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キッコーマン - 茂木啓三郎

成熟期 販売促進 北米進出 アメリカで醤油は作れない

北米における地道な販売促進活動と醤油の現地生産により、キッコーマンは千葉の醤油会社からグローバル企業に発展した。

イラストは筆者作成

醤油&テリヤキでアメリカを掌握

  • 食の洋風化で醤油の国内需要が減少
  • 1945年の終戦を機に日本でパン食などの洋食が普及し、主食の洋風化が進行した。また、化学肥料の発達により生野菜の採取が可能となり、西洋野菜(ブロッコリー、キャベツ、レタス等)にマヨネーズなどのドレッシングをかけて食べるスタイルが定着したため、醤油を用いる煮物などの和風惣菜の需要が相対的に減少した。だが、国内では数千社の醤油業者が存在しており価格競争が激しく、醤油業界は成熟化が進行した。

  • アメリカで"醤油+肉=テリヤキ"を実演販売
  • 1956年にキッコーマンは米国西海岸への醤油の本格輸出を開始し、テレビへのスポット広告の出稿、スーパーマーケットでの醤油を使った料理「テリヤキ」の実演販売を実施。醤油の利用法を時間をかけてアメリカ人に啓蒙することで、徐々に販売量を伸ばした。そして、需要の伸びが確定的となった1968年にキッコーマンは醤油の現地生産を決断し、1973年にウィスコンシン州に醤油の新工場を稼働した。稼働前は醤油の海外生産は不可能という神話があったが、工場の稼働により神話を打ち砕くことに成功し、醤油が工業製品であることを証明した。

  • グローバル企業に変貌
  • 1970年代以降、キッコーマンはアメリカを中心とした醤油の海外販売で業容を拡大するとともに、スーパーマーケットの販路(アジア食品コーナーの棚)を掌握するために食品卸売業を強化した。2004年にはウォルマートのアジア食品に関するアドバイザーに選定され、醤油に限らず、様々なアジアの食品を扱うことで、和食ブームの追い風もあり、売上を増大させた。2019年時点でキッコーマンの売上高の58%が海外関連で、同社は半世紀をかけてグローバル企業に変貌した。

    目次

  • キッコーマン - 基本情報
  • 売上高 - 過去推移

    売上構成比 - 過去推移

    売上高利益率 - 過去推移

    従業員数 - 過去推移


  • 野田醤油の歴史
  • 1660年代 醤油と味噌に参入

    1920年代 醤油業者の集約

    1950年代 全国5000社の頂点へ

    1960年代 多角化の推進


  • アメリカで醤油を売る
  • 1950年代 米国西海岸でテリヤキを販促

    1970年代 北米現地生産を決断


  • 海外事業を拡大
  • 2000年代 米国でシェア57%確保

    2000年代 国内の不採算多角事業から撤退


    キッコーマン - 基本情報

    売上高 - 過去推移

    単位:億円

    注:調整額は「国内/他」に含めた

    出所:有価証券報告書、会社四季報


    売上構成比 - 過去推移

    単位:%

    出所:有価証券報告書、会社四季報


    海外売上比率 - 過去推移

    単位:%

    出所:有価証券報告書、会社四季報


    売上高利益率 - 過去推移

    単位:%

    出所:有価証券報告書


    従業員数 - 過去推移

    単位:名

    出所:会社四季報


    野田醤油の歴史

  • 1590年 徳川家康が江戸城に入城
  • 1616年 銚子で田中家が醤油業(ヒゲタ)
  • 1645年 銚子で濱口家が醤油業(ヤマサ)
  • 1660年 利根川東遷事業が一時完了
  • 1661年 野田で高梨家が醤油業(キッコーマン)
  • 1662年 野田で茂木家が醤油業(キッコーマン)
  • 1910年 野田の醤油業者が鉄道路線を申請
  • 1917年 野田醤油を発足(地元醸造8家が合併)
  • 1926年 近代設備を備えた第17工場を稼働
  • 1927年 野田にて労働争議が発生
  • 1948年 新式2号醤油製造法を発明
  • 1950年 醤油販売自由化・特約店を復活
  • 1955年 名古屋、横浜など主要都市に出張所
  • 1962年 勝沼洋酒の設立(ワイン製造)
  • 1962年 利根飲料の設立(コカコーラ向け)
  • 1963年 デルモンデ社と国内販売で提携
  • 1963年 地方都市にも販売拠点を充実
  • 利根川東遷による醸造業発展

    1590年に徳川家康が江戸城に入城し、関東平野の開発を行うために利根川の東遷事業を決断。1660年代までに利根川の流路を現在の隅田川河口ではなく、千葉県の銚子へと移すことで江戸城周辺の水害の抑制を目論んだ。また、東遷事業と同時に水路が整備され、銚子から小名木川を通じて東京の日本橋まで船で物資を運ぶことが可能となった。

    利根川東遷事業により、江戸時代初期に利根川沿いでは醤油や味噌などの醸造産業が発展した。醤油の場合、大豆は常陸(栃木県)、塩は行徳(千葉県)ないし赤穂(岡山県)、小麦は下総(千葉県)から水路を通じて醸造所に運ばれ、完成品も同じく水路を通じて江戸の中心部である日本橋などに出荷された。このため、利根川沿いでは野田と銚子の2つの地区において特に醸造業が発展した。

    海岸部の銚子では、1616年に田中家(現ヒゲタ)が醤油業を開業し、1645年に濱口家(現ヤマサ)が醤油業を開業した。内陸部の野田では銚子よりも遅れて醤油業が発展し、1661年に高梨家(現キッコーマン)が野田で醤油業を開業し、1662年に茂木家(現キッコーマン)が味噌業を開業した。

    野田と銚子では江戸向け醤油の量産拠点として発展する一方、水運の利便性が悪い内陸部では、地元の有力者が醤油・味噌・酒を自家生産することが多く、全国各地に地産地消の醸造業者が点在した。

    醤油事業の近代化

    明治時代に突入し鉄道網が徐々に普及し、醤油を自家生産するのではなく、大量生産することで価格を引き下げることが可能となった。輸送の技術革新に対応するため、1917年に野田の醸造業者(茂木家や高梨家など8家)は事業の統合を決断し、株式会社野田醤油(資本金700万円)を設立した。当時のシェアはヤマサ醤油と同程度であったという。1918年に野田醤油は大阪に出張所を新設し、大市場である関西への進出も決断した。

    また、製造面での近代化を図るために、1926年に近代量産設備を備えた第17工場を竣工。同年には2リットルの瓶詰め醤油の販売を開始し、1930年には最新鋭の瓶詰め工場を稼働した。1930年代までに野田醤油は鉄道輸送によって全国へ販路を拡大した。またブランドの信頼確保のため、1927年に際してブランドは品質が良い「キッッコーマン」に統一し、1940年には他のブランド名の使用を中止している。

    ところが、最大の問題は生産でも販売でもなく、醤油製造に従事する労働者の統率が取れないことにあった。1920年代を通じて日本経済が不況に突入すると、野田において深刻な労働争議が発生。1927年には218日という長期間にわたって争議が発生し、争議団は風の強い日を狙って街を混乱させるために放火を実行するなど事態は深刻化した。読売新聞は「野田は一時無警察状態」[1926/04/05読売新聞夕刊p13]と評した。

    茂木啓三郎(キッコーマン醤油会長、1978年)

    大正6年に一族八家が合併したのが良かったんですね。その中でいちばん品質の良いキッコーマン・ブランドに統一したあたり、実に祖先は偉かったと思います。私は灘の清酒メーカーの方にも何ども合同を勧めましたが、結局、ダメでしたね。われわれが合併したときは現在2位のヤマサ醤油さん(シェア8%)とほぼ同じだったんですから。

    1978/4/24日経ビジネス「古くても本物なら飽きられません・茂木啓三郎氏」

    全国5000社の頂点に立つ

    1930年代を通じて野田醤油は全国に醤油を出荷したため、日本国内の醤油業者が相次いで廃業。1923年には国内に1.5万軒の醤油製造業者が存在したが、1929年には8500軒へと激減。いちはやく醤油業の近代化を実施した野田勢と銚子勢が市場シェアの上位を獲得し、このうち全国展開に積極的だった野田醤油が優勢となる。1929年には「銚子側はその能力の比較的新製品の多い関係から現在のところ、野田側6分、銚子側4分の形勢である」[1929/08/29読売新聞]と評された。

    1945年の終戦直後にGHQが大豆の供給を制限し、野田醤油は存亡の危機に陥るが、茂木啓三郎は大豆を弱酸性で分解して醸造醤油の歩留まりを向上させる製造法を開発し、原料大豆の割り当てを獲得。終戦直後の日本で醸造醤油を製造できたのは野田醤油1社となり、シェアの拡大に拍車をかけた。

    1954年の時点で野田醤油は市場で圧倒的なシェアを握ったため、公正取引委員会は醤油の小売価格に干渉しているとして野田醤油に独占禁止法の疑いをかけた。この時点で野田醤油は国内5000の醤油業者の頂点に立っていたが、1950年代の食品業界では、製粉業や水産業などの業界トップ企業が売上高で存在感を示しており、業界全体からすれば、野田醤油は小規模な調味料メーカーに過ぎなかった。

    茂木啓三郎(キッコーマン相談役、1984年)

    わが社にとっては、目先の利益か醸造醤油業界の存廃かの選択を迫られたわけで、私は後者を選んだ。その決断は、長い目でみれば、わが社にとっても正しかった。自社の努力で開発した製法を独占することは、自由主義経済下では、何ら恥ずべき行為ではない。だが、自由競争も行き過ぎれば自家中毒を起こす。

    1984/4/2日経ビジネス「有訓無訓・茂木啓三郎」

    食品企業 - 売上高(1955年度)

    単位:億円

    出所:会社四季報

    多角化の推進

    1960年代に野田醤油は醤油で稼いだ利益を他の食品事業に投資することで、経営の多角化を推進した。1961年にはトマト(ケチャップ)事業に参入し、1963年にはデルモンデ社と国内の販売契約を締結。1962年にはコカコーラのボトリングを行う利根飲料を設立して、ボトラーに参入した。また、ワイン事業に参入するため、1962年に勝沼洋酒(マンズワイン)を設立している。さらに、しょうゆから派生した各種たれ・ソースの製造販売も本格化した。

    食品の取り扱いの増加に伴い、野田醤油は地方都市における販売網を充実させた。1963年に静岡、京都、神戸、北九州、1964年に新潟、金沢に事業所を新設し、日本各地で勃興しつつあったスーパーなどへの納入体制を整えた。

    多角事業の本格化に伴い、1964年に野田醤油は商号を「キッコーマン醤油」に変更。多角化の進展により、1970年12期にキッコーマン醤油はしょうゆの売上高比率を単体決算ベースで77%に低下させた。1980年には商号から「醤油」を取り除き、キッコーマンへと簡略化し、醤油に限らない事業展開を本格化させている。

    (競合)しょうゆ分野ではキッコーマンが国内シェア約30%を安定的に確保したが、しょうゆから派生する各種調味料のシェアはNo.1を確保できなかった。つゆ分野では、ヤマキやミツカン、焼肉分野ではエバラがTVCMを中心とする販促によりシェアを確保した。

    茂木啓三郎(1978年)

    しょう油は洋風生活にも合うということで自信も持っていたし、これからも期待していますが、一面、食生活が変化したことも事実です。われわれは変化した食生活の中でキッコーマンに合うものはないかと考えていました。ワインの場合は、めんみ、めんつゆなどの複合調味料にワインを使っていた関係で手がけたんです。もう一つは食生活の変化の中でいちばん手堅い農産物加工、アグリビジネスに取り組もうということでトマトに目をつけたわけです。(中略)

    成長病ではありませんが、いいとなると一斉に乗り出してきて、安定した需要が見込めるのに、市場秩序を乱してしまうんです。ハインツもリビーも引き揚げてしまいましたけど、私も一度止めてしまおうと思ったくらいです。

    1978/4/24日経ビジネス「古くても本物なら飽きられません・茂木啓三郎氏」


    アメリカで醤油を売る

  • 1956年 米セーフウェイに醤油を納入
  • 1956年 サンフランシスコでテレビ販促
  • 1960年 TERIYAKIが徐々に浸透
  • 1968年 米スーパーでの取扱店が4500軒を突破
  • 1968年 しょうゆの現地ボトリングを開始
  • 1969年 JFCを買収(日系食品卸)
  • 1970年 北米現地生産を決断
  • 1971年 進出先をウィスコンシン州に決定
  • 1971年 進出先の地元民と対立
  • 1973年 工場竣工・北米現地生産を開始
  • 1998年 カリフォルニア工場を新設
  • 米国西海岸でテリヤキを販促

    1945年の終戦により、米兵が日本に駐留したことが、アメリカ人が日本独自の醤油という調味料に親しむきっかけとなった。そこで、1956年6月に野田醤油は本格的な醤油のアメリカ輸出を決断し、米国の大手スーパー"セーフウェイ"にキッコーマン醤油の納入に成功した。大々的な販売促進のために、同年11月に野田醤油は大統領選に合わせて、納入地域であるサンフランシスコの1テレビ局に集中的なスポット広告を出稿。テレビを通じてキッコーマンの醤油は現地の小売業に認知され、まずは米国西海岸で普及した。

    1957年に野田醤油はキッコーマンインターナショナルを設立し、全米における醤油の販売網の構築に着手。本社をサンフランシスコに選定し、支店をロサンゼルス、ニューヨーク、シカゴに設置して全米展開を試みた。また、販売に際して、キッコーマンは醤油を大量に使う肉料理「照り焼き(TERIYAKI)」の実演販売を各スーパーで実施し、醤油の料理レシピも提供した。

    販売促進活動の結果、野田醤油は、キッコーマン醤油を米国西海岸の各スーパーに並べることに成功。1960年に業界雑誌ホーム・エコノミストは「キッコーマンは、オール・パーパス・シーズニングだ」と紹介したことを受け、野田醤油は米国での販売では「万能調味料」であることを全面的に押し出した。

    (補足)醤油は日本からの輸出でまかなわれ、国内で瓶詰めされて船舶で輸送された。また、1961年の時点でアメリカ国内にはハワイの日系二世が創業した醤油メーカーが競合として存在したが、老舗のキッコーマンに太刀打ちできなかったと言われている。キッコーマンの広義な米国競合としては、1982年に吉田潤喜が創業したヨシダソース(しょうゆ系調味料・ハワイおよび西海岸を中心に展開。キッコーマンが原料の本醸造醤油を供給していた時期もあるが現在の関係性は不明)がある。

    実業の世界(1961年)

    アメリカ人が好むバーベキュー(野外料理)には欠くことのできない調味料とされており、そのほかすきやき、てんぷらなどの日本料理にも好評を博している。このままだとアメリカ国内で乱立しているソースに威嚇を与えるのではないかという声も聞かれる。...(中略)...

    人気の原因は、日本から帰還したアメリカ軍人が宣伝に一役買ったことこともさることながらサンフランシスコやロスアンゼルスなど西部アメリカのほとんどの主要都市におけるスーパーマーケットの権利を野田醤油の販売機関である「キッコーマン・インターナショナル」が獲得していることだ。このスーパーマーケットにおける調理実習はきわめて人気を呼んでおり、常に黒山の人だかりを集めているといわれる。またアメリカ国内におけるテレビによっても宣伝され「キッコーマン」の愛称で親しまれており珍重されているという。

    1961/2実業の世界「アメリカの調味料界を脅かすキッコーマン醤油」

    社名変更+卸売強化

    1960年代を通じて米国にも醤油が万能調味料として徐々に浸透。だが、米国の業界関係者の間では、キッコーマンという名前は知られていたが、野田醤油という企業名の認知度はゼロに等しかった。このため、アメリカの市場関係者の間では「日本にキッコーマンの競合会社として、野田醤油が存在している」という誤解も生まれたため、茂木啓三郎(野田醤油社長)は社名の変更を決断。1964年に称号を「キッコーマン醤油」に変更し、国際的に通用する商号に変更した。

    また、1960年に茂木啓三郎社長は、三菱銀行ロサンゼルス支店長の提言を受け、アメリカでの醤油販売を強化する方針を決断。国内ではボトラー(飲料)、トマト、ワインなどの多角事業を推し進めていたが、国内の多角事業を一時的に犠牲にしてでも、アメリカでの醤油販売に投資する方針を決めた。

    1960年代を通じてアメリカでの醤油販売は順調に推移したものの、米国のスーパーマーケットの棚を抑えるためには、醤油という製品だけでは力不足であった。そこで、1969年にキッコーマンは米国でアジア食品を取り扱う食品卸「JFC」を買収し、スーパーのアジア食品の棚を一括で抑える体制を整えた。1970年には太平洋貿易株式会社(1950年代にキッコーマンの醤油輸出を手伝った会社)を傘下に収め、卸売事業を強化した。

    茂木啓三郎(キッコーマン醤油社長、1971年)

    昭和三十五年に渡米したとき、三菱銀行のロサンゼルス支店長と一夕懇談したことがある。そのとき堀口弘司支店長は滞米数年の経験から「アメリカではある時期に醤油が爆発的にでる可能性がある。その用意はありますか」との話があった。「あります」「どうするのですか」「国内を犠牲にしても輸出します」と答えた次第。あとで醤油協会でこの話をすると皆が喜んだ。「一日も早く実現を希望する」とのこと。そうなると国内の業者が助かるというわけで、大笑いになった。

    1971/5日経新聞連載(私の履歴書・茂木啓三郎)

    北米現地生産を実施

    アメリカにおける醤油需要の増大を受けて、1968年に茂木啓三郎(キッコーマン醤油・社長)は米国での現地生産を視野に入れる。まずは輸出の効率化のため、従来は国内で瓶詰め作業を行っていたのを、特注の液体コンテナで船舶輸送し、アメリカ国内での瓶詰めを開始した。その後、1970年にキッコーマンは正式に米国での醤油の現地生産を決断した。

    北米現地生産を決断した茂木啓三郎(キッコーマン社長)。キッコーマンを千葉の醤油会社から、グローバル企業へと変貌させた。

    イラストは筆者作成

    だが、キッコーマンの社内は現地生産に懐疑的で、醤油製造には蔵にいる特殊な菌が必要で、アメリカでは醤油生産が難しいと信じられていた。だが、茂木社長は、(1)新工場建設で採算があう需要量が存在する、(2)海上輸送の運賃を節約できる、(3)円高ドル安の進行により国内生産の優位性が低下しつつある、という観点から現地生産を断行する。

    1971年9月にキッコーマンは米国工場の立地を、小麦畑に囲まれたウィスコンシン州・ウォルワースに決定した。だが、現地の農家は先祖代々の農地に近代工場が出現することに反発し、工場建設に反対した。そこで、茂木友三郎(のちのキッコーマン社長)は各家庭を訪問し、州知事を動員して住民の説得に成功した。

    1973年6月にキッコーマンは新工場を稼働し、米国での醤油の現地生産を開始。米国でも品質の良い醤油が生産できることが証明され、問題なく商品の出荷を開始した。

    茂木啓三郎(1978年)

    やはり、現実にやろうということになると、役員連中も躊躇してました。私が役員会で話を持ち出すと、皆、黙っているんです(笑い)。なにしろ、しょうゆの蔵にはそれぞれ独自の菌がすみついていると信じられているぐらいで、微妙な味が異国の地で出せるだろうかという不安を抱いておったんですな。なにを隠そう、私自身も一抹の不安を感じていたんですが、社長がそれを表面に出すと、全員の士気に関わりますから、大丈夫だ、やるんだということで踏み切りました。

    社内では製造本部長(元副社長)と中央研究所長(現製造本部長)の2人だけに、私の不安を打ち明け、技術力でなんとか解決してくれと頼みました。設備なども思い切って近代化し、日本より進んだ実験をしたんですが、日本と同じ製品ができたときは本当に嬉しかったですね。

    1978/4/24日経ビジネス「古くても本物なら飽きられません・茂木啓三郎氏」


    グローバル企業に発展

  • 1990年 デルモンテ商標(アジア)を210億円で買収
  • 1991年 海外売上高412億円
  • 2000年 海外売上高658億円
  • 2004年 食品卸事業でウォルマートと関係強化
  • 2006年 焼酎事業をサッポロビールに譲渡
  • 2009年 利根コカコーラボトリングの一部譲渡
  • 2009年 持株会社制に移行
  • 米国でシェア57%確保

    キッコーマンのしょうゆは、TERIYAKIという料理とともに時間をかけてアメリカに浸透した。特に、1970年代以降は、米国の西海岸にアジア人やメキシコ人が流入しており、醤油の重要な買い手となったものと推察される。2018年の時点でキッコーマンは米国における家庭向けしょうゆ市場で数量シェア57%を確保しており、国内の出荷数量シェア28%を大きく上回り、独占的な企業となっている。

    また、キッコーマンは1969年に参入した海外の食品卸事業(日本食に必要な食材の卸)も積極的に展開した。2004年にJFCはウォルマートのカテゴリーアドバイザーに抜擢され、2008年の時点で米国ウォルマートの2500店のアジア食品の売棚を管理した。JFCは日本食ブームにあわせて業容を拡大し、2008年には全米18箇所に物流拠点を擁して需要の増加に対応。海外の卸売事業はキッコーマンの海外事業の売上増加の牽引役となっている。

    2019年7月12日の時点でキッコーマンは時価総額9345億円であり、味の素の1.03兆円に拮抗しており、日本を代表する食品企業へと変貌した。

    海外事業 業売上高 - 過去推移

    単位:億円

    出所:有価証券報告書、会社四季報


    海外事業 売上高営業利益率 - 過去推移

    単位:%

    出所:有価証券報告書


    茂木友三郎(キッコーマン名誉会長、2012年)

    いまや醤油は全米のスーパーマーケットに置いてある。以前、家族でイエローストーン国立公園に旅行したとき、立ち寄ったドラッグストアにも醤油はあった。

    直近の決算で当社は売り上げの45%を海外で稼いでいる。そのうち75%が米国だ。営業利益で見ると69%が海外で、うち66%が米国となっている。米国では製品売り上げのほとんどが醤油で、30年間にわたって2ケタ成長を続けた。生産能力も当初の9000キロリットルから、1998年に稼働したカリフォルニア工場を合わせて14万キロリットルになっている。

    あのとき米国での生産という決断をしなかったらいまのキッコーマンは存在せず、その後のグローバル展開はなかっただろう。千葉県の片隅で醤油を細々と生産する企業のままだったかもしれない。

    2012/07/13日経新聞朝刊p40「キッコーマン名誉会長茂木友三郎氏(12)追い風」

    国内の不採算多角事業から撤退

    好調な海外事業の一方、国内においてキッコーマンは本業のしょうゆ事業では市場の縮小、多角事業は競争激化による低収益に悩まされた。トマト分野においてはカゴメ、めんつゆ分野ではヤマキとミツカンが引き続きシェアを確保したため、キッコーマンがシェアを奪還することは難しかった。また、ワイン事業では1985年に子会社のマンズワインでジエチレングリコールを混入する事件が起き、信用を落とした。

    2001年3期にキッコーマンは最終赤字に転落。2000年代を通じて不採算事業を整理するために、競争力のない多角事業からの撤退を進めた。2006年には焼酎事業をサッポロビールに売却し、2009年にはコカコーラのボトラーである利根コカコーラボトリングの株式の一部を譲渡した。

    2013年に堀切功章(キッコーマン・社長)は、国内のしょうゆの需要減少に危機感を抱いているものの、打開策を見出せない状況にある。国内の多角分野で需要が伸びているのは豆乳飲料であり、2010年代を通じて健康ブームに乗って売上を増大させた。2018年の時点でキッコーマンは国内の豆乳飲料で生産量シェアNo.1(50%)を確保している。

    国内事業 売上高 - 過去推移

    単位:億円

    出所:キッコーマンIR資料(ファクトブック)

    堀切功章(キッコーマン社長、2013年)

    国内市場は市場縮小などの変化の中で、新しい展開を求められています。ただそれだけじゃなくて、世界でこれだけ評価される調味料なのに、なぜ生みの親である日本の消費者にしょうゆの良さ、可能性を評価してもらえないのかと。やはり我々の努力不足だろうと思っているわけです。

    人口減少に少子高齢化。また女性の社会参加に伴って家事にかける時間が短くなっています。非常に大きいのは世帯人数が減っているということ。しょうゆを一番使う家庭内の調理と言えば煮物ですが、煮物は1人2人で食べてもおいしくない。単身、あるいは2人世帯だと煮物を作らなくなっています。

    2013/10/14日経MJp3「"しょうゆ未来へ"使命感」


    参考文献

    新聞・雑誌記事

    1926/04/05読売新聞夕刊

    1929/08/29読売新聞

    1954/11/20読売新聞夕刊p4「問題株の診断・野田醤油」

    1955/12/28読売新聞朝刊p3「公取、野田醤油に審決」

    1957/11/13読売新聞朝刊p4「なぜ、やすくならないか」

    1961/2実業の世界「アメリカの調味料界を脅かすキッコーマン醤油」

    1968/06経済時代「躍進するキッコーマン醤油」

    1971/5日経新聞連載(私の履歴書・茂木啓三郎)

    1972/12/15日本醸造協会雑誌「しょうゆの輸出について」

    1976日本醸造協会雑誌「アメリカ工場その後」

    1978/4/24日経ビジネス「古くても本物なら飽きられません・茂木啓三郎氏」

    1984/4/2日経ビジネス「有訓無訓・茂木啓三郎」

    1999/04/15日経金融新聞p18「"しょうゆ"再建課題」

    2008/7/15東洋経済ONLINE「ウォルマートの棚を仕切る「食品卸」キッコーマン」

    2012/07/13日経新聞朝刊p40「キッコーマン名誉会長茂木友三郎氏(12)追い風」

    2013/10/14日経MJp3「"しょうゆ未来へ"使命感」

    書籍・その他

    有価証券報告書

    会社四季報

    キッコーマン各種IR資料


    事例一覧