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川崎製鉄 - 西山弥太郎

経営者の決断 川崎製鉄 成長期 銀行の反対 設備投資 日本経済の発展

川崎製鉄の実質創業者"西山弥太郎"。新鋭設備への投資により鉄鋼価格を引き下げて日本の重工業を発展させた戦後日本の重要人物。1950年に資本金5億円の川崎製鉄で100億円を超える投資を計画したため、経済界は騒然とした。イラストは筆者作成(1960/11経済展望を参考にした)

妄想力が富を生む

  • 資本金5億円、投資予定額160億円
  • 終戦直後の1950年に川崎製鉄(西山弥太郎・社長)は、重工業を中心に日本経済を復興させるため、最新鋭の設備を備えた銑鋼一貫の製鉄所の新設を決断。当時の同社の資本金は5億円であったが、投資予定額は160億円という途方もない金額であり、通産省、日本銀行、同社のメインバンクである第一銀行は西山構想を無謀と判断して融資を拒んだ。

    だが、西山社長の銑鋼一貫製鉄所の建設に賭ける思いは揺るがず、朝鮮特需で獲得した利益を全額(約30億円)投資し、見切り発車で千葉製鉄所を新設した。先に製鉄所を作った後に、西山社長は通産省や金融機関などの説得に奔走。西山の作戦は功を奏し、1952年に通産省は川鉄の30億円の投資を無駄にしないためにも高炉の新設を許可した。日本開発銀行と第一銀行も川崎製鉄との心中を決め、14行による協調融資を主導した。この結果、1953年6月17日午前11時35分に西山社長は千葉製鉄所の第一高炉への火入れを実施し、宿願の銑鋼一貫構想を実現する。

  • 国内の重工業を発展させる
  • 1956年までに川崎製鉄は、銑鉄の生産コストの引き下げに成功。業界内で川鉄の成功が注目を浴び、同業他社も積極的な高炉新設を実施した。1960年代には富士製鉄、八幡製鉄、川崎製鉄、住友金属工業、日本鋼管、神戸製鋼、日新製鋼の7社が高炉建設競争を繰り広げ、日本の基幹産業となった。製鉄各社は造船会社や自動車会社に安い鉄鋼を供給し、日本の重工業が発展する礎を築いたため、「鉄は国家なり」と賞賛された。

  • 円高により業界総崩れへ
  • 日本の鉄鋼業界は1971年のニクソンショックによる円高ドル安の進行を機に高度成長時代に終止符を打つ。業界内では過剰設備が問題となり、高炉休止、人員削減、雇用維持のための多角化、そして同業他社との経営統合ないし合併によって生き残りを図る。最盛期には7社存在した高炉メーカーは2019年に時点で3社(日本製鉄、JFE、神戸製鋼)に集約され、「鉄は国家なり」は過去の言葉となった。

    目次

  • 川崎製鉄 - 基本情報
  • 売上高 - 過去推移

    売上構成比 - 過去推移

    営業利益率 - 過去推移


  • 軍需とともに発展
  • 1910年代 神戸港で造船業を担う

    1920年代 川崎造船所が和議を申請

    1930年代 軍需取り込みで再建

    1940年代 敗戦により経営危機へ


  • 西山弥太郎の半生
  • 1910年代 東京帝国大学で鉄を研究

    1930年代 平炉の西山


  • 銑鋼一貫体制の構築
  • 1. 無謀な銑鋼一貫構想を発表

    2. 川崎重工から川鉄を分離独立

    3. 千葉製鉄所を新設

    4. 世界銀行より資金調達

    5. 千葉製鉄所の高炉を稼働


  • 国内重工業の発展に貢献
  • 1950年代 日本の重工業発展に寄与

    1960年代 西山会長の逝去


  • [参考]鉄鋼業界の経過
  • 1970年代 業界再編の進行


    川崎製鉄 - 基本情報

    売上高 - 過去推移

    単位:億円

    出所:有価証券報告書、会社四季報


    売上高営業利益率 - 過去推移

    単位:%

    出所:有価証券報告書


    従業員数 - 過去推移

    単位:名

    出所:会社四季報


    軍需とともに発展

  • 1896年 川崎造船所(神戸)を設立
  • 1911年 鉄道車両製造に参入
  • 1919年 航空機製造に参入
  • 1921年 ワシントン軍縮条約の締結
  • 1927年 従業員3500名の解雇を発表
  • 1931年 興銀が融資困難と判断.和議を申請
  • 1933年 経営再建のため平生釟三郎が社長就任
  • 1936年 ワシントン軍縮条約の失効
  • 1937年 空母瑞鶴を受注.経営再建に成功
  • 1939年 社名を川崎重工業へと改称
  • 1945年 終戦に伴い再び経営危機へ
  • 1948年 葺合工場(鋼板工場)で労働争議が発生
  • 1950年 GHQにより川重解体〜川崎製鉄の発足
  • 神戸港で造船業を担う

    川崎製鉄の発足は終戦直後の1950年であるが、同社の源流は戦前の神戸経済を支えた川崎造船所(現川崎重工)にある。

    川崎造船所の創業は明治時代の神戸港に造船ドッグを新設したのが始まりで、本格的な発展を遂げたのは第一次世界大戦の勃発直後であった。それまでの日本の造船業および海運業はイギリスなどの先進国に比べて遅れていたが、戦争の長期化に伴い世界的な船舶不足が発生。戦禍が及ばない日本で造船業と海運業が発展する契機となった。

    川崎造船所も第一次世界大戦の恩恵を受けた。川崎造船所は神戸に拠点を持ち、三菱重工神戸造船所とともに神戸経済を支える大企業として業容を拡大する。1917年には造船用鋼板の製造拠点として葺合工場を新設した(川崎製鉄の母体工場)。葺合工場では従来輸入に依存していた薄板の国産化を実施し、「川鉄の鋼板」として重宝された。

    1945年頃の神戸港の推定地図。イラストは筆者作成

    西山弥太郎(川崎製鉄社長、1960年)

    もともとの生まれは小さい工場でした。川崎造船所の艦船用の鋼板を自給自足するということで出発したわけです。つまり付属工場みたいなものでした。したがいましてその芸が細かいわけですな。(中略)ものを作るにしても、非常に隅から隅まで気がつくというような、行き届いた努力をするわけで、それがひいては品質がよくなることだと想うのです

    1960/11/1経済展望「夢ではない・わが大計画・西山弥太郎」

    川崎重工が和議申請

    1919年に第一次世界大戦が終結して船舶需要が急減。船成金は海運業を相次いで廃業し、川崎造船などの造船業者もリストラを余儀なくされた。だが、神戸には造船以外の産業に乏しいこともあり、労働者はリストラに反発した。

    川崎造船所は、雇用対策として鉄道車両や航空機製造にも参入していたものの、造船業の労働者を全員、配置転換することは難しく、経営は迷走した。

    日本政府は造船会社が雇用を維持できないことを問題視し、軍需の喚起によって失業者救済を行う方法を模索。八八艦隊の製造を決めて、川崎造船所に艦艇を発注するが、1921年にワシントン軍縮条約が締結されて大規模艦隊の製造は中止された。1922年に川崎造船所は「今度は一名の失職者をも出さぬ方針である」[1922/02/08大阪時事新報]という声明を出すものの、受注がない状況での雇用維持は極めて困難であった。

    1927年に川崎造船所は3500名の解雇を決断。だが、依然として船舶市況は悪く、1931年に日本興業銀行は川崎造船所への融資を困難と判断し、1932年に川崎造船所(従業員数17,000名)は和議を申請。同年に3000名の解雇を発表した。

    東京朝日新聞(1927年)

    思い設けぬ財界大恐慌の余波を食ってひん死の状態に陥った川崎造船所救済問題については経済上の立場からはもちろん国防上にもかなりの影響ありかつ17,000名の従業員の死活問題もあるので政府はこれが対策について種々斡旋しているがいまだに解決の初光を認むるに至らぬ

    1927/05/24東京朝日新聞「頻死の川崎救いの手は何処から」

    軍需取り込みで再建成功

    川崎造船所の経営危機に対して、神戸市長(黒瀬)は「造船所の死活は神戸の盛衰上重大なる関係を有する」[1927/05/25大阪朝日新聞]という声明を発表。川崎造船所の再建は神戸関係者の全面的な支援のもと実施された。1933年に甲南学園の創設者・平生釟三郎が川崎造船所の社長に就任し、経営再建に奔走する。折しも、1933年に日本政府は国際連盟の脱退を決断し、軍需経済が徐々に活況を呈したことから、川崎造船所の業績も好転し始めた。

    1936年にはワシントン軍縮条約が失効し、翌1937年には日本海軍は"第三次海軍軍備補充計画"を策定し、軍艦(戦艦2隻・空母2隻を含む66隻)の増強を決定。このうち、川崎造船所は空母「瑞鶴」の受注に成功し、軍需の増大により経営状況は好転した。

    (補足)第三次海軍軍備補充計画は通称「マル3計画」と呼ばれた。マル3では戦艦大和、戦艦武蔵、空母翔鶴、空母瑞鶴の建造が目玉となった。戦艦大和は海軍呉工廠(現IHI)、戦艦武蔵は三菱重工長崎造船所、空母翔鶴は海軍横須賀工廠(現米軍基地)にて建造された。これらの船舶の製造は、失業者の救済を兼ねていたものと推察される。

    1939年に川崎造船所は社名を川崎重工へと変更し、航空機の製造を本格化させた。1941年に川崎重工は戦闘機「飛燕」の製造を開始し、日本の軍需産業の一翼を担う巨大企業に成長した。

    大阪朝日新聞「大“川崎”に栄光燦たり」

    殊にここ数年来の川崎には曾てない殷盛が訪ずれた。それは日本海運業の積極的発展のための船舶拡充改善策としての優秀船建造助成施設の実行と、一面、帝国海軍が世界の海軍無条約状態への移行を目前にしてこの国際危局に処するため新たに必要艦艇の建造を初めたことに由因する

    1936/08/31大阪毎日新聞「大“川崎”に栄光燦たり」

    敗戦により経営危機へ

    1945年に第二次世界大戦が終結し、軍需に依存していた川崎重工の経営は再び行き詰まった。

    生活苦に陥った従業員の一部は決起し、1948年に鋼板工場(葺合工場)で大規模なストライキが発生した。工場には先鋭的な極左勢力が結集し、のちに「東の東宝、西の川崎」[1976川鉄社史]と評されるほどの大騒動となった。葺合工場では、西山弥太郎(川崎重工・取締役)が解決に奔走し、ロックアップと首謀者の解雇により争議を解決した。

    川崎製鉄社史(1976年)

    こうした争議に対して、会社側はその命運をかけ、政治目的を持つ組合とは絶対に妥協しないという重大な決意を持って解決にあたった。この間、西山製鉄所長以下の首脳部の苦悩は、計り知れないものがあった(中略)しかしこの争議の経緯から、労使協調、相互信頼の気運が生まれ、その後の発展の礎になったのである

    1976川崎製鉄社史


    西山弥太郎の半生

  • 1893年 神奈川県二宮町に生まれる
  • 1913年 第一高等学校に入学
  • 1917年 東京帝国大学工学部冶金学科を卒業
  • 1917年 川崎造船所に入社・製鉄工場に配属
  • 1933年 新技術開発に成功し"平炉の西山"と認知される
  • 1941年 川崎重工の取締役に就任
  • 1949年 製鉄事業の独立を画策
  • 1950年 川崎製鉄の発足・同社社長に就任
  • 東京帝国大学で鉄を研究

    1893年に西山弥太郎は神奈川県二宮町に生まれた。両親は養蚕などを営む名家の出身であり、弥太郎は比較的裕福な幼少期を過ごした。1913年には難関と言われた第一高校(通称:一高)に入学し、1916年に東京帝国大学工学部に進学して冶金を学んだ。大学時代は釜石製鉄所に実習に赴くなど、製鉄業を題材に研究を進めた。

    東京帝国大学の卒業に際して、弥太郎は「The Design of the Steel Melting Shops for the Kawasaki Ship-building Yards(川崎造船所製鋼工場計画)」という英語の卒業論文を執筆し、製鉄のコストと質の関係について論じた。その後、西山は川崎造船所の製鉄工場(葺合工場)に技術者として新卒入社した。折しも、葺合工場では平炉で鋼板(中板/厚板)の生産がスタートした時期であった。

    平炉の西山

    西山は川崎造船所の葺合工場で、製鉄の技術開発を担う。1933年には酸素を平炉に注入することで石炭燃焼を効率化する新技術を開発し、鉄鋼業界で注目を浴びた。この功績により、鉄鋼業界内で「平炉のことは西山に聞け」[伊丹(2015)]とという地位を確立する。

    1941年に西山は技術者として川崎重工の取締役に就任した。だが、同社は原料となる銑鉄は日本製鉄、くず鉄(廃自動車のスクラップ鉄)は米国からの輸入に頼っており、良質な銑鉄の確保には自らが高炉の建設に乗り出す必要があった。日本が戦時経済に突入すると、米国からのくず鉄輸入が途絶え、高炉メーカーも良質な銑鉄を自社内で消化したため、川崎重工は辛酸を舐めたという。

    1945年に終戦に伴い、GHQは川崎造船所の役員の公職追放を実施。1946年に13名の取締役が辞任したが、幸運にも西山は取締役に残留でき、製鉄事業の実質的なトップとなった。当時の川崎重工の製鉄事業は「川鉄の鋼板」と言われる技術力を擁していたが、実際は高炉メーカーの下請けであり製鉄業界での存在感は小さかった。

    ダイヤモンド(1956)

    戦前の当社には、今日ほどの威力がなかった。戦前の当社は、規模こそ大きかったが、いわゆる平炉メーカーの一つにすぎず、銑鋼一貫会社にくらべると、迫力不足を免れなかった。

    (*1)1956/11/26ダイヤモンド「偉業完遂を目指す川崎製鉄」


    銑鋼一貫体制の構築

  • 1949年 西山取締役が製鉄部門の分離を主張
  • 1950年 川崎製鉄の発足(資本金5億円)
  • 1950年 銑鋼一貫構想の発表(投資額163億円)
  • 1951年 自己資金で千葉製鉄所の建設に着手
  • 1952年 通産省が千葉製鉄所の開所を許可
  • 1952年 日本開発銀行が10億円融資
  • 1953年 千葉製鉄所第1高炉の稼働
  • 川崎重工から分離独立

    終戦直後、川崎重工では重役がパージによって退職したため、西山弥太郎は製鉄事業の実質的なトップとなった。西山は同社の製鉄事業を日本有数の平炉メーカーに育てあげた実績があったが、かねてより高炉メーカーに転身する「銑鋼一貫体制」の構想を練っていた。だが、高炉の建設には莫大な資金が必要でリスクを伴ったため、踏み切れずにいた。

    終戦直後にGHQは川崎重工の企業解体を命令したことを受け、川崎重工は事業ごとに新会社として発足する方針を決めた。だが、1948年ごろのGHQの方針転換により企業解体は避けられる見通しとなったが、西山弥太郎はリスクを伴う高炉建設を別会社として遂行することを望み、川崎重工の解体案を支持した。この結果、1950年に川崎重工から独立する形で、川崎製鉄が発足した。

    無謀な銑鋼一貫構想を発表

    川崎製鉄の実質創業者"西山弥太郎"。イラストは筆者作成(1960/11経済展望を参考にした)

    1950年8月の川崎製鉄の発足に伴い、西山は同社の社長に就任した。同年10月に西山社長は鉄鋼新聞を通じて銑鋼一貫体制の構想を発表。数百億円を投じて高炉を2〜3基新設する計画を公表した。当時は平炉メーカー(川崎製鉄・神戸製鋼・住友金属工業)の中で高炉の建設を志向した企業は川崎製鉄だけであった。しかし、あまりにも壮大な計画であったため、当時の鉄鋼新聞は川鉄の構想を小さく報道した。

    だが、1950年11月に西山社長は通産省に対して、千葉製鉄所の新設を正式に申請。投資予定額は163億円で、500tの溶鉱炉(高炉)を2基新設し、粗鋼年産50万トンの計画を打ち出す。当時の日本の粗鋼生産量は484万トンであり、川鉄の計画は関係各所に無謀と受け止められた。また、当時の川鉄の資本金は5億円であり、総投資額は資本金の30倍以上という途方のない投資水準であり、非現実的な計画であった。

    西山社長の狙いは、最新鋭の設備の導入により、日本における鉄の生産コストを下げ、安い鉄を顧客に供給することで日本経済を重工業を中心に復興させることにあった。このため、西山社長は、日本経済の復活という次元で銑鋼一貫構想を実現するために、あえて無謀な計画を打ち出した。仮に高炉を新設した場合、年間12億円のコスト削減(原価引下げ)を見込んだ。

    しかし、当時の日本には160億円という大金を捻出できる金融機関は存在しなかった。日本の銀行関係者は西山社長の計画に疑問を抱き、日本銀行の一万田総裁や、川鉄のメインバンク・第一銀行の酒井頭取も銑鋼一貫構想に疑念を抱く。

    また、高炉を保有していた八幡製鉄と富士製鉄も、西山社長の構想について、銑鉄の過剰生産という観点から否定的な見解を示し、高炉新設をけん制する。

    これに対し、鉄鋼新聞を通じて西山は「老朽化した今の高炉をそのまま続けて使えとか、非能率遊休のものを活用せよなど、昼間臆面もなく主張する輩があるとせば、笑うべき存在であり、有利な一貫体制を利用し独善を企図する高炉会社の陰謀と喝破したい」[1951鉄鋼新聞(年頭所感)]と表明し、既存高炉メーカーに喧嘩を売った。

    西山弥太郎(川崎製鉄社長、1952)

    これだけは、どんな困難や苦しみがともなっても、やりとげなければならん。この建設工事は川崎製鉄だけの利害関係ではない。世界の鉄鋼業界に互して、日本がたちうちするために、どうしてもやらなければならない。必ず、不況がいつかは来る。そんな時、今のような高いコストで鉄を造っていたら日本の鉄鋼業、ひいては日本産業は滅びてしまう。国際競争で勝つためにも、日本が生きてゆくためにもやらねばならぬ大問題なのだ。私が千葉に最も近代的な製鉄所を建設しようとする考えは、安い鉄をつくることだ。私心のためにやっているのではないということが、私をますます強くさせる

    1952/08野田経済「あの人この人・西山弥太郎」


    永野重雄(富士製鉄社長、1953)

    ただ問題はその時期、方法であり、いまのように銑鉄過剰に悩み、現有高炉7基のうち18基しか稼動できない段階で、新しく高炉をつくるのは、業界全体の立場から必ずしも当を得ないのではないかと思われる。むしろ遊休設備の稼動に努めた方がより経済的ではなかろうか。もちろん、これは理想であって現実にはこの通りいかない場合もあるだろうし、この点現在建設中のものを非難するつもりでないことを断っておきたい

    1953/01/08読売新聞朝刊p3「宿命的争い続く」


    酒井杏之助(第一銀行元総裁)

    当時のわが国の経済の見通しは、実に暗く、遊休の溶鉱炉が多かったときであるから、川崎製鉄の企画は二重投資であるという反対論がきわめて強かった。西山氏を見る世間の目は、製鉄の技術家としては有数のベテランであるが、向こう見ずの横紙破りで、経営者としての責任を取り得る人物ではないというのがおおよその評価であった。関西の一会社の製鉄部門の長が、唐突として関東に進出して来て、金もないのに大工場を工場地帯でもないところに押し建てようというのだから、無鉄砲と思う方があたりまえかも知れない

    「西山彌太郎追悼集」

    見切り発車で千葉製鉄所を新設

    1950年12月に川崎製鉄は千葉県の日立航空機工場の跡地(約55万坪)を自己資金で買収した。そして、高炉の建設が許可されていないにもかかわらず将来の高炉建設を見据え、1951年1月に千葉製鉄所を新設した。1952年までに川崎製鉄は千葉製鉄所に30億円を投資し、製鉄所の設備を徐々に投入する。投資資金は朝鮮戦争の特需契機によって儲けた自己資金を活用した。

    千葉を選定した理由は、原料となる鉄鉱石をカナダやアメリカなどの海外から輸入するためで、日本初の臨海工場としてコストの低減を目論んだ。また、川鉄では、単純化,大型化,集約化,一貫化,連続化,自動化,高速化の7方針を掲げ、合理的な生産ラインの設計を実施する。

    だが、1951年の時点で通産省は川崎製鉄の高炉建設を許可しなかった。この間、西山社長は通産省に高炉の新設を懇願し続けた。そして、1952年2月に通産省は川崎製鉄に対して、千葉製鉄所の高炉新設を認可した。

    通産省はすでに川崎製鉄が千葉製鉄所に30億円を投資している事情を勘案し高炉建設を認めた。

    西山弥太郎(川崎製鉄社長、1953年)

    昔から日本での鉄鋼業は成り立たない事業であるというようにいわれております。その主な理由は、日本には鉄鉱石が僅かしかないということであります。それに製鉄用の石炭にも乏しい。それに原料を比較しましても非常に不利な状態にあります。(中略)

    しかし、われわれ専門家から見ましても、戦後非常に状勢が変わって来ていると思います。(中略)日本を取り巻く海の彼方には大量の鉄鉱石があり、カナダ、アメリカにつきましてもこの太平洋岸には沢山あります。満州、支那、インドにもまた大量にあります。

    1953/07経済時代「川鉄千葉工場と私の抱負」

    第一銀行が融資を決断

    1952年に日本開発銀行は川崎製鉄に10億円の融資を決断し、メインバンクの第一銀行も融資を決めた。また、第一銀行は同行の大森氏を川崎製鉄の会長として派遣し、川崎製鉄の経営を全面的にバックアップする。

    第一銀行の支援の表明により、他行も川崎製鉄への融資に協力的となり、14行からなる川鉄融資団が結成された。1953年12月に第一銀行を主幹事とした協調融資(14行/総額26億円)が成立した。ちなみに、西山社長は銀行を説得するために、新製鉄所の意義を書いた紙芝居を披露したという。

    そして、1953年6月17日午前11時35分に川崎製鉄は千葉製鉄所の第一号高炉へ火入れし、宿願であった銑鋼一貫体制を確立した。当時、西山は「たとえ失敗しても高炉は民族の遺産としてのこる」[2000/2商品と企業]と割り切っていたという。

    酒井杏之助(第一銀行元頭取)

    正直にいって、私はわが国の製鉄業の将来にそれほどの自信はなかった(中略)しかしながら、矢はすでに弦を離れた。川崎製鉄を見殺しにはできない。世間では、第一銀行がはたして川崎製鉄を最後まで見捨てないであろうか。西山社長という人は手におえない積極主義者で、この荒馬を何人が制御して行けるかなどの疑問をもっている。川崎製鉄が進退きわまったと同様、第一銀行としても一大決心をせねばならぬときに立ち至った。それには、第一銀行が川崎製鉄支援に本気に乗り出したという証拠を見せぬことには他行を納得させることはできない。事ここに至っては、西山氏と互いに理解し合える人物を第一銀行から割愛するよりほかに手はない

    「西山弥太郎追悼集」


    一万田(元日銀総裁の回想)

    日本経済全体の安定を願います日本銀行としましては、そのこと自体は賢明なことであっても、この際、巨大な新しい設備についてはしばらく慎重な態度を望まざるをえなかったと思います。しかし、西山さんの千葉製鉄所建設の情熱、企業家としての覚悟には深く感動させられ根まけの形でした

    「西山弥太郎追悼集」


    国内重工業の発展に貢献

  • 1956年 第一次世銀借款2000万ドル
  • 1958年 第二次世銀借款800万ドル
  • 1958年 千葉製鉄所第2高炉の稼働
  • 1960年 第三次世銀借款600万ドル
  • 1960年 千葉製鉄所第3高炉の稼働
  • 1961年 千葉製鉄所第4高炉の稼働
  • 1963年 ワシントン銀行借款1850万ドル
  • 1965年 千葉製鉄所第5高炉の稼働
  • 1966年 西山弥太郎が逝去(享年73歳)
  • 粗鋼シェアを拡大

    1956年の時点で川崎製鉄は銑鉄生産でコークスの使用量を31%削減し、原価の引き下げに成功した。川鉄は新鋭高炉への投資の有効性を実証した。

    1950年代を通じて川崎製鉄はコスト面で優位に立ち、国内粗鋼生産量のシェアを拡大(1951年7.3%→1964年10.9%)。一方、八幡製鉄、富士製鉄、日本鋼管は川崎製鉄にシェアを奪われる形となった。1956年には川崎製鉄の躍進が日本経済界の注目を浴び「日本の重工業の発展を身をもって表す」[1956/11/26ダイヤモンド]と絶賛された。

    川崎製鉄のコストダウンの成功により、神戸製鋼、住友金属の平炉2社も高炉建設を決断。1960年代に日本の鉄鋼業界は、八幡製鉄、富士製鉄、日本鋼管、川崎製鉄、住友金属工業、神戸製鋼、日新製鋼の7社の高炉新設競争により業容を拡大し、日本の製造業を支える低コストの粗鋼を供給した。

    (補足)川崎製鉄は千葉製鉄所の広大な敷地内にさらに高炉を新設する計画を練る。新高炉建設の資金を捻出するため、1954年に世界銀行に対して借款を要請。1956年に世界銀行は川崎製鉄に対して2000万ドルの借款を決断し、1958年に川崎製鉄は千葉製鉄所の第二高炉を稼働した。

    ダイヤモンド「偉業完遂を目指す川崎製鉄」

    日本の産業は、重工業も軽工業も、戦後の十年間に画期的進歩を遂げたが、そのなかでも、鉄鋼業の進歩が第一である。しかし、一口に鉄鋼業は進歩した、とはいっても、会社を個々にみると、進歩の度にかなり大きな違いがある。戦前に比べ段違いによくなった会社もあれば、いまもつて旧態依然名会社もある。

    では、鉄鋼会社のなかで、どこの会社がいちばん進歩したか。八幡、富士、鋼管の三社の進歩もさることながら、その第一には川崎製鉄の名をあげねばなるまい。(中略)だれもやり遂げなかった銑鋼一貫工場の建設という偉業をなしとげ、今日では世界最新の銑鋼一貫工場をもつ製鉄会社として世界の注視を集めている。当社の飛躍は、日本の重工業の発展を身をもって表すものであり、当社の偉業は、鉄鋼史上にながく書きとめるべきであろう

    1956/11/26ダイヤモンド「偉業完遂を目指す川崎製鉄」

    西山会長の逝去

    1966年に西山弥太郎は享年73歳にて逝去。川崎製鉄を日本有数の高炉メーカーに育て、その生涯に幕を閉じた。川崎製鉄では社内報にて、西山会長の突然と逝去という悲しみを伝えた。

    川崎製鉄新聞(1966年)

    三万の従業員すべてが、慈父として、心から敬い、慕っていた西山会長。私どもの支柱というべきその西山会長は、八月十日、忽然として逝かれた。この悲しみを何といい表してよいのだろうか。...東奔西走、席の暖まることのない多忙の日々の寸暇をさいて、会長は折にふれて現場を歩き、従業員に親しく声をかけて、激励され指導された。『やあ、ごくろうさん』『しっかりたのむよ』その声は、今もなお工場の建屋に音なきこだまとなり、あるいはひとびとの胸中に生きて、これからの心の支えとなるであろう

    1966/9/26川崎製鉄新聞(伊丹敬之著(2015)より抜粋)


    [参考]鉄鋼各社の経過

  • 1970年 新日鉄発足(富士+八幡)
  • 1984年 新日鉄が従業員2万人の削減を発表
  • 1985年 鉄鋼各社が多角化を志向
  • 2003年 JFEの発足(日本鋼管+川崎製鉄)
  • 2012年 新日鉄住金発足(新日鉄+住金)
  • 業界再編の進行

    1960年代を通じて高炉7社は設備投資を継続。国内で消化しきれない鉄鋼を米国に鉄鋼を輸出することで業容を拡大したが、日本メーカーの台頭により米国の巨大製鉄会社"U.S. Steel"の経営が悪化。米国では鉄鋼業における失業問題が表面化し、日米貿易摩擦に発展した。

    このため、1970年に八幡製鉄と富士製鉄は鉄鋼需要の減少を見越して合併を決断し、新日本製鉄が発足した。新日鉄の発足により、日本の鉄鋼業界における設備投資競争は幕を閉じた。

    さらに、1971年のニクソンショック、1985年のプラザ合意により円高ドル安が進行し、日本の製鉄メーカーは韓国のポスコなどの新興国メーカーにコスト面で太刀打ちできなくなった。国内の粗鋼生産量は1980年頃に頭打ちとなり各社とも高炉の停止を決断し、製鉄事業の縮小で生じた余剰人員を新事業や他社への配置転換で対応した。

    2000年までに国内の粗鋼生産量が再び増大することはなく、鉄鋼各社の経営は行き詰まる。2001年に川崎製鉄は単独存続を諦めて日本鋼管との経営統合を決断して2003年にJFEを発足した。また、2012年に住友金属工業は新日本製鉄との合併を決めるなど、業界再編が進行している。

    国内粗鋼生産量 - 過去推移

    単位:トン

    出所:経済産業省大臣官房調査統計グループ鉱工業動態統計室「鉄鋼・非鉄金属・金属製品統計年報」(長期統計)および日本鉄鋼連盟「worldsteel銑鉄・粗鋼年間生産量・時系列表2009~2018年」


    参考文献

    新聞・雑誌記事

    1922/02/08大阪時事新報

    1927/05/24東京朝日新聞「頻死の川崎救いの手は何処から」

    1927/05/25大阪朝日新聞

    1936/08/31大阪毎日新聞「大“川崎”に栄光燦たり」

    1952/08野田経済「あの人この人・西山弥太郎」

    1953/01/08読売新聞朝刊p3「宿命的争い続く」

    1953/07経済時代「川鉄千葉工場と私の抱負」

    1956/11/26ダイヤモンド「偉業完遂を目指す川崎製鉄」

    1960/11/1経済展望「夢ではない・わが大計画・西山弥太郎」

    1966/9/26川崎製鉄新聞

    2000/2商品と企業

    書籍・その他

    有価証券報告書

    会社四季報

    1967「西山彌太郎追悼集」

    1976「川崎製鉄社史」

    2015伊丹敬之「高度成長を引きずり出した男」

    経済産業省大臣官房調査統計グループ鉱工業動態統計室「鉄鋼・非鉄金属・金属製品統計年報」

    日本鉄鋼連盟「worldsteel銑鉄・粗鋼年間生産量・時系列表2009~2018年」


    事例一覧