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住友石炭鑛業 - 石松正鉄

経営者の決断 衰退期 設備投資 安楽死業界

北海道の石炭業を支えた輸送網としての鉄道路線。石狩炭田の周辺には数多くの炭鉱が存在し、鉄道が通じていた。イラストは筆者作成

衰退産業と心中した名門企業

  • 石油輸入自由化〜石炭の斜陽化
  • 1960年代に石油の輸入自由化が決まり、石炭の代替品としての安い石油が国内に普及。日本の石炭業の行き詰まりが必至となった。だが、石炭業に従事する鉱夫の再就職は極めて難しく、石炭各社は雇用問題がネックとなり、容易に石炭業から撤退することができなかった。

  • 優良炭鉱に集中投資
  • 住友石炭鑛業は北海道内に高品位の原料炭を産出する炭鉱を所有してたことから、1960年代を通じて脱石炭(多角化)ではなく、原料炭を中心とした石炭業に集中投資する方針を決めた。ます、採算性の悪い九州の炭鉱を相次いで閉鎖し、続いて北海道の原料炭を産出する赤平に最新鋭の立坑を設置。高品位の原料炭を住友金属工業、新日本製鉄、川崎製鉄などの高炉メーカーに販売することで、企業の存続を図る。

  • 経営危機〜債務超過
  • 1971年にニクソンショックが起こり、国内の石炭業の国際競争力が喪失し、国内原料炭も同様に下火となった。さらに、製鉄業の技術革新により高炉に高品位の原料炭を用いる必要性が低下したため、住友石炭鑛業の経営は行き詰まる。1969年から1977年にかけて住友石炭鑛業は9期連続の債務超過に転落。1960年に1万名を超えた従業員数は、1980年度までに390名へと激減した。

    目次

  • 住友石炭鑛業 - 基本情報
  • 売上高 - 過去推移

    売上構成比 - 過去推移

    売上高純利益率 - 過去推移

    従業員数 - 過去推移


  • 住友石炭鑛業の歴史
  • 1890年代 石炭採掘に参入

    1910年代 北海道への進出

    1940年代 財閥解体〜住友石炭鑛業の発足


  • 石油の輸入自由化
  • 1950年代 石炭業の盛衰

    1960年代 石油の輸入自由化


  • 優良炭鉱に集中投資
  • 1950年代 九州など不採算炭鉱の閉鎖

    1960年代 北海道3炭鉱に集中投資


  • 債務超過〜赤平閉山
  • 1970年代 9年連続債務超過

    1990年代 赤平鉱一山体制の頓挫


    住友石炭鑛業 - 基本情報

    売上高 - 過去推移

    単位:億円

    出所:有価証券報告書、会社四季報。決算期変更のため1965年度は1964年12期を掲載


    売上構成比 - 過去推移

    単位:%

    出所:会社四季報。1960年以前の構成比は不明


    売上高営業利益率 - 過去推移

    単位:%

    出所:会社四季報

    注:1966年以降は3期決算


    従業員数 - 過去推移

    単位:名

    出所:会社四季報


    住友石炭鑛業の歴史

  • 1893年 九州で石炭採掘に参入
  • 1924年 北海道で石炭採掘に参入
  • 1950年 住友石炭鑛業の発足(財閥解体)
  • 石炭鉱業に参入

    明治時代に西洋から排水ポンプなどの新技術が導入され、日本各地で炭鉱の開発が相次いだ。石炭は木材に変わる燃料として重宝され、製鉄原料としても重要なため、日本の近代化に欠かせない資源であった。炭田が集中する九州と北海道では、石炭ブームにあわせて地元資本ないし財閥資本による炭鉱開発競争が起こり、各社とも石炭事業に参入した。

    石炭業の勃興を受け、住友家も炭田の取得に乗り出す。住友の祖業は別子銅山における銅の採掘であり、別子銅山向けの銅鉱石の精錬に用いる良質なコークスを確保するために石炭業に参入した。石炭も銅と同じく地中を採掘するため、技術面でも相乗効果が期待された。

    1893年に住友は九州地方の庄司炭鉱(福岡県・1903年休止)を取得し、続いて1884年には忠隈炭鉱(福岡県)を取得することで石炭業に乗り出した。まずは、忠隈炭鉱において石炭業の技術力を構築し、大正時代以降に日本各地の炭鉱を取得して業容を拡大。1917年から1928年までに九州地方において5つの炭鉱を取得した。

    北海道への参入〜財閥解体

    1916年に住友総本店は石炭業の北海道進出を決め、空知炭田および唐松炭鉱を取得。さらに、北海道の地元資本"坂炭鉱"に資本参加し、1928年までに歌志内、新歌志内、奔別、上赤平、奈井江の5炭鉱を取得し、北海道における石炭業を本格化させ、住友は九州と北海道の2拠点体制を整えた。1930年代を通じて戦時経済下における石炭需要の拡大に合わせて業容を拡大する。

    戦前の住友の石炭事業は、住友財閥の1事業という位置付けであったが、1945年の終戦による財閥解体により住友の各事業は別会社として分離された。1950年に過度経済力集中排除法に基づき同グループの鉱業部門は、石炭専業の住友石炭鑛業、銅・ニッケルを主体とする住友金属鉱山に分割され、再スタートを切る。


    石油の輸入自由化

  • 1960年 政府が自由化大綱を発表
  • 1962年 石油の輸入自由化
  • 1963年 中小炭鉱の閉鎖が相次ぐ
  • 1967年 5年間で北海道で89の炭鉱が閉山
  • 石炭産業の盛衰

    1950年代の日本経済の発展において、石炭業は重要な役割を果たした。経済復興に欠かせない製鉄には石炭が必須で、日本政府は傾斜生産方式に基づいた石炭の大増産を実施した。このため、終戦直後の貧しい日本において、石炭業だけは栄えており、食糧に困っていた労働者が炭鉱に殺到したという。

    だが、1950年代を通じて石炭の枯渇、および代替燃料としての石油の需要が徐々に伸びつつあったことから、石炭各社は増産とともに合理化および多角化を志向する。1959年度の時点で、住友石炭鉱業は国内出炭量4位の主力企業であった。

    石炭主要8社 - 出炭量(1957年度)

    単位:1000トン

    出所:1960/7マネジメント「活路を多角化に求めて」

    マネジメント(1960年)

    需給の好転にもかかわらず、石炭産業の前途に対して、いぜんとして悲観的な見通しがたてられており、「斜陽産業から日没産業に変化した」という声を業界みずからも否定しえないほどだ。したがって、昭和38年度を目指して、生産性の向上とコスト引き下げに必死の努力が傾けられているいっぽう、有力な石炭企業各社は、プロパン、石油、観光事業などに積極的な進出を試みようとしている。

    出所:1960/7マネジメント「活路を多角化に求めて」

    石油輸入の自由化

    1960年に日本政府は貿易・為替の自由化の大方針を発表。当初、石油の輸入自由化の時期は未定であったが、1962年に日本政府は石油の輸入自由化を実施。石炭の代替品としての安い石油が国内に出回ったため、高コスト体質の国内石炭産業は行き詰まり、1963年度から1967年度にかけて北海道では89の炭鉱が閉山。道内だけで14,281名の離職者が発生した。

    日本政府は石炭各社に対して、スクラップ・アンド・ビルドによる経営再建を促すために多額の助成を行うが、根本的な解決には至らなかった。1963年頃から採算の悪い中小炭鉱の閉鎖が相次いだが、炭鉱の労働者は石炭以外の産業に従事することが難しい場合が多く、各社とも従業員の処遇に難渋する。

    自由化の実施については日経新聞の一面で大きく報じられた。時代を象徴する一面記事の一つ。

    出所:1960/6/24日経新聞夕刊p1「自由化計画の大綱決まる」

    日本政府(1960年)

    エネルギー価格の国際水準へのさや寄せは、自由化による大きな利点である。石油については、自由化に即した業界体制の整備を図りつつ近い将来の自由化を考えてよい状態にあるが、現在、石炭の合理化計画を進めつつあり、石炭の雇用問題を斬進的に解決する必要もあるので、石炭および石油の自由化実施時期については、慎重な配慮が必要である

    出所:1960/6/24日経新聞夕刊「自由化計画の大綱決まる」


    優良炭鉱に集中投資

  • 1953年 スクラップ・アンド・ビルドの推進
  • 1963年 11年間で6炭鉱を閉鎖
  • 1963年 赤平砿に立坑を新設
  • 1969年 石油などの付帯事業を分離
  • 北海道3炭鉱に集中

    住友石炭鑛業では、石松正鉄(1957年より同社社長に就任)が率先し、業界内でも比較的早い1950年の代初頭から「スクラップ・アンド・ビルド」を志向。老朽化した炭鉱の閉鎖と、高品位の石炭を産出する炭鉱への投資を実施した。1952年から1963年までの11年間に、住友石炭鑛業は九州で4炭鉱(芳野浦、唐津、潜滝、忠隈)、北海道で2炭鉱(弥生、奈井江)を閉鎖し、採算を改善する。

    他方、住友石炭鑛業は、北海道の3炭鉱(赤平・奔別・歌志内)に近代化投資を実施。赤平と奔別には多索巻上方式による立坑、歌志内ではベルト斜坑を新設することで、優良炭鉱に資源を集中させた。特に、赤平は高品位の原料炭を産出する国内屈指の優良炭鉱であった。原料炭の顧客は住友金属工業、新日本製鉄、川崎製鉄、東京ガス、大阪ガスであり、一般炭は北海道電力に販売し、需要は安定していた。

    赤平は石狩炭田の北端に位置した。イラストは筆者作成

    (補足)赤平の立坑は地下650mの現場に従業員を送り、石炭の引き上げにも利用される巨大なエレベータであり、同炭鉱のシンボルであった。一度の輸送人員は72名。1972年度時点で赤平の出炭量は162万トン、高品位原料炭は全量の70%を閉めた。従業員数は2759名、うち鉱夫2203名。当時、赤平は"わが国屈指の原料炭産出炭鉱"と言われた。

    住友石炭鑛業は業界内でも早い時期に合理化を推進し、九州から北海道への事業転換を成功させたことで注目を集めた。だが、合理化を推進した同社の石松社長はリストラにおける従業員との交渉で、非常に苦労したという。

    石松正鉄(1963年)

    わたしはなんといわれてもスクラップ・アンド・ビルド(非能率鉱をつぶし、優良鉱を開発すること)はやるし、またやってきた(中略)

    わたしはいままで政府の施策を信じ、石炭合理化計画のトン当たり炭価1200円下げの努力をまっしぐらにやってきた。このためにはどれほどの従業員のクビを切り、家族を泣かせてきたか。キミにはこの苦しみはわかるまい。だが、われわれはあくまで企業の体質改善、単価の引き下げに努力しなければならない宿命を背負っている

    (筆者注:このコメントのあと、石松氏は腕を組み、静かに、厳しい表情で瞑想していたという)

    1963西日本新聞社「わたしの経営(すばやい撤退作戦・石松正鉄氏)」


    債務超過〜赤平閉山

  • 1969年 債務超過
  • 1971年 奔別/歌志内の閉山(4716名解雇)
  • 1971年 赤平鉱一山体制へ
  • 1977年 債務超過解消(子会社合併)
  • 1979年 赤平鉱事業を分社化
  • 1994年 赤平鉱の閉鎖
  • 2008年 上場廃止
  • 2008年 住石HDとして新規上場
  • 9年連続債務超過

    1960年代を通じた石油の普及による石炭価格の下落は止まらず、石炭業は「安楽死業界」と形容された。

    1969年に住友石炭鑛業は債務超過に陥り、上場廃止の危機に陥る。そこで、1971年に奔別および歌志内の2鉱山の閉山を決断して4716名を解雇し、赤平一山体制による経営再建を図った。赤平は製鉄向けの原料炭を算出する国内有数の炭鉱であり、競争力があることが期待されたが、1970年代を通じて業績は好転しなかった。

    (補足:1971年の閉山について)歌志内では1661名、奔別では3055名が解雇され、大量の離職者が発生した。解雇から5ヶ月後には求職者3459名のうち2150名が就職し、再就職者のうち988名が炭鉱復帰(うち赤平へは575名が移動)であった。再就職に苦労した従業員も多いと推察される。

    1969年から1977年にかけて、住友石炭鉱業は9年連続の債務超過となった。1977年に優良不動産を持つ子会社(住石開発)を吸収合併することで、債務超過を解消。だが、この手法に対して、業界内では「苦肉の策の最たる例」[1977/9実業往来]と揶揄する声が挙がり、住友石炭鑛業の債務超過について、住友グループ内では「住友の恥」という批判も存在したという。

    (解説)住石開発の土地の含み益は32億円で、本体への吸収合併により差益32億円を住友石炭鑛業の資本準備に繰り入れることで、債務超過23億円を解消し、株式上場を維持した。100%子会社の吸収による含み益の計上は、日本で初めて住友石炭鑛業が実施した。

    関係者(1977年)

    恐らく住友石炭鑛業は社長以下全員、赤平一山体制の信念は今でも変わっていないと思う。それだけ住友は石炭鑛業事業に他者に見られない程の執着と愛着をもっている企業だ。


    実業往来(1977年)

    住友石炭鑛業だけは、事業構成は創業以来と変わらず今なお100%の石炭会社。同社は自ら指摘していたごとく「ヤマにしがみついてきた。ヤマの人間はヤマ以外で食えるわけはない。ヤマで働き、ヤマで食っていける道をつくらなければならない」として、他社が子会社育成、経営多角化には走っているのを横目を見ながら、石炭の生産販売を昔同様強気一辺倒でやってきたのである。その結果、十一年連続無敗、9年連続債務超過である。

    1977/9実業往来「安楽死業界の中でみせた住友の維持」

    赤平鉱一山体制の頓挫

    1971年に住友石炭鑛業は赤平鉱一山体制としたものの、単価下落に伴う石炭業の衰退に抗うことはできず、1979年に同事業を住友石炭鑛業赤平炭鉱として分社化した。他方、企業の存続を図るため経営の多角化を志向し、不動産業、スーパーマーケット、人工ダイヤモンド(炭鉱の爆発技術を生かした製品開発)の各事業を立ち上げ、売上高を増大させた。

    しかし、多角事業によって石炭業の従業員を吸収することは困難であり、住友石炭鑛業の従業員数は1980年には390名(1960年度は約1万名いた)に激減した。

    1994年に住友石炭鑛業は赤平の閉山を決断し、同子会社を解散した。2008年に住友石炭鑛業は上場を廃止し、単独株式移転により住石ホールディングスを新規上場した。長年の業績不振により、新会社は"住友"の名を冠すことはできなかった。2010年代において同社を支える資産は、1988年に取得した豪州のWambo Mining社からの配当収入で、かろうじて企業存続に成功している。

    他方、住友金属鉱山は、1960年代の国内鉱山業の衰退という変化に対し、海外資源開発の推進というグローバル化で対応。2019年7月3日時点で住石HDの時価総額は住友金属鉱山の1/100以下であり、住友グループ内で明暗が分かれる形となった。


    2019年7月3日時点の時価総額

    住友金属鉱山:9137億円

    住友石炭鑛業:85億円(住石HD)


    参考文献

    新聞・雑誌記事

    1960/6/24日経新聞夕刊「自由化計画の大綱決まる」

    1960/7マネジメント「活路を多角化に求めて」

    書籍・その他

    1963西日本新聞社「わたしの経営(すばやい撤退作戦・石松正鉄氏)」

    1970東洋経済新報社「日本会社100年史」

    2013/12日本労働研究雑誌「石炭産業の収束過程における離職者支援」嶋﨑尚子

    会社四季報

    有価証券報告書


    事例一覧