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松菱 - 谷政二郎

経営者の決断 松菱 一気通貫 地元業者の反対 栄枯盛衰 繁華街の移動

浜松の名門百貨店"松菱"を創業した谷政二郎。イラストは筆者作成(松菱社史[1967]を参考にした)

名門地方百貨店の悲劇〜再起

  • 新興都市浜松で百貨店を創業
  • 1936年に谷政二郎(43歳)は浜松市街地に百貨店"松菱"を開業することを決意。地方百貨店・丸物の社員という安定したキャリアを投げ捨てて、1937年に浜松鍛冶町に松菱を開業した。松菱の進出にあたっては、地元業者からの強い反発があったが、谷は松菱の株式の一部を浜松の地元業者に与えることで利害関係を一致させた上で、浜松進出を果たす。

  • 繁華街の移動に適応できず倒産
  • 1960年代に浜松は製造業の発展により経済が潤い、浜松市内で唯一の百貨店であった松菱が利益を独占した。だが、1970年代に西武百貨店が浜松鍛治屋町に出店して競争が激化。さらに、1980年代には遠鉄百貨店が浜松駅前に出店したことで、鍛治屋町vs駅前という地域間競争が起こる。

    旧来の市街地であった鍛冶町は浜松駅から遠いというハンデを背負ったため、松菱と西武百貨店は遠鉄百貨店に対して苦戦。松菱はバブル期に鍛冶屋町で大規模な増床投資を行ったことが重荷となり、2001年に倒産。創業一族である谷家は自己破産を申請した。

  • 松菱を反面教師に起業し、上場へ
  • 谷正人は谷家の分家に生まれ、高校生の時に松菱の破綻を経験した。谷正人は松菱の失敗を教訓として、2007年に東京ブランドを扱うセレクトショップ「STUDIOUS」を開業。百貨店業界の常識とは逆の常識を採用する(ex.仕入れ等)ことで業容を拡大し、2015年に谷正人(33歳)はTOKYOBASE(STUDIOUS)の株式上場を果たす。

    目次

  • 松菱 - 基本情報
  • 売上高 - 過去推移

    歴代社長 - 過去推移


  • 浜松の歴史
  • 1930年代 城下町から軍需都市へ

    1950年代 軍需都市から二輪車/楽器の街へ


  • 松菱百貨店の新設
  • 1. 浜松進出と地元の説得

    2. 艦砲射撃により店舗破損

    3. 店舗修復で営業に復帰


  • 繁華街の移動に対応できず
  • 1960年代 松菱が百貨店市場を独占

    1970年代 西武百貨店の参入で競争激化

    1980年代 遠鉄百貨店の参入で競争激化


  • 明暗を分けた本家vs分家
  • 1990年代 11期連続の赤字を計上

    2000年代 自己破産の申請(負債総額328億円)

    2010年代 谷正人(33歳)が株式上場


    松菱 - 基本情報

    売上高 - 過去推移

    単位:億円

    出所:各種報道資料、松菱社史(推定を含む)。1980.2のデータは不明のため掲載せず


    松菱 - 歴代社長

  • 1937年の創業から2001年の倒産に至るまで、創業家(谷家)が松菱の経営を担った。
  • 谷政二郎(創業者/創業家)

    1937年〜1960年 社長

    1960年〜1980年 会長(?)


    谷肇(創業家)

    1960年〜1983年 社長


    谷隆(創業家)

    1983年〜1996年 社長


    谷忠直(創業家)

    1996年〜2001年 社長(自己破産)


    浜松の歴史

  • 1887年 日本楽器製造の創業
  • 1888年 東海道線浜松駅の開業
  • 1909年 スズキ創業
  • 1909年 遠州鉄道開業
  • 1920年 鈴政式織機設立(現エンシュウ)
  • 1940年 スズキが高塚工場を新設(軍需)
  • 1945年 米艦艇より艦砲射撃を受ける
  • 1948年 ホンダ設立(二輪車ベンチャー)
  • 1952年 スズキが二輪車参入
  • 1953年 ホンダが浜松工場を新設
  • 1955年 ヤマハが二輪車参入(ヤマハ発動機設立)
  • 1961年 丸正自動車が倒産
  • 城下町から軍需都市へ

    江戸時代において浜松は天竜川を控えた東海道の城下町として発展したが、交通面では明治時代に開通した東海道本線(鉄道)によって発展する。1888年に浜松駅が開業し、翌1889年には浜松〜国府津駅間が開業したことで首都圏へのアクセスが飛躍的に向上。浜松は東海道線という日本の大動脈の中継地点となり、様々な物資や情報が行き交った。

    産業面では、浜松には江戸時代から天竜川によって運搬される木材を活用した木工業が盛んで、明治時代に入ると木を生かした工業が発達。1887年には浜松にて日本楽器製造(ヤマハ)が創業し、木材を活用したオルガンなどの楽器製造に参入した。また、1909年には浜名郡で鈴木式食器製作所(スズキ)が創業し、当初は木材を活用した織機を製造したが、のちに鋳物を活用した近代的な織機製造に参入。楽器産業と織機産業が浜松の近代化に大きな役割を果たした。

    また、1941年〜1945年の第二次世界大戦中において、浜松は軍需都市として発展を遂げる。ヤマハやスズキといった民需工場は、航空機生産などの軍需工場に転換され浜松経済を潤した。だが戦争末期に米軍は軍需工場が集積する浜松に狙いを定めて、海上からの艦艇からの艦砲射撃を行ったため、終戦直後の浜松市街地は廃墟と化した。

    軍需都市から二輪車/楽器の街へ

    戦後復興の過程において、軍需工場の遺産が大いに活用された。戦時中に航空機生産を担った工作機械や職人は、終戦直後に平和産業である二輪車製造に転業した。二輪車業界では、スズキ、ヤマハといった戦前からの大企業のみならず、ホンダなどの無名の二輪車ベンチャーが数多く浜松で誕生し、業界内で厳しい競争が起こった。1950年代の全盛期には浜松で約30社の二輪車ベンチャーが存在したという。

    浜松発の二輪車ベンチャーは、相生モーターズ、北川自動車、三協機械製作所、丸正自動車、ロケット商会などの二輪車メーカーが存在したが、ホンダ以外のベンチャーは1961年までに倒産ないし二輪車製造から撤退した。また、浜松では約600社の部品工場(機械部品、塗装、計器、鋳造など)が育ち、浜松の二輪車産業を支えた。

    1960年代までに浜松は軍需都市から、ヤマハを中心とする楽器産業と、ホンダ・スズキ・ヤマハ発動機を中心とする二輪車産業が集積する街へと変貌。江戸時代の城下町は約100年をかけて、近代的な産業都市に成長した。

    浜松市史

    産業都市浜松にとって、戦後の二輪車工業の勃興は大きな意味を持った。第一に、戦争により大きな被害を受けたにもかかわらず、戦後比較的早く、産業都市として復興し得たのは二輪車工業の勃興に負うところが大きかった。第二に、二輪車工業の成長は戦後の浜松の産業構造を加工組立工業として特徴付けるものになった。特に、地域の三大メーカーであるホンダ・スズキ・ヤマハが、いずれも二輪車工業に進出したことは、地域の産業構造に大きな影響を与えることになった。

    「浜松市史(四)」


    松菱百貨店の新設

  • 1937年 松菱の開業
  • 1945年 艦砲射撃により店舗を破損
  • 1949年 営業再開
  • 1952年 開店15周年(日本百貨店新聞が特集)
  • 1954年 1度目の増床工事の実施
  • 1956年 2度目の増床工事の実施
  • 浜松進出を決断

    1936年に谷政二郎(京都の百貨店"丸物"に勤務・44歳)は浜松における百貨店の新設を決断。谷はそれまで勤めていた丸物から独立する形で「松菱」を創業し、百貨店の開業準備に取り掛かる。当時、浜松には主要な百貨店が存在せず、谷は浜松が百貨店の空白地帯であることに着目した。

    京都の丸物を辞めて、縁もゆかりもない新興都市"浜松鍛治屋町"の将来性に着目した谷政二郎。イラストは筆者作成(松菱社史[1967]を参考にした)

    百貨店の候補地としては、浜松の田町と鍛冶町の2つの繁華街を検討し、このうちあえて閑散とした鍛冶町を選択。理由は、道路交通の利便性が良いことと、百貨店の新設により鍛冶町が発展する可能性を視野に入れたためであった。

    1930年代の浜松市街地の推定地図。イラストは筆者作成

    ところが、浜松に地元とは関係ない丸物資本が上陸することについて、一部の業者が反発した。浜松の地元業者は、地元資本による百貨店の新設を計画するなど、松菱の競合店が出現する恐れが生じた。

    このため、谷は「正直言って私も不安であり、眠れぬ夜が続いたのも事実であった。なんの実績もない当時の田舎町に、100万円の資本金を投入し、近代的デパートを建設することは大きな賭けであり、まして3社乱立ともなれば、企業として成り立たないことは明白であった」[1967松菱社史]と後に回想している。

    詳細な経緯は不明であるが、谷は松菱の開業にこぎつけ、地元資本による百貨店の新設は回避された。ちなみに、谷は地元との共存共栄を図るため、松菱の株式の一部を地元浜松の人に分け与えたと言われている。

    谷政二郎(1967年)

    創業当時、それまでの百貨店の多くは呉服店出身であり、その土地を基盤に持ち、優秀な社員と永年の顧客を把握した上で、次第に発展していった。ところが、松菱はそうではなかった。何の関係もない土地に、一人の常連客もないところへ建設、開店したのであるから、私としては確信を持ってはいたが、今までの安定した職をなげうって、ただ私だけを信じて協力してくれた社員各位ーー現在の役員のほとんどを含めてーーの努力と勇気には感謝の他はない。

    当時の私は44歳、ついてきてくれた人々は皆私よりも若かった。そしてこの若さが松菱の原動力になった。その頃は連日午後9時までの夜間営業を行っていたが、全員が背水の陣をしき懸命に働いてくれた、これが現在の松菱の基盤になったのである。

    1967松菱社史

    開業直後に戦争に突入

    1937年6月1日に松菱は浜松に初となる百貨店を開業。百貨店の建物は大林組によるコンクリート建築(地上7階)であり、浜松では異色の商業建築であった。開業日の松菱には人が殺到し、入場制限のために正面玄関を封鎖するなど、浜松市民の需要を捉えることに成功した。

    だが、松菱の開業直後に第二次世界大戦が勃発。自由経済から統制経済にシフトしたため、松菱店舗の3階〜7階は軍需目的に利用され、営業は1〜2階に制限されてしまった。さらに、1945年に浜松市街地が米国艦艇による艦砲射撃を受け、松菱店舗も2発の着弾を受けて大破した。また、谷政二郎も戦争中に米軍艦載機の機銃掃射を列車内で受けたものの、九死に一生を得たという。

    松菱店舗の復旧および増築

    1945年8月の終戦を機に松菱は1階を銀行、4階を映画館に貸し出して営業を再開。だが、店舗は艦砲射撃によって4〜6階に穴が空いており営業の完全復帰が困難であったため、谷政二郎は店舗の復旧を決意した。

    1946年8月より谷政二郎は店舗の普及を開始。コンクリートやガラスなどの資材の調達が難しい中で、松菱はなんとか補修資材を確保した。だが、資材調達に際しては困難を極め、業者に騙されることが多かったという。

    1949年5月に松菱は既存店舗の補修を完了し、営業に復帰した。当初は売る商品がなかったため、松菱は配給物資の物々交換や中古品の販売に従事したという。物資に乏しい中で、谷政二郎は日本経済の復興を見据え、さらなる増築を決断し、1954年と1956年に増床を実施した。

    (補足)1954年に松菱は1階目の増築工事を完了し、7〜8階に330㎡を増床して述床面積を8245㎡に増強。さらに、日本政府の百貨店法(増床の規制)の施行前の1956年に本格的な増築工事を実施して5478㎡を追加した。

    谷政二郎(1967年)

    私もこの時だけは弱気になり、消極的になった。余りにも悪いニュースが多く、将来に対する目途も、立て様もなかったのである。(中略)しかしながら徐々に明るさは戻りつつあった。人々は戦争中の統制の束縛から解き放たれ、自由を求める機運が盛り上がりつつあった。

    私はこの気運を肌に感じた。日本は立直れることを。そうなれば百貨店は再び往時の繁栄を取戻すであろうし、この焼けただれた松菱も、再び百貨店の殿堂として脚光を浴びる日が来るに違いない。いや必ずそうして見せようと心に誓ったのである。

    経済状態はどうあろうとも、松菱の経理内容がどうあろうとも、兎も角復興を急がねばならない。店舗なくして百貨店なし、苦しい時は皆が苦しいのだ。苦しさに負けて立遅れては悔を千載に残すことになろう。これは当時の私の経営理念であった。

    1967松菱社史


    繁華街の移動に対応できず

  • 1971年 (西武百貨店が浜松鍛治屋町に進出)
  • 1974年 共同ビルの新設により増床
  • 1988年 (遠州鉄道が浜松駅前に進出)
  • 1992年 120億円を投じた新館を開業
  • 松菱が百貨店市場を独占

    松菱の復旧は浜松市民にとって大きな喜びであった。1952年に松菱が創業15周年を迎えた際に、浜松市長(岩崎豊)は「本市表象の松菱」、浜松商工会頭は「小売業者とも共栄」、業界新聞は「致命的戦災より全く復興」[1952/5/23日本百貨店新聞]と高く評価し、松菱の躍進に注目が集まった。

    1960年代を通じて松菱は売上高を拡大。浜松市の経済は、自動車産業(ヤマハ発動機、ホンダ、スズキ)や楽器産業(ヤマハ)の工場の拡大によって人口が増大したため、松菱は浜松経済の発展の恩恵を受けた。当時、浜松における百貨店は松菱のみであり、浜松の百貨店市場を松菱が独占していた。

    西武百貨店の参入で競争激化

    だが、浜松経済の発展に目をつけた西武百貨店が1971年に浜松市街地(鍛冶町)に進出。鍛冶町内に松菱と西武百貨店という2つの百貨店が出現したことで、松菱を取り巻く競争環境が悪化した。

    また、1960年代後半から日本にも乗用車が普及。マイカーの普及により、地方では郊外のロードサイドに専門店が相次いで出現したため、都心部における百貨店の優位性が脅かされ始めた。

    すでに1967年の時点で谷政二郎は同業他社の参入と、マイカーの普及が松菱の経営に致命的な影響をもたらすことを予見していた。だが、1974年に松菱は既存店舗(鍛治屋町)に共同ビルを新設し、本店の増床によって変化を乗り切る道を選択する。

    (補足)1980年に創業者・谷政二郎が87歳にて逝去。松菱は引き続き谷家(谷隆社長)が経営を引き継いだ。

    谷政二郎(1967年)

    経営面についての百貨店の脅威は交通関係であります。幹線交通路の移動、繁華街の移動は百貨店の脅威であり、それは交通機関、区画行政によるところ大であります。そして今一つは、交通関係会社の百貨店経営であります。(中略)店舗の営業収益を度外視して進出する交通機関の経営には正直言って太刀打ちできないのが現状です。今後この競争は一層激甚を極めるでありましょう。(中略)

    今までの百貨店は、同業者以外にさしたる競争相手もなく、比較的安定し、また安穏な状態にあった。ところが、いわゆる大型店舗によるスーパー、ディスカウンターによる脅威は日を追って増加し、彼らの成長率は百貨店のそれを大きく上回り、年商百億を超える量販店は5指に余り、百貨店の牙城を脅かし、その支店網は全国的にものすごい勢いをもって広がりつつある。中央集中仕入れによる一括大量仕入れにより、価格面でも我々は押され気味である。

    その上、同業者の競争も日毎に増大しており、貸店舗型式による類似百貨店も続々開店、あるいは拡張している。この冷厳な事実に、我々は目を背けてはならない。今までの慣習に従った仕入れ方法、販売方法、あるいはサービス方法をもって事足れりと考えてはならない。ともすれば、ぬるま湯に入りたがる気持ちをおさえ、きびしい寒風に全身をさらし、何もかもきたえ直さなければならない。それも明日では遅過ぎるのである。

    1967(松菱・社史)

    遠鉄百貨店の参入で競争激化

    1976年に国鉄は浜松駅における貨物の取り扱いを中止し、貨物業務を西浜松駅に移管した。貨物移管にあわせて、浜松駅の高架化および路線の経路変更を実施。1979年に国鉄は浜松駅の高架化を完了するとともに、浜松駅東側の路線を一部南下させた。このため、浜松駅周辺の東海道線沿線で区画整理が実施された。

    また、1985年に遠州鉄道は新浜松駅の高架化と移転を実施し、新浜松駅を南東方向に移動させた。同時に、新浜松駅周辺を商業開発するため、1984年に遠州鉄道(石津薫・社長)は"遠鉄百貨店"を新設するための届け出を提出し、新浜松および浜松駅前の進出を決断した。

    1988年に遠州鉄道は100億円を投じて遠鉄百貨店(売り場面積:1.7万㎡)を浜松駅前に開業。百貨店業の開始に先立って遠州鉄道は高島屋と提携。鍛治町の松菱および西武百貨店に"繁華街の移動"で対抗した。

    1980年〜1990年代初頭の浜松市街地の推定地図。イラストは筆者作成

    鍛治屋町の増床で対抗

    1989年に谷隆(松菱・社長)は遠鉄百貨店に対抗するため、本店に隣接する土地を地権者とともに再開発する方針を決断。再開発は"鍛冶町三丁目地区第一種市街地再開発組合"を通じて行われ、1991年に松菱新館を新設する方針を決める。

    また、松菱は1980年代を通じて米国進出、スーパー、レンタル複合店、リゾートなどにも多角化を推進し、増床を見据えた店舗運営の経験値を社内に蓄積する。米国進出は従来の問屋依存の仕入れから脱却するための施策であったという。

    そして、1992年に松菱は累計120億円を投じた新館を鍛治屋町に開業し、遠鉄百貨店に対抗する布陣を整える。

    谷隆(1989年)

    百貨店という業態だけにこだわっていては生き残れない。その場、その時に合った出店戦略をとることが必要(中略)地方百貨店のイメージから抜け出し、アメニティー(快適空間)要素の強い全く新しい店舗にしたい。食品売り場を地階から最上階へ移してしまうような思い切った店づくりを目指す

    1989/08/15日経流通新聞p7「柔軟に事業多角化、ノウハウ本業に生かす」


    明暗を分けた本家vs分家

  • 1990年 赤字に転落(以降11期連続赤字)
  • 1995年 希望退職者の募集
  • 1996年 (遠州百貨店が過去最高収益)
  • 1997年 (西武百貨店が浜松撤退)
  • 2001年 自己破産を申請
  • 2009年 谷正人がMBOにより独立
  • 2015年 谷正人がSTUDIOUSを上場
  • 11期連続の赤字を計上

    1990年代を通じて浜松市民は郊外ではイトーヨーカドーやイオンなどのショッピングモールに、都心部では浜松駅前の遠州百貨店を利用するようになり、旧来の繁華街であった鍛治屋町の西武百貨店と松菱は苦戦を強いられた。

    1995年に松菱は希望退職者を募集し、全社員500名のうち62名が応募。1996年に経営不振の責任をとり谷隆が社長を退任した。また、西武百貨店は1997年に浜松店の閉鎖を決断し、旧来の繁華街である鍛治屋町の地盤沈下が鮮明となる。

    他方、浜松駅前に店舗を構えた遠鉄百貨店の業績は好調に推移し、1996年に過去最高収益を達成し、駅前と鍛治屋町の百貨店各社で明暗が分かれた。

    自己破産を申請(負債総額328億円)

    松菱は1990年から2001年にかけて11年間連続で赤字を計上。120億円を投資した新館建設の借入金を返済することが困難となり、同業他社も松菱の救済に動かなかったため、2001年に谷家は松菱の自己破産を決断した。負債総額は328億円、2001年2月期の決算は売上高204億円・最終赤字4.3億円であった。

    自己破産を機に、谷家の本家は全財産を失い、行方不明となった。

    浜松市史

    浜松市民を驚愕させた出来事は老舗百貨店松菱の自己破産による閉店であった(中略)郊外型ショッピングセンターの相次ぐ出店、モータリゼーションの進展などにより、顧客の中心街離れが加速し、それに中心街における大型店の過当競争が加わり、経営不振が続いていた。松菱の破産は地域経済や雇用に悪影響を与えるだけでなく、空洞化しつつある中心商店街の活性化策にも深刻な影響を与えることになった。

    「浜松市史(五)」


    谷正人(谷家の分家)

    経営破綻後は、一族にとって悲惨な物語が待っていました。あれから百貨店に関わっていた父親と、本家の経営者だった叔父さんは、一切口をきいていません。もちろん、社長だった叔父さんは、すべての資産を失って自己破産しました。その「後始末」をめぐっても揉めています。景気の良い時はいいのですが、潰れるととんでもない状況になる。家族の縁すら、やっぱり切れてしまうんです。(中略)本家の人たちは、今どこに住んでるかも分かりません。土地も全部持っていかれて、生きているかすらも分かりません。

    2017/8/12NewsPicks「消えた百貨店」の血を引く、アパレルの風雲児の野望

    谷正人(33歳)が株式上場

    谷家の自己破産後、谷家の分家の子息・谷正人はセレクトショップの経営を学ぶために、デイトナ社に入社。谷はデイトナを一代で築き上げた鹿島社長に憧れ、直接経営を学ぶ道を選択する。その後、谷正人は鹿島社長からある不採算店舗(東京原宿)の黒字化を依頼された。

    (補足)谷正人の父は谷家の次男であったため、本家ではないことが幸いし、破産を免れたものと推察される。ちなみに、分家と本家の仲は悪く、谷正人は「流通業界には行くな」と親から言われて育ってきたという。(参考文献:2017/8/12NewsPicks「消えた百貨店」の血を引く、アパレルの風雲児の野望)

    谷正人はデイトナの不採算店舗を新業態「STUDIOUS」として再生させる方針を掲げ、20〜30代をターゲットに絞り、TOKYOブランド*に限定したセレクトショップ業態を開発。2007年に東京原宿にSTUDIOUS1号店を開業し、黒字化に成功。続いて、STUDIOUSの2店舗の追加出店を実施した。

    *TOKYOブランドの定義:日本国内の最先端TOKYOブランドとは、原宿・青山・表参道エリアを中心とした東京の流行発信地における、トレンドセッターと呼ばれる流行最先端の人々が現在進行形で身につける、最も旬な国内ブランドと当社では位置づけております(出所:2015TOKYOBASE上場目論見書)

    その後、谷正人はデイトナの事業部長として働き続けるのではなく、STUDIOUSとして独立する道を選択。鹿島社長に対して、「鹿島社長のように、自分の資本で独立したいです。STUDIOUSを完全独立という形でやらせてください」[2014/01/02Fachionsnap.com]と懇願し、2009年にSTUDIOUSの株式をデイトナより買収(MBO)することで独立を果たした。MBOに必要な資金(数億円)は谷正人の親から借り入れたという。

    (補足)MBOに必要な金額は数億円であったという。だが、入社3年目の若者にMBO資金を提供する銀行とベンチャーキャピタルは存在しなかったという。(参考文献:2014/1/2FASHONSNAP.COM「STUDIOUS 谷正人 30歳社長の挑戦」)

    STUDIOUSは日本発のセレクトショップとして店舗数を拡大。創業8年目の2015年に株式上場を果たした。

    谷正人(2016・谷家の子息)

    僕は浜松市で百貨店の松菱を経営する一族です。父も松菱で働いていましたが、高校生の時に潰れました。そこで百貨店を反面教師にする前提でビジネスを志しました。基本的に百貨店の反対のことをしています。

    百貨店は基本的に消化仕入れで、売れた分だけ買う。そうすると百貨店には販売力がつかない。一方、セレクトショップは完全買い取りです。バイヤーの仕事は仕入れが2割で、8割が販売です。時代やトレンドが変わっても営業力が強い会社は生き残ると思います。個人的にも大きな花火を打ち上げるより、赤字店舗は作らず、地道に100年続く会社を作りたいのです

    セレクトショップ"STUDIOUS"の特長は東京が拠点の日本人デザイナーによるブランドが中心ということです。ブランドやモノがあふれる時代、デザインだけで違いは出せない。消費者は日本のモノや日本人デザイナーのモノを強く求めると考えたからです。サッカーでメッシというスーパースターが好きでも代表戦になると日本を応援するでしょう。

    2016/04/10日経MJp3「ステュディオスCEO谷正人さん」


    参考文献

    新聞・雑誌記事

    1952/5/23日本百貨店新聞

    1987/06/30日経流通新聞p7「遠鉄百貨店浜松駅前店」

    1989/08/15日経流通新聞p7「柔軟に事業多角化、ノウハウ本業に生かす」

    1996/07/02日経新聞静岡p6「経営再建の見通し」

    2001/11/15日経新聞静岡p6「松菱が自己破産、過大投資」

    2016/04/10日経MJp3「ステュディオスCEO谷正人さん」

    2017/8/12NewsPicks「消えた百貨店」の血を引く、アパレルの風雲児の野望

    書籍・その他

    浜松市史

    松菱社史(1967)

    新規公開目論見書(TOKYO BASE)


    事例一覧