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森ビル - アークヒルズ(赤坂六本木・再開発)

経営者の決断 森ビル 成長期 インベーダー森ビル

イラスト:筆者作成

サマリー

元経営学者、約20年の忍耐を経て'世界一の富豪"となる

1970年代に首都圏では郊外の宅地開発が進み、東京都の港区や千代田区といった都心部の人口が減少した。小学校の廃校や、銭湯などの中小商店の廃業が相次ぎ、都心部の生活基盤が徐々に失われたため、"ドーナツ化現象"として社会問題になる。

誰もが都心部での生活を諦めるなか、都心部の再開発を決意した人物が森泰吉郎(森ビル・社長)である。氏はもともと繊維業の歴史を研究する学者で、横浜国立大学の経営学部の教授を務めていた。だが、学長選挙の政治抗争に嫌気がさし、家業である不動産業(森ビル)に転身した異色の人物である。

1960年代までの森ビルは東京の虎ノ門、西新橋、神谷町の各所に、"第〜森ビル"を続々と建設し、NHKや外郭団体などの法人にオフィスを賃貸することで業容を拡大していた。森ビルの強みは、大半の土地を終戦直後に安く仕入れることに成功したため、他の不動産業者よりも安い賃料で、広いオフィスを貸し出すことができた点にあった。だが、"鉛筆ビル"の建設を続けるだけでは、都心の人口減少を食い止めることは望めなかった。

そこで、1960年代後半に森泰吉郎は「一生の勝負どころだ」と腹をくくり、都心部の再開発を決断した。都心部に人を呼び戻すために木造住宅が密集する地区(赤坂一丁目および六本木一丁目)を一度更地にし、オフィス、ホテル、マンションを併設した新しい街を創る計画を公表する。

しかし、数百人に及ぶ地権者や住民は生活の激変を恐れ「インベーダー森ビルは出て行け」と書いた紙をばら撒いて再開発に反対。当時の新聞も、大企業と住民の対立を煽ったため、計画は遅々として進まなかった。それでも森ビルは約14年という時間をかけて住民と交流を深め、地権者との間で再開発の合意を成し遂げる。ちなみに、交渉の途中で森ビルが倒産したら、東京都が計画を肩代わりする取り決めがあったという。

1986年に森ビルは宿願のアークヒルズを開業。森ビルが当該地区の土地(高島湯)を最初に買収してから約20年が経過していた。

アークヒルズには、まだ日本で市民権を得ていなかったゴールドマン・サックスなどの外資系金融が入居し、森ビルは実績に乏しい外資が日本で成長するための広いオフィスを提供。森ビルは、赤坂・六本木の寂れた木造住宅街を、東京を代表する国際的な金融センターへと変貌させることに成功した。

アークヒルズは、2000年以降に本格化する都心回帰の先駆事例となった。森ビルはアークヒルズの次の大規模再開発地区として、六本木六丁目地区を選定。2003年に六本木ヒルズとして開業し、ゴールドマン・サックスを誘致することに再び成功している。

アークヒルズの成功により非上場の森ビルは莫大な含み益を抱えたため、1991年に雑誌・Forbesは、森泰吉郎を"世界一の富豪"として称賛した。だが、氏は1993年に心不全が原因で逝去。享年88歳であった。

目次

  • 基本情報
  • 森ビル - 売上高推移

    東京都港区 - 人口推移


  • 東京都心部の人口減少
  • 1920年代 関東大震災による民族大移動

    1960年代 都心部住環境の悪化

    1970年代 ドーナツ化現象という言葉が定着


  • 超高層時代のスタート
  • 1920年代 関東大震災のトラウマ・31m規制

    1950年代 切り札は電子計算機

    1960年代 三井不動産"霞ヶ関ビル"


  • 都市再開発基本法の制定
  • 1960年代 権利変換の絶大な効力

    1970年代 赤坂一丁目の地盤沈下


  • 赤坂・六本木地区の再開発
  • 1. 土地を買収する

    2. 住民と時間をかけて交流する

    3. 反対派の説得を完了する


  • アークヒルズ開業
  • 1980年代 ソロモン、ゴールドマンを誘致

    1990年代 住民のその後

    1990年代 森ビルのその後


    基本情報

    森ビル - 売上高推移

    単位:億円

    出所:各種報道資料


    東京都港区 - 総人口推移

    単位:万人

    出所:港区「住民基本台帳」


    東京都心部の人口減少

    マクロトレンド 関東大震災 東京一極集中

  • 1923年 関東大震災
  • 1956年 首都圏整備法の制定
  • 1962年 主要幹線道路の拡幅開始
  • 1972年 都電撤去の完了
  • 関東大震災による民族大移動

    江戸時代から明治時代にかけて、主な交通手段は「水運」であった。このため、東京では日本橋・両国・浅草・秋葉原といった河川や運河を利用できる下町に人口が集中した。商業の中心は東京の隅田川周辺であり、ウォーターフロントにおける職住近接が東京の一般的なライフスタイルであった。

    だが、1923年に発生した関東大震災が東京に住む人々のライフスタイルを変えた。関東大震災によって隅田川周辺の東京の主な町は廃墟と化し、ある人は東京を見捨てて関西へ、ある人は被害が少なかった東京の西側の郊外に移住する。この結果、1920年代以降に東京では西側の中心地である渋谷、新宿、池袋の3都市が繁華街として発展した。

    イラスト:筆者作成

    人々の郊外への移住を促した移動手段が「電車」である。すでに明治時代に鉄道は存在したが、当時は蒸気機関車を用いた遠距離輸送が主体であり、日常的な近距離輸送には適していなかった。だが、1920年代に普及した電車は近距離の大量輸送が容易であり、人々の日常の足として定着。"通勤"という言葉もこの頃に定着する。

    首都圏では関東大震災以後に電車の黄金時代を迎える。1920年代には中央線の電化、1930年代には東急東横線や小田急電鉄の全通により、利便性の良い郊外の範囲が拡大した。東京に住む人々の生活圏は、鉄道の伸長に合わせて郊外に拡張され、「住宅は郊外、オフィスは都会」という職住分離が進行する。

    時事新報(1925)

    こうして今や東京は大震災を境にして水面に落ちた油のように末広がりに郊外に向ってふくらんで行きつつある。言葉通り大東京である。こうした郊外の大発展に伴って都会生活者の生活様式に大きな変化が来た。変化とは何かと云えばオフィスは都会に、住宅は郊外にと云う傾向である。

    ...(中略)...人群れて電車敷かれ、電車敷かれて人更に群る、原因と結果と相順環して近年の郊外電車は正に言葉通り電車の全盛時代を画している。

    1925/12/1時事新報「都会から郊外へ」

    都心部住環境の悪化

    日本経済が高度経済成長に差し掛かった1950年代の時点でも、東京の郊外人口が増え続ける傾向は止まらなかった。1956年に東京都は首都圏整備委員会を設け、東京圏の"無秩序な”開発をストップさせようとするが効果に乏しく、杉並区、世田谷区、練馬区の各地では住宅の建設ラッシュとなった。

    1960年代には東京都心部である千代田区・港区・中央区で総人口がピークアウトした。人口が増大する郊外とは正反対に、都心部では人口の減少局面に突入し、東京都港区の場合、1990年代後半に総人口が底打ちするまで、約半世紀にわたって人口減少の局面が続いた。

    東京都港区 - 総人口推移

    単位:万人

    出所:港区「住民基本台帳」

    都心部の人口が減少する決定打となったのは、自動車社会の到来である。1950年代までの都心部の移動手段は都電(路面電車)であったが、自動車が増加すると"邪魔者扱い"された。1967年に東京都は都電の廃止を決断。地下鉄という代替手段がない一部の都心部では、公共交通の利便性が極度に低下した。

    東京都電輸送状況一覧 - 1日あたり乗客数

    単位:千人

    出所:1967/11新都市「消えゆく東京都電」

    また、1964年の東京オリンピックの開催を前に、主要幹線道路の拡張工事が行われた。都内では主に青山通り、六本木通りの拡幅工事が実施された。

    イラスト:筆者作成

    主要道路に面する都心部の商店主は、主要道路の拡幅と路面電車の廃止という大きな変化に直面した。一部の地権者は、道路の拡幅工事に伴う土地の売却を強いられた。ある人は土地を売却し、ある人は駐車場経営を試し、ある人はオフィスビルを建てて不動産賃貸業を始め、獲得した利益で郊外に移住する人もいた。

    ドーナツ化現象という言葉が定着

    都心部では、幼稚園や小学校でも学校の統廃合が進む。1962年に東京都港区は学校統廃合の調査委員会を設置。虎ノ門・新橋地区における小学校の合併が議題にあがるが、歴史のある小学校を淘汰することへの反発もあり、スムーズに話は進まなかった。

    読売新聞(1958)

    入学期をむかえてどの区でもその支度に忙しいが、中央区の場合は幼稚園の応募者が締切日を過ぎても定員に満たず、この傾向は年々人口の減っている同区として近年ますますはっきりしてきた現象。大田、世田谷、杉並など周辺区は年々人口増、区立幼稚園も超満員という有様なのに都心部の同区ではアベコベだ。このため空いている教室もでき、先生方の頭数を減らせないこともないという有様になり同区教委でも対策に苦労している。

    1958/2/5読売新聞朝刊p5「定員にたりない幼稚園・原因は減りゆく人口・中央区まだ三百人もあいてます」

    1970年代には都心部の人口減少を象徴するキーワードとして「ドーナツ化現象」という言葉が定着。メディアは都心に暮らす住民の悲哀を報道し、社会問題として注目を浴びた。

    読売新聞(1973)

    区部の小学校で一斉に卒業式が行われたが、シーズンのたびにあらためて驚かされるのが、都心部の児童生徒の激減ぶり。卒業生が20、30人という小学校は珍しくなく、村の分教場並みに十数人という学校も出ている。原因はドーナツ化現象による周辺部への人口流出だが、この影響は卒業生の数ではなく、生活面にも現われ、生鮮食品などの小売店で廃業するところが続出、威勢が良いことで知られている神田っ子も"これも時代の趨勢でしょうかねぇ・・・"と元気がない

    1973/03/25読売新聞朝刊p21「都心の過疎化・泣きっ面」


    超高層時代のスタート

    マクロトレンド 建築基準法 技術革新 学説対立

  • 1923年 関東大震災で凌雲閣が崩壊
  • 1931年 柔構造vs剛構造論争
  • 1958年 国鉄東京駅で高層ビルの計算実験
  • 1963年 建築基準法の改正/31m規制の撤廃
  • 1963年 三井不動産&鹿島が霞が関ビルを計画
  • 1965年 容積地区制度の発効
  • 1968年 霞ヶ関ビルの竣工
  • 関東大震災のトラウマ・31m規制

    1923年に関東大震災が発生し、浅草のシンボルで高層建築の凌雲閣が崩壊。展望台を見学していた客の大半が死亡する惨事となった。凌雲閣の崩壊を機に、日本では建築物の高さを最大31mに制限する規制を設けられ、地震が頻発する日本で高層ビルを建設することは不可能となる。

    イラスト:筆者作成

    長らく日本の建築業界は「剛構造」による低層建築が良いとされたが、1930年代に武藤清を中心とする「柔構造(地震の振動を建物で吸収すれば高層化が可能)」の学派が台頭。武藤は「柔構造」を採用すれば、日本でも高層建築を建てられると主張した。だが、当時は大地震の周期データが存在しなかったため、柔構造の有効性を証明できなかった。

    データに関しては、1940年代以降に米国など世界各地に地震計が設置され、取得が可能となった。最後の問題は、地震データを解析するための計算であった。解析には高性能の計算機が必要であったが、当時はコンピューターが存在しなかったため、高層建築の安全性を証明することができなかった。

    切り札は電子計算機

    柔構造学派の転機は、1958年に国鉄が計画した東京駅舎の高層化計画である。計画そのものは流れたものの、武藤清は当時普及しつつあった電子計算機に過去の地震データを入力して安全性に関する研究を実施。3年の研究期間を経て、1961年に武藤清は高層ビルが安全であることを証明し、この結果は日本建築学会に受け入れられた。

    1962年に日本建築学会は、日本政府に対して高さ制限の撤廃とともに容積制度の導入を進言。これを受けて、1963年に日本政府は建築基準法を改正して31mの高さ規制を撤廃した。31m規制の撤廃により、日本にも超高層ビルの時代が到来した。

    読売新聞(1963)

    三十数階の超高層ビルが東京の空にそびえ、無数のガラス窓が美しくきらめくーーーというとなにやら夢物語めくが、近づく建築基準法改正を前に、こんな計画がもういくつか生まれている...(中略)..."東京摩天楼時代"の青写真をお目にかけよう。

    1963/6/18読売新聞夕刊p5「超高層ビル時代へ」


    武藤清(1978・建築学者)

    関東大震災の時、当時、最も近代的な高層ビルとして注目された東京の丸ビルなどがひどい被害を受けた経験から、誰もが高いビルは耐震的に不安があると思うようになり、法規でも、以来建物の高さを31m以下と制限してきたのであった。

    今から約20年前のことであるが、十河元国鉄総裁から、焼ビルの東京駅をいつまでもあのままにしておく訳にも行くまい。どうせ建て直すならば超高層には出来ないものか?と諮問をうけた。丁度その頃は、コンピュータも出てきたし、強震の地動の記録も観測されていたので、地震のときに建物がどう動くかも計算できるようになっていた。そのおかげで3年間の研究の結果は、上下の柱や、はりの太さのバランスをとった柔構造ならば地震国日本にも超高層ビルが耐震的に、かつ経済的に建設できることが確認された。そして、昭和38年に建築法規も改正され、霞ヶ関ビルに始まる超高層ビルラッシュを迎えることとなった。

    1978/3公益財団法人日本国際医学協会誌「感想:超高層に想う」

    三井不動産"霞ヶ関ビル"

    日本の不動産会社のなかでは三井不動産(江戸英雄・社長)が、いち早く超高層ビルの建設を決断した。1963年に三井不動産は霞ヶ関ビルの計画を発表。日本初の超高層ビルとして注目を浴び、最上階のレストランの入居倍率は36倍、オフィスについては低層階で2倍、高層階では100倍の水準で、申し込みが殺到したという。

    1965年に三井不動産は超高層ビル・霞ヶ関ビルを着工。前代未聞の建築で失敗のリスクを伴ったため、三井不動産は大手ゼネコン・鹿島と組み、研究費用の総額10億円については鹿島が請け負うように要請した。

    1968年に三井不動産は霞ヶ関ビルを竣工。霞ヶ関ビルが完成したことで、東京では都心部における土地の高度利用が可能となった。1968年に読売新聞は「超高層の時代がスタート」と宣言している。

    読売新聞(1968)

    延べ面積は丸ビルの3倍(中略)定住人口1.5万人、外来者を合わせると”昼間人口”が5万人にも達し、一つのビルというよりもいわば立体的な”新しい町”の誕生ともいえるわけ。へん平な東京の都市空間に、超高層時代の訪れをつげた第1号である

    1968/04/12読売新聞夕刊p10「超高層時代スタート」


    都市再開発基本法の制定

  • 1969年 政府が都市再開発法を制定
  • 1971年 東京都が再開発適地調査
  • 権利変換の絶大な効力

    1969年に日本政府は「都市再開発基本法」を制定し、都心部における再開発を積極化する方針を決断した。特に重要な点は、再開発に当たって地権者の2/3の賛同が得られれば、残りの1/3の地権者は「再開発反対」だとしても権利変換を行う必要があると定めた点である。これは再開発を進める上で、非常に強力な推進材料となった。

    ただし、現実問題として「反対派」がいる中での再開発は困難であった。このため、実質的にはできる限りの地権者が賛成に回らなければ再開発は進めることができず、再開発に当たっては既存地権者への説得が最重要課題となる。

    森泰吉郎(1984)

    つまり、私権をある程度制限することが出来るということですね。ご承知のように、再開発というのはそこの住民が土地を提供して、その上に建物を建てて土地を建物に権利変換して街をよくしようということですね。つまり、そこの住民の3分の2が賛成ならば、残った人も同様に権利の変換に応じなければならないという、当時としては非常に厳しい内容が含まれているわけなんです。

    出所:1984/10財界『「ビルづくり」から「街づくり」に飛躍する森ビル』

    赤坂一丁目の地盤沈下

    1967年に東京都は赤字経営に陥っていた都電の全廃を決定。以降、逐次都電の廃止が進む。

    1967年に都電(新橋〜赤坂〜六本木〜渋谷)が廃止され、六本木通りから鉄道の交通手段が消滅。大通りにもかかわらず、地下鉄(東京メトロ)は赤坂一丁目・六本木一丁目を付近に駅を設けなかったため、同地区は交通の利便性が低下した。この変化により、地下鉄の駅がある赤坂見附や六本木六丁目付近は発展する一方、赤坂一丁目と六本木一丁目付近は繁栄から取り残されてしまう。

    イラスト:筆者作成

    また、赤坂一丁目・六本木一丁目では老朽化した家屋が問題になる。該当地区(旧麻布谷町)は、関東大震災や東京大空襲での被害がなかったため、戦前の木造家屋・長屋が密集しており、防災上の問題となりつつあった。

    地元住民(1986)

    六本木、赤坂という繁華街から500メートルも離れていないのに、ここだけはタイムスリップして孤立したような土地でした。笑い話みたいですが、"この町ではガス自殺ができない"なんていわれていたんです。つまり、どの家もスキ間だらけということです...(以下略)

    1986/6週刊新潮


    赤坂・六本木地区の再開発を決断

    経営者の決断 森ビル 成長期 インベーダー森ビル

  • 1972年 森ビルが地権者への説得を開始
  • 1973年 反対派住民の説得に難渋
  • 1978年 再開発準備組合設立
  • 1982年 再開発事業認可
  • 1983年 権利変換計画認可
  • 1983年 アークヒルズ着工
  • 1. 土地を買収する

    1968年の三井不動産による霞ヶ関ビルの竣工は、虎ノ門と西新橋を地盤とする不動産会社・森ビルに大きな影響を与えた。森泰吉郎(森ビル・社長)は、従来の主流であった「鉛筆ビル」と呼ばれるオフィスビルを点々と建てるのではなく、高層オフィスと高層マンションが同居した職住一体の街を面で作り上げる「まちづくり」を決意した。

    森ビルの実質創業者・森泰吉郎。先代が虎ノ門と新橋に土地を所有していたことを活用し、1950〜1960年代に同地区に大量のビルを建設することで森ビルを株式会社として発展させた。当初、森泰吉郎は経営学者(横浜国立大)と不動産業を兼業していたが、学長選挙の政治抗争に嫌気がさし、不動産業に転業。異色の経歴の不動産業者として注目を浴びた。イラストは筆者作成。

    ダイヤモンド(1968)

    三井不動産霞ヶ関ビルが完工して、東京・虎ノ門ビル街が、がぜん大きくクローズアップされてきた。見上げるばかりの超高層ビルの出現によって、虎ノ門ビルの格はいちだんと上がった。が、ここにみのがしてならないのが、虎ノ門ビル街の開拓者ともいえる「森ビル」の存在だ。


    森泰吉郎(1968)

    私は貸しビル業を金儲けをしようというような考えからはじめたのではないです。私の生まれた虎ノ門、田村町界隈の街並みを丸の内のオフィス街までにはいかないまでも、耐震耐火建築にしたいという夢を昔から持っているのです。大正11年の関東大震災の苦い経験を持っているので、二度とあのようなことのないよう、不燃建築で、この界隈の街づくりをしたいのです。

    ...(中略)...私は、これまでの都市開発の経験を生かして、及ばずながらリーダー役を買って出る心構えは持っています。

    出所:1968/5/20ダイヤモンド「マンモス"霞ヶ関ビル"に挑戦する"森ビル"の秘密」

    1967年に森ビルは赤坂地区に存在した高島湯の土地を買収。高島屋の主人は六本木通りの道路拡張工事を受けて、銭湯の廃業と土地の売却を決断した。森ビルは高島湯跡地の買収を皮切りに、赤坂・六本木地区の土地買収を本格化する。

    森泰吉郎の回想(1984)

    赤坂・六本木の再開発の計画が持ち上がった。このときの私の気持は、ちょっと大ゲサな言い方になるかもしれませんが、正直いって、ここは自分の一生の勝負どころだ。これまでの自分の人生の総決算であり、これからの会社の将来の布石だ。これこそ目標であり理想であると、えらく気負ったというか、遠大な気分になりましたね。

    出所:1984/10財界『「ビルづくり」から「街づくり」に飛躍する森ビル』

    2. 住民と時間をかけて交流する

    1971年に東京都は六本木・赤坂地区の再開発調査を実施。これを受けて、森ビルは民間企業として再開発を主導することとなり、赤坂・六本木地区の地権者への説得を本格的に開始した。事業の遂行途中に森ビルの経営が行き詰まった場合は、東京都が代わりに再開発を遂行する取り決めがあったという。

    だが、住民の多くが森ビルの再開発に反対した。マスメディアも、森ビルの開発を「住民無視な横暴な行為」と報道。森ビルと東京都は都心部再開発の先例として赤坂・六本木地区の再開発を望んだが、遅々と進まなかった。

    住民が森ビルの再開発に反対した理由は、普段の生活が変わることに加え、相続税の問題、再開発後に地価が上昇する確証がない事、地区内のお屋敷街vs谷町の住民対立(お屋敷の住民は、崖下の商店街の住民と一緒に暮らしたくないという感情を持っていた)、そして再開発の前例が日本に存在しなかったためである。

    森泰吉郎(1974)

    赤坂という貴重な都心部がいまは、実際に利用できる空間の四分の一しか使われいません。もしわたしの社が持っている土地だけにビルを建てることになれば、周辺の環境はさらに悪くなる。私もこの土地に生まれた一人です。古い歴史を持つ町のコミュニティーをこわさず環境を改善するには、地元のみなさんと共同で再開発するのが最良の方法だと思う

    ある主婦(1974)

    うちは戦前からの借家ですけど、いまの生活にこれといった不満はないんですよ。でも知らないうちに土地も建物も森ビルに売られていた。私たちにはむずかしくてわからない再開発が、いまどんどん進められていくみたいでどうしていいかわからない気持ちです

    1974/4/26読売新聞朝刊p25「ある再開発・国内最大の民間主導型」


    読売新聞(1973)

    赤坂霊南坂地区再開発反対委員会など地元の団体は地元無視のやり方はもうまっぴら−--として「押しつけ再開発粉砕 住民本位の街づくりを」などと印刷したビラを各戸に配るとともに地区説明会を開く場合はこれをボイコットし、基本計画が郵送された時は見ないで送り返すことを申し合わせた。このため都心では最大の再開発である同地区の街づくりは再び暗礁に乗り上げそうな形勢となっている。

    出所:1973/4/18読売新聞「だれのための再開発・赤坂」

    3. 反対派の説得を完了する

    1970年代を通じて森ビルは時間をかけて住民を説得する道を選択。森ビル社員が開発によって空き家となった家に住み込み、社員がそろばん教室や合気道教室を開いて住民との交流を深めるなど、数年という時間をかけて住民と話し合いを進めていく。

    森ビルの説得により、若い地権者を中心に"街が発展しなければ商売もうまくいかない"という機運が醸成され、地権者も徐々に理解を示した。1970年代後半には地権者の2/3以上の住民が再開発に賛成したが、それでも最後まで再開発に反対する地権者がおり、森泰吉郎は頭を悩ませた。この頃になると、住民の間でも再開発賛成派と反対派が対立し、町会長と副町会長との間で平手打ちの喧嘩が発生するなど、森ビルvs住民という対立構造から、賛成派住民vs反対派住民という複雑な対立構造が浮かび上がった。

    様々な利害関係、人間ドラマが錯綜する中、1979年に反対派の大物・鹿島正次郎(600坪を所有)が森ビルの再開発に賛同。これをもって、森ビルは地権者の説得を完了した。

    森泰吉郎(1991)

    確かに再開発は簡単な仕事ではない。たいていの場合、少なからず反対者がいて、いつ先の見通しが立つかもわからない。赤坂の場合もそうでした。途中で迷いがなかったと言えばうそになる。しかし、そこで信念を変えることはつぶれるということなんです。だからやり抜くしかなかった。

    地元の人たちの信頼を得ること、それがまず第一の仕事でした。地域の中に事務所を作って、事務所の前の道を掃除したり、近所の身寄りのないおばあさんの世話をしたり、お葬式の手伝いをしたりと、民生委員のような仕事をしました。そのうちに反対者もこちらの誠意を察してくれるようになったわけです。

    1991/5/27日経ビジネス「有訓無訓・森泰吉郎」


    アークヒルズ開業

  • 1985年 アークヒルズ開業
  • 1991年 森泰吉郎が世界一の資産家に
  • 1993年 森泰吉郎が逝去
  • ソロモン、ゴールドマンなどを誘致

    住民の説得完了後に、森ビルは具体的な建設計画に着手。オフィス、ホテル、住居、芸術ホールを有した職住近接の新しい町づくりを実施した。再開発の名称は、赤坂一丁目(AKASAKA)、六本木一丁目(ROPPONGI)、その接点(KNOT)に位置することから、「アークヒルズ(ARK Hills)」と命名した。

    再開発に目処つけ、森ビルはオフィスビルに入居するテナントの誘致を開始。当初は日本企業を誘致する計画であったが、1980年代には外資企業の日本進出が相次いだこともあり、森ビルは外資系の誘致を主眼に置いてテナントを選定。森ビルはバンク・オブ・アメリカ(BOA)に対して営業攻勢をかけて、入居を確定させた。

    BOAの入居決定以降、日本IBM、ゴールドマンサックス、ソロモンブラザーズといった金融機関を中心に外資系がアークヒルズへの入居を決断。特に、ゴールドマンサックスは将来の陣容の拡大を見据えて広めのオフィスを確保し、1986年に東京支店にてM&A部門を新設している。

    1986年に森ビルはアークヒルズをオフィステナントを満室状態で開業。入居企業は日本IBM、ドイツ銀行、シティコープ、バンク・オブ・アメリカ、クレディ・スイス、ソロモンブラザーズ、ゴールドマンサックスなどの外資系金融機関が多かった。同時に、住居、ホテル(ANA)、ホール(サントリーホール)を開業し、職住近接の町として開業した。

    アークヒルズには日本に上陸した外資系金融機関が集積したため、人材のヘッドハンティングが活発化。アークヒルズは「外資村」[1986/07/21日経新聞朝刊p44]とも形容され、時代の最先端の街へと変貌した。

    日経産業新聞(1986)

    東京赤坂・六本木の再開発計画「アークヒルズ」が23日、完成する。オフィス棟には世界の有力金融機関が入居者に顔をそろえた。東京が米ニューヨーク、英ロンドンと並ぶ世界の金融センターになってきたことを物語るといえよう。...(中略)...

    米国の大手投資銀行のライバル同士であるソロモン・ブラザーズとゴールドマン・サックスは9階と10階に仲良く隣り合わせることになる。各社とも東京の事務所を東南アジアや日本の営業拠点と位置づけており、ゴールドマン・サックスのように今年9月の入居までに、現在70人の日本法人の陣容を120人へ一挙に50人増やそうと計画している会社もある。

    1986/4/23日経産業新聞p22「森ビルのアークヒルズ23日完成、外資系金融機関が集中」


    ワインバーグ(1987・ゴールドマンサックス会長)

    ロンドンや東京市場の業務展開は、「確固たる地位」が築けるまで拡大を続ける。米国市場で培った技能を輸出することで可能になるだろうし、「確固たる地位」に達して初めて、バランスのとれた世界戦略が実現する。そういう意味で、東京市場での拡充は積極的に取り組んでいくつもりだ。投資銀行部門もセールス、トレーディングも、またM&A(企業の合併・買収)にも力を入れる。

    1987/12/22日経金融新聞p2「東京市場の拡充に意欲」

    イラスト:筆者作成

    地権者のその後

    再開発により、それぞれの住民の人生は大きく変化した。住民のうち80%が転出したため、アークヒルズに残った住民は約20%(56人)に過ぎなかった。資金を得て転出した住民の中には、念願のマイホームを購入した人や、悪い人に騙されて資金を失った人など、その後の人生は多様であったという。

    アークヒルズの住居について、森ビルは分譲ではなく賃貸方式で提供。最初の入居者の50%が外国人で、外資企業に勤務する人が多かったという。他には、社宅としても利用された。分譲にしなかった理由は、事務所利用が多くなり、住環境が悪化することが予想されたためであった。

    具体的な賃貸料は、1R(40m2)が約29万円/月、1LDK(60m2)で約50万円/月であった。賃貸料のほかに敷金6ヶ月を必須としたため、1986年に文藝春秋は「憧れの港区民になるためには、本当にお金がかかる」[1986/6/12文藝春秋]と描写した。賃貸料が高額な理由は、部屋の設備(電話など)が完備されており、ハウスキーピングサービスを含んでいたためである。

    森ビルはアークヒルズに居住する地権者に対し、住居の提供とともに、新規にアークヒルズに転入する住人の家賃およびオフィステナント料の一部を支給するなど、様々な金銭的なオプションをつけた。この結果、地権者の一部は自らの商売を廃業し、森ビルからの収入で生活できるようになったという。

    ある地権者(1986)

    (筆者注:肉屋を経営。再開発後はアークヒルズの一角に出店)

    残った人にはマンションの部屋の他に事務所のテナント料の権利をもらった人が多く、私などそれで月40万円近い収入がありますからね。まあ、生活は楽ですよ。そんなわけで店をやっている人の中で商売をやめる人がかなり出ましたね。それに商売を続けるにしてもやり方を変えなくてはならないでしょう。とにかく客層がガラリと変わり、勤め人ばかりですからね。しかも、そのうちの半分は外国人でしょう。私も揚げ物や惣菜類も続けるものの、店頭で扱う商品は輸入品のビンヅメやカンヅメにして、店のイメージアップを図っているんです

    1986/6週刊新潮『入らなければ「時代遅れ」と脅す六本木「アークヒルズ」』

    森ビルのその後

    アークヒルズでの再開発の経験を踏まえ、1986年に森ビルはテレビ朝日所有地(六本木六丁目)周辺の再開発を決断。2003年に森ビルは再開発地区を「六本木ヒルズ」として完成させた。

    また、1991年にForbesは世界一の富豪として森泰吉郎を選出した。だが、1993年に森泰吉郎は心不全が原因で88歳で逝去した。

    森泰吉郎(1991)

    アークヒルズを境に、森ビルという企業が大きく変わった。脱皮した。そう思っている。四十年代に森ビルは森の家業という存在から企業になった。今は一私企業から、本当の都市作りのための社会的な存在になったと考えている。...(中略)...森ビルは都市化づくりの総指揮者を目指す。これが僕の願いだ。非礼で至らない自分は多くの方々に助けていただいてきた。お礼を申し上げて筆を置きたい。

    1991/11/30日経新聞朝刊p36「私の履歴書・森ビル社長森泰吉郎」


    参考文献

    1925/1/26読売新聞朝刊p2「乗れぬ省電・郊外の勤人は激増する一方で朝夕は死に物狂い」

    1958/2/5読売新聞朝刊p5「定員にたりない幼稚園・原因は減りゆく人口・中央区まだ三百人もあいてます」

    1968/04/12読売新聞夕刊p10「超高層時代スタート」

    1963/6/18読売新聞夕刊p5「超高層ビル時代へ」

    1968/5/20ダイヤモンド「マンモス"霞ヶ関ビル"に挑戦する"森ビル"の秘密」

    1971/5/03日経ビジネス「赤坂に再開発のオノふるう」

    1973/3/25読売新聞朝刊p21「都心の過疎化・泣きっ面・銭湯、商店総倒れ」

    1973/4/18読売新聞「だれのための再開発・赤坂」

    1974/4/26読売新聞朝刊p25「ある再開発・国内最大の民間主導型」

    1978/3公益財団法人日本国際医学協会誌「感想:超高層に想う」

    1986/6週刊新潮『入らなければ「時代遅れ」と脅す六本木「アークヒルズ」』

    1986/7/21日経新聞朝刊p44「仁義なき頭脳争奪戦」

    1991/5/27日経ビジネス「有訓無訓・森泰吉郎」

    港区「住民基本台帳」

    森稔「ヒルズ 挑戦する都市」


    事例一覧