決断社史TOP > 事例一覧

注:必ずお読みください

本サイトは、運営者が独自に収集した情報を取り纏めて掲載したもので、運営者の個人的なコメント・見解を述べたものです。本コンテンツの情報についても、その正確性、完全性及び適時性を保証するものではありません。これらの情報によって本サイト利用者に生じたいかなる損害について、本サイトの運営者は一切の責任を負いません。また、本サイトは投資勧誘を目的にしたものではありません。資産運用の際には利用者様の責任において最終的にご判断ください。


セーレン - 川田達男

従業員の決断 セーレン 成熟期 入社1年目で左遷 社内新規事業 新製品開発 業態転換 衰退産業

セーレン中興の祖・川田達男。イラストは筆者作成

サマリー

名門企業を窮地から救ったのは新卒入社1年目に左遷された男

  • セーレンは繊維産業の川中の重要プレーヤーだった
  • 高度経済成長期の北陸は日本有数の合成繊維産地であった。1950年代に日本でナイロンやポリエステルといった新しい繊維が普及すると、これらの原糸を大手繊維メーカー(川上)から買い付けて川中工程の染色加工を施すセーレン(福井本社)は急成長を遂げた。セーレンは、加工した繊維を商社を通じて北陸各地に存在する織物会社(川下)に販売する委託加工ビジネスの独占的企業で、合繊業界の川中部分を担っていた。

    セーレンは合成繊維の市場拡大に伴って業容を拡大。1962年には株式上場を果たし、福井県では優良企業と囁かれた。当時の福井県では、福井銀行とセーレンの2社が就職人気の双璧をなした会社であったという。

  • ニクソンショックにより繊維産業の国際競争力が喪失
  • 1971年にニクソンショックが起こると繊維業界を取り巻く環境が激減する。円高ドル安が進行し、日本における繊維産業は人件費高騰によって国際競争力を失った。セーレンの仕入れ先である東レ、帝人、旭化成、ユニチカなどの大手合繊メーカー、顧客である川下の無数の繊維メーカーが相次いでに経営不振に陥ったため、セーレンも経営危機に陥る。

  • 左遷従業員が自動車向け合繊シートに業態転換
  • セーレンの窮地を救った人物が、左遷部署を転々としていた川田達男という従業員である。川田はセーレンに入社した1年目に上司に嫌われてしまい、左遷された人物であったが、入社約10年目に配属された左遷部署で新事業創出の係長として奔走。1977年に川田はトヨタ自動車に対して合繊カーシートを納入することに成功し、自動車内装事業を育てた。

  • 2018年時点でカーシートで世界シェアNo.1(15%)を確保
  • 2018年の時点でセーレンは自動車内装事業のグローバルシェアNo.1(15%)を確保しており、祖業の染色加工からの業態転換に成功した。川田達男はセーレンの中興の祖として、2019年の現在も代表取締役会長としてセーレンの経営を担っている。

    目次

  • セーレン - 基本情報
  • 売上高 - 過去推移

    売上構成比 - 過去推移

    営業利益率 - 過去推移


  • 北陸産地の栄枯盛衰
  • 1920年代 天然繊維の全盛期

    1950年代 合成繊維へのシフト

    1960年代 北陸産地の黄金時代

    1970年代 繊維産業の衰退


  • セーレンと川田達男
  • 1950年代 合繊メーカーの下請けとして発展

    1960年代 入社1年目に左遷された川田達男


  • ニクソンショック(為替の変遷)
  • 1950年代 1ドル360円

    1960年代 資本自由化問題

    1970年代 ニクソンショック

    1980年代 プラザ合意


  • 合繊カーシートの開発
  • 1. 自動車用シートに着目

    2. トヨタ自動車に納入

    3. 仕入先からの借金で生産拡大


  • カーシートのグローバル展開
  • 1980年代 川田達男の社長就任

    2010年代 自動車部材のグローバルメーカー


    セーレン - 基本情報

    売上高 - 過去推移

    単位:億円

    出所:有価証券報告書、会社四季報


    売上構成比 - 過去推移

    単位:%

    出所:有価証券報告書、会社四季報、セーレン経営史

    注:80.3はセーレン百年史より筆者推測


    売上高営業利益率 - 過去推移

    単位:%

    出所:有価証券報告書および会社四季報、注:連結決算を優先して掲載


    北陸産地の栄枯盛衰

  • 1890年代 生糸の全盛期
  • 1910年代 綿・毛の全盛期
  • 1930年代 レーヨンの全盛期
  • 1950年代 合成繊維の全盛期(ナイロン/ポリエステル)
  • 1970年代 繊維各社が苦境に陥る
  • 天然繊維の全盛期

    戦前の日本において、貴重な外貨獲得の役割を背負ったのは繊維製品の輸出である。なかでも、天然繊維製品の輸出が日本に多額の外貨をもたらしたし、戦艦などの軍備増強の貴重な資金源となった。

    主な天然繊維には、蚕を原料とする生糸、羊毛を原料とする毛糸、綿を原料とする綿糸の3種類あり、このうち日本で原料を自給できる繊維が生糸であった。群馬県、長野県、兵庫県といった盆地では生糸を吐くカイコの餌となる桑が栽培に適しており、明治時代から大正時代にかけて繊維産業が発展。カイコの吐き出す糸が、これら盆地の経済発展を支えた。

    一方、原料が自給できる生糸とは違い、綿と毛は外国から輸入する必要があった。主な綿の栽培地はインド、毛の原料地はオーストラリアであり、綿や毛を海外から買い付けるための繊維商社が発展した。また、商社から糸を買い取って織物に仕立てる繊維会社(東洋紡やカネボウなど)、織物を機械化する織機会社(豊田自動織機や津田駒工業など)が日本で成長し、戦前の日本経済を支えていた。

    合成繊維へのシフト

    1930年代に天然繊維に変わる人造繊維が新しい産業として注目を浴びる。まず最初に紙パルプを原料に用いた人絹(レーヨン)が大ブームとなり、帝人(帝国人絹)、東レ(東洋レーヨン)、日本レーヨン(ユニチカ)といった新しい"レーヨン"という合成繊維の名前を冠した企業が誕生した。

    1950年代には米国のデュポンが開発したナイロンやポリエステルといった合成繊維が日本にも普及。原料は石炭由来のカプロラクタムなどであり、東レや帝人がいち早くデュポンから技術導入を決断し、合成繊維の製造に乗り出した。1950年代を通じて、ナイロンやポリエステルは絹・綿・毛に代わる繊維素材として定着した。

    特に、東レは合成繊維のトップ企業としてナイロンとポリエステルをものにし、日本を代表する優良企業として注目を集めた。

    北陸産地の黄金時代

    1950年代の合成繊維の普及過程において、ナイロンやポリエステルなどの原料糸の生産は、東レ名古屋工場や、帝人岩国工場といった海岸部の生産拠点で実施された。また、合成繊維の生地や染色加工は人件費の安い加工業者が密集する内陸部で行われるようになる。

    特に、北陸の福井県は戦前から人絹(レーヨン)の織物業者が集積していたこともあり、戦後にポリエステルやナイロンを扱う「合成繊維王国」へと変貌した。

    福井県織物生産量実績

    単位:万㎡

    出所:セーレン百年史より筆者作成(福井県統計所)


    繊維産業の衰退

    1971年にニクソンショックが起こり、円高ドル安が進行。日本の人件費が米国と比べて相対的に上昇し始めた。このため、労働集約産業であった日本の繊維産業は国際競争力を失い、東南アジア各国が繊維大国として台頭したため、日本の繊維産業は壊滅状態に陥る。

    カネボウなどの天然繊維の名門企業や、東レなどの合成繊維の先端企業も相次いで人員削減を決定。毛織の名門企業である日本毛織(ニッケ)は、繊維工場を閉鎖して跡地にショッピングセンターを建設し、不動産業に転身するなど、業界トップの各社とも赤字の繊維部門に苦しめられた。

    大企業のみならず、愛知県や福井県といった繊維の中小企業が密集する地域への経済的な打撃も大きかった。愛知県では、繊維産業の従事者が、成長著しい自動車産業に転職するなど、かつて黄金時代を謳歌した繊維産業は1971年のニクソンショックを境に衰退期に突入する。

    日経ビジネス(1975年)

    繊維業界に対する不況の風当たりはひときわきびしい。基盤が固まったかにみえたトップ企業東レの経営も、不況の嵐に巻き込まれている。ナイロン企業化で得た優位性を十分生かすことができなかった...(中略)...東レは、利益率の低い繊維業界の中では数少ない高収益会社で、わが国を代表する優良企業に数えられていた。

    1975/1/6日経ビジネス「東レ・繊維救済行政で報われぬ経営努力」


    セーレンと川田達男

  • 1899年 福井県に京越組が発足(精錬/染色加工)
  • 1913年 福井精錬加工を設立(県内業者の集約)
  • 1951年 社運を賭けて合繊加工工場を新設
  • 1952年 ベンベルクの加工技術を開発(旭化成向け)
  • 1952年 東レとナイロン染色加工で契約
  • 1958年 増資(旭化成と帝人が大株主になる)
  • 1958年 ポリエステルの加工技術を開発(帝人向け)
  • 1960年 新田第一工場の竣工(旭化成向け)
  • 1962年 川田達男が新卒入社し1年目で左遷
  • 1972年 川田達男が「川田軍団」を勝手に結成
  • 合繊メーカーの下請けとして発展

    セーレンは明治時代に福井県に発足した染色加工業者にルーツがある。当時は無数の染色加工業者が存在したため、染色加工の機械化および経営の近代化を図るため、各社が合同して1913年に福井精錬加工(セーレン)が発足した。当時は、福井県の輸出製品だった羽二重(ハンカチ生地)向けの染色事業を主体としていた。

    セーレンの転機は1951年に新設した合成繊維向けの精錬工場の新設である。当時は合成繊維が本当に普及するかはわからない時代であったが、黒川誠三郎(セーレン社長)は合成繊維の委託加工の需要が伸びると判断。投資金額1億円(セーレンの資本金は5000万円)という社運をかけた投資を実行した。資金は日本開発銀行と日本勧業銀行から調達している。

    そして、1952年にセーレンは旭化成のベンベルクの委託加工を開始。続いて1952年には東レのナイロン、1958年には帝人のポリエステル繊維(テトロン)の委託加工を開始し、合成繊維の黎明期に合成繊維の主力メーカーの需要を取り込むことに成功した。

    1958年の増資に際して、旭化成と帝人がセーレンの大株主になるなど、セーレンは合成繊維大手の下請けとして業容を拡大した。1962年にセーレンは株式を上場し、福井県を代表する繊維会社へと成長を遂げる。

    1972年の時点で、セーレンの受注高の大半は大手メーカーからのもので、旭化成が全受注高の25%、帝人が20%、東洋紡が14%、ユニチカが10%、クラレが10%であり、ほぼ全ての合成繊維メーカーと取引があった。[1972/12投資経済]

    入社1年目に左遷された川田達男

    川田達男。福井県生まれ。実家は輸出用の布を織る機屋を営んでいた。1958年に明治大学経営学部に入学。大学時代は難関と言われた土屋教授(日本経済史)のゼミに所属。ゼミでは東レや住友セメントなど当時の花形企業の工場にも見学に赴いた。

    1962年に川田達男は明治大学経営学部を卒業し、福井県の一流企業であったセーレンに入社。セーレンのROAは1950年〜1962年の平均が約15%という好業績であり、1962年には株式を上場したピカピカの会社であった。福井県内では福井銀行とセーレンの2社が大学生の就職人気先であり、川田は応募者500名、合格者3名という難関を突破してセーレンを入社。川田の両親は大喜びしたという。

    ところが、入社直後に川田はセーレンのビジネスに不満を抱く。セーレンは商品企画や販売に力を注がず、旭化成や東レなどの大手合成繊維メーカーからの下請け加工を黙々と引き受けており、この点に疑問を抱いた。

    このため、川田は、新入社員研修の実習日記に「セーレンの常識は、世間の非常識」と書き続けたところ、上司は入社1年目の川田を左遷してしまう。同期入社の社員が本社の総務部や財務部などのエリート部署に配属される一方、川田は例外的に工場配属となり、5年間現場で勤務した。このため、周囲の人は川田を「お前のサラリーマン人生は終わった」と揶揄されたという。

    川田達男(2017年)

    新入社員研修で記入する日誌に会社の問題点を毎日のように書くようにしました。

    「頭脳がない手足だけの会社だ」「経営機能に欠けている」 、入社したばかりの若造が会社の経営を批判し続けるのですから、経営陣の逆鱗(げきりん)に連れてしまったのでしょう。研修の後半で私への風当たりも強くなり、不穏な空気も感じるようになっていました。

    2017/4/6日経産業新聞p20「仕事人秘録・川田達男」


    ニクソンショック(為替の変遷)

  • 1945年 第二次世界大戦の終結
  • 1947年 冷戦の勃発
  • 1949年 固定相場1ドル360円を設定
  • 1960年 資本自由化の大綱を発表
  • 1965年 米国の対日貿易収支が赤字へ
  • 1968年 日米繊維摩擦(輸入規制)
  • 1969年 日米鉄鋼摩擦(輸出自主規制)
  • 1971年 ニクソンショック(1ドル308円)
  • 1973年 変動相場制に移行
  • 1981年 日米自動車摩擦(輸入規制)
  • 1985年 プラザ合意(円高進行)
  • 1987年 日米半導体摩擦(報復関税)
  • 1988年 日本企業で財テクがブームに

  • 為替相場の推移(円/1ドル)

    単位:円/ドル(基準相場)

    出所:総務省統計局・長期統計「18-8外国為替相場」、2005年以降は年間平均レートを記載


    1ドル360円の固定相場制

    1945年の第二次世界大戦の終結により、世界は資本主義を標榜する米英陣営と、共産主義を標榜するソ連陣営に二分化された。1947年頃に米国とソ連の対立が表面化し、冷戦が勃発する。

    このため、米英は共産勢力の封じ込めを行うため、日本や西ドイツの資本主義化を推し進める。この武器となったのが、固定相場制であった。米国は日本および西ドイツ製品の積極的な輸入を通じて両敗戦国を経済的に豊かにし、困窮する人々につけ込む共産勢力を封じ込めることを画策した。

    1949年4月25日にGHQは「1ドル=360円」という固定為替相場の導入を決断。将来日本経済が発展した場合でも相場を固定することで、日本の輸出競争力を強化することを目論んだ。また、国際競争力の強化により日本企業の雇用を拡大させることを重視する。

    GHQによる固定相場制の策定は、日本政府にとって非常に有難い決定であった。このため、1949年に日本政府はGHQに対して「感謝に堪えない」という論旨の声明文を発表し、日本国民に対して輸出を振興するように発破をかけた。

    日本政府声明(1949年)

    本日、連合国軍総司令部渉外局発表をもって為替レートの設定が公表された。政府はかねてより一本為替レートの設定に対する準備を着々と進めてきたが、今回政府の希望した点に近い360円にレートが設定されたのは、米国ならびに司令部当局の御高配によるところであって感謝に堪えない。

    これによって輸出貿易の振興は期して待つべきものがある。しかし貿易資金の操作による従来のいわゆる温室経済から、今や激しい国際競争に乗り出ようとする、わが国経済の将来については、国民諸君はさらに覚悟を新たにしなければならない。

    日本経済の自立と安定、究極における国民の完全雇用と国民生活の安定のためには国際経済基盤につながった上に生産の増強と輸出振興をはかるほかないことは国民のひとしく認めるところであり、今回の為替レート設定はそのための第一歩である。日本経済がさらに重大な一歩を進めるにあたって、政府としても万全の措置をとるが、国民諸君の理解ある協力と今後の一層の努力を切望する。

    1949/04/24読売新聞朝刊p1「1ドル・360円」

    資本自由化問題

    日本企業は1ドル360円の固定相場制を通じて、欧米に製品を輸出することで外貨を獲得。1950年代の輸出製品の花形は、天然繊維製品、合成繊維製品、ミシン、おもちゃ、カメラ、時計、船舶などが中心で、これらの製品を輸出する日本企業は急成長を遂げる。

    特に、造船分野は固定相場制(円安)に裏付けられた日本の安い労働力が強みとなり、米英の競合企業を相次いで駆逐。日本は世界一の造船大国となり、注目を浴びた。

    日本経済が復興にするにつれ、米国政府は日本市場を開放するように要求。すなわち、日本に外資企業が進出する門戸開放を求めた。だが、自動車などの一部の産業分野では米国企業が圧倒的に強いと考えられたため、通産省を中心として市場開放を先延ばしするように奔走した。

    (解説)1950年代の日本へ外国企業が単独進出することは不可能であり、日本企業への技術供与などを含めた合弁での進出がほぼ唯一の手段であった。日本進出の代表例は、フィリップスと松下電器の合弁(松下電子)である。

    だが、米国の要請に応える形で、1960年6月24日に日本政府は"貿易・為替自由化計画の大綱"を発表。外国企業が日本進出できるよう、段階的に資本自由化を実施する大方針を決めた。

    この頃になると、米国の大企業は世界進出のために成長著しい日本市場に着目。飲料のコカ・コーラ、建設機械のキャタピラー、乗用車のGMおよびフォード、合成洗剤のP&G、写真フイルムのコダック、複写機のゼロックスの各社が日本進出を本格化させた。一方、迎え撃つ日本企業は巨大外資の日本上陸に恐れをなし、経営者は生産合理化などの防衛策を急いだ。

    日本政府声明(1960年)

    貿易や為替の自由化は、IMFやガットの精神に明らかなように、各国の経済交流を活発にし、世界経済全般の発展を図るための基本的な方向であるが、最近では世界経済の大きな流れとして進展を見せており、わが国としても、国際社会の一員として、このような自由化の体制に積極的に順応してゆくことが必要になってくる。

    クリックで続きを表示

    資源に乏しく人口の多いわが国経済が今後長期にわたって発展するためには、世界の経済交流の進展に即応しつつ、海外諸国との自由な交易をいっそう拡大してゆくことが不可欠の要件であると考えられるので、自由化を極力推進することは、世界経済の発展のための国際的要請たるのみならず、わが国経済自体にとって、きわめて重要な課題となっている。

    これまでわが国は、戦後の復興と国際収支上の困難のために、貿易や為替の管理を行ってきたが、ここ数年、国際収支の好転、外貨準備の増加に応じて、順次その制限を緩和し、自由化を進めてきたのである。しかも最近の日本経済は、その高い経済成長を国内物価の安定と国際収支の黒字基調の下に達成しつつあり、今後とも施策よろしきを得れば、高度成長の維持と相まって自由化をさらに推進しうるものと判断される。

    このような自由化への内外の情勢にかんがみ、この際、貿易と為替の制限を積極的に緩和し、経済的合理性に即した企業の自主的な創意と責任をいっそう重視することは、わが国経済に対して多くの好ましい効果を期待することができる。すなわち、自由化により、従来の管理統制に伴う非能率や不合理性は排除され、低廉な海外原材料などの自由な入手がいっそう容易となる。産業のコストは引き下げられ、企業は国際的水準における合理化努力を要請されるなど、自由化は経済資源のいっそう効率的な利用を可能にし、経済の体質改善を促進するとともに、広く国民の生活内容の向上に寄与し、わが国経済全体の利益を増進するものである。

    しかし、実際に自由化を促進するにあたっては、まず長年にわたり封鎖的経済の下で形成された産業経済に及ぼす過渡的な影響に十分考慮を払う必要が有る。また、わが国経済は西欧諸国と異なり、過剰就業とこれに伴う農林漁業における零細経営や広い分野の中小企業の存在などの諸問題を包蔵し、また育成過程にある産業や企業の経営、技術上の弱点など多くの問題を有している。そのうえわが国をとりまく国際環境についても、欧州共同市場のように安定した協力経済圏を持っていないことやわが国に対しなお差別的な輸入制限措置がとられている例が多いことなどについて注意する必要がある。

    したがって、自由化の推進にあたっては、わが国経済の特殊性に対する慎重な配慮を払いつつ、順序を追った計画的な実施を図るが、自由化はわが国の長期にわたる経済発展の基礎を固める重要な方策であるので、貿易や為替の自由化とこれに伴う経済の自由は運営が、わが国経済に積極的利点を与えるという基本認識のもとに、内外にわたる経済政策の展開と相まって、これを強力に推進する。

    1960/06/24日経新聞夕刊p1-2「自由化計画の大綱決まる」

    ニクソンショック

    1960年代も日本企業は輸出を通じて業容を拡大した。鉄鋼や合成繊維などの大型産業は急成長を遂げ、米国企業を凌駕しつつあったことから、米国政府は日本企業の攻勢を本格的に問題視した。

    そして、1965年に米国における対日貿易収支が赤字に転落。このため、米国政府は繊維と鉄鋼の分野で日本製品の輸入を問題視して制裁を加えたため、日米間の貿易摩擦が勃発した。だが、日本政府は輸出の自主規制を行って対処したため、深刻な貿易摩擦には至らなかった。

    だが、輸出入の規制だけは日本企業の輸出攻勢は止まらなかった。

    そこで、1970年代に米国政府は日本企業の競争力の源泉である「1ドル=360円の固定相場制」にメスを入れる方針を決めた。1971年にニクソン大統領は声明文を発表し、実質的な円の切り上げを決断。1971年12月20日から1ドル=308円の固定相場制に移行し、1978年からは固定相場制を廃止して変動相場制を採用した。

    ニクソン声明(1971年)

    第二次大戦終了当時、欧州とアジアの主要産業国家の経済は破壊されていた。これら諸国の自立を助け、その自由を守るため、アメリカは1430億ドルにのぼる対外援助を供与した。これは、われわれがなすべき正しいことであった。

    今日、主としてわれわれの援助によって、彼らは活力をもり返し、強力な競争者となった。これら諸国が経済的に協力となった現在、彼らが全世界の自由を守る重荷を公平に分担すべき問いが来た。交換率を改め、主要国が平等に競争する時が到来したのである。

    クリックで続きを表示

    戦争の脅威が減退するとともに、平和競争の挑戦が高まってきていることは確信をもっていえる。アメリカはこの挑戦を歓迎する。なぜなら、アメリカは、競争を求められた時、最善を発揮するのである。どの国もアメリカとの競争を恐れる必要はない。(中略)アメリカの将来にかけよう。そして過去に偉大な国を建設し、未来の世界を形造るわれわれ自身に対する確信を再び強めよう。

    1971/08/16読売新聞夕刊p2「ニクソン演説全文」

    1971年の時点で多くの日本人は1ドル=360円を当たり前の事実として認識していたため、円高ドル安という非常事態に日本経済界に衝撃が走った。

    ニクソンショックを境に輸出に頼っていた日本の繊維や造船の各産業の国際競争力が低下。円高ドル安の進行によって、日本ではなく韓国やシンガポールなどの新興国が国際競争力をつけたため、一部の企業はは東南アジアに生産拠点を移すなどの対応に追われた。

    一方、円高ドル安の進行により日本人の海外渡航のコストが大幅に低下するという恩恵を受けた。1966年には成田国際空港が開業し、ジャンボジェットによる航空の大量輸送時代が到来したため、日本のビジネスマンによって海の向こうの外国が身近な存在になった。このため、日本企業の国際化がブームとなる。

    日経ビジネス(1971年)

    1ドル360円は、永久不変であると考えてきたのに、"為替レートは動くもの"という前提に立った企業戦略が必要だ。360円を不変とするから、わずか2〜3%の利益幅の輸出を可能にする。それ日本の輸出競争力でもあった。...(中略)...使い捨て商品の多くが、発展途上国からの輸入品で間に合い、日本企業は高級品生産に特化しなければならない。

    クリックで続きを表示

    交通・通信手段の発達によって、世界は相対的に小さくなり、国際交流はますます盛んになってくる。そのため、かえってナショナリズムや大国のエゴイズムが力を得ているようにみえるが、国際経済面での相互依存度は増加しており、この傾向はもはや覆すことはできない。こうした中で、日本の国際化はどういう方向をたどるか、また日本企業の多国籍化はどのように進んでいくか、これが1970年代の大きな焦点の一つである。ずばりいって1970年代は日本の国際化であり、日本企業の多国籍化の時代である。

    1971/08/16読売新聞夕刊p2「ニクソン演説全文」

    プラザ合意

    1970年代の円高ドル安の進行によって繊維や造船といった労働集約産業は国際競争力を失い、各社は人員削減などに明け暮れた。繊維の名門企業である東レや、世界一の造船会社であった石川島播磨重工業(IHI)、海運の名門企業である日本郵船も人員削減を行うなど、労働集約産業における雇用維持が極めて困難となる。

    他方、自動車や半導体の各分野では円高の進行にもかかわらず日本企業が競争力を維持。半導体分野ではDRAMで日本電気(NEC)が世界のトップ企業となり、自動車分野ではトヨタとホンダが燃費の良い小型乗用車の輸出で米国を席巻した。

    米国政府は日本企業の先端分野における想定外の強さを問題視する。折しも、ソ連が弱体化して冷戦が終結しつつあったため、米国は日本企業の競争力を徹底的に削ぐ道を選択。1980年代に深刻な日米貿易摩擦が勃発した。

    1985年9月22日先進主要国でプラザ合意を実施し、参加国は円高ドル安を強烈に推進する方向で一致。米国政府は円高ドル安によって日本の全産業の国際競争力を削ぐことを目論む。

    1985年以降に円高ドル安が急速に進行し、1990年代に入ると1ドル100円割れの水準に到達する。円高の猛烈な進行により、日本企業は国際競争力を低下させ、労働集約産業を担い手は台湾、韓国、中国といった新興国に引き継がれた。

    日本企業の経営者は円高による収益の悪化をカバーするため、1980年代に財テクや不動産投資などの金融投資に奔走。しかし、1990年代に日経平均株価が暴落すると財テクの失敗による損失が露呈してしまい、日本経済に禍根を残した。

    オリンパス社長・下山敏郎(1987)

    財テクはあくまで本業をサポートするのが基本。やり過ぎはいけない。例えば為替のディーリングまでメーカーはやるべきでないと思います。大きな損を出されては困る。しかし、本業が苦しい時には財務にも稼いでもらいたい...(中略)...金融収支だけに頼る経営は邪道ですが財テクもやらずに減配に追い込まれ、結果として株主に不信感・不安感を与えるようでは経営者として失格と言われても仕方ないでしょう

    出所:1987/4/19日本経済新聞朝刊p13「オリンパス工学工業社長下山敏郎氏・円高を機に積極運用」


    オリンパス元社長・下山敏郎(2011)

    (筆者注:東洋経済記者の質問)80年代後半は各社が財テクに走った時代。下山氏の在籍中に財テクをしていたという認識はあるのか

    (筆者注:下山敏郎の答え)それについてもまったく知らない。...(中略)...財テクをしていたということも、投資した案件が目減りしていたということも知らなかった。

    出所:2011/11/19週刊東洋経済


    [決断]合繊カーシートの開発

  • 1972年 川田達男が製品開発部の係長に就任
  • 1976年 合成繊維カーシートの開発に成功
  • 1977年 トヨタ自動車「コロナ・マークⅡ」に採用
  • 1979年 川田達男が製品営業部長に就任
  • 1981年 川田達男が取締役に就任
  • 1981年 名古屋営業所を設置
  • 1983年 マツダとの直接取引を開始
  • 1988年 ホンダと取引開始
  • 1. 自動車用シートに着目

    1972年に川田は製品開発部の係長に就任したが、そこはセーレンの左遷部署であった。仕事内容についても、川田は「何でもいいから勝手にやって」という抽象的な指示しかなされなかったという。そこで、川田は自分と同じように曲者扱いされていた3人の部下で"川田軍団"を結成し、新規事業の開発に乗り出す。

    川田軍団は、靴の中の敷物、傘の布地、乳母車の生地など、製品の用途をいろいろ考案する中で自動車用シートに着目。自動車メーカーの担当者との雑談で塩化ビニール製よりも付加価値の高いものが欲しいという要望を聞き出したことが最初の発端であった。そこで、川田軍団は自動車用シートを合成繊維で製造する事業を発案する。

    繊維のカーシートの問題は耐久性であった。ウールなどの天然繊維は耐久性に劣るため、自動車用シート素材には適していなかったため、川田は天然繊維ではなく合成繊維に目をつける。

    当時、同業他社でもカーシートの合成繊維化の研究が行われていたが、いずれもナイロンを用いていた。だが、ナイロンは日光と磨耗に弱かったため、酷使されやすい自動車の座席には適していない素材であった。また、もう一つの合成繊維であるポリエステルは光や摩擦に強いものの、強度が強すぎるために起毛加工が難しいという難点があった。このため、カーシートには繊維は適さないという常識が業界の趨勢であった。

    そこで、川田軍団はポリエステルとナイロンという性質の異なる合成繊維を混ぜ、自動車用シートに適した新しい繊維を開発することを発案。だが、社内の技術陣は実現可能性に疑問を抱いたため、川田軍団の提案に反対した。このため、川田は昼間にカーシートの研究をすることが難しかったので、川田はかつて5年間勤務していた工場の仲間を味方につけて、終業後の夜間にカーシートの開発に勤しむ。

    しかし、川田の直属の部長は「こんな製品の開発なんてやめろ」と川田軍団をけん制。だが、セーレンの前田副社長が新規事業に理解を示したため、川田は何とか研究開発を継続することができた。

    そして、1976年に川田軍団はナイロンとポリエステルの交編トリコットのセミカット加工に成功。高強度のポリエステルを起毛させるための"ヘッド"の技術開発がブレークスルーとなり、高品質の合繊カーシートの開発に成功した。

    川田達男

    試作をつくることだけでも社内で認められませんでしたから、社内の反応は非常に問題でした。昼間にやると管理者がいて、そんなものやるなというのでやらせてもらえません。幸い我々は5年半工場にいたということの人間関係で、夜中に夜勤でみんな持って行って、そこでつくって、朝担いでお客さんのところへ持っていくとか、社内対策が一番大変でした

    セーレン経営史

    2. トヨタ自動車に納入

    1976年に合繊カーシートを開発し、川田軍団はトヨタ自動車からの受注に成功した。その直後に、トヨタの関係者による工場査察を受けることになったが、トヨタの担当者はセーレンの生産現場の拙さに憤慨して「帰る」と言い出し、川田軍団は失注の危機に陥った。

    問題はトヨタとセーレンの生産思想の違いにあった。セーレンでは工場をフル稼動することが良いとされており、在庫は必要悪と考えられていた。だが、トヨタはジャストインタイムを標榜して在庫を可能な限り減らすことを絶対視ていたため、双方で認識の食い違いが生じてしまう。

    川田達男はすぐにトヨタ自動車に赴いて謝罪するものの、トヨタの担当者は発注を拒絶した。そこで、川田は黒川会長を伴ってトヨタ自動車を訪問し、受注を確定させた。

    1977年にセーレンは合成繊維カーシート「シルエット」をトヨタ自動車に納入。シルエットはトヨタの新型高級車「コロナ・マークⅡ」に採用された。トヨタに続いて、セーレンは日産自動車、三菱自動車への納入に成功。1988年にはホンダとの取引を開始し、国内の全自動車メーカーと取引した。

    (補足)セーレンはトヨタ自動車への納入に成功したものの、当時の流通経路はセーレン〜二次商社〜一次商社〜自動車メーカーという流れで、途中でマージンが取られる商習慣が存在した。そこで、セーレンは自動車メーカーとの直接取引を行うために、商社外しを画策。具体的には、セーレンが設備投資をする際に資金の一部負担を二次商社と一次商社に要請し、リスク負担のできない商社を商流から外していった。直接取引は1983年のマツダへの納入が最初で、以降、約20年をかけて徐々に商社を排除。2004年にセーレンは商社を完全に排除し、自動車メーカーとの直接取引にこぎつけた。

    3. 仕入先からの借金で生産拡大

    1984年にセーレンは自動車メーカーからカーシートの発注を3倍に増やしたいとの意向を受ける。だが、セーレンの祖業は染色加工であり、生地を製造する設備に乏しかったため、工場を新設する必要が生じた。

    だが、総投資額15億円という金額にセーレン本社は尻込みし、投資に躊躇した。そこで、川田達男は取引先である帝人と伊藤忠から合計14億円の融資を受けることで資金を調達。1985年に子会社セーレンケーピーを設立し、ドイツ製の編機を導入し、カーシート向けの生地の本格的な量産を開始した。

    川田達男(2017年)

    社内外とも、ものすごく抵抗がありました。社内でも、あの当時、「あいつは気違い」と言われました。今、そんな言葉を言うと大変ですけど、気違い扱いされました。...(中略)...お金はないものですから、会社が出してくれたお金というのはほんのわずか、1億円ぐらいです。あとは、帝人と伊藤忠で借りてきました。それも、出資じゃなしに借入です。

    2017大学史紀要「2017年10月23日セーレン川田達男会長インタビュー」


    カーシートでグローバルシェアNo.1

  • 1986年 Seiren U.S.A. Corp.設立
  • 1987年 川田達男(47歳)が代表取締役社長に就任
  • 1987年 セーレンの全役員を降格処分
  • 1989年 Viscotecsを確立
  • 1996年 サハセーレン設立(自動車内装・インド)
  • 2002年 世聯汽車内飾設立(自動車内装・中国)
  • 2005年 カネボウ繊維事業を営業譲受
  • 2011年 川田達男が代表取締役会長に就任
  • 川田達男の社長就任

    トヨタ自動車への納入の成功により、セーレンの自動車資材部門は1979年に売上高33億円、売上高営業利益率10.2%という高収益事業に育った。折しも、セーレンの本業である染色加工はニクソンショック以降の繊維不況により不振を極めたため、社内で川田軍団に対する見方は180度変わった。

    1979年に川田達男は製造営業部長に就任し、1981年には取締役に就任。そして、1987年にセーレンの黒川社長は「このままではセーレンは潰れかねない。君に経営を託したい」2017/4/17日経産業新聞p20という意向を川田達男に伝え、川田は47歳の若さでセーレンの代表取締役社長に就任する。

    川田達男(2017年)

    われわれの仕事はどんどんやりましたけど、87年の社長になったときの2,500人のうちわれわれの仕事をやったのは100人ぐらいです。2,400人は従来の主力の仕事をやって赤字を垂れ流していました。そこで存亡の危機を迎えるわけです。

    ...(中略)...あのころでだいたい20億円ぐらいの損を出しています。だから、経営がないのです。ちゃんとそういう経営としての戦略とか情報とかをしっかり取ってわれわれがその中でやっているかというと、情報なしに、言われるままについて行っているという感じです。頭がないのです

    2017大学史紀要「2017年10月23日セーレン川田達男会長インタビュー」

    就任直後に川田は全役員の降格を意図し、副社長・専務・常務の役付取締役を廃止する組織変更を実施。祖業である精錬事業の不振の責任を明確化した。

    また、川田は新しい経営方針として”非衣料・非繊維化"の推進を掲げ、合繊カーシートのほかに、エレクトロニクス、メディカル、ハウジングの各分野を強化する方針を示し、祖業である"精錬・染色加工"と実質的に決別。セーレンの大転身は経済メディアからの注目を浴びた。

    日経ビジネス(1988年)

    ジリ貧の染色下請けから脱却を図った染色加工大手のセーレン。長年培った染色技術をもとに自動車用内装材などの開発に成功、売上高の5割強を占めるまでに至った。昨年昇格した47歳の川田社長のもとで今後はエレクトロニクスや医療分野などへの本格参入を目指す。創業以来の色あせた暖簾を下ろし、漸く本来企業として在るべき姿に脱皮した。

    1988/7/18「セーレンの蘇生・創業100年にして「起業」に目覚める」

    自動車部材のグローバルメーカー

    1990年代を通じてセーレンは祖業の精錬から合繊カーシートへの業態転換を成し遂げ、自動車部品メーカーとして成長する。だが、同時期に自動車メーカーは海外現地生産を開始したため、セーレンの国内自動車資材事業の売り上げは1992年度をピークに減少に転じた。ちなみに、1980年代後半にセーレンは米国進出を目論むものの、合弁相手との様々な事情で立ち上げに失敗。カーシートの海外現地生産では遅れを取ってしまった。

    それでも2000年代を通じてセーレンはタイ、中国、米国でのカーシートの現地生産を本格化。グローバル展開を本格化させて売上高を増大させた。特に、タイと中国における車両資材事業の売上高営業利益率が高く、2013年の時点で同事業の米国の利益率は約5.7%(売上89億円)、タイは同9%(売上111億円)、中国は同14.1%(売上高113億円)をとなっている。[セーレン経営史]

    2018年の時点でセーレンはカーシートで世界シェア15%(No.1)を確保[セーレン新卒採用web]。2018年にセーレンはカーシート分野で海外を中心に40億円の投資を発表しており、同事業の売り上げを1000億円に伸ばすことを目標として掲げている。


    セーレン(自動車内装事業)売上高 - 過去推移

    単位:億円

    出所:セーレン経営史、セーレンIR資料

    注:95年度までは単体決算


    自動車内装事業・売上高営業利益率 - 過去推移

    単位:%

    出所:セーレン経営史、セーレンIR資料

    注:95年度までは単体決算


    参考文献

    新聞・雑誌記事

    1960/06/24日経新聞夕刊p1-2「自由化計画の大綱決まる」

    1971/08/16読売新聞夕刊p2「ニクソン演説全文」

    1975/1/6日経ビジネス「東レ・繊維救済行政で報われぬ経営努力」

    1987/4/19日本経済新聞朝刊p13

    2011/11/19週刊東洋経済

    2017/4日経産業新聞「仕事人秘録・川田達男」(連載)

    書籍・その他

    会社四季報

    セーレンIR資料

    セーレン経営史

    セーレン百年史

    大学史紀要「2017年10月23日セーレン川田達男会長インタビュー」

    長期統計(統計局)

    有価証券報告書


    事例一覧