決断社史TOP > 事例一覧

注:必ずお読みください

本サイトは、運営者が独自に収集した情報を取り纏めて掲載したもので、運営者の個人的なコメント・見解を述べたものです。本コンテンツの情報についても、その正確性、完全性及び適時性を保証するものではありません。これらの情報によって本サイト利用者に生じたいかなる損害について、本サイトの運営者は一切の責任を負いません。また、本サイトは投資勧誘を目的にしたものではありません。資産運用の際には利用者様の責任において最終的にご判断ください。


北海道炭礦汽船 - 萩原吉太郎

経営者の決断 衰退期 雇用維持 石炭は斜陽ではない

戦後の北海道炭礦汽船の経営を一手に担った政商"萩原吉太郎"。北炭を石炭中心の会社として存続させるために奔走した。イラストは筆者作成。

悲劇的な大投資

  • 北海道の鉱工業化を支えた北炭
  • 明治時代に政府から北海道の鉄道と炭鉱の払い下げを受けて設立された会社が北海道炭礦汽船である。明治初頭の石炭産出地は九州が中心であり道内の炭鉱の開発は進んでおらず、北炭は北海道における石炭採掘のパイオニアとしていち早く優良鉱区(夕張など)を抑えることで業容を拡大した。明治時代後期に北炭は、製鉄、兵器製造などの重工業分野に参入し、北海道経済を農業主体から鉱工業主体へと発展させた。

  • 石炭の斜陽化に優良炭鉱の新設で対処
  • 1962年に石油の輸入自由化が実施され、高コスト体質の国内石炭産業は行き詰まる。だが、萩原社長は石炭斜陽論を否定し、夕張や幌内で採掘される製鉄向けの原料炭による再起を試みた。1968年に北炭は政府補助金などを用いて夕張新炭鉱の新設を決断して228億円を投資。斜陽産業における積極投資として注目を集めた。

  • 夕張新炭鉱で大事故が発生し、会社更生法を申請
  • 夕張新炭鉱は、ガス噴出のおそれがある地下1000mで作業するため、鉱夫は爆発の危険と隣り合わせで、当初からガスによる事故が発生した。そして、1981年に大規模なメタンガス突出事故が発生し、二次災害を含めて93名が死亡。最新鋭の炭鉱での事故として日本中に衝撃を与えた。新炭鉱の頓挫により北炭の経営は行き詰まり、1995年に会社更生法を申請した。

    全盛期の1960年には2万人を超えた従業員数は、1990年までに20名へと1/1000に激減。また、北炭と三菱の企業城下町として発展した夕張市の人口も1960年の11万人超から2019年に約8000人へと減少し、2006年に夕張市も財政破綻している。

    目次

  • 北海道炭礦汽船 - 基本情報
  • 売上高 - 過去推移

    売上構成比 - 過去推移

    純利益率 - 過去推移

    従業員数 - 過去推移


  • 北海道炭礦汽船の歴史
  • 1890年代 北海道の鉱工業化を担う

    1910年代 三井グループの傘下へ

    1950年代 日本一の優良炭を産出


  • 石油輸入の自由化
  • 1960年代 国内石炭の競争力喪失

    1960年代 石炭産業の斜陽化


  • 優良炭鉱に集中投資
  • 1960年代 斜陽論を否定

    1960年代 老朽化炭礦の閉鎖

    1960年代 夕張新炭鉱の新設決定

    1970年代 夕張新炭鉱の稼働


  • 会社更生法を申請
  • 1980年代 夕張新炭鉱で爆発事故

    1990年代 退職金問題で労組と揉める

    1990年代 会社更生法の申請

    2000年代 夕張市が財政破綻


    北海道炭礦汽船 - 基本情報

    売上高 - 過去推移

    単位:億円

    出所:会社四季報


    売上構成比 - 過去推移

    単位:%

    出所:会社四季報.1955、1960、1980は推定


    売上高営業利益率 - 過去推移

    単位:%

    出所:会社四季報。1978年に上場廃止(店頭監理銘柄へ)


    従業員数 - 過去推移

    単位:名

    出所:会社四季報。FY1985は31名、FY1990は20名。


    北海道炭礦汽船の歴史

  • 1889年 北海道炭鉱鉄道会社設立
  • 1889年 政府より幌内炭山と付属鉄道を購入
  • 1890年 空知炭鉱と夕張炭鉱を開発
  • 1892年 室蘭〜岩見沢に鉄道を敷設(現室蘭本線)
  • 1906年 鉄道路線を日本政府に売却
  • 1906年 社名を北海道炭礦汽船に変更
  • 1906年 海運業に本格参入
  • 1907年 日本製鋼所の設立
  • 1908年 多角化の失敗により債務不履行へ
  • 1912年 夕張炭鉱で爆発事故(483名死亡)
  • 1912年 三井財閥の団琢磨が当社社長に就任
  • 1914年 夕張鉄道の設立
  • 1933年 室蘭電燈の設立
  • 1938年 北炭機械工業の設立
  • 北海道の鉱工業化を担う

    当社の創業は、1889年に道内の官営資産の払い下げを受けて「北海道炭鉱鉄道」を創業したことに始まる。北炭は幌内炭鉱と付随する鉄道を国から取得し、石炭採掘と石炭輸送の2つのビジネスからスタートさせた。初代社長の堀基は元北海道庁第二部長であり、酪農が主体だった北海道の鉱工業化を目論む。

    明治時代を通じて北炭は空知および夕張に炭鉱を新設し、石狩炭田における優良炭田での採掘を開始。さらに、石狩炭田で産出した石炭を大消費地である首都圏に販売するため、炭田から室蘭港に至る鉄道路線を自前で敷設した。石狩炭田周辺で産出された石炭は、北炭の鉄道網(総延長距離328km)によって室蘭港まで輸送されたため、北炭は炭鉱と鉄道業の両輪で発展した。

    だが、鉄道事業は1906年に国営化が決まったため日本政府に売却し、売却益で海運事業に参入。社名を北海道炭鉱鉄道から北海道炭礦汽船に改めて再出発を切る。

    北海道の石炭業を支えた輸送網としての鉄道路線。石狩炭田の周辺には数多くの炭鉱が存在し、鉄道が通じていた。イラストは筆者作成

    1910年代に入ると、従来の炭鉱の集積地であった九州における石炭の枯渇が顕在化し、新しい炭鉱のフロンティアとして北海道の石狩炭田が注目された。1910年代に三井、住友、三菱といった財閥企業が、地元企業の買収による北海道への参入を試みたため「炭業者は北海道へ」[1913/12/27時事新報]と評された。

    時事新報(1913年)

    九州に全力を注いで居た多数の有力なる炭業者は急に眼を西南の隅の九州から東北の隅の北海道に転じて近来は頻りに鉱区の買収やら炭田の調査などに全力を傾注し九州の外には目もあるまいと思わるる安川、貝島などまで北海道の炭田視察に出懸たとか財界の二大巨星三井三菱も北海道に於ける炭田の獲得に余力を揮って居るなどとの噂頻々として来り

    1913/12/27時事新報「四億噸の埋蔵量 将来重要の出炭地」

    三井グループの傘下へ

    鉄道業の売却益をもとに、北炭は重工業化を志向した。旗振り役となった井上角五郎(北炭・専務)は、英アームストロング社・ヴィカース社との合弁で日本製鋼所を設立して海軍向け兵器製造に参入し、続いて輪西製鉄所を設立して鉄鋼業に参入。さらに、石炭の販売は従来の委託方式から自社販売へと移行することで、石炭〜鉄鋼〜兵器製造という垂直統合を志向した。

    ところが、製鉄業と製造業への進出には多額の投資が必要で、北炭はこれら新事業への参入によって財政面で経営危機に陥る。経営の責任をとり、井上角五郎は辞職に追い込まれた。

    経営危機に陥った北炭に着目したのが三井財閥であった。三井物産と三井銀行と三井合資会社は北炭の株式を33%取得し、三井グループの傘下におさめる。また、1912年に三井本社から北炭の社長として団琢磨を送り込むことで経営権を確保し、北炭は実質的に三井グループとして再出発した。

    日本一の優良炭を産出

    三井グループとして戦前に北炭は業容を拡大。1945年の終戦直後に激しい労働争議に見舞われるが、1947年からは日本政府の傾斜生産方式に基づく石炭の大増産の波に乗り、北海道を代表する企業へと成長。1960年の北炭は従業員約24,000人を抱えた。

    1957年度の時点で、北炭の石炭産出量のシェアは国内3位(10.9%)であり、北海道内に限れば道内1位(22.8%)であった。また、北炭で産出される石炭の特徴は、製鉄およびガス会社向けの高品位の原料炭(全出炭量の22.9%)が多く、北海道内では突出した水準であり「日本一の優良炭を産出する」1950/03東邦経済と言われた。

    道内の石炭各社の出炭高 - 1957年度

    単位:1000トン

    出所:大場(2016)

    東邦経済(1950年)

    当社の所有鉱区の埋蔵量は17億トンを超え、日本石炭工業会調査による全国埋蔵炭量162億トンに対し、その1割強を占めているのである。しかも所有鉱区の大部分は全国でも有数の高カロリー、再優良のガス発生用炭、原料炭を産出し、埋蔵量も豊富な石狩炭田(埋蔵量60億トン)に属し、その主要部分を構成しているから、絶対に有利な条件に恵まれている

    1950/03東邦経済「躍進する北端の全貌」


    石油の輸入自由化

  • 1960年 政府が自由化大綱を発表
  • 1962年 石油の輸入自由化
  • 1963年 中小炭鉱の閉鎖が相次ぐ
  • 1967年 5年間で北海道で89の炭鉱が閉山
  • 国内石炭の競争力喪失

    1960年に日本政府は貿易・為替の自由化の大方針を発表。当初、石油の輸入自由化の時期は未定であったが、1962年に日本政府は石油の輸入自由化を実施。石炭の代替品としての安い石油が国内に出回ったため、高コスト体質の国内石炭産業は行き詰まった。

    また、相対的に安い輸入石炭が国内に流通し、原料炭を含めて国内の石炭は太刀打ちできなくなる。

    石炭価格(原料炭) - 過去推移

    単位:億円

    出所:大場(2016)

    日本政府(1960年)

    エネルギー価格の国際水準へのさや寄せは、自由化による大きな利点である。石油については、自由化に即した業界体制の整備を図りつつ近い将来の自由化を考えてよい状態にあるが、現在、石炭の合理化計画を進めつつあり、石炭の雇用問題を斬進的に解決する必要もあるので、石炭および石油の自由化実施時期については、慎重な配慮が必要である

    出所:1960/6/24日経新聞夕刊「自由化計画の大綱決まる」

    石炭産業の斜陽化

    1963年度から1967年度にかけて北海道では89の炭鉱が閉山。道内だけで14,281名の離職者が発生した。

    日本政府は石炭各社に対して、スクラップ・アンド・ビルドによる経営再建を促すために多額の助成を行うが、根本的な解決には至らなかった。1963年頃から採算の悪い中小炭鉱の閉鎖が相次いだが、炭鉱の労働者は石炭以外の産業に従事することが難しい場合が多く、各社とも従業員の処遇に難渋する。

    萩原吉太郎(北海道炭礦汽船・社長、1960年)

    2000円から安い豪州炭が大量に入ってきたら、かりに1200円下げたとしても競争にはならない。そのうち石炭は、斜陽産業として金融機関にもそっぽをむかれることになろう。そうなったら、なにもかもおしまいだ。そこで私は、日本の石炭業を救え!などという大それた望みを捨てて、せめて北炭だけでも救われたいと願う気持ちになった。このままいったら会社はつぶれる。会社がつぶれたら、2万人になんなんとする従業員の生活はどうなる?私は日夜苦悩した

    1960/06日経新聞連載(私の履歴書・萩原吉太郎)


    優良炭鉱に集中投資

  • 1960年 夕張炭鉱で爆発事故(42名死亡)
  • 1964年 萩原社長が"斜陽論"を否定
  • 1965年 夕張炭鉱で爆発事故(62名死亡)
  • 1970年 夕張新炭鉱の開発
  • 1971年 夕張炭鉱の閉鎖(第二砿)
  • 1973年 夕張炭鉱の閉鎖(第一砿)
  • 1975年 夕張新鉱の採掘開始
  • 1975年 幌内炭鉱でガス爆発事故(死者11名)
  • 1976年 三井グループが125億円を融資
  • 1976年 万字炭鉱閉山
  • 1977年 夕張炭鉱の完全閉鎖
  • 1978年 株式上場を廃止、監理銘柄へ
  • 斜陽論を否定

    戦後の北海道炭礦汽船の経営を一手に担った政商"萩原吉太郎"。北炭を石炭中心の会社として存続させるために奔走した。イラストは筆者作成。

    1955年に北海道炭礦汽船の社長に萩原吉太郎が就任する。萩原は政界に太いパイプを持つことから、石炭業が様々な助成策を受けられるように政治工作を実施するなど、石炭産業の存続のために奔走した。だが、石油輸入自由化に伴い、1963年に北炭は最終赤字に転落した。

    それでも1964年に萩原社長は石炭業の斜陽化を否定。三井や三菱などはセメント業など、経営の多角化を志向する一方で、北炭は従来通り石炭業への投資を続行することを決め、スクラップ・アンド・ビルドを志向した。このため、北炭の決定は「斜陽の汚名を返上し石炭に生きる」[1963/12/1実業界]と評された。

    老朽化炭鉱の閉鎖は1970年代に実施し、1971年から1977年にかけて老朽化した夕張炭鉱の閉鎖、1976年には万字炭鉱を閉鎖した。

    萩原吉太郎(北海道炭礦汽船・社長、1964年)

    石炭は斜陽産産業である・・・と、わが国すべての人々は、といっていいほど、ほとんどの人々は、そう思い込んでいる。が、けっして石炭と石油の競争には終止符が打たれ、石炭は将来を失ったのではないのである。そう思い込んでいるのはわが国だけなのである(中略)私の試算によれば、1980年代はじめの世界のエネルギー需用量が、石炭換算で95億トンになる需給関係にあっては、石炭の生産量を現状のままにしておく限り、石油の生産量が2倍、天然ガスも同じく2倍になり、水力発電もまた増えたとしても、なお22億トン不足することになる

    エネルギー政策にあって、世界の中でひとり遅れているわが国は、政府も石炭鉱業者みずかもエネルギーにおける世界の新しい局面を正視し、見極めて、将来再び重大な役割を果たすことになった石炭の健康と活力を共同して維持していくことに努めなければならない。もしそれを怠るなら、実際に取り返しのつかないことがやってくるだろう

    1964/01/13ダイヤモンド「石炭は斜陽産業ではない」

    夕張新炭鉱の新設決定

    1968年に萩原吉太郎(北炭・社長)は高炉メーカー向けの原料炭を産出する炭鉱への集中投資を決め、夕張における新炭鉱の新設を決断した。国内の炭鉱が相次いで閉鎖される中、北炭があえて新炭鉱に投資することは、日本の政治経済界で大きな注目を集めた。

    夕張新炭鉱への総投資額は約278億円であった。すでに多額の負債を抱えていた北炭が投資を自己資金で準備することは難しく、メインバンクの三井銀行を中心とする金融機関と日本政府からの支援金により賄った。また、1975年3期時点で北炭は年間60億円の補助金を獲得し、営業損失を穴埋めすることで企業の存続を図った。

    (補足)夕張新炭鉱の開発を支持した主な政府関係者は、井上亮(通産省・石炭局長)、福田赳夫(大蔵大臣)であったという。1967年〜1981年にかけて北炭が受けた財政支援(借入金)の総額は222億円に及ぶ。

    萩原吉太郎(北炭社長、1968年)

    (筆者注:北炭の赤字決算)を切り抜けるためには、体質改善を図らなければならないと思います。次第に原料炭不足になってきている状態からいって、鉄鋼向け原料炭の確保が国策として重要視されることは当然であります。こうした国策に対応するために、私は原料炭の増産に乗り出さなくてはならないと思います。経営困難ではあるが、それなればこそ大英断をもって新しい契機 - 新坑開発 - に乗り出さなければ、当社の立ち直ることは困難であると考えます。

    夕張新炭鉱の稼働

    1975年6月25日に北炭(萩原吉太郎・会長)は、会社再建の切り札として期待された夕張新炭鉱を完工。夕張新炭鉱の鉱夫は、夕張炭鉱、平和炭鉱、清水沢炭鉱の閉山によって生じた余剰人員が従事した。地下1000mの深部を貫く炭鉱で、計画当初からガス噴出による爆発事故の懸念があり、採掘開始直後の7月6日にメタンガス突出事故が発生して5人が窒息により死亡している。それでも北炭は夕張新炭鉱の操業を継続した。

    だが、円高ドル安の進行により国内の石炭価格は相対的に高止まりし、夕張新鉱の経営は軌道に乗らず、北炭の経営が行き詰まる。1978年に北炭は東証一部の上場を廃止し、監理銘柄に指定された。

    日経ビジネス(1975年)

    夕張新鉱の成功が北炭の経営を1私企業として根本的に変えるとはとても考えられない。私企業として成り立たせるとしたら、現在でも行っている財政資金による債務の肩代わりをさらに大幅に増加させるしかない。しかし、それは私企業の経営理念に根本的に触れる。いずれにしても、石炭産業を私企業ベースで考えるのは無理である

    昭和30年代半ば以降の高度成長期に、わが国の鉄鋼業は目覚ましく成長した。それに伴って原料炭の需要が急増し、米国、豪州、カナダなど輸入炭への依存度が高くなった。しかし、資源ナショナリズムの高まりで原料炭の海外開発も思うようにいかなくなった。国内の新鉱開発は、こうした資源国に対して日本でも努力しますというポーズを示すためのものといううがった見方さえある

    1975/07/21日経ビジネス「新鉱で"私企業"に返り咲けるか」


    会社更生法を申請

  • 1981年 夕張新炭鉱で爆発事故(死者93名)
  • 1981年 萩原吉太郎(80歳)が会長職を辞任
  • 1982年 夕張新炭鉱の閉鎖
  • 1987年 真谷地炭鉱の閉鎖
  • 1989年 幌内炭礦を閉鎖
  • 1989年 退職金の不足問題が発生
  • 1995年 会社更生法を申請
  • 2001年 萩原吉太郎(100歳)が逝去
  • 夕張新鉱で爆発事故

    1981年10月16日の12時40分頃、夕張新鉱でメタンガス突出事故が発生。77名が自力で脱出に成功したものの、同日中に42名が死亡し、42名が行方不明になる。さらに、救援に向かった50名のうち、会社幹部などを含む10名が行方不明となり、現場は怒号と号泣が入り乱れ、新鋭炭鉱は修羅場と化す。

    災害発生から1日後の10月17日に二次災害の火災が発生。救援隊10名を含む不明者51名の生存が絶望的となる。北炭の林社長は注水を提案したものの、行方不明者の家族は「父ちゃんを殺すのか」と猛反対した。同日の読売新聞の夕刊は「坑内状況は悪化するばかりで、事故発生から丸一昼夜すぎた現地には絶望感が広がっている」[1981/10/17読売新聞夕刊p1]と大きく報道。日本政府は緊急対策本部を設置する。

    10月19日に北炭は夕張新鉱の出入り口を閉鎖し、火災鎮火のための注水を実施。最新鋭の炭鉱での、最悪の事故となった。責任を痛感した林社長は自殺を試みたという。

    この爆発事故で93名が死亡。北炭は夕張新炭の閉鎖を決断し、夕張から撤退。夕張市は北炭という雇用口を失い、徐々に街はゴーストタウン化した。

    日経産業新聞(1981年)

    民間金融機関の首脳の中には、「あの計画(注:夕張新鉱の新設)は初めから実行は無理だと思った。生産性を2倍にするようなことができるはずはなかった」ともらす。それなのに関係者が計画を了承したのは、だれも地元のゴーストタウン化の責任を負いたくなかったからだ。夕張市は北炭夕張でもっている町だ。北炭夕張の経営者も、政府も、民間金融機関も、「閉山」ということばを一番先に口に出したくない

    1981/12/17日経産業新聞p3「北炭夕張、破たんの責任はだれに」

    退職金問題で労組と揉める

    1989年9月29日に北海道炭礦汽船は発祥の地である幌内炭礦(三笠市)を閉山し、約1000人の従業員を解雇した。すでに、幌内炭礦は地下1200mでの採掘を実施しており、安全性に問題があったため、労働組合も炭礦閉鎖に理解を示した。

    しかし、労働組合は同業の住友石炭鑛業(赤平閉山)と同水準の一人当たり800万円の退職金を要求。だが、北炭は夕張新炭の爆発事故による遺族への賠償金を抱えており、400万円/人の退職金しか捻出できなかった。このため、労働組合は不平等であるとし、北炭の経営陣を弾糾した。

    最終的に、北炭が日本政府の支援を受けて、解雇される従業員に相場通りの800万円の退職金を支給することで解決した。多く鉱夫は地元での再就職を望んだが、基幹産業を失った三笠市周辺での再就職は極めて難しく、札幌市内し、首都圏に移住したという。

    幌内炭礦の閉鎖に対して、下田信夫(北炭幌内炭礦労働組合・執行委員長)は「俺たちの親も東京あたりに土地を買っていれば立派だったのになあ」[1990/1/1日経ビジネス]と語り、その責任を自分自身の選択ではなく、国や政府、企業経営者、自らの親という他人に押し付ける思想を披露した。

    下田信夫(北炭幌内炭礦労働組合・執行委員長)

    そりゃ、経営者に対する怒りはありますよ。死ぬまで忘れることはできない。借金をたくさんして、関係各界に迷惑をかけて結局ヤマを閉じる状況を作り出したことは労働者には関係ないことですから...(中略)...ヤマがなくなって寂しいですよ。僕の場合も親子3代、この幌内で続きましたから。まだ虚脱感が抜け切れていません。しかし、組合の委員長としてやるべきことはまだありますから。

    このままでは幌内炭礦労働者は結果的に道外に流れて行ってしまうんではないかという不安が僕にはあります。現状は東京だ、横浜だ、川崎だと行かざるを得ない。じゃあ、北海道ってのは何だったのかと思いますね。僕らの先人が何のために汗水たらし、苦労して開拓したんだろうか。石炭産業はその代表でもあった。しかし、国際協調、産業構造の転換で閉山させられ、それに伴う諸問題に国などは事前に取り組まない。

    1990/1/1日経ビジネス「割り切れぬ閉山対策の非情さ・下田信夫氏」

    会社更生法の申請

    1995年に北海道炭礦汽船(野々村郁雄・社長)は会社更生法を申請し、109年の歴史に収支を打った。1994年3期の時点で北炭は850億円の累積損失を抱え、780億円の債務超過に陥っていた。1995年3期の売上高14億円・総資産90億円弱という水準での経営再建は絶望的であった。

    会社法申請後、北炭は石炭の輸入販売業を営む会社へと転換し、2019年時点で従業員13名の中小企業として存続している。

    他方、1950年代の業界大手であった三菱はセメント業へ、三井は非鉄金属(電子部品・自動車部品)への業態転換に成功し、上場会社として現在も存続しており、業態転換の成否が企業の明暗を分けた。

    野々村郁雄(北炭社長、1995年)

    北炭をここまで追い詰めたのはエネルギー革命だとか、国の政策のツケがまわったせいだ、と言ってくれる人もいます。しかし、そうではない、と思うのです。産業構造の転換に直面したのは北炭だけではありません。今でも東証一部上場で隆々としている鉱山会社はたくさんあります。三菱マテリアルさん、三井鉱山さん、住友石炭鑛業さんにしたって同じ。宇部興産さん、日鉄鉱業さん、常磐興産さんだって遡れば石炭から出発しているのですから。要するに脱石炭を早くからどう進めたか、なのです。国がどうのこうのというのじゃない。そこには、やはり企業の長期的な戦略があるはずです。ところが北炭は"脱石炭"とは逆の方向に賭けてしまった

    三井三池争議のあった1960年ごろが国内の出炭のピークで、5500万トンありました。当時、北炭は18炭鉱を持っていて、約600万トン掘っていましたから国内出炭の1割以上のシェアがあったわけです。従業員も社員が4000人いました。株式や不動産などの含み益も上場企業中、10位以内に入っている時期もあったはずです。それが昭和30年代に入ってエネルギー革命が起こり、どんどん油が侵食してきた。(中略)それでも北炭は国の政策通りスクラップ・アンド・ビルドでした。1970年に夕張新炭鉱の開発に着手してしまったのです。当時、社長として夕張新炭鉱の開発を強力に推し進めたのは、萩原吉太郎氏です

    一つ言い訳めいたことを言うとすれば、北炭の石炭が極めて良質だったことがかえって災いした面もあります。少し専門的になりますが、夕張の石炭は流動性に優れ、鉄鋼用の原料炭として理想的な品質でした。夕張の石炭なら非常に均一で、堅牢、緻密なコークスができたのです。このため新日本製鉄さんをはじめ大手高炉会社さんも掘り始めた時は非常に喜び、新日鉄、NK、東京ガスは炭鉱開発の融資をしてくれました。学者の中にも「これほど優良な石炭は眠らせておかないで掘るべきである」という人がいたほど、絶対的な評価を受けていました。しかし、技術革新がそんな優位性を無意味にしてしまった。流動性が悪い輸入炭からできた、それほどいいコークスでなくても、鉄が作れるようになったのです。そうなると安いほうがいいに決まっています

    1995/09/18日経ビジネス「106年の歴史に幕を引く」

    夕張市の財政破綻

    夕張市は北炭の撤退により人口減少が進行。最盛期の1961年には11万人を超えた人口は、2019年までに8000人に激減した。2006年には夕張市の経営も行き詰まり財政破綻している。

    また、国内石炭業の衰退により輸送する貨物と旅客を失ったJR北海道の経営も行き詰まる。2019年にJR北海道は夕張線(夕張〜新夕張)を廃止し、かつて石炭輸送の大動脈であった室蘭本線(岩見沢〜*苫小牧)についても路線の維持が難しいと判断し、路線の廃止を検討している。

    夕張市の人口 - 過去推移

    単位:万人

    出所:夕張市「夕張市の人口推移」

    朝日新聞デジタル(2019年)

     夕張市の人口は、市の基幹産業である石炭業が隆盛を極めた1951年に初めて10万人を超え、60年に最多の11万6908人になった。しかし70年代に入ってからはエネルギー政策の転換で炭鉱の閉山が相次ぎ、市内の炭鉱がすべて閉山した90年には2万人台に。財政も悪化し、全国で初めて財政再建(再生)団体に転落した2007年には約1万2千人に減った。

    2019/6/11朝日新聞デジタル「夕張市の人口、8千人を割る」


    参考文献

    新聞・雑誌記事

    1913/12/27時事新報「四億噸の埋蔵量 将来重要の出炭地」

    1950/03東邦経済「躍進する北端の全貌」

    1960/06日経新聞連載(私の履歴書・萩原吉太郎)

    1960/6/24日経新聞夕刊「自由化計画の大綱決まる」

    1964/01/13ダイヤモンド「石炭は斜陽産業ではない」

    1975/07/21日経ビジネス「新鉱で"私企業"に返り咲けるか」

    1981/10/17読売新聞夕刊p1「火災発生、51人も絶望」

    1981/12/17日経産業新聞p3「北炭夕張、破たんの責任はだれに」

    1990/1/1日経ビジネス「割り切れぬ閉山対策の非情さ・下田信夫氏」

    1995/09/18日経ビジネス「106年の歴史に幕を引く」

    2019/6/11朝日新聞デジタル「夕張市の人口、8千人を割る」

    書籍・その他

    会社四季報

    夕張市「夕張市の人口推移」

    2016開発論集「北 海道ゆかりの企業―北海道炭礦汽船株式会社の百年史 を中心に」大場四千男


    事例一覧