に必要な「カネ」が不足しており、成長資金の調達が企業の生死を分けたからである。したがって、この時期の歴史を考える際は、常にカネの出処がどこなのかを見る必要がある。

京都銀行が任天堂をハンズオンで育てた

高度経済成長期に「ベンチャーキャピタル」として最も成功した地方銀行は「京都銀行」である。京都銀行の具体的な仕事内容は、1960年代から1980年代にかけて任天堂の経営をカネとヒトの両面で支援し、同社をトランプを主体とするニッチな玩具メーカーから、電子ゲーム「ファミコン」を中心とする世界的なゲーム機器メーカーに発展させる手助けをしたことにある。

創業期の任天堂は京都の鴨川の集落でトランプの製造販売を行う零細企業であったが、1950年代に山内社長がディズニートランプを企画したところ大ヒットを記録し、1962年に株式を上場した。1962年までに京都銀行は任天堂の株式を当時の銀行が持てる上限の10%を取得し、以降、任天堂に対して必要な時に資金を融資し、場合によっては京都銀行出身者を取締役ないし監査役として派遣するなど、カネとヒトの面で経営を支えた。今風に言えば、「ハンズオン投資」である。

なお、1960年代の任天堂は京都以外では無名の会社で「古き都のちっぽけな子供相手のトランプ会社 」[*1]と揶揄される対象であり、1960年代以降の任天堂は「脱トランプ」による多角化を経営の中心課題に据えた。そこで、京都銀行は一貫して任天堂の「脱トランプ」という業態転換を支援してきた。

京都銀行が任天堂に対して重要な役割を果たしたのが、1970年代である。1973年10月に発生したオイルショックの余波により日本経済は苦境に陥り、嗜好品を扱う任天堂の業績を直撃した。1960年代を通じて売上高純利益率10%前後という高水準で推移した業績は低迷し、1975年8月期決算には利益率が3.4%に低迷した。この時、京都銀行は任天堂に対して6億円の融資を決断し、任天堂が新製品の研究開発を継続できるように支援した。この過程で、任天堂の山内社長は当時最先端の電子部品「マイコン(MPU/CPU)」を駆使した電子ゲームの開発に邁進する。

山内博(任天堂社長・1973年)

この時も、もうつぶれるな、と思いました。人間というのは10年もたつと前のピンチを忘れるものでね(笑い)。もちろん、その間いろいろなことをやり、何とか業績ももち直したんです。たとえば、1970年に出した光線銃。発売当初は、当時としては驚異的なくらいヒットしたんですが、長続きしなかった。あのころのエレクトロニクス技術は貧弱なものでね、すぐあきられたんでしょうな。

1973/11創「京都の地場産業 -任天堂の正念場-」

1970年代の「冬の時代」を経て、1983年に任天堂が世の中に送り出した新製品が「ファミリーコンピューター(ファミコン)」である。ファミコンを発売した途端に、全世界で爆発的なヒットを記録し、瞬く間に任天堂の業績が急回復した。1980年代を通じて任天堂は有利子負債を完済し、無借金経営に移行して財務体質も改善する。ファミコンの成功により、任天堂はニッチな国内のトランプメーカーから、世界を代表するゲーム会社への業態転換を成し遂げた。1962年の時点で任天堂の売上高に占めるトランプの割合は81%であったが、1987年には同1.7%となり、名実ともに電子ゲームの会社に変貌する。

日経ビジネス(1984年)

任天堂が昨年7月に発売した「ファミリーコンピュータ」は単行本大の大きさで重さ約600グラム。プラスチック製の本体はコンピューターというよりはむしろオモチャに近い外見だ。ところがこの”オモチャ”が、同類のビデオゲームなかりか、低価格パソコンの売れ行きをも左右するほどの勢いで売れている。

昨年だけで約45万台、今年は10月末までに約120万台を売り、さらにこの年末年始に向けて100万台を出荷する体制を整えているという。家電やコンピューターメーカー14社が出している、低価格が売り物のMSX仕様パソコンが、全社累計販売台数30万〜40万台であるのに比べると、売れ行きの突出ぶりがよくわかる。...(中略)

「万年儲からなかった」任天堂に、やっとのことで転機をもたらしたのが、53年からのインベーダー・ゲームのブームだった。このマイコン応用ゲームの空前のヒットは、まさに山内社長の信念を裏付けるものとなった。「基本的にこの路線で間違いないと確信できた。あとはどれだけマイコン応用技術を発展させていくかが勝負の分かれ目になる」と、読んだのだ。

1984/12/10日経ビジネス「任天堂の「ファミリーコンピュータ」」

2018年3月時点で、京都銀行は任天堂の株式を「4.9%」保有しており、有価証券報告書に記載された任天堂株式の貸借対照表計上額は2,755億円に及んでいる。京都銀行が任天堂の株式10%を取得完了したのは1962年であり、この異例とも言える長期投資は京都銀行に資産上の大きな利益をもたらしている。

京都銀行が2019年まで他の地方銀行との合併・再編に巻き込まれなかった理由も、任天堂を始め、京セラや村田製作所といった「京都企業」の株式をこれらの企業が目立たなかった時期に確保し、21世紀に至るまで保有し続けた面が大きい。

栗林頭取という奇特な投資家

京都銀行はなぜ任天堂を支援したのか?その謎を解くカギは、京都銀行の頭取をつとめた栗林四郎という人物の大局観にある。

栗林四郎(くりばやし・しろう):1912年大分県生まれ。1935年京都帝国大学・経済学部を卒業し、朝鮮銀行に入行。1951年京都銀行取締役に就任。1953年常務取締役、1966年専務取締役を経て、1972年取締役頭取。1979年〜1987年までは取締役会長。1992年に逝去。

栗林は戦前、朝鮮銀行につとめていた特殊な経歴の持ち主で、一般的な商業銀行の出身ではなかった。朝鮮銀行は朝鮮半島の経済発展を目的とした異色の金融機関であり、栗林も朝鮮銀行の「パブリック・マインド」を重視するスタンスに影響されたという。

終戦後、1951年に栗林は京都銀行に取締役として転職し、商業銀行のキャリアをスタートさせた。1950年代に栗林はアメリカ・カリフォルニア州の金融事情を視察し、バンク・オブ・アメリカが地域振興に大きな役割を果たしていることに大きな感銘を受ける。1972年に京都銀行の頭取就任した後も、一貫して、京都経済の発展のために「採算度外視」で尽くすことが地銀の使命であると考え続けた。

栗林四郎(京都銀行頭取・1974年)

カリフォルニア州の道路の角々に「バンク・オブ・アメリカはカリフォルニア州と共に発展する」という看板がでておった。これが本来の地方銀行のあり方であると痛感して帰りました。私は経営方針の中にこれを盛り込んで、行内に流しました。いまでもこの柱は変わっておりません。

ですから京都銀行の発展につながることは、採算を無視してもやろうではないか、それがわれわれの使命であるという気構えで望んでおります。したがって収益があまり上がらない銀行なんですが(笑い)

1974/12財政金融ジャーナル「縁故債流動化の処置を早急に -京都銀行頭取栗林四郎氏に聞く」

高度経済成長期の京都経済の課題は、産業構造が繊維産業に偏重している点であった。1950年代までの京都を支える主力産業は、西陣織に代表される繊維であり、グンゼ、日本レース、川島織物といった繊維会社が名門企業とされた。したがって、京都を代表する産業はあくまで伝統的な繊維であった。当時の商業銀行の常識に照らせば、繊維産業への融資は比較的安全であり、まっとうなものであった。

しかし、栗林四郎は旧来の繊維産業ではなく、新しい電機産業こそが京都経済の発展を担う「成長産業」であると判断し、リスクを伴った融資を実行した。1960年代から1970年代にかけて、京都銀行は、任天堂への投資および融資を皮切りに、は京セラ、村田製作所、日本電産といったベンチャー企業にも投融資を行い、のちに「京都企業」として賞賛される地域企業群を育て上げた。つまり、「京都企業」と呼ばれる企業群が、同じ時期に、同じ場所=京都に形成された理由は偶然ではなく、京都銀行のリスクを伴った融資を実施した必然的な側面が大きい。

なお、栗林頭取は融資に際して、(1)成長業種であること、(2)経営者の人柄が良いこと、の2点を必ずチェックし、融資実行後はとことん面倒を見ることを信条にしていたという。だが、一風変わった融資方針であったため、栗林頭取は「私が商業銀行育ちでなかったのがよかったんですね。安全な融資を優先的に考える商業銀行育ちなら、危なっかしくて、とても貸せないケースが多かった。事実審査部とはよく喧嘩しました。それを押して貸したのです」[*2]という内情を語っている。

栗林四郎(京都銀行頭取・1972年)

地銀は地域社会と運命を共にするんだ、ということ以外何ものもございません...(中略)

融資のポイントはまず、その企業は成長業種であるかないか、次いで経営者の人柄、この二つを絶対条件とし、いったん取引した以上はピンチに落ち入っても、とことん面倒をみる、これ以外にはありません

1972/5金融ジャーナル「京都銀行頭取栗林四郎氏 -一にも二にも人材の養成-」

任天堂の評価に関して、栗林頭取は具体的な言葉を残しており「会社全体が、つねにナウな思想に燃えている...(中略)...京都のカラーの伝統を守りながら、少しずつ伝統のカラーを、それも抵抗なく脱皮していくところが、わたしが高く評価している所以なんです」[*2]と1973年に語っている。

この発言の後、1975年頃に京都銀行は経営危機に陥った任天堂に対して6億円の新規融資を決断しており、栗林頭取は有言実行を貫いた。

任天堂を始め、京セラ、村田製作所、日本電産といった京都銀行が支援した「京都企業」は1990年代を通じて業容を拡大。日本の大企業の多くがバブル崩壊による後遺症に悩む中、京都企業の好調が対照的に注目を浴びた。結果として京都銀行は、京都企業への投資を通じて、栗林四郎の掲げた「京都の経済発展」という目的を成し遂げた。

京都企業の本社所在地・イラストは筆者作成

日経ビジネス(1995年)

京都企業の強さの秘密は、技術ではない。その理念であり、哲学だ。時代に流されず、横並びもせず。社訓を胸に本業以外への迷いを断つ。

1995/8/21日経ビジネス「特集ビジョナリー経営・京都企業強さの秘密」

週刊東洋経済(2015年)

観光のメッカとして世界に知られる京都。1200年の歴史をほこるこの都市の別の顔が、ちょうど米国のシリコンバレーにIT企業が集中しているように、電子関連をはじめとする優れた製造業が集積していることだ。そしてこれら京都メーカーズの存在感は、世界のものづくり産業において高まる一方なのだ

2015/10/10週刊東洋経済「京都企業のお作法」

ベンチャーキャピタルは「地銀」の発展系

現在、日本におけるリスクマネーの担い手はグローバルで集めた資金を運用するベンチャーキャピタル(VC)である。だが、ハンズオンで投資先を支援する点は、地銀がベンチャーキャピタルの役割を担った時代と変わらない。

また、ハンズオンを必要とするベンチャー投資はローカルな経済圏で完結する傾向にあり、その活動範囲は特定地域に偏りやすい。1995年以降、インターネットを活用とした産業が東京に集積した関係上、国内に流れるリスクマネーもチャンスが多い東京に集まり、東京23区という「地域社会」が着実に発展しつつある。

したがって、ベンチャーキャピタルこそが、21世紀型に重要な役割を担う地域金融機関、すなわち「地銀」の究極的な発展系であろう。

1990年代の護送船団方式の終焉により、旧来の地銀は一つの時代の役割を終え、今後、多くの地銀が淘汰されることは間違いない。また、市場原理に反して無理やり淘汰をストップさせるべきでもない。

だが、パブリック・マインドを貫いた栗林頭取の投資家としての思想は今も色あせることない。

超長期の利益、すなわち長期利益を生む産業ないし会社を「採算度外視」で育て、長期的に地域社会を発展させることこそ、今も昔もかわらない金融機関の使命であろう。「地銀」「ベンチャーキャピタル」といった業態分類は本質的にどうでもよく、地域金融機関の存在意義が「地域社会の長期的発展」にあることを忘れてはいけない。



Reference

  • [*1]1964/02/12週刊野田経済「眠れる需要を呼び起こす任天堂の両道作戦スタート」
  • [*2]1973/11創「京都の地場産業 -任天堂の正念場-」
  • [*3]1973/7マネジメント「"京都ブーム"の立役者たち」
  • 1972/5金融ジャーナル「京都銀行頭取栗林四郎氏 -一にも二にも人材の養成-」
  • 1974/12財政金融ジャーナル「縁故債流動化の処置を早急に -京都銀行頭取栗林四郎氏に聞く」
  • 2012京都銀行「京都銀行七十年史 -本編-」
  • 京都銀行「有価証券報告書」
  • 任天堂「有価証券報告書」
  • 日本国際貿易促進協会京都総局 - 60年の歩み(webページ)