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小野田セメント - 安藤豊禄

経営者の決断 小野田セメント 成熟期 名門の悲劇 セメント世界シェアNo.1 コンピューター活用 事務作業の合理化

小野田セメントは戦前に日本内地ではなく、朝鮮半島〜中国大陸で業容を拡大した。

イラスト:筆者作成

決断サマリー

日本で初めて"コンピューターによる事務作業の合理化"を実行した大企業

  • 明治時代に失業士族が小野田セメントを起業
  • 明治維新後に大量の士族が失業する中で、山口県の下級士族・笠井順八は故郷の発展を願って起業した。地元で採れる石炭と石灰石を活用したセメント製造に乗り出す。起業に際して、旧藩主の毛利家や、明治政府が金融支援を実施しており、長州閥の全面的な支援のもとで事業をスタートさせた。

  • 戦前は朝鮮半島と中国大陸がドル箱に育つ
  • 小野田セメントは戦前に朝鮮半島と中国大陸におけるセメントの現地生産で業容を拡大した。日本国内(内地)は浅野セメントのシェアが高く、価格競争も厳しかったため、小野田セメントは内地事業の赤字を外地の利益で補填していた。このため、当時の新聞は小野田セメントについて「大陸経営に最も積極的にして、然も最も成功せる」と評価した。

  • 終戦直後に販売・生産・事務の近代化を実施
  • 終戦後に小野田セメントは外地工場を閉鎖したため、外地人員を国内工場で吸収する必要が生じた。余剰人員を抱えた小野田セメントは再起不能と噂されたが、安藤豊禄(小野田セメント・社長)は積極的な設備投資を実施することで社員に仕事を与えた。生産面では改良焼製法によるコストの削減、販売面ではサービスステーションの充実による輸送コストの削減、さらに事務作業の合理化を図りつつ、セメントの製造設備に積極的に投資した。

    特筆すべきは、事務作業の効率化のためにコンピューターを活用した点である。安藤社長は自社で30名のコンピューター技術者を養成し、当時最新鋭のIBMやユニバックの機械を導入した。だが、一部の社員は失業を恐れて、オートメーションに反対する。このため、安藤社長は労働組合に対して、合理化で生じた余剰人員を関連子会社に配置転換することで雇用確保を約束した。

  • 本業の低迷により赤字転落。コンピューター技術者は他社に流出
  • 積極投資と近代化投資によって、1962年に小野田セメントはセメント生産量で世界No.1の会社となった。事務の合理化についても、日本の大企業におけるコンピューター活用の先駆的事例として国内で注目を集めた。

    ところが、1960年代に財閥系石炭会社が相次いでセメント分野に進出。セメント業界内の競争が激化し、1965年に日本経済が一時的な不況(昭和40年不況)に陥った際に設備過剰が表面化した。このため、小野田セメントは1965年に赤字に転落。全社的な人員削減の実施し、コンピューター部門の縮小も決定された。このため、自社で養成したコンピューター技術者は他社に流出したという。

  • 1993年に秩父セメントと合併を決断して消滅
  • 1973年のオイルショックにより日本の高度経済成長は終焉を迎え、セメントの需要の低迷期に突入した。セメント各社は過剰設備に悩まされ、業績が悪化。1982年に通産省はセメントを構造不況業種に指定し、業界再編を率先した。1993年に小野田セメントは秩父セメントとの合併を決断し、単独企業としての歴史に終止符を打つ。

    目次

  • 小野田セメント - 基本情報
  • 売上高 - 過去推移

    売上構成比 - 過去推移

    純利益率 - 過去推移

    単体従業員数 - 過去推移


  • 小野田セメントの歴史
  • 1870年代 武士の失業問題

    1900年代 小野田セメントの発展

    1930年代 ドル箱の朝鮮/満州工場

    1940年代 終戦〜ドル箱を失い経営危機へ


  • [決断]経営の近代化を推進
  • 1950年代 1. 販売設備の近代化

    1950年代 2. 生産設備の近代化(改良焼製法)

    1950年代 3. 事務の近代化(IBM機械の導入)

    1950年代 4. 雇用確保のために子会社を設立


  • 構造不況により業界再編へ
  • 1960年代 競争激化により赤字転落

    1960年代 コンピューター技術者の流出

    1990年代 構造不況〜小野田セメント消滅


    小野田セメント - 基本情報

    売上高 - 過去推移

  • 高度経済成長期の旺盛なコンクリート需要に合わせて売上高を拡大。
  • 単位:億円

    出所:会社四季報


    売上構成比 - 過去推移

  • 売上高の中心はセメント。1960年代には川下のコンクリート分野に進出した。
  • 単位:%

    出所:会社四季報


    売上高純利益率 - 過去推移

  • 業界内の競争激化とともに利益率は悪化。1965年には経済不況の影響を受けて赤字に転落。
  • 単位:%

    出所:有価証券報告書


    単体従業員数 - 過去推移

  • セメント需要の減少、競争激化、合理化の進行により従業員数(単体決算)は激減した。
  • 単位:名

    出所:会社四季報


    小野田セメントの歴史

  • 1881年 小野田セメント創業
  • 1901年 三井物産と販売提携
  • 1917年 中国大陸に進出(平壌工場)
  • 1927年 大連工場の新設
  • 1929年 中央セメントを合併(八幡工場)
  • 1929年 川内工場を新設(朝鮮半島)
  • 1941年 阿哲工場を新設
  • 1932年 藤原工場を新設
  • 1938年 大分セメントを合併(津久見工場)
  • 1942年 東北セメントを合併(大船渡工場)
  • 1943年 恒見工場を新設
  • 1943年 東洋産業を合併(田原工場)
  • 1945年 終戦により外地資産を喪失
  • 武士の失業救済

    明治時代に入ると、それまで身分が保証されていた士族という階級が消滅。日本全国で武士や大名が失業したため社会問題となる。

    山口県では1873年の時点で総人口83万人のうち、約10%の約7.2人が士族の階級であった。失業士族の救済のため、山口県では士族のための会社を立ち上げる機運が高まる。1875年には山口県の萩で「木綿聚社」が創設され、県内で初めての士族授産企業となった。その他にも、覇城会社(海運)、豊浦士族就産義社(開墾・雑工業)などの士族授産会社が設立され、士族の雇用口を生む努力がなされた。

    1881年には長州藩の下級藩士であった笠井順八が「会社と地域の発展は不可分」という考えの下、山口県の瀬戸内海に位置する小野田にセメント製造会社(小野田セメント)を設立。明治政府からの借入金(士族授産金)と地元の旧藩主・毛利家も出資を受け、士族授産会社を立ち上げた。


  • 小野田セメント筆頭株主(1936年頃,保有割合)
  • 三井物産 14.8%(推定)

    毛利元道 7.2%(推定)

    毛利元照 6.1%(推定)

    三井生命 4.9%(推定)

    百十銀行 3.4%(推定)

    (補足)戦前までの小野田セメントの大株主は毛利家であり、小野田セメントの社長人事にも口を出す存在であった

    出所:会社四季報


    小野田セメントの発展

    笠井順八(小野田セメント・創業者)の狙いはセメントの国産化にあった。1881年の時点で日本におけるセメント製造拠点は東京深川に存在した「官営工場(のちの浅野セメント=日本セメント)」のみで、海外からの輸入に頼っていた。そこで、笠井は山口県の美称で採掘できる石灰石に着目し、日本国内におけるセメントの一貫生産を目論んだ。

    小野田は原材料を確保しやすい立地であった。石灰石は萩の美称地区で、燃料となる石炭は小野田の隣町である宇部の炭鉱から調達することが可能であった。このため、大正時代までに山口県の南部において、小野田セメント(セメント)と宇部興産(炭鉱)という2つの企業が業容を拡大した。

    販売面を強化するために、1901年に小野田セメントは三井物産と提携。三井物産は小野田セメントの株式を取得し、セメントの販売を担った。三井物産は1945年の終戦に伴う財閥解体まで小野田セメントの販売を一手に引き受けた。

    明治時代を通じて、日本国内のセメント需要が増大。港、鉄道、道路、橋梁の建設に大量のセメントが必要となり、日本各地の石灰石産地の近隣にセメント会社が出現した。1911年の時点で国内に21社のセメント会社が存在したという。

    神戸新聞(1912年)

    昨今全国のセメント会社は総計二十一会社にして其内大規模のもの十七会社にていまや需供の平衡を失し品不足を免かれず去れば株式界に於てもセメント株は一般に歓迎され居るのみならず前途尚晶騰の時機到来すべしとの推測を下し居るのもさえあり

    1912/9/7神戸新聞「セメント業の現況(上)」

    ドル箱の朝鮮/満州工場

    小野田セメントの転機は1919年の朝鮮半島への進出である。1919年に第一次世界大戦が終結し、日本経済が長い不況期に突入する一方、朝鮮半島や中国大陸ではインフラ建設が盛んとなりセメント需要が増大しつつあった。

    朝鮮半島には石灰石が豊富に存在したため、小野田セメントは平壌に工場を新設。小野田セメントの外地工場は、大陸でのインフラ建設に際してセメントを供給する重要な拠点となった。1930年代までに小野田セメントは朝鮮半島と中国大陸に巨大セメント製造工場を新設し、セメント生産量では国内に匹敵する規模まで拡大した。

    1930年代の小野田セメントの国内事業は赤字であり、外地の利益が全社の業績を支えていた。このため、戦前の小野田セメントは「大陸経営に最も積極的にして、然も最も成功せる」[1939/1実業の世界]と評されほどの優良企業となった。

    イラスト:筆者作成

    小野田セメント - 工場別生産能力(1936年頃)

    単位:月産トン

    出所:会社四季報

    注:*は外地(朝鮮半島/中国大陸)


    大阪朝日新聞(1935年)

    小野田セメントは平壌の東方二十六キロの勝湖里にある。附近一帯にセメントの生要原料たる石灰石が無尽蔵であり、工場背後の山は勿論工場敷地まですべて石灰石よりなっているのみならず、隣接地域に平壌無煙炭が豊富に産出され粘土まで工場内より掘り出されている状態であるから、生産コストは著るしく低い。現在年産能力三十二万トンであるが、需要の増加に応じてなお多量の増産余地がある

    1935/6大阪朝日新聞「諸条件に恵まれ”工業都市”平壌」

    終戦〜ドル箱を失い経営危機へ

    1945年の終戦により小野田セメントの外地工場はソ連に接収された。ただし、ソ連は最新鋭のセメント工場を大事にしたため、小野田セメントの関係者はシベリアに送られることなく、比較的優遇されたという。

    しかし、終戦直後の小野田セメントは外地勤務の従業員約1500名を、赤字を垂れ流していた国内工場に割り当てるという厳しい状況に直面した。また、戦前にセメント販売を担った三井物産が財閥解体の指定を受けたため、小野田セメントは自前で販路を開拓する必要が生じ、生産面と販売面の2つで大きな問題が生じた。

    終戦後の困難の中、1947年に安藤豊禄が小野田セメントの社長に就任。当時の小野田セメントの株価は27円という低水準であり、関係者からは「小野田社は再起不能」[1957/6東邦経済]と噂された。

    安藤豊禄(あんどう・とよろく):新卒入社2年目に朝鮮半島に配属され、新工場の立ち上げなどに従事。小野田セメントの外地事業を育て上げた立役者。戦時中に大株主の毛利家は安藤に次期社長に就任するようにオファーを出したという。終戦直後の1947年に小野田セメントの社長に就任した。

    安藤豊禄(1959年)

    二六工場あったうちで海外にあったのが三分の二ですよ。日本にあった三分の一の工場が残っただけで後は全部駄目になりまして、内地の八工場だけで再出発しなければならなかった。...(中略)...三分の一の残ったところに全部を収容した時はどうなるかと思ったねえ。戦前内地の八工場は魔とし赤字だったので海外の小野田セメントの利益を随分内地に送金していた。そのドル箱の満朝の工場がすっかりなくなって、損ばかりしておった内地の工場だけになったのだからねえ。結局乗るかそるかといういわば背水の陣を敷いて乾坤一擲の努力を展開したわけですね。

    1959/7東邦経済「セメントにかけた闘魂」


    経営の近代化を推進

  • 1951年 東京サービスステーションの新設
  • 1951年 各工場のキルンを新設(全溶接キルン)
  • 1956年 IBMの機械(パンチカードシステム)を導入
  • 1956年 労組と雇用維持を約束〜子会社を設立
  • 1959年 ユニバックよりコンピュータを導入
  • 1958年 改良焼製法の導入
  • 1. 販売の近代化

    セメントの販売上のネックは輸送コストであった。小野田セメントは山口県・岡山県・大分県・三重県といった西日本を中心にセメント製造を行っていたが、セメントの大口需要先はインフラ建設が盛んな東京などの都会であり、輸送コストの面で、関東に拠点を構える競合(日本セメントと秩父セメント)に比べて不利な立場であった。

    そこで、小野田セメントは輸送の近代化を図るために、全国12箇所の港湾にサイロを建設し、セメントを貯蔵するサービスステーションの設置を決断した。自社保有の輸送船を使い、自社のセメント工場からサービスステーションまで海上輸送を行うことで輸送費を削減。セメントを需要地まで安く運搬する体制を整えた。小野田セメントは同業他社に比べて港に面するセメント工場を数多く擁した点が有利に働いた。

    1957年の時点で小野田セメントのサービスステーションは12箇所、一方競合の日本セメントは8箇所、宇部興産は4箇所であり、販売設備の面で小野田セメントは優位に立った。

    安藤豊禄(1953年)

    私自身としては昭和7年にぜひこれをやりたいといって意見書を出したことがあります。若い時分です。だから私が社長になって一番先にそれをやろうと(笑声)二十年間抑えられておったので、多少ウップンを晴らしたことになるので(笑声)...(中略)...私の方には港工場が多いということもあるのです。六工場が海岸工場ですから、海で簡単に運ぶことを考えなければならない。

    1953/4新日本経済「安藤豊禄のセメント放談」

    2. 生産設備の近代化

    1951年に小野田セメントはセメント製造の近代化を図るため、熱効率の良いキルンの導入を決断。1957年までに12基の回転式全熔接キルンを新設(競合の日本セメントは6基新設)することで、生産の近代化を推進した。また、焼成後の冷却工程においても、当時最新鋭と言われたエアークエンチング・クーラーを19基導入(競合の日本セメントは15基)するなど、設備投資競争で日本セメントに先んじた。

    また、1958年に小野田セメントは最新鋭の改良焼製法の技術開発に成功。原料の石灰石を燃焼する際に、窯の中の化学反応を促進させて燃焼効率を良くする生産技術で、10%の生産コストの低減を実現した。

    1962年に小野田セメントは9工場で年産753万トン体制を確立し、世界シェア1位を獲得。2位の米ロンスター社は15工場で年産651万トン体制であり、小野田セメントは世界一のセメント会社として注目を集めた。

    東邦経済(1957年)

    設備の近代化も徹底している...(中略)...これら新鋭設備の採用で当社の設備はオートメーション化が進み品質の工場とコスト引き下げが大いにはかられている。

    1957/6東邦経済「成長力にあふれた小野田セメント」

    3. 事務の近代化(コンピューター導入)

    1930年に安藤豊禄はドイツを訪問。この時にドイツの大企業・クルップ社が活用していた計算機と出会う。安藤は計算機を用いて事務作業を効率化することを思いつくが、当時の計算機は高級品であったため、小野田セメントへの導入は一旦見送った。

    時を経て、1950年に安藤豊禄は事務機械化を本格的に推進する方針を掲げた。まず、1950年に安藤豊禄は機械に詳しい若手社員・南沢宣郎を抜擢。1962年までに、南沢をはじめ自社内で約30名のコンピューター技術者を養成しつつ、最新鋭のコンピューター設備への投資を推し進めた。コンピューター設備への投資の累計額は20〜30億円と言われる。

    まず、1956年に小野田セメントはIBMのパンチカードシステムを導入し、各種計算の合理化を実施。具体的な用途としては、従業員4000名の給料計算の機械化(計算人員を50名から2名に削減)、株主への配当計算の機械化(従来2ヶ月[毎日2時間・アルバイト20名で実施]の期間を、5日に短縮)などであった。特に工場の給与計算を本社に集中させた方法は、小野田セメントが日本初となり注目を集めた。

    [裏話コラム]1950年代の日本IBMは資金力に乏しい企業であった。そこで、業績が良かった小野田セメントは1956年に日本IBMに対してパンチカードシステムの輸入代金について、利息つきで貸し出した。

    安藤豊禄(1955年)

    日本の会社の規模もだんだん大きくなり、一方事務に使ういろいろな機械の方も驚くほど進歩してきた現在、十年一日の如くペンと算盤だけに頼る旧態依然とした事務のやり方で、果たして経営者として株主にいつも適正な配当をし従業員に十分な給与と安定した生活根拠を与え、さらに消費者一般の方に廉い良い製品を豊富に供給してゆけるかということは大いに慰問であると思う。結局生産技術の方はいうまでもないが事務の方もそれに劣らず近代化、機械化をしてゆかねば駄目である。

    私はいつも不思議に思っているのであるが、生産技術とか研究は実に目まぐるしいほど年々進歩してゆき、新しい技術の導入機械の新雪がどんどん行われてゆくのに反して、こと事務の面になるとこれまた驚くほど全時代的な方法が何の反省もなく繰り返されている事実である。...(中略)...時代は常に進歩している。経営者も常に新しい頭をもち、フランクな気持ちでもしよいものであればどしどし採用してゆくとともに、社員も従来の慣習に捉われることなく、研究と工夫とを凝らし、スムーズに全社員一丸となって経営の合理化に邁進して行きたい。

    1955/8経営者「事務機械化をどう進めるか」

    また、1959年に小野田セメントはユニバックのファイルコンピューター(1955年に注文した製品)を導入。日本で初めてコンピューターを導入した大企業となった。

    さらに小野田セメントは最新鋭のIBMのコンピューター(IBM650)を導入。顧客である電力会社(ダム建設)に対してコンピューター設備の貸し出しを実施するなど、業界最先端のコンピューターを持つ大企業として注目を集めた。

    安藤豊禄(1963年)

    (筆者注:IBMの機械に)二、三十億円入れたわけです。それがどれだけ業績に寄与したかと言われても一寸困るけど(笑)...(中略)...

    この間、関西電力の黒四ダムが完成しましたね、あの完成のウラには、うちのIBMの活躍があったのです。というのは、アーチダムは非常にむずかしい。いままではフランスのマルパッセが有名だった。そして日本にも来て講演して、日本の人もいいダムだと感心していたものです。ところが七割しか水が溜まらんのに、ダムが倒れて四百人の死者を出すという事件が起こった。そのため黒四が問題になり、もしアーチダムでやるのなら最初の設計にさらに補強しなければいかんと、世界銀行が言い出した。

    そこで関西電力では苦心されて、結局、こういうことをやればよかろうという案が立った。しかし、その計算でいいかどうかを検討するには三年はかかる。これをIBMでやると僅か一ト月以内でできちゃう。ところがその計算ができる設備はうちよりほかにない。そこで、うちに持ってきて計算をやった。その計算によって、やっと世界銀行も認めた。おかげで、関西電力は何百億円という金を出すところを出さずにすんだというイキサツがある。

    1963/9財界「総合化学をめざす小野田セメント・安藤豊禄」

    だが、コンピューターの活用に対しては社内で根強い反対があった。反対の理由は、(1)多額の投資を要すること、(2)従業員の解雇につながること、の2点であったという。

    安藤豊禄(1969年)

    わが社のコンピューター化は、たいへん順調に進んだように思われるかもしれないが、実は、コンピューターのほんとうの価値を知らないために、社内でもがんこに反対する人も多く、その存在価値が本当に理解され始めたのは、ここ二、三年のことであると言ってよい。コンピューターの導入に反対する人たちの理由を聞いてみると、第一に金がかかり過ぎることを理由にあげる人もあり、中には、人手を省く機械だとすれば、それは従業員の首切りにつながるのではないか、と真剣に反対する人おもある。しかし大部分はコンピューターというものを、ほんとうに理解していないための反対である。

    一般の人の最も陥りやすい通弊は、機械の装置の理屈を、自分の腹の中に入れなければ気の済まないことである。その仕組みがほんとうにのみ込めなければ、ウソかほんとうかわからぬと言って、決して計算機を信用しようとしないのである。そのために、機械と同じことを自分でも計算してみようとする。電子計算機の専門家ならばともかく、一般の人は、機械の仕組みのこまかいところまで完全にわかるとは思えないし、それはまた実際に必要のないことである。

    1969/8実業の日本「コンピューターを見つめて四十年・安藤豊禄」

    4. 雇用確保のために子会社を設立

    出所:1956/6/13読売新聞

    1956年に小野田セメントの経営陣は、同社労働組合との話し合いを実施。安藤豊禄は(1)余剰人員オートメーションの首切りは行わず関係会社に配置転換する、(2)転換先の給与とこれまでの給与との差額は会社側が補填する、の2点を提案。労働組合は経営陣の提案を受け入れ、小野田セメントは実質的な人員削減がスタートさせた。読売新聞は「オートメーション初の定員削減・配置転換で解決へ」[1956/6/13読売新聞]と報道するなど、小野田セメントのオートメーションによる定員削減に注目が集まった。

    1950年代を通じて小野田セメントはオートメーション化による余剰人員を吸収するために、小野田化学などの子会社を設立。セメントに関連する企業を立ち上げることで雇用口を確保し、子会社の数は約70社に及んだという。1964年までに小野田セメントは子会社の株式取得および融資に約120億円を投資している。

    (補足)1965年時点で、子会社のうち業績が良い企業は、帝国ヒューム管、朝日石綿、逆に業績が悪い企業は屋久島電工、小野田化学であった。


    構造不況により業界再編へ

  • 1960年 石炭各社がセメントに参入
  • 1962年 世界一のセメント会社
  • 1965年 希望退職者の募集
  • 1979年 阿哲工場(新見)を閉鎖
  • 1981年 北九州第一工場を閉鎖
  • 1985年 小野田工場でセメント生産を中止
  • 1984年 通産省がセメント業界を構造不況業種に指定
  • 1993年 秩父セメントと合併
  • 1998年 日本セメントと合併→太平洋セメント
  • 石炭組の参入で競争激化

    1962年に日本政府は石油輸入の自由化を実施し、日本の石炭産業の斜陽化が確定的となった。このため、三菱・三井・住友・麻生といった石炭の名門会社は、企業の存続をかけてセメント事業に本格参入し、セメント業界における競争が徐々に激化した。

    安藤豊禄(1963)

    住友、三菱、また三井鉱山にしても、石炭鉱業が斜陽になったので、多角経営にその活路を拓こうとした。だいたいセメント事業というものは、"焼く"ということを別にすれば、石炭を掘るのも石灰石を掘るのも事業的にやや似たところがある。上と下の違いだけで、下より上のほうが楽ですからね。一方、セメントは陽の当たる産業。そんなところから、セメントに進出されたといっていいでしょう。

    1963/9財界「総合化学をめざす小野田セメント・安藤豊禄」

    競争激化により赤字転落

    1965年に日本経済は一時的な経済不況(昭和40年不況)に突入し、1965年3月期に小野田セメントは赤字に転落。苦境を打破するために1000人(全従業員の20%)を削減する方針を決め、希望退職者の募集を実施した。だが、退職者が定数に満たなかったため、1965年12月に小野田セメントは62名の指名解雇を発表。これに対し、労働組合は"指名解雇通告撤回要求闘争"を決行するなど労使間での緊張感が高まった。

    そして、安藤豊禄は業績悪化の責任を取り社長を退任した。小野田セメントの業績悪化は「名門・小野田セメントの悲劇」[1966/4/15経済展望]と評された。

    赤字転落の原因は、(1)昭和40年不況によるセメント需要の低迷、(2)競合セメント会社との競争激化、(3)多角事業(子会社)の不振、であった。(3)に関しては化学事業の子会社(小野田化学)の減資により12億円の損失を計上し、小野田セメントにとって痛手となった。

    読売新聞「セメント不況深刻化」

    セメント業界は、公共投資、土木、建設の活発な需要を抱えながら、戦後最大の不況に直面している。これは設備投資競争の結果、安値販売、操業度の低下を招き、企業採算をいちじるしく悪化させたためで、セメント市況は秋の本格需要期に入り後もじり安を続け、さいきん採算割れ出荷が目立ってきた。このため最大手の小野田セメントが六日、九月期決算で五分減の大幅減配を発表したが、他の各社も大半が減益、減配になるのは必至の情勢である。

    1964/11/7読売新聞朝刊p5「セメント不況深刻化」


    経済展望「名門・小野田セメントの悲劇」

    小野田セメントは、今3月期も、大幅な欠損を出す模様で、これで三期連続大幅赤字となる。小野田セメントはわが国最初の民間セメント会社で、市場占有率は第一位の名門会社である。しかも積極的多角経営で知られ、近代化合理化が進んだ代表的な会社にあげられていた。それが、三期連続の大赤字に陥ったのはなぜか。

    1966/4/15経済展望「名門・小野田セメントの悲劇」


    三木陽之助(経営評論家)

    安藤は、小野田セメントを日本一、否、世界一の生産能力を擁する会社に仕上げた点では、たしかに特筆大書される大経営者である。しかし、山は高いばかりが、尊いのではない。現実に収益がともなわず、無配転落の不安にさらけ出されてしまっては、経営者として落第である。

    1964三木陽之助「社長への直訴状」(カッパ・ビジネス)

    コンピューター技術者の流出

    1965年の赤字転落を期に小野田セメントはコンピューター部門の大幅な縮小を決断。このため、小野田セメントにいたコンピューター技術者の多くが流出したという。

    安藤豊禄

    当時、小野田が身分不相応の人員を抱えたのも、いわゆるソフト分野を早く体得するのが目的であり、さらに進んで日本全体がこの方面の技術を早く開発したほしいと念願したからである。昭和四十年、不幸に見舞われてこの部を大いに縮小した。これにより、結果論ではあるが、日本のコンピューターの多くの方面に当社の技術者が分散就職して、この発展にいささか寄与出来たのは幸いであったと思っている。

    日本経済新聞連載記事(私の履歴書・安藤豊禄)

    構造不況〜小野田セメント消滅

    1973年のオイルショックにより日本の高度経済成長期が終焉した。セメント業界では設備過剰が表面化したため、1984年に通産省はセメント業界を構造不況業種に指定し、セメント大手の合併再編が進んだ。

    小野田セメントも不採算のセメント工場の閉鎖を実行。1979年の阿哲(新見)工場の閉鎖を皮切りに、1981年には北九州第一工場を閉鎖。1985年には創業の地である小野田工場におけるセメント製造を中止した。

    そして、1993年に小野田セメントは秩父セメントと合併し、秩父小野田セメントを発足。小野田セメントは競合との合併により実質的に消滅した。続いて、1998年に秩父小野田セメントは日本セメント(旧浅野セメント)と合併を決断し、太平洋セメントを発足した。

    2010年時点でも、セメントの過剰設備問題は続いており、太平洋セメントは国内生産体制の見直しを実施した。2010年に土佐工場、大分工場佐伯プラント、秩父工場におけるセメント製造の中止を決断している。

    日経新聞一面記事(1993年)

    セメント業界では昨年からの景気低迷で過当競争が続いているが「今後、回復するにしても過去のバブル時代のような需要には戻らない。一社だけの合理化には限界がある」(今村小野田社長)とし、合併に踏み切った。今後、設備や販売体制を含めた合理化、リストラクチャリング(事業の再構築)に取り組む。人員は合併後三年後をメドに新卒の採用を抑制、退職による自然減で「適正規模にする」(同)考え。

    1993/11/12日経新聞朝刊p1「小野田、秩父セメント合併」


    参考文献

    新聞・雑誌記事

    1912/9/7神戸新聞「セメント業の現況(上)」

    1935/6大阪朝日新聞「諸条件に恵まれ”工業都市”平壌」

    1939/1実業の世界

    1953/4新日本経済「安藤豊禄のセメント放談」

    1955/8経営者「事務機械化をどう進めるか」

    1956/6/13読売新聞「オートメーション初の定員削減」

    1957/6東邦経済「成長力にあふれた小野田セメント」

    1959/7東邦経済「セメントにかけた闘魂」

    1963/9財界「総合化学をめざす小野田セメント・安藤豊禄」

    1964/11/7読売新聞朝刊p5「セメント不況深刻化」

    1966/4/15経済展望「名門・小野田セメントの悲劇」

    1969/8実業の日本「コンピューターを見つめて四十年・安藤豊禄」

    1993/11/12日経新聞朝刊p1「小野田、秩父セメント合併」

    書籍・その他

    「小野田セメントと 笠井家 - 山陽小野田市」

    会社四季報

    有価証券報告書

    「社長への直訴状」(カッパ・ビジネス),三木陽之助,1964

    私の履歴書(日経新聞連載・安藤豊禄)


    事例一覧