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森ビル - 森泰吉郎

成長期 住民説得に10年 インベーダー森ビルは出て行け

イラスト:筆者作成(1990/9/10日経ビジネスを参考にした)

約10年の住民説得を経て、赤坂・六本木地区の再開発を完遂

  • 都心の過疎化
  • 1960年代の東京都心部(中央区・港区・千代田区)では、主要幹線道路の各幅工事による立ち退きや、都電廃止による交通の便の悪化によって人口の流出が顕著となった。一方、同時期に世田谷区や多摩丘陵地区などの郊外に相次いでニュータウンが建設され、首都圏における人口の都心部から郊外へのシフトが顕著となった。

  • 赤坂・六本木地区の再開発
  • 1967年に森泰吉太郎(森ビル社長)は赤坂1丁目および六本木1丁目における大規模再開発を決断。だが、日本初の大規模再開発という前例のない大事業で、数百名におよぶ住民と地権者は突然の再開発計画に狼狽し「インベーダー森ビルは出てけ」というビラを配り再開発に反対した。それでも、森ビルは10年かけて住民との交流を深めて反対派の説得を完遂。1986年に森ビルは当該地区にアークヒルズを開業した。

  • 港区の大家へ
  • アークヒルズは東京に2つのインパクトを残した。一つは、同オフィスにゴールドマンサックスなどの外資金融が複数社入居したことで東京が金融の中心地として発展した点、もう一つは住居棟の併設によって都心部の人口現象に歯止めをかけた点である。アークヒルズは東京港区で職住近接という新しいライフスタイルが可能であることを実証し、2000年以降に本格化する都心回帰現象の先駆事例となった。アークヒルズの成功により森ビルは地権者と行政から信頼を獲得して「港区の大家」という地位を確保する。

    目次

  • 基本情報
  • 森ビル - 売上高推移

    東京都港区 - 人口推移


  • 東京都心部の人口減少
  • 1920年代 関東大震災による人口移動

    1950年代 首都圏整備法の制定

    1960年代 高層建築の実用化

    1960年代 都市再開発基本法の制定


  • 森泰吉郎の半生
  • 1950年代 経済学者と不動産の兼業

    1960年代 不動産事業に特化


  • 東京初の大規模再開発
  • 1. 赤坂・六本木の土地買収を開始

    2. 10年かけて住民を説得

    3. テナント誘致

    4. 地権者への補償


  • 港区の大家へ
  • 1980年代 世界一の富豪へ


    森ビル - 基本情報

    売上高 - 過去推移

    単位:億円

    出所:各種報道資料(75.12は推測)


    東京都港区 - 総人口推移

    単位:万人

    出所:港区「住民基本台帳」


    東京都心部の人口減少

  • 1923年 関東大震災の勃発
  • 1924年 東京市電の利用がピークアウト
  • 1927年 東急東横線の開通(渋谷〜神奈川直通)
  • 1956年 首都圏整備法の制定
  • 1958年 都心部の子供人口が減少
  • 1962年 主要道路の拡幅工事を開始(都心部立退き相次ぐ)
  • 1963年 建築基準法の改正(31m規制の撤廃)
  • 1968年 霞が関ビルの竣工(三井不動産)
  • 1969年 政府が都市再開発法を制定
  • 1971年 東京都が再開発適地調査を実施
  • 1973年 ドーナツ化減少が社会問題に
  • 関東大震災による人口移動

    江戸時代から明治時代にかけて、主な交通手段は「水運」であった。このため、東京では日本橋・両国・浅草・秋葉原といった河川や運河を利用できる下町に人口が集中した。商業の中心は東京の隅田川周辺であり、ウォーターフロントにおける職住近接が東京の一般的なライフスタイルであった。

    だが、1923年に発生した関東大震災が東京に住む人々のライフスタイルを変えた。関東大震災によって隅田川周辺の東京の主な町は廃墟と化し、ある人は東京を見捨てて関西へ、ある人は被害が少なかった東京の西側の郊外に移住する。この結果、1920年代以降に東京では西側の中心地である渋谷、新宿、池袋の3都市が繁華街として発展した。

    イラスト:筆者作成

    人々の郊外への移住を促した移動手段が「電車」である。すでに明治時代に鉄道は存在したが、当時は蒸気機関車を用いた遠距離輸送が主体であり、日常的な近距離輸送には適していなかった。だが、1920年代に普及した電車は近距離の大量輸送が容易であり、人々の日常の足として定着。"通勤"や"サラリーマン"という現代語も大正時代に定着する。

    時事新報(1925年)

    こうして今や東京は大震災を境にして水面に落ちた油のように末広がりに郊外に向ってふくらんで行きつつある。言葉通り大東京である。こうした郊外の大発展に伴って都会生活者の生活様式に大きな変化が来た。変化とは何かと云えばオフィスは都会に、住宅は郊外にと云う傾向である...(中略)

    ...(中略)...人群れて電車敷かれ、電車敷かれて人更に群る、原因と結果と相順環して近年の郊外電車は正に言葉通り電車の全盛時代を画している。

    1925/12/1時事新報「都会から郊外へ」

    首都圏整備法の制定

    日本経済が高度経済成長に差し掛かった1950年代の時点でも、東京の郊外人口が増え続ける傾向は止まらなかった。1956年に東京都は首都圏整備委員会を設け、東京圏の"無秩序な”開発をストップさせようとするが効果に乏しく、杉並区、世田谷区、練馬区の各地では住宅の建設ラッシュとなった。

    一方、1960年代には東京都心部である千代田区・港区・中央区で総人口がピークアウトした。人口が増大する郊外とは正反対に、都心部では人口の減少局面に突入し、東京都港区の場合、1990年代後半に総人口が底打ちするまで、約半世紀にわたって人口減少の局面が続いた。1960年代からは小学校の廃校、個人商店や銭湯の廃業が相次ぎ、ドーナツ化現象として社会問題となった。

    また、都心部では従来の移動手段であった都電(路面電車)が自動車交通を妨害しているとして、1968年までに全面的な撤去が進んだ。このため、東京都心部で地下鉄交通が発達しない地域(麻布十番、六本木一丁目)では交通手段がバスに限定され、多くの商店が将来を悲観して廃業を決断した。

    読売新聞「都心の過疎化・泣きっ面」(1973)

    区部の小学校で一斉に卒業式が行われたが、シーズンのたびにあらためて驚かされるのが、都心部の児童生徒の激減ぶり。卒業生が20、30人という小学校は珍しくなく、村の分教場並みに十数人という学校も出ている。原因はドーナツ化現象による周辺部への人口流出だが、この影響は卒業生の数ではなく、生活面にも現われ、生鮮食品などの小売店で廃業するところが続出、威勢が良いことで知られている神田っ子も"これも時代の趨勢でしょうかねぇ・・・"と元気がない

    1973/03/25読売新聞朝刊p21「都心の過疎化・泣きっ面」

    高層建築の実用化

    1960年代に日本では電子計算機が普及し、建築における構造計算の聖地かが進んだ。この結果、武藤清教授(東京大学)は地震大国の日本でも「柔構造」を採用することで高層建築が可能であると証明し、1962年に日本建築学会も従来の剛構造(低層建築)ではなく柔構造の有効性を認め、日本政府に対して建築基準法の改正を求めた。

    1963年に日本政府は建築基準法の改正を実施し、従来の高さ規制(31m)を撤廃することで日本にも高層建築の時代が到来した。この時、三菱地所はオフィス需要の観点から高層化に難儀を示したものの、三井不動産は積極的な高層化を志向し、業界内でも対応が割れた。

    1968年に三井不動産は鹿島とともに日本初の超高層ビル「霞が関ビル」を竣工。霞が関ビルは三井グループや外資企業などのテナントを順調に集めることに成功し、超高層オフィスビルが日本でも通用することを証明した。

    1968年の霞が関ビルの開業を機に、日本にも超高層ビルの時代が到来。東京都心部の立体的な開発が可能となり、各種メディアは「超高層時代スタート」[1968/4/12読売新聞]と注目した。

    読売新聞(1968年)

    延べ面積は丸ビルの3倍(中略)定住人口1.5万人、外来者を合わせると”昼間人口”が5万人にも達し、一つのビルというよりもいわば立体的な”新しい町”の誕生ともいえるわけ。へん平な東京の都市空間に、超高層時代の訪れをつげた第1号である

    1968/04/12読売新聞夕刊p10「超高層時代スタート」

    都市再開発基本法の制定

    1969年に日本政府は「都市再開発基本法」を制定し、都心部における再開発を積極化する方針を決断した。東京の都心部では住民の郊外流出が続いており、ドーナツ化に歯止めをかけるために都心部の再開発を促進する立法を行った。この法律により、「再開発」という言葉が日本に定着する。

    都市再開発基本法における重要な論点は、再開発に当たって地権者の2/3の賛同が得られれば、残りの1/3の地権者は「再開発反対」だとしても権利変換を行う必要があると定めた点である。これは再開発を進める上で、非常に強力な推進材料となった。

    ただし、現実問題として「反対派」がいる中での再開発は困難であった。このため、実質的にはできる限りの地権者が賛成に回らなければ再開発は進めることができず、再開発に当たっては既存地権者への説得が最重要課題となる。

    森泰吉郎(森ビル社長、1984年)

    つまり、私権をある程度制限することが出来るということですね。ご承知のように、再開発というのはそこの住民が土地を提供して、その上に建物を建てて土地を建物に権利変換して街をよくしようということですね。つまり、そこの住民の3分の2が賛成ならば、残った人も同様に権利の変換に応じなければならないという、当時としては非常に厳しい内容が含まれているわけなんです。

    1984/10財界『「ビルづくり」から「街づくり」に飛躍する森ビル』


    森泰吉太郎の半生

    森泰吉太郎 森ビル社長

    森ビルの実質創業者・森泰吉郎。先代が虎ノ門と新橋に土地を所有していたことを活用し、1950〜1960年代に同地区に大量のビルを建設することで森ビルを株式会社として発展させた。元経済学者という異色の経歴の不動産業者として注目を浴びた

    イラスト:筆者作成

  • 1994年 東京生まれ
  • 1928年 東京商科大学を卒業(一橋大)
  • 1928年 関東学院高商部講師
  • 1949年 横浜市立大学教授
  • 1954年 横浜市立大学商学部長
  • 1957年 ビル事業の本格化を決意
  • 1959年 森ビル株式会社の設立・同社社長就任
  • 経済学者と不動産業の兼業

    1904年に森泰吉郎は東京虎ノ門の米屋に生まれた。生家は虎ノ門界隈で米屋と貸し家業を営んでおり森家の生活は比較的裕福であった。父は大家として入居する人の面倒を見る人情派で、夫婦喧嘩の仲裁、就職、結婚の世話までしていたという。だが、1923年の関東大震災では100戸の貸家がほぼ全て焼けたため、この経験から森泰吉郎は木造建築の不燃化を望むようになった。

    森泰吉郎は恵まれた環境で育ち、東京商科大学(一橋大)の卒業後、関東学院大学高商部、大倉高商の講師を経て、1932年に京都高等蚕糸学校(京都工芸繊維大学)の教授に就任。主に繊維産業の歴史を紐解く経済学者としてのキャリアを歩んでいた。終戦直後の1949年には横浜市立大学の教授に転じている。

    学者の道を進む一方、森は家業である不動産業にも携わった。1945年の終戦直後に森は「貸しビルの需要が増える」[1986/9/1日経ビジネス]と判断し、積極的に銀座や虎ノ門界隈の土地を取得。繊維相場(人絹)や株によって獲得した利益金を用いて、抵当流れの土地を積極的に買収した。インフレが猛烈に進行する直前に土地を仕入れることに成功し、相対的に安い価格で土地を仕入れることができた。当時は土地暴落論も叫ばれるなか、結果として森は虎ノ門の土地を安く仕入れることに成功し、のちの森ビルの発展の布石となった。

    だが、1959年に森泰吉郎(55歳)は横浜市立大学の学長選挙に担ぎ出されて立候補するものの、対立候補からの攻撃を受けて敗退。この経験により森は学者の廃業を決断し、家業である不動産(森ビル)に特化することを決意した。

    森泰吉郎(森ビル社長、1984年)

    僕は教師の時から、不動産が本業でね、素人だったわけじゃないですよ。僕は「門前の小僧、習わぬ経を読む」のうちでして、大震災後の貸家の再建でも、親父を手伝いました。終戦後も、横浜の学校に教えに行ってましたが、それも週のうち2〜3日だけで、あとは焼け跡の整理やビル建設に相当力を入れてきたんです。ビルへの転換は、震災後から親父に主張してきたことで、昔からの考えです。

    1984/6/25日経ビジネス「利潤は追わずともついてくる・森泰吉郎氏」

    不動産事業に特化

    1956年に虎ノ門界隈の地価が上昇したことを受け、森泰吉郎はビル事業の本格化を決断し、土地を売却するのではなく第一森ビルを西新橋に新設して不動産事業に参入した。建設資金は、保険会社と銀行から借り入れることで捻出。また、ビル建設に適さない小さな土地を売却し、ビルに適した比較的大きい土地を虎ノ門近辺に確保して、土地のポートフォリオを徐々にビル建設に最適化した。

    (補足)第一森ビル(土地面積6600坪)の建設にあたり、森ビルは東銀座の所有地(200㎡)を協栄生命に2600万円で売却し、売買仲介役となった第一信託銀行から2500万円の融資を受けた。加えて森ビルの手持ち資金3000万円を加え、累計8100万円を準備し、第一森ビルの建設に着手。好況によりビル完成前から入居希望テナントの申し込みが殺到したため、テナントから保証金1.4億円を調達することに成功し、保証金を元手に次のビル建設を進めるスタイルで森ビルは急成長を遂げた。1968年の時点で森ビルの資本金7500万円に対し、借入金は58億円であり、積極的な借入れによるビル経営のスタイルは、森ビルの株式会社の設立時に定着している。

    1959年に森は学者から不動産業への本格的な転身のために、個人経営の森事務所を、森ビル株式会社に改めた。1956年から1966年までの約10年間に森ビルは虎ノ門地区に集中的に森ビルを11〜12棟建設。これらのビルは第〜森ビルと命名し、霞ヶ関に近い立地条件を生かして、主に政府系団体(NHK、日本道路公団、特許庁、石炭合理化事業団、年金福祉事業団など)の誘致に成功する。

    (補足)1957年には一橋大の先輩にあたる坪内氏(のちの三井不動産社長)に不動産のノウハウを尋ねた。だが、森はビル経営の素人であったため、三菱地所や三井不動産の契約書を借り、文面をつぎはぎしながら自社の契約書を作成したという。

    森泰吉太郎 森ビル社長

    イラストは筆者作成(1977/6/25ダイヤモンドを参考にした)

    また、森ビルは一貫して虎ノ門地区への集中投資を実施。この理由について、森泰吉郎は「学者はとかく慎重派が多いが、自分も臆病なほど慎重。これまで、虎ノ門から一歩も外へ出なかったのも、よその土地へ投資するのがこわかったからだ。虎ノ門なら自分の庭のようなもので、採算がとれるか、前もって正確に計算できる」[1971/5/3日経ビジネス]と語っている。

    虎ノ門への集中投資により、森ビルは戦後急成長を遂げた不動産業者として頭角を現した。1968年頃の業界内では「田村町から、虎ノ門一帯は、森ビルさんによって変えられた」[1968/5/20ダイヤモンド]と言われ、森ビルの成長性はソニー、ホンダに匹敵すると評価された。

    森ビル 売上高 - 過去推移

    単位:億円

    出所:1968/5/20ダイヤモンド(1960年までの数値)、1971/5/3日経ビジネス(1961年以降の数値)


    森泰吉郎(森ビル社長、1968年)

    (筆者注:他地区への進出は)正直にいってない。虎ノ門は、私の生まれ故郷であり、出身地である。わたしのビル経営が成功したのも、一つには、わたしが地元出身者であったこと、そのために、土地の買収なども、比較的スムーズにいったからだ。といったことから、この虎ノ門で成功したからといって、そのまま他地区で成功するとは限らない。

    それに、わたくしとしては、虎ノ門をよりよくする、つまり東京における一流ビジネスセンターにすることが念願だ。なにもいま、あえて冒険をおかしてまで、他地区に進出する必要はない。

    1968/5/20ダイヤモンド


    東京初の大規模再開発

  • 1972年 森ビルが地権者への説得を開始
  • 1973年 反対派住民の説得に難渋
  • 1978年 再開発準備組合設立
  • 1982年 再開発事業認可
  • 1983年 権利変換計画認可
  • 1983年 アークヒルズ着工
  • 1. 土地買収の開始

    1968年の三井不動産による霞ヶ関ビルの竣工は、虎ノ門と西新橋を地盤とする不動産会社・森ビルに大きな影響を与えた。森泰吉郎(森ビル・社長)は、従来の主流であった「鉛筆ビル」と呼ばれるオフィスビルを点々と建てるのではなく、高層オフィスと高層マンションが同居した職住一体の街を面で作り上げる「まちづくり」を決意した。

    1967年に森ビルは赤坂地区に存在した高島湯の土地を買収。高島屋の主人は六本木通りの道路拡張工事を受けて、銭湯の廃業と土地の売却を決断した。森ビルは高島湯跡地の買収を皮切りに、故郷の虎ノ門の隣町である、赤坂・六本木地区の土地買収を本格化する。

    森泰吉太郎 森ビル社長

    イラスト:筆者作成

    森泰吉郎(森ビル社長、1984年)

    赤坂・六本木の再開発の計画が持ち上がった。このときの私の気持は、ちょっと大ゲサな言い方になるかもしれませんが、正直いって、ここは自分の一生の勝負どころだ。これまでの自分の人生の総決算であり、これからの会社の将来の布石だ。これこそ目標であり理想であると、えらく気負ったというか、遠大な気分になりましたね。

    出所:1984/10財界『「ビルづくり」から「街づくり」に飛躍する森ビル』

    2. 10年かけて住民を説得

    1971年に東京都は六本木・赤坂地区の再開発調査を実施。これを受けて、森ビルは民間企業として再開発を主導することとなり、赤坂・六本木地区の地権者への説得を本格的に開始した。計画の遂行途中に森ビルの経営が行き詰まった場合は、東京都が代わりに再開発を遂行する取り決めがあったという。

    だが、数百名に及ぶ地権者(および住民)の多くが森ビルの再開発に反対した。マスメディアも、森ビルの開発を「住民無視な横暴な行為」と報道。森ビルと東京都は都心部再開発の先例として赤坂・六本木地区の再開発を望んだが、遅々と進まなかった。

    住民が森ビルの再開発に反対した理由は、普段の生活が変わることに加え、相続税の問題、再開発後に地価が上昇する確証がない事、地区内のお屋敷街vs谷町の住民対立(お屋敷の住民は、崖下の商店街の住民と一緒に暮らしたくないという感情を持っていた)、そして再開発の前例が日本に存在しなかったためである。

    1970年代を通じて森ビルは時間をかけて住民を説得する道を選択。森ビル社員が開発によって空き家となった家に住み込み、社員がそろばん教室や合気道教室を開いて住民との交流を深めるなど、数年という時間をかけて住民と話し合いを進めていく。

    (補足)森ビルの説得により、若い地権者を中心に"街が発展しなければ商売もうまくいかない"という機運が醸成され、地権者も徐々に理解を示した。1970年代後半には地権者の2/3以上の住民が再開発に賛成したが、それでも最後まで再開発に反対する地権者がおり、森泰吉郎は頭を悩ませた。この頃になると、住民の間でも再開発賛成派と反対派が対立し、町会長と副町会長との間で平手打ちの喧嘩が発生するなど、森ビルvs住民という対立構造から、賛成派住民vs反対派住民という複雑な対立構造が問題となった。

    様々な利害関係、人間ドラマが錯綜する中、1979年に反対派の大物・K氏(600坪を所有)が森ビルの再開発に賛同。これをもって、森ビルは地権者の説得を完了した。

    森泰吉郎(1974)

    赤坂という貴重な都心部がいまは、実際に利用できる空間の四分の一しか使われていません。もしわたしの社が持っている土地だけにビルを建てることになれば、周辺の環境はさらに悪くなる。私もこの土地に生まれた一人です。古い歴史を持つ町のコミュニティーをこわさず環境を改善するには、地元のみなさんと共同で再開発するのが最良の方法だと思う

    ある主婦(1974)

    うちは戦前からの借家ですけど、いまの生活にこれといった不満はないんですよ。でも知らないうちに土地も建物も森ビルに売られていた。私たちにはむずかしくてわからない再開発が、いまどんどん進められていくみたいでどうしていいかわからない気持ちです

    1974/4/26読売新聞朝刊p25「ある再開発・国内最大の民間主導型」


    読売新聞(1973)

    赤坂霊南坂地区再開発反対委員会など地元の団体は地元無視のやり方はもうまっぴら−--として「押しつけ再開発粉砕 住民本位の街づくりを」などと印刷したビラを各戸に配るとともに地区説明会を開く場合はこれをボイコットし、基本計画が郵送された時は見ないで送り返すことを申し合わせた。このため都心では最大の再開発である同地区の街づくりは再び暗礁に乗り上げそうな形勢となっている。

    出所:1973/4/18読売新聞「だれのための再開発・赤坂」

    3. テナント誘致

    住民の説得完了後に、森ビルは具体的な建設計画に着手。オフィス、ホテル、住居、芸術ホールを有した職住近接の新しい町づくりを実施した。再開発の名称は、赤坂一丁目(AKASAKA)、六本木一丁目(ROPPONGI)、その接点(KNOT)に位置することから、「アークヒルズ(ARK Hills)」と命名した。

    再開発に目処つけ、森ビルはオフィスビルに入居するテナントの誘致を開始。当初は日本企業を誘致する計画であったが、1980年代には外資企業の日本進出が相次いだこともあり、森ビルは外資系の誘致を主眼に置いてテナントを選定。森ビルはバンク・オブ・アメリカに対して営業攻勢をかけて、入居を確定させた。

    バンク・オフ・アメリカの入居決定以降、日本IBM、ゴールドマンサックス、ソロモンブラザーズといった金融機関を中心に外資系がアークヒルズへの入居を決断。特に、ゴールドマンサックスは将来の陣容の拡大を見据えて広めのオフィスを確保し、1986年に東京支店にてM&A部門を新設している。

    1986年に森ビルはアークヒルズをオフィステナントを開業。入居企業は日本IBM、ドイツ銀行、シティコープ、バンク・オブ・アメリカ、クレディ・スイス、ソロモンブラザーズ、ゴールドマンサックスなどの外資系金融機関が多かった。同時に、住居、ホテル(ANA)、ホール(サントリーホール)を開業し、職住近接の町として開業した。

    4. 地権者への補償

    再開発により、当該地区の住民の人生は大きく変化した。住民のうち80%が転出したため、アークヒルズに残った住民は約20%(56人)に過ぎなかった。資金を得て転出した住民の中には、念願のマイホームを購入した人や、悪い人に騙されて資金を失った人など、その後の人生は多様であったという。

    森ビルはアークヒルズの住居部分(地権者入居を除く)について、森ビルは分譲ではなく賃貸方式で提供。最初の入居者の50%が外国人で、外資企業に勤務する人が多かったという。他には、社宅としても利用された。分譲にしなかった理由は、事務所利用が多くなり、住環境が悪化することが予想されたためであった。

    (補足)具体的な賃貸料は、1R(40m2)が約29万円/月、1LDK(60m2)で約50万円/月であった。賃貸料のほかに敷金6ヶ月を必須としたため、1986年に文藝春秋は「憧れの港区民になるためには、本当にお金がかかる」[1986/6/12文藝春秋]と描写した。賃貸料が高額な理由は、部屋の設備(電話など)が完備されており、ハウスキーピングサービスを含んでいたためである。

    森ビルはアークヒルズに居住する地権者に対し、住居の提供とともに、新規にアークヒルズに転入する住人の家賃およびオフィステナント料の一部を支給するなど、様々な金銭的なオプションをつけた。この結果、地権者の一部は自らの商売を廃業し、森ビルからの収入で生活できるようになったという。


    港区の大家へ

  • 1985年 アークヒルズ開業
  • 1991年 森泰吉郎が世界一の資産家に
  • 1993年 森泰吉郎が逝去
  • 森泰吉郎が88歳にて逝去

    森ビルのアークヒルズの開業により、テナント難に悩まされてきた外資金融企業が日本に根付く一つのきっかけとなった。1991年にForbesは世界一の富豪として森泰吉郎を選出。その直後、1993年に森泰吉郎は心不全により88歳で逝去し、2000年以降の東京都心部の大発展を見ることなく亡くなった。

    森泰吉郎(森ビル社長、1991)

    アークヒルズを境に、森ビルという企業が大きく変わった。脱皮した。そう思っている。四十年代に森ビルは森の家業という存在から企業になった。今は一私企業から、本当の都市作りのための社会的な存在になったと考えている。...(中略)...森ビルは都市化づくりの総指揮者を目指す。これが僕の願いだ。非礼で至らない自分は多くの方々に助けていただいてきた。お礼を申し上げて筆を置きたい。

    1991/11/30日経新聞朝刊p36「私の履歴書・森ビル社長森泰吉郎」/p>

    職住近接スタイルの定着

    アークヒルズの開業により、赤坂・六本木という港区の都心部に職住近接という新しい生活スタイルが定着した。森ビルの再開発は21世紀初頭の東京の再開発のさきがけとなった。

    森ビルはアークヒルズの成功を受けて、港区内における再開発による職住近接のまちづくりを積極化した。1990年代以降は、六本木六丁目(六本木ヒルズ)や愛宕(愛宕グリーンヒルズ)でもアークヒルズと同様に職住近接の再開発を実施し、森ビルは港区の大家と呼ばれる地位を確保した。

    *1993年以降の森ビルについては、別途記述予定。


    参考文献

    新聞・雑誌記事

    1925/1/26読売新聞朝刊p2「乗れぬ省電・郊外の勤人は激増する一方で朝夕は死に物狂い」

    1958/2/5読売新聞朝刊p5「定員にたりない幼稚園・原因は減りゆく人口・中央区まだ三百人もあいてます」

    1968/04/12読売新聞夕刊p10「超高層時代スタート」

    1963/6/18読売新聞夕刊p5「超高層ビル時代へ」

    1968/5/20ダイヤモンド「マンモス"霞ヶ関ビル"に挑戦する"森ビル"の秘密」

    1971/5/03日経ビジネス「赤坂に再開発のオノふるう」

    1973/3/25読売新聞朝刊p21「都心の過疎化・泣きっ面・銭湯、商店総倒れ」

    1973/4/18読売新聞「だれのための再開発・赤坂」

    1974/4/26読売新聞朝刊p25「ある再開発・国内最大の民間主導型」

    1977/6/25ダイヤモンド「不況知らず"貸しビル3位"森ビルの秘密」

    1978/3公益財団法人日本国際医学協会誌「感想:超高層に想う」

    1986/6週刊新潮『入らなければ「時代遅れ」と脅す六本木「アークヒルズ」』

    1986/7/21日経新聞朝刊p44「仁義なき頭脳争奪戦」

    1991/5/27日経ビジネス「有訓無訓・森泰吉郎」

    書籍・その他

    港区「住民基本台帳」

    森稔「ヒルズ 挑戦する都市」


    事例一覧