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三井金属 - 尾本信平

雇用維持 成熟期〜衰退期 斜陽の名門 業態転換

尾本信平(おもと・しんぺい):1970年に三井金属鉱業の社長に就任。人員削減に消極的で、段階的な神岡鉱山の縮小を決断した。

イラストは筆者作成(1979/1/29日経ビジネスを参考に筆者作成)

斜陽鉱山からスマホ材料への大転換

  • 東洋一の神岡鉱山を所有
  • 三井金属鉱業は東洋一の亜鉛鉱山と呼ばれた神岡鉱山を保有し、1950年代を通じて亜鉛・鉛の採掘により業容を拡大した。当時は従業員1万人以上を擁し、売上高利益率10%を超える高収益企業であった。1958年頃には初任給日本一の会社となり、高給企業としても知られた。

  • 段階的な人員削減を選択
  • 東洋一と呼ばれた神岡鉱山の優位性が、三井金属が同業他社と比べて業態転換に出遅れる原因となった。1978年に三井金属は最終赤字に転落したが、尾本社長は労働組合の意向を勘案して、段階的な人員削減を選択。最終的に三井金属が祖業の神岡鉱山での採掘を中止したのは2001年であり、同業の住友の別子銅山閉山から29年遅れた。

  • 亜鉛鉱山→極薄銅箔に業態転換
  • 1980年代を通じて三井金属は基板向けの銅箔事業への投資を決断。1982年には研究拠点を上尾に集約することで、電子材料の研究体制を整えた。1995年には銅箔の世界シェア40%を確保して全社の稼ぎ頭となり、2017年の時点でスマホ向けの極薄銅箔で世界シェアNo.1(90%)を確保。三井金属は神岡鉱山を中心とする亜鉛鉱山の会社から、上尾を中心とするスマホ向け銅箔の会社への業態転換に成功した。

    目次

  • 三井金属 - 基本情報
  • 売上高 - 過去推移

    売上構成比 - 過去推移

    売上高利益率 - 過去推移

    従業員数 - 過去推移

    主な事業所の従業員数 - 過去推移


  • 三井金属鉱業の歴史
  • 1880年代 神岡鉱山の取得

    1950年代 石炭・金属の分離

    1950年代 東洋一の亜鉛鉱山

    1960年代 神岡があれば潰れない


  • 国内鉱山の斜陽化
  • 1960年代 貿易・為替の自由化


  • 段階的な人員削減(1978年〜2001年)
  • 1960年代 神岡鉱山の操業継続

    1970年代 人員配置転換の実施

    2000年代 神岡鉱山の段階的撤退


  • スマホ向け銅箔事業に転換
  • 1980年代 銅箔事業の強化

    2010年代 極薄銅箔で世界シェア90%


    三井金属 - 基本情報

    売上高 - 過去推移

    単位:億円

    出所:有価証券報告書、会社四季報、各種報道資料


    売上構成比 - 過去推移

    単位:%

    出所:有価証券報告書

    注:セグメント変更が複数回実施されたため推測を含む。非鉄金属(各種非鉄金属+亜鉛加工品、鉱山基礎素材)、伸銅品(中間素材[銅箔など])、ダイガスト(加工組立部品を含む)、ドアロック(自動車部品)、内部消去額は各事業に配賦。1961.3は半期(1960.9-1961.3)。2019.3のドアロックは自動車部品セグメント、ダイガスト製品はその他に組み入れた。


    売上高利益率 - 過去推移

    単位:%

    出所:有価証券報告書


    従業員数 - 過去推移

    単位:名

    出所:会社四季報


    主な事業所の従業員数 - 過去推移

    単位:名

    出所:有価証券報告書


    三井金属鉱業の歴史

  • 1874年 三井家が神岡鉱山を取得(鉱山業に参入)
  • 1888年 三池炭鉱を取得(石炭採掘に参入)
  • 1905年 串木野金山を取得
  • 1913年 三池製錬所の新設
  • 1935年 彦島製錬所の取得
  • 1950年 財閥解体により金属・石炭を分離
  • 1950年 神岡鉱業(三井金属鉱業)を発足
  • 1951年 売上高純利益率18.9%を記録
  • 1958年 初任給日本一の会社
  • 1967年 亜鉛の共同精錬を開始(八戸精錬)
  • 1970年 神岡が世界一の亜鉛鉱山へ
  • 神岡鉱山の取得

    三井金属の源流は、岐阜県飛騨地方に位置する神岡鉱山にある。約1000年前に神岡で鉱物が発見され、戦国時代に森宗貞(越前大野・城主)は神岡での銀の採掘により軍資金を獲得したという。その後、江戸時代には幕府直轄の鉱山として運営され、明治時代には民間経営に移行した。明治初期における神岡鉱山の所有権は、各坑ごとに分かれており、統一的に所有する人物は存在しなかった。明治時代中頃まで神岡は、銀、銅、鉛などの多様な金属を産出した。

    三井家は明治維新直後の1874年に神岡鉱山の蛇腹平坑を取得して、鉱山業に参入したが、当初はリスクの大きい鉱山経営に消極的であった。三井家では神岡鉱山からの撤退を検討したが、最終的に西洋から新技術を導入して新鉱脈を探鉱する方針を決断し、1886年に神岡鉱山のほぼ全坑を取得。神岡で産出される亜鉛を中心に本格的に鉱業に参入した。

    続いて、三井家は1888年に九州の三池炭鉱を日本政府から買収し、石炭採掘にも本格参入した。神岡と三池の本格稼働にあわせ、1892年に三井家は三井鉱山株式会社を設立して経営を近代化した。1906年には鹿児島の串木野鉱山(金山)を取得し鉱区を拡大。川下分野では、1913年には神岡で採掘された亜鉛を精錬するための三池製錬所、1935年には経営危機に陥った鈴木商店から彦島製錬所、1943年には昭和鉱業より日比製錬所を取得し、鉱物の採掘から製錬を一貫して行う体制を整えた。

    戦前の三井家は、金融業(三井銀行)、商社(三井物産)、鉱業(三井鉱山)の3社が莫大な収益をもたらした。これら3事業の利益を元手に経営の多角化を推進することで、三井財閥が形成されたため、三井家の中で三井鉱山は特別な存在であった。

    石炭・金属の分離

    1945年の終戦により三井財閥の解体が確定的となる。神岡(非鉄金属)と三池(石炭)という2大拠点を擁する三井鉱山についても、金属と石炭で会社が分割されることとなり、1950年に非鉄金属部門は神岡鉱業(三井金属鉱業)、石炭部門は三井鉱山として再出発した。

    分離当時、旧三井鉱山の一部の社員は、石炭部門か非鉄金属部門のいずれかを希望することが許されたが、有能な社員ほど石炭部門に殺到したという。このため、金属部門では若い社員が中心に発奮し、神岡鉱業を再建する熱意に燃えていたと言われている。

    尾本信平(三井金属社長、1970年)

    会社分離当時のことを思い出しますと、会社分離に際しまして、各人に金属に行くか、石炭に行くかというアンケートをとったわけです。...(中略)...ところが、ほとんど金属行きがなかったのです。これじゃ困るなと思ったことがある。...(中略)

    経理部金属課長にきてみたところが、社内全体としては、どちらに行ってもいい部門は石炭にみんな行こうと考えておった。ところが、金属課の若い人は全員が火のタマのようになって、金属の将来をおれたちでやるんだという、こういう気概に燃えておった。わたしは非常に感激をしたですね。「よし、これならやれるぞ」というふうに思ったことがございます

    1970/06新日本経済「尾本信平氏との50分」

    東洋一の亜鉛鉱山

    1950年代を通じて三井金属(佐藤久喜・社長)は神岡鉱山における設備投資を実施し、生産量を増大させた。佐藤社長は最新機械の導入の合理化に重点を置き、三井金属の経営を立て直した。1950年に勃発した朝鮮戦争による特需景気の影響もあり、1951年3期の売上高純利益率は18.9%という高水準を記録した。

    (補足)亜鉛の用途としては、建築材料としての亜鉛鉄板、家電向けの各種電池の材料として亜鉛の引き合いが増大した。亜鉛は新日本製鐵(八幡製鐵・富士製鐵)や日新製鋼に販売され、亜鉛鉄板の建材として国内および海外に売り出された。

    恵まれた鉱床、徹底した機械化、需要の増大の恩恵を受け、1950年代を通じて神岡鉱山は世界有数の鉛・亜鉛鉱山として発展。1958年には初任給日本一の会社となり、東京大学を卒業した優秀な学生を採用することができた。

    佐藤久喜(三菱金属鉱業社長、1958年)

    銅、鉛、亜鉛といった非鉄金属のうち、鉛は、銅ほど高低の波がひどくないし、亜鉛は比較的需要の波が少ないのです。いずれにしても銅や、鉛は、国際商品で、国際的な動きをとります。亜鉛は、日本では資源的に豊富で、自給自足しており、その点で、国際的な動きがないこともないが、不況になっても、当社など需要に追いつかぬという状態です。

    1958/3/1経済展望「非鉄金属の前途に悲観なし」


    宮村眞平(三菱金属社長、1999年)

    いまの社員に言ってもだれも信じないだろうが、私が就職した1958年には、三井金属は日本でいちばん初任給が高い会社だった。大学の就職相談室の案内には「三井金属工業(正式名称は三井金属鉱業)」とあったので、マイニング(鉱業)の会社だとは知らなかった。給料が高いからというだけで、決めたのだから、いい加減なものです。友達はみんな「お前は日本一給料の高い会社に行くのだから、飯をおごれ」などという。

    1999/9/29日経新聞夕刊p5「三井金属社長宮村真平氏(人間発見)」

    神岡があれば潰れない

    1960年代を通じて神岡鉱山では新しい鉱床が発見され、東洋一の亜鉛鉱山の地位を維持。1970年に経済雑誌は「三井金属鉱業は近く世界一の亜鉛精錬会社ヴィエイユ・モンターニュ社を抜いて世界第一位のランクを獲得する。戦後、三井鉱山から分離された当時、誰がこの栄光を予想しただろうか」1970/6新日本経済と、神岡鉱山を高く評価した。

    このため、当時の社内では神岡鉱山がある限り三井金属は潰れない「不倒神話」が信じられていたという。

    宮村真平(三井金属社長、1997)

    私が入社した40年前から先ごろまで、タテ社会の上にセクショナリズムがあった。技術系と事務系が厳然と分かれ、互いに口を出すのはタブーだった。技術・事務とも中がセクションに分かれ、互いに干渉しない。これが企業活力をそいでいた。ウチは神岡鉱山の事業が中心だった。これは世界的なヤマで、「これがある限りつぶれない」という不倒神話があった。国のベーシックな役割を果たしているため、多角化はしなくていい、と。この神話が揺れた第一弾がオイルショックだった。それ以降、為替に振り回され続けた。ヤマの寿命が尽きる中で、ようやく危機感が出てきた。

    1997/2/15週刊東洋経済「労使の決断三井金属の365日」


    宮村眞平(みやむら・しんぺい):1934年静岡県榛原町生まれ。東京大学に入学して国会公務員試験に合格していたが、初任給が日本一高いという好条件に惹かれ、1958年に三井金属鉱業に新卒入社。入社直後に下関の彦島に配属され、田舎に飛ばされたために入社を後悔した。入社三年目に社内結婚したが、自ら採用した女性であったため、人事から叱られたという。三井金属では一貫して人事畑を歩み、三池製錬所などで従業員に殺害予告を受けながらもリストラを完遂。つらい時でも持ち前のネアカさで対応してきたという。人員削減の功績により、1994年に三井金属の社長に就任。社長就任直後も人員削減を実施し、自らのサラリーマン人生について「つらい」と吐露した。


    国内鉱山の斜陽化

  • 1960年 貿易・為替の自由化を発表
  • 1961年 非鉄金属の輸入自由化を実施
  • 1969年 松尾鉱業の倒産(松尾鉱山を閉山)
  • 1971年 ニクソンショック
  • 1972年 住友金属鉱山が別子銅山を閉山
  • 1972年 古河鉱業が足尾銅山を閉山
  • 1973年 三菱鉱業が生野銀山を閉山
  • 1973年 オイルショック
  • 1990年 同和鉱業が小坂鉱山での採掘を中止
  • 1991年 同和鉱業が柵原鉱山を閉山
  • 2001年 三井金属が神岡鉱山での採掘を中止
  • 貿易・為替の自由化

    1960年に日本政府は貿易・為替の自由化の大方針を発表。1961年6月1日より非鉄金属を含む128品目の自由化が実施され、金、銀、銅、亜鉛などの輸入が本格化した。

    自由化の実施については日経新聞の一面で大きく報じられた。時代を象徴する一面記事の一つ。

    出所:1960/6/24日経新聞夕刊p1「自由化計画の大綱決まる」

    輸入自由化によって、国内鉱山では国際競争力の低下が予想された。このため、日本各地に点在する非鉄鉱山(金・銀・銅・亜鉛)は存亡の危機に陥ったが、各鉱山は地元経済と密接に関わっており、閉山は雇用喪失、ひいては村の消滅を意味したことから閉鎖は難航した。

    他方、業界内でも国内鉱山の競争力は維持されうるという意見も存在しており、専門家でも意見が分かれた。特に、鉱山に思入れの多い人ほど、将来を楽観視したと言われている。このため、非鉄金属業界は斜陽論と発展論の2つの立場に割れた。

    読売新聞(1961年)

    非鉄金属業界は貿易自由化にそなえて企業の体質改善をいそいでいるが、最近その一環として銅山の閉山もしくは開発中止の動きが目立っている。業界筋によると国内銅山は埋蔵量が少ない上に品位も低く、海外銅鉱石とたちうちできないので、縮小に追い込まれるのは必至だとしている

    1961/03/16読売新聞朝刊p4「銅鉱山の閉鎖や開発中止」


    三間安市(日本鉱業・社長、1963年)

    世間の人たちから言わせると、非鉄金属鉱山は、斜陽産業であるらしい。第二の石炭産業だという人もいる。しかし、私は決してそうは思わない。なるほど自由化に直面するとき、われわれは非常な苦境に立たされていることは私といえども認めるのにやぶさかではない

    しかし、非鉄金属鉱、たとえば金、銀、銅、亜鉛、チタン、ニッケル、すず、どれをとっても、ますます需要は増えこそすれ、けっして減ることはない(中略)明治年間、当社の創立者である久原房之助氏が日立鉱山を買ったとき、その可採埋蔵量は38万トンといわれていたが、それから今日まで、このヤマから掘り出された量は、2500トンにのぼり、私からいわせれば「孫の代」までは大丈夫、ほっていけると思っているほどだ

    1963/02/01実業の日本「非鉄鉱山は斜陽ではない・三間安市」


    段階的な人員削減(1978年〜2001年)

  • 1970年 尾本信平が社長就任
  • 1971年 イタイイタイ病の賠償問題
  • 1976年 上尾工場に45億円投資(銅箔製造)
  • 1977年 神岡で18億円投資(探鉱)
  • 1977年 大規模な人員削減(配置転換主体)
  • 1981年 尾本信平が会長退任
  • 1984年 真島公三郎が社長就任
  • 1986年 神岡鉱山を分社化
  • 1986年 大規模な人員削減(希望退職者募集)
  • 1994年 神岡・茂住鉱床の採掘中止
  • 1994年 大規模な人員削減(希望退職者募集)
  • 2001年 神岡鉱山での採掘を中止
  • 神岡鉱山で探鉱継続

    1970年に尾本信平が三井金属鉱業の代表取締役社長に就任した。尾本は1970年から1979年にかけて同社社長、1979年から1981年までは同社会長を務め、三井金属の転換期に10年以上にわたって経営を担った。一貫して大きな発言力を持っており、経済メディアは「尾本ワンマン体制」と形容している。

    尾本信平(おもと・しんぺい):三井金属鉱業社長。労働組合の意向を勘案したため人員削減に消極的だった。

    イラストは筆者作成(1979/1/29日経ビジネスを参考に筆者作成)

    1971年にニクソンショックが発生して円高ドル安が進行したため、国内の非鉄金属各社は苦境に陥り、主力鉱山を相次いで閉鎖した。1972年に古河鉱業は足尾銅山、住友金属鉱山は別子銅山をそれぞれ閉鎖し、非鉄金属の大規模な国内鉱山は三井金属の神岡鉱山だけが残った。

    また、1972年に三井鉱山は神岡鉱山を発生源とするイタイイタイ病の訴訟で敗訴し、1973年から1974年にかけて総額29億円の公害訴訟の損失を計上。三井金属鉱業は公害企業としてメディアに取り上げられたため、企業イメージが低下した。

    それでも、神岡鉱山は1973年のオイルショックによる亜鉛価格の暴騰により、1975年の時点で年間10億円の利益を生み出した。さら、神岡鉱山では新鉱床を新たに発見されたため、東洋一の亜鉛鉱山(埋蔵量4200万トン)の座を維持した。このため、尾本社長は、神岡で十分な収益を上げていること、亜鉛のトップ企業としての供給責任、安全保障という国益の観点から、神岡鉱山の操業継続を決断した。

    (補足)合理化が遅れた理由には、労働組合が"三井グループ"の各社を資本家の代表と捉え、執拗に合理化に反対したという事情もあった。同業の三井鉱山で発生した三池炭鉱での労働争議は過酷で、人員削減を試みる本社の人間に対して、労働組合側についた人間は過激な暴力(殴る、蹴るなど)により抵抗した。

    尾本信平(三井金属鉱業社長、1977年)

    トップ企業である三井金属がダンピング輸出をやり、建値販売を守らなければ、亜鉛のP・P制度は値下がりで崩壊してしまう。また海外鉱を三井金属が原産するからといって買わなければ、鉱石が余って値が下がってしまうだろう。

    わが国がドルで外貨をためこんでも円高で外貨は減価するばかり。銅や亜鉛などモノの形にかえて外貨を持っておけば、減価するどころか暴騰して得をする可能性もある。軍艦を買うのと同じで安全保障にも役立つ

    1977/10/29週刊東洋経済「創業以来の大赤字に揺らぐ"亜鉛帝国"三井金属」

    人員配置転換の実施

    1976年頃から円高ドル安が進行し、亜鉛価格の下落が顕著となり、1977年に神岡鉱山は赤字に転落。神岡鉱山のうち、低品位の栃洞鉱床が赤字に転落し、高品位の茂住鉱床はかろうじて黒字を維持したという。さらに、精錬を担う三池、彦島、神岡の各製錬所も赤字に転落。特に余剰人員と公害負担を背負う三池製錬所の赤字額は神岡鉱山に匹敵する水準となり、人員削減が急務となった。本業の低迷により、1978年3期に三井金属鉱業は最終赤字に転落した。

    赤字転落を受け、尾本社長は配置転換を中心とした人員削減による再建策を策定。神岡に関しては減産を実施し、余剰人員は探鉱作業に割り当てた。探鉱に当たって三井金属は18億円の投資を決断している。また、三池製錬所については公害の原因となる処理炉の停止と10%減産を決定し、余剰人員は他の工場ないし関連会社への配置転換を実施する方針を打ち出すが、真島公三郎(三池製錬所・所長)は本社の意向を無視して人員削減を実施した。

    結果として、三井金属は合理化に最も遅れた非鉄大手となった。

    (補足)1977年に三池製錬所では真島所長と宮村氏が中心となり、労働組合と人員削減の交渉を実施した。三池で従業員に解雇を宣告した宮村氏は、殺害予告を受けたり、従業員の家族に泣きつかれるなど、非常に苦労したという。このため、宮村は「人斬り真平」[1999/9/27日経新聞夕刊]と呼ばれた。

    主な事業所の従業員数 - 過去推移

    単位:名

    出所:有価証券報告書

    宮村真平(三井金属社長、1999年)

    本来は、1964年から1965年にかけての貿易自由化のタイミングで人員合理化が必要でしたが、労組が強くて、そんな雰囲気ではなかった。カドミ公害事件、石油ショックと続き、大赤字が出ても、本社の社長は「人員整理はしない」と言っていました。

    本社からは三池再建のプロジェクトチームを送り込んできました。それで、私はまた頭に来た。「本社のやつに何がわかるか。おれが所長の真島(公三郎)さんと相談して再建案を作る」とたんかを切って、三百人削減の合理化計画を提出した。すると、本社は社長から常務までみんなが「三井金属では人員整理はしない」と反対。それでも必要性を説くと、「どうしてもやりたいなら、真島と宮村で勝手にやれ」と言われた。

    家に火をつけるとか、畳にドスを突き立てて「月夜の晩ばかりではないぞ」と脅されたり。ずいぶん嫌がらせはありましたよ。危険なので、女房は子供と一緒に彦島の実家に帰しました。私は会社の厚生会館に泊まり込み、毎晩、どこでどれだけ肩たたきが進んだかチェックするのですが、「うちの父ちゃんをクビにするのか」と奥さんに泣きつかれたり、大変でした

    1999/09/30日経新聞夕刊p5「三井金属社長宮村真平氏(人間発見)」

    神岡鉱山の段階的撤退

    1981年に尾本信平が代表取締役会長を退き、同社相談役に就任。1984年には三池製錬所の人員削減交渉を進めた真島公三郎が代表取締役社長に就任した。真島新社長は「地金精錬の徹底的合理化を行い国際競争力をつけていくとともに、電子材料部門などの新規事業部の育成、強化によって収益改善に取り組んでいきたい」[1984/8/25日経産業新聞]と展望し、鉱山ではなく電子材料に投資する方針を明確にした。

    1986年に三井金属は神岡鉱山で希望退職者309名を募集し、360名以上が応募。また、神岡鉱山は本社から分離されて「神岡鉱業」として再出発し、三井金属の本社は祖業の切り離しを実施した。神岡分離について、日経新聞は「切り離さざるを得なかったことは、非鉄業界の置かれている苦境ぶりを改めて業界関係者に強く印象付けた」[1986/8/27日経新聞夕刊]と報道した。分離の理由は、給料水準の引き下げと推察される。

    1994年に三井金属は神岡における鉛精錬から撤退し、同時に茂住鉱床の閉鎖を決断した。神岡での大幅減産により生じる500名の余剰人員のうち、250名は配置転換を実施し、吸収できない250〜300名については希望退職者の募集を決断した。

    2001年に三井金属は神岡鉱山での採掘を中止した。鉱山の跡地は研究施設(カミオカンデ)に賃貸することで一部の鉱内を維持している。

    (競合)同業の住友金属鉱山は1972年に祖業の別子銅山から撤退しており、三井の神岡撤退は住友から約29年遅れた。

    神岡・山の村小学校webページ

    神岡鉱山の最盛期には、下之本、栃洞、茂住の3カ所に坑口があった。そして鉱山の社宅は、鹿間社宅(事務所や選鉱・精錬部門があった)、栃洞社宅(栃洞坑付近)、茂住社宅(茂住坑付近)の3カ所に林立し、2000戸余りに家族を含め約1万人が暮らしていた。ところがオイルショックを境に人員整理が進められ、とりわけ1978年と1986年、1994年の人員整理はかつての社員にとって記憶に残る大規模な合理化であった。(中略)度重なる人員整理で多くの退職者を出したため、神岡鉱山や町は関連会社を設立してその受け皿の確保に努めてきた。

    飛騨&越中の気ままな日記より(山の村小中学校)


    スマホ向け銅箔事業に転換

  • 1993年 宮村真平が社長就任
  • 1994年 神岡鉱山の主力坑(茂住)を閉鎖
  • 1994年 鉛精錬事業から撤退
  • 1994年 600名の希望退職者を募集
  • 1995年 極薄銅箔の試験生産を開始
  • 1999年 パケージ基板(携帯)向け銅箔を出荷
  • 2001年 神岡鉱山での採掘を中止
  • 2002年 極薄銅箔に集中投資
  • 2003年 大井製作所を買収(ドアロック)
  • 2017年 極薄銅箔に世界シェアNo.1(90%)
  • 銅箔事業の強化

    苦境期の三井金属を支えた事業が電子材料として銅箔事業であった。三井は1960年代に銅箔事業に参入していたが、本格的な事業展開は埼玉県上尾事業所生産と研究の集約した1982年以降である。

    電子材料としての銅箔では日本鉱業などの競合企業が存在したが、三井金属は1980年代を通じて基板向けの銅箔において積極的な設備投資を実施。日本の上尾工場で確立した生産方法を、海外(米国、フランス、台湾、マレーシア)での現地生産に移管することで業容を拡大したものと推察される。


    三井金属・銅箔事業の沿革

    1967年 埼玉上尾にて銅箔生産を開始

    1976年 米国にOak-Mitsuiを設立(米社合弁)

    1976年 上尾に銅箔生産

    1977年 米国での銅箔生産を開始(プリント基板向け)

    1980年 台湾銅箔を設立

    1982年 研究拠点を上尾に集約

    1982年 上尾事業所に10億円設備投資

    1991年 上尾事業所に設備投資(第二工場)

    1991年 マレーシアに拠点

    1995年 銅箔世界シェア40%を確保

    1998年 香港に銅箔販売拠点

    2002年 汎用銅箔を東南アジアに移管

    2013年 マレーシア拠点の拡充

    2017年 極薄銅箔に世界シェアNo.1(90%)


    (解説)電子材料としての銅箔は各種基板の発展とともに用途が拡大した。1950年代にプリント配線板の回路を銅箔のエッチングにより形成する基本技術が確立され、1970年代にコンピューター機器の増大とともに同基板向けの銅箔の需要が増大。さらに、1980年代にインテルがプロセッサーの技術開発を進めると、1990年代を通じてPC向けの半導体パッケージ基板向けの銅箔需要が高まった。半導体の高性能化には、銅箔の薄型化が要求されるため、三井金属は基板メーカーの要望に合わせて銅箔の薄型化を実施。三井金属は半導体の黎明期から主要基板メーカーへの納入に成功し、顧客と技術力を高め合いつつ銅箔事業を拡大したものと推察される。


    1990年代を通じてパソコンが普及し、パッケージ基板向けの銅箔需要が増大。1995年に三井金属は銅箔の世界シェア40%(年間売上570億円)[1996/1/5日経産業新聞]を確保し、1990年代後半までに利益の大半を銅箔事業(電子材料)で稼ぐ電子材料の会社に転換した。

    (補足)電子材料へのシフト後も、社内には時間軸の長い鉱山部門で実績を積んだ部長クラスの人間が多く、変化の早いエレクトロニクスに適応できる人材に欠けており、顧客からは「ハイテク材料を鉱山会社から買って大丈夫か。うちのカルチャーに合った会社なのか」[1991/2/25日経ビジネス]というクレームを受けたという。

    極薄銅箔で世界シェア90%

    銅箔事業の好調により、1998年度決算で三井金属はROE24.36%を記録し、日本の上場企業で金融業を除いて最も高いROEを記録した。当時は、外国人投資家が日本企業に対してROEの増大を要求することがブームで、三井金属の高ROEは名門企業の復活として注目を浴びた。だが、三井金属の高ROEは分母(株主資本)の低さに起因したものであり、注目は一過性に終わっている。

    2000年代を通じて三井金属は、携帯電話などの移動端末向けの銅箔事業を強化。2002年にプリント基板向けの汎用銅箔の国内生産から撤退して生産を東アジアに移管し、国内では付加価値の高い極薄銅箔"マイクロシン"に投資した。また、2003年に銅箔に次ぐ事業として自動車部品の強化を決め、ドアロック製造の大井製作所(日産系)を買収。2010年3期に三井金属は祖業である非鉄金属(鉱山・資源)の売上比率が21%まで低下した。

    (解説)マイクロシン:1990年代後半より三井金属が開発に着手した極薄電解銅箔。銅箔の厚さは5マイクロ以下で、18μmのキャリア(銅箔)にイオン化した銅を吹き付けることで生産し、顧客はキャリアを剥離してマイクロシンを使用する。薄膜加工に関する生産技術の難易度が高いと想定され、三井金属が世界シェアを独占している。

    2010年代も三井金属はスマホ向けの「マイクロシン」を上尾事業所とマレーシア工場で製造することで利益を確保した。2017年の時点でパッケージ基板向けの極薄銅箔で世界シェア90%を握っている。

    (補足)三井金属は海外資源事業を抱えており、全社業績が資源価格の市況変動の影響を受けやすい体質となっている。2016年3期に三井金属は銅価格の低迷を受け、チリのカセロネス鉱山で持ち文法による投資損失を223億円計上し、209億円の最終赤字に転落した。他方、自動車部品はドアロックで世界シェアNo.1(20%)を確保するものの、完成車メーカーからの値下げ圧力が強いものと推察され、利益率は低迷している。結果として、三井金属は銅箔事業の利益が全社の業績を支えている。

    仙田貞雄(三井金属社長、2011年)

    もっとも一般的な厚さは約35ミクロンであるが、モバイル機器に代表される電子機器の高性能化やダウンサイジング化で、回路線幅は益々細くなってきている。この要求に対応する方策の一つに、銅箔の厚みを薄くすることがある(すなわち、銅の資料量を減らす。

    銅箔が厚いと、エッチング後の回路断面が富士山のような形状となり、回路の頂上部分の面積が狭くなるため、回路上に部品を実装できなくなる。一方薄い箔を使用すると、回路形状は良好となるが、薄くなるほど銅箔の製造は難しくなってくる。弊社では、最薄1ミクロンの箔まで量産、販売しており、主にスマートフォンなどの半導体基板用に使用されている。

    2011/3/25銅「ミクロの世界のロマン・仙田貞雄」(日本銅センター)


    参考文献

    新聞・雑誌記事

    1958/3/1経済展望「非鉄金属の前途に悲観なし」

    1960/6/24日経新聞夕刊p1「自由化計画の大綱決まる」

    1961/03/16読売新聞朝刊p4「銅鉱山の閉鎖や開発中止」

    1963/02/01実業の日本「非鉄鉱山は斜陽ではない・三間安市」

    1970/06新日本経済「尾本信平氏との50分」

    1977/10/29週刊東洋経済「創業以来の大赤字に揺らぐ"亜鉛帝国"三井金属」

    1979/1/29日経ビジネス

    1984/8/25日経産業新聞「非鉄各社ハイテク材」

    1986/8/27日経新聞夕刊p2「非鉄の町、深まる苦悩」

    1987/8/20日経産業新聞「三井金属、仏で銅箔生産」

    1994/1/27日経新聞夕刊p1「三井金属、鉛精錬から撤退、神岡鉱山を一部休止」

    1996/1/5日経産業新聞「三井金属、銅箔生産能力3割増に」

    1997/2/15週刊東洋経済「労使の決断三井金属の三六五日」

    1999/9/29日経新聞夕刊p5「三井金属社長宮村真平氏(人間発見)」

    1999/09/30日経新聞夕刊p5「三井金属社長宮村真平氏(人間発見)」

    2011/3/25銅「ミクロの世界のロマン・仙田貞雄」(日本銅センター)

    書籍・その他

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