決断社史TOP > 事例一覧

注:必ずお読みください

本サイトは、運営者が独自に収集した情報を取り纏めて掲載したもので、運営者の個人的なコメント・見解を述べたものです。本コンテンツの情報についても、その正確性、完全性及び適時性を保証するものではありません。これらの情報によって本サイト利用者に生じたいかなる損害について、本サイトの運営者は一切の責任を負いません。また、本サイトは投資勧誘を目的にしたものではありません。資産運用の際には利用者様の責任において最終的にご判断ください。


住友金属鉱山 - 河上健一郎

経営者の決断 衰退期 事業撤退 社内の大反対

別子銅山の銅鉱床の概略図。イラストは筆者作成(住友グループ広報委員会webを参考にした)

社内の大反対を押し切り祖業から撤退

  • 住友財閥の発展を支えた別子銅山
  • 江戸時代に住友家は四国の別子銅山を発見し、銅の採掘を開始。無尽蔵の銅資源を保有する別子で儲けた資金を用いて、明治時代に銀行業、化学事業、機械事業、林業などに参入し、住友家は日本有数の財閥として発展した。1945年の終戦による財閥解体により住友本社も解体されたが、別子銅山を擁する住友金属鉱山は、住友グループにとって現在も特別な存在とみなされている。

  • 別子銅山の閉鎖
  • 1961年に非鉄金属の輸入自由化が実施されると、効率の良い露天掘りが主体の海外鉱山(カナダ・チリ・オーストラリア等)に対し、海面下数百mの地中を掘る高コストの国内鉱山の経営は行き詰まる。住友金属鉱山は社内の反対を押し切り、別子銅山の閉山を決断。閉山を前に、海外資源開発(ベスレヘム鉱山)に共同参画して株式を取得し、同プロジェクトの成功後に株式を売却。売却益を別子銅山の閉山費用にあてることで、円滑な業態転換を試みた。

  • グローバル資源会社へ変貌
  • 1960年代に日本国内の非鉄鉱山業界には、三井鉱山、三菱鉱業、住友金属鉱山、同和鉱業、日本鉱業、古河鉱業の大手6社が存在したが、このうち海外資源事業への業態転換に成功したのは住友金属鉱山の1社のみであった。2019年7月の時点で6社の中で時価総額が最も高い企業は住友金属鉱山で、国内鉱山業からの業態転換に最も成功した会社となった。

    目次

  • 住友金属鉱山 - 基本情報
  • 売上高 - 過去推移

    売上構成比 - 過去推移

    営業利益率 - 過去推移


  • 別子銅山の歴史
  • 1690年代 別子銅山の発見

    1900年代 公害対策に奔走

    1940年代 財閥形成〜財閥解体


  • 国内鉱山の斜陽化
  • 1960年代 非鉄金属の輸入自由化

    1960年代 国内鉱山の閉山


  • 別子銅山の閉山
  • 1. ベスレヘム鉱山に参画

    2. 東予精錬所の新設

    3. 別子銅山の閉山

    4. 社長交代+多角化推進


  • 海外鉱山の権益取得
  • 1990年代 海外鉱山の権益取得

    2000年代 資源高騰により収益確保

    2010年代 ニッケル供給


    住友金属鉱山 - 基本情報

    売上高 - 過去推移

    単位:億円

    出所:有価証券報告書、会社四季報


    売上構成比 - 過去推移

    単位:%

    出所:有価証券報告書、会社四季報


    売上高営業利益率 - 過去推移

    単位:%

    出所:有価証券報告書


    従業員数 - 過去推移

    単位:名

    出所:有価証券報告書、会社四季報


    別子銅山の歴史

  • 1590年 京都で銅加工を開始
  • 1690年 別子銅山の開坑/資源開発に参入
  • 1882年 別子銅山の近代化/西洋技師の雇用
  • 1893年 煙害により農民暴動が発生
  • 1905年 四阪島に製錬所を移転
  • 1915年 肥料事業の本格化(住友化学)
  • 1917年 鴻之舞金山を買収(北海道紋別市)
  • 1946年 住友財閥開発〜住友金属鉱山の発足
  • 1938年 ニッケル工場を新設
  • 1956年 日向製錬所の新設(Ni)
  • 別子銅山の発見

    1590年に京都で銅細工屋「泉屋」を開業したことが住友財閥の発祥であるが、飛躍のきっかけは1690年(江戸時代)の別子銅山の開坑である。別子は高品位の銅を要する日本有数の鉱山で、江戸時代を通じて手掘りにより発展し、別子村には数千人が暮らす鉱山町が形成された。

    別子の銅は現地で製錬され、船で大坂の住友銅吹所に運ばれて純度99%に高められ、最終的に長崎から棹銅として世界各地に輸出された。江戸時代に別子は、石見の銀山、佐渡の金山とともに、日本有数の銅山に数えられた。だが、別子銅山は採掘時における湧き水の処理に難渋し、銅の採掘の足かせとなっていた。

    (補足)四国の愛媛県の瀬戸内近くの別子で銅山が発見された理由は、当該地域が中央構造線という日本有数の断層が通過しているためである。中央構造線付近では異なる地質が衝突し、このエネルギーが地下で火山活動を発生させ、結果としてマグマ熱による変成によって銅鉱床が形成された。

    イラスト;筆者作成

    公害対策に奔走

    明治時代に入ると、住友財閥で別子銅山の支配人であった広瀬宰平が経営の近代化を推進。蒸気機関などの新技術から西洋から導入されたことで、坑内における排水技術が向上し、別子銅山の産出量が増加する。1874年にはフランス人技師を雇い鉱山技術の近代化を図り、1882年にはダイナマイト採掘、1891年には鑿岩機の導入、1890年には鉱石輸送のための別子鉱山鉄道を開業し、鉱山経営の合理化を推進し、生産量を伸ばす。

    しかし、生産量の増大は周辺地域に公害をもたらした。住友財閥は別子で算出した銅を海岸部の新居浜で製錬したが、銅には硫黄分が含まれたことから、製錬時に亜硫酸ガスが発生して大気を汚染した。このため、別子銅山の繁栄に伴い、逆に新居浜周辺では米と麦の収穫量が減少し、1893年には農民による暴動が発生する。これに対し、1894年に伊庭貞剛(別子支配人)は大造林計画を実施し、煙害の緩和を試みたが解決には至らなかった。

    根本的な解決を図るため、伊庭貞剛は農民への補償による解決ではなく製錬所の移転を決断し、1905年に製錬所を新居浜沖20kmの孤島「四阪島」に移転した。同製錬所に巨大煙突を据え付けることで製錬時に排出される煙害を緩和することを目論む。だが、根本的な解決は1939年に中和工場が完成するまで待つ必要があった。1939年までに住友が農民に支払った賠償額は730万円に及んだという。

    大阪朝日新聞「赤子の育たぬ四阪島・農民は移住するか倒れるか」

    愛媛県越智、周桑、新居、宇摩四郡に於ける住友経営の四阪島製錬所より吐出す煙毒の被害甚だしく昨年煙毒除害設備をなしたるもその代りに製錬量を増加したり然るに除外工事は何等の効果なく毒煙の被害は今年に入りいよいよ甚だしきは再三記載したるが如し殊に越智郡の如きは昨今苗代田の苗及び蔬菜類の枯死全滅せし処あり郡民の協議会を開きたる際農民は寧ろ他に移住すべしと希望を抱く者多かりしも適当の移住地無く農家は悲惨の状況に在り

    1916/6/22大阪朝日新聞「赤子の育たぬ四阪島・農民は移住するか倒れるか」

    財閥形成〜財閥解体

    明治時代から大正時代を通じて、住友財閥は別子銅山における利益を元手に、経営の多角化を推進して財閥化を志向した。金融業(住友銀行)、炭鉱業(住友石炭鉱業)、倉庫業(住友倉庫)、アルミ(住友金属工業)、林業(住友林業)、電線(住友電工)などの事業化を推進し、戦前に住友財閥は三井・三菱と並び称される大会社となった。

    (補足)一部の多角事業は公害対策が発端となって生まれた。住友財閥は1915年に公害の原因となる亜硫酸ガスを原料に用いた肥料工場を新設し、これが住友化学の源流となった。また、1894年に実施した大造林計画は住友林業の源流となった。

    しかし、1945年の財閥解体により住友財閥は実質的に消滅。別子銅山を含めた非鉄金属鉱山事業については、住友金属鉱山が引き継いだ。1950年代における国内鉱山会社の業績は順調であり、戦後復興に合わせて別子銅山も活況を呈したものの、1959年頃から別子における銅の埋蔵量の減少が顕在化した。

    すでに、住友金属鉱山では別子銅山の枯渇を見据え、1930年代にニッケルの買鉱製錬に参入し、1956年にはニッケル向けの日向製錬所(宮崎県)を新設していたが、事業の主力は銅関連であった。1962年3期の時点で住友金属鉱山の売上高のうち銅関連が44%、ニッケル関連が28%であり、国内鉱山業が事業の主体であった。


    国内鉱山の斜陽化

  • 1960年 貿易・為替の自由化を発表
  • 1961年 非鉄金属の輸入自由化を実施
  • 1971年 ニクソンショック
  • 1973年 オイルショック
  • 貿易・為替の自由化

    1960年に日本政府は貿易・為替の自由化の大方針を発表。1961年6月1日より非鉄金属を含む128品目の自由化が実施され、金、銀、銅、亜鉛などの輸入が本格化した。

    自由化の実施については日経新聞の一面で大きく報じられた。時代を象徴する一面記事の一つ。

    出所:1960/6/24日経新聞夕刊p1「自由化計画の大綱決まる」

    輸入自由化によって、国内鉱山では国際競争力の低下が予想された。このため、日本各地に点在する非鉄鉱山(金・銀・銅・亜鉛)は存亡の危機に陥ったが、各鉱山は地元経済と密接に関わっており、閉山は雇用喪失、ひいては村の消滅を意味したことから閉鎖は難航した。

    他方、業界内でも国内鉱山の競争力は維持されうるという意見も存在しており、専門家でも意見が分かれた。特に、鉱山に思入れの多い人ほど、将来を楽観視したと言われている。このため、非鉄金属業界は斜陽論と発展論の2つの立場に割れた。

    読売新聞(1961年)

    非鉄金属業界は貿易自由化にそなえて企業の体質改善をいそいでいるが、最近その一環として銅山の閉山もしくは開発中止の動きが目立ている。業界筋によると国内銅山は埋蔵量が少ない上に品位も低く、海外銅鉱石とたちうちできないので、縮小に追い込まれるのは必至だとしている

    1961/03/16読売新聞朝刊p4「銅鉱山の閉鎖や開発中止」


    三間安市(日本鉱業・社長、1963年)

    世間の人たちから言わせると、非鉄金属鉱山は、斜陽産業であるらしい。第二の石炭産業だという人もいる。しかし、私は決してそうは思わない。なるほど自由化に直面するとき、われわれは非常な苦境に立たされていることは私といえども認めるのにやぶさかではない

    しかし、非鉄金属鉱、たとえば金、銀、銅、亜鉛、チタン、ニッケル、すず、どれをとっても、ますます需要は増えこそすれ、けっして減ることはない(中略)明治年間、当社の創立者である久原房之助氏が日立鉱山を買ったとき、その可採埋蔵量は38万トンといわれていたが、それから今日まで、このヤマから掘り出された量は、2500トンにのぼり、私からいわせれば「孫の代」までは大丈夫、ほっていけると思っているほどだ

    1963/02/01実業の日本「非鉄鉱山は斜陽ではない・三間安市」


    別子銅山の閉山

  • 1960年 別子銅山に30億円投資(大斜坑)
  • 1961年 ベスレヘム社と共同資源開発
  • 1963年 国内2鉱山を閉鎖
  • 1965年 リオブランコ社と共同資源開発
  • 1967年 青梅工場を新設(電子材料に参入)
  • 1971年 110億円を投じて東予製錬所を新設
  • 1971年 (ニクソンショックの発生)
  • 1973年 別子銅山の閉鎖
  • 1973年 鴻之舞金山の閉鎖
  • 1977年 四阪島製錬所の溶鉱炉を停止
  • 1981年 菱刈鉱区にて高品位金鉱脈を発見
  • 1985年 菱刈鉱山の出鉱開始
  • 別子銅山の閉鎖失敗

    1960年に住友金属鉱山の社内では鉱床が尽きかけていた別子銅山の閉山が議題にあがった。当時、同社の経営計画を担当していた課長・藤崎章は別子の発展はあり得ないと考え、社内の役員に閉山を提案する。だが、別子の責任者であった役員の反対にあい、藤崎課長の意見は退けられてしまった。この結果、住金鉱山の別子銅山の閉山は一旦頓挫する。

    だが、1962年に河上健一郎が住友金属鉱山の社長に就任し、藤崎案に理解を示して国内鉱山の縮小とリストラを決断した。別子鉱山の即時閉鎖は難しかったものの、1963年に住友金属鉱山は北海道の2鉱山(北見鉱山と余市鉱山)の閉鎖を決断し、国内鉱山の縮小に乗り出す。

    河上健一郎。1962年に住友金属鉱山の社長に就任。1972年に同会長に就任。国内鉱山のリストラを早めに実施し、住友金属鉱山の業態転換の土台を作った。イラストは筆者作成。

    河上健一郎(住友金属鉱山・社長、1964年)

    自由化の進展に伴ない我々に課せられたコストダウンの目標が、愈々苛烈なものに相成って参ったことはさきに申し上げた通りであります。まづ鉱山部門について既存鉱山の合理化設備、心材の開発であり、次に製錬の種々の合理化投資、既存製錬所の拡張、更に新鋭大型製錬所の設置等に多額の投資が必要であります。又海外より紐付で有利な鉱石を入れるための海外鉱山開発投資が必要であり、更には経営多角化により余剰人員対策をかねて経営基盤の強化をはかる事も必要であります。

    1964/1鉱山「探鉱助成策の強化と鉱山製錬所の合理化について・河上健一郎」


    藤崎章(住友金属鉱山・社長、1984年)

    私は、課長時代に経営方針をめぐってある有力な役員と対立したことを思い出します。昭和35年ごろ、当社の銅山は鉱脈が尽き、経営にとって重荷になっていました。経営計画を担当していた私は当然の判断として「国内の鉱山は閉山するしかない」と思い、役員陣を説得に回ったのです。

    ところが採鉱部門の責任者だった役員が「銅山は住友発祥の産業だからやめられない」と、全く相手にしてくれませんでした。さらに彼の下にいた役員、部長たちから「課長の分際で何だ」と言わんばかりの圧力がかかり、「そんなに頑張ると飛ばされるぞ」といった声さえ聞こえてきました。幸い当時の社長が私の考えを理解し、一部鉱山の閉鎖、海外鉱山の開発などに手をつけたのです。あの時、頑迷固陋な役員の意見がまかり通っていたら、当社の発展はありえなかったはずです。

    1984/1/23日経ビジネス「企業の命運左右するトップの退き時・藤崎章」

    ベスレヘム鉱山開発

    1960年代に大型鉱山機械の生命線である油圧技術が発展し、世界的に露天掘りが盛んになる。従来の国内鉱山は高品位な鉱床を目指して地下トンネルを掘ることで金属採掘したが、油圧機械の誕生により、露天掘りによって品位の低い鉱山の金属を大量に採掘して採算を合わせる手法が世界の主流となる。このため、品位が低いものの露天掘りに適した鉱山に注目が集まったが、いずれも海外の鉱山であった。

    1961年に住友金属鉱山(田中社長)と住友商事は「カナダのベツレヘム・カッパー社との間に銅鉱山開発ならびに長期買鉱に関する契約を締結し、政府に認可申請中であったが、このほど正式認可をえたので、明年末操業開始を目標として近く開発に着手する」[1961/05/03読売新聞朝刊p4]と発表。1963年2月にベスレヘム鉱山を開所し、住友金属鉱山は海外における資源開発事業に参入した。

    投資額は550万ドル(約20億円)であり、住友金属鉱山は国内鉱山の開発ではなく、海外における資源開発に注力することで業態転換を試みる。ベスレヘムとの交渉は、河上健一郎(同社専務)が直接出向いて実施。1962年5月に河上が住友金属鉱山の社長に就任し、海外事業を本格化させる。

    ベスレヘムへの参画に当たって、住友金属鉱山は同社の株式を取得する一方、経営は現地のカナダ人に任せることを決め、経営に消極的な契約を締結することで、将来の株式売却を視野に入れたものと推察される。


    住友金属鉱山・ベスレヘムの契約概要(1961年)

    1. ベスレヘム鉱山の開発規模は、当初日量3000トン(粗鉱)とする。

    2. 住友は総起業費770万ドル余のうち、500万ドルを融資し、50万ドルを投資する。

    3. 住友は投資に見合う40万株を取得する。

    4. 住友はベスレヘム鉱山の生産開始日(1962年11月)から10年3ヶ月にわたり、銅鉱山算出の全銅精鉱を独占的に購入する。

    5. 取締役9人のうち3人を派遣し、経営に対する発言権を留保したが、日常の経営はいっさいタッチせず、現地のカナダ人に委ねる。

    1988「私の住友昭和史」


    (補足)ベスレヘム鉱山における露天掘りに当たっては、North West社のショベルや、キャタピラー社のD8トラクター、haulpack社のダンプカーなど、最新の鉱山機械を導入している。1965年時点のベスレヘム鉱山は職員28名、日給者49名、合計77名で運営され、機械の導入による省人化が徹底された鉱山となった。このため、河上健一郎(住友金属鉱山・社長)は労働集約的でコストがかかる地下採鉱に依存する国内鉱山業の将来性に悲観するようになった。

    1965年頃からベスレヘム鉱山における採掘は軌道に乗り、住友金属鉱山は毎年約2.5億円の配当収入を獲得。最初の海外資源開発は成功裏に終わった。

    河上健一郎(住友金属鉱山・社長、1963年)

    強い印象を受けたのは、この会社の人の使い方だ。本社はバンクーバーにあるが、常勤の重役は社長と事務重役の2名だけ。ほかには秘書嬢ただ1人。現場は1日あたり選鉱処理3500トン見当の規模だが、所長以下小使まで一切合切60数名でやっている。採鉱や工作部門を外部に請け負わせたり、技術上の問題は外部コンサルタントを利用するなど、直轄業務の極端な集約化もさることながら、事務管理の徹底した簡素化には一驚のほかない

    国際競争の相手がおおむねこうした姿だとすれば、よほど考えなければならない、としみじみ感じたことであった

    1963/10経団連月報「海外鉱山開発の現場から・河上健次郎」


    藤崎章(住友金属鉱山・社長、1988年)

    このプロジェクトは当社にとっては大きな賭けであった。長期安定的な資源を渇望したとはいえ、①開発資金として21億円を投じることは、当時の資本金(32億円)からみても巨額なものであり、それこそ会社の命運を賭けるものであったこと、②同鉱山の開発は露天掘りによるもので、当社にそ経験がなかったことなど、多大の危険を伴うものであった。わが国の産銅会社で、これだけの巨額資金をひとつの海外鉱山に投じた前例がないだけに、社内からは慎重論もあがった

    また海外の有力非鉄メジャーの力もよくわからないこともあって、将来に不安があった。それだけに、安定した資源を確保できるなら、将来とも非鉄金属会社として生き残れることになる。冒険ではああってもやってみようという悲壮な決意だった

    1988「私の住友昭和史」

    東予錬所の新設

    1965年頃からベスレヘム鉱山における採掘が軌道にのり、住友金属鉱山は毎年約2.5億円の配当収入を得た。ベスレヘムの成功を受けて、住金鉱山は海外資源開発を本格化させ、1965年にチリ・リオブランコにおける銅鉱山の経営に参加。同プロジェクトに約72億円投資し、年間15万トンの銅精鉱の供給を受ける契約を締結した。

    海外からの銅精鉱の輸入に対応するため、1971年に住友金属鉱山は110億円を投じて東予製錬所(愛媛・新居浜)を新設し、チリ産の銅の国内製錬を開始した。銅のほかにニッケルを精錬する大規模拠点で、住友金属鉱山の海外事業を支える基幹拠点となった。

    また、東予製錬所の稼働を受け、それまで住金鉱山の製錬を担ってきた四阪島製錬所の閉鎖を決断。同製錬所は郊外対策のために明治時代に孤島に設けられた製錬所であったが、海に囲まれて拡張余地が無いという欠点を克服することができなかった。

    (補足)四阪島は製錬所に特化した島であるため、島民は実質的にすべて住友金属鉱山の関係者であり戦前の最盛期には5000名の人口を抱えた。このため、製錬所の閉鎖は島民の生活が失われることを意味した。1976年に溶鉱炉が停止され、1977年に一部の関係者除き住民が離島した。生活基盤の喪失を受け、同年に小中学校は廃校となる。1988年に全住民が離島し、四阪島の人口は0名となった。ただし、1977年より同社の酸化亜鉛の製造工場が稼働し始め、約50名の従業員は社内の専用船で島に勤務している。現在も、元島民の声を受けて小学校などの一部の施設が保存されている。

    藤崎章(住友金属鉱山社長、1988年)

    リオブランコ鉱山に参加したことで、1971年からは大量の銅精鉱がえられる見通しがついたことから、いよいよ産銅1万トン体制が現実のものとなった(中略)ちょうど愛媛県が推進していた東予新産業都市(磯浦・船屋地区)に進出することを決めたのである。総事業費が110億円という、当時の当社の実力からすれば大変な決意を必要としたものだった

    1988「私の住友昭和史」

    別子銅山の閉鎖

    河上健一郎社長は別子銅山閉山に反対する社内の意見を沈静化させるため、別子銅山に30億円を投資して大斜坑の開坑を決断。1969年2月に操業を開始した。あえて別子銅山に投資をすることで、別子閉鎖の反対派を説得することを目論んだ。

    別子銅山の銅鉱床の概略図。イラストは筆者作成(住友グループ広報委員会webを参考にした)

    その後、1971年にニクソンショック発生して円高ドル安が進行したことで、労働集約的な国内鉱山業の存続が極めて難しくなった。さらに1972年の時点で別子の採掘現場は海面下960mであり、鉱員の安全確保が難しかった。これらの状況を勘案し、1973年に住友金属鉱山は住友発祥の地である別子銅山を閉鎖した。

    別子銅山で勤務する460名の従業員は、東予製錬所や関連企業などに配置転換することで失業を最小限に抑えた。ただし、別子山村の生活は別子銅山に依存しており、地元民は「村はまさに存廃の瀬戸際に立たされている」[1972/9/15経済展望]という思いを抱いたという。

    別子の閉山と同時に、北海道の鴻之舞鉱山の閉山も決断。住友金属鉱山は鴻之舞・別子という国内2大鉱山の閉鎖を実施し、最盛期には8000名いた従業員を1980年代には3000名に削減する。人員削減について、のちに藤崎社長は「あんな辛い思いはもう2度としたくありませんね」[1982/8/9日経ビジネス]と回想している。

    また、閉山に必要な資金はベスレヘム鉱山の株式売却によって捻出した。1972年に住友金属鉱山はベスレヘム鉱山の株式をニューモント社に売却し、売却益を計上。1970年代を通じて住友金属鉱山の業績が極度に悪化することはなく、最終赤字への転落は1978年3期のみであった。

    イラストは筆者作成。(住友金属鉱山の統合報告書を参考にした)

    河上健一郎(住友金属鉱山・社長、1971年)

    ドル・ショックによる変動相場制への移行は、さらには当然予想される円切り上げの進展は、わが非鉄金属業界に多大の影響を及ぼすものであろう。(中略)鉱山の操業維持のためには、採鉱に見合った探鉱を行うことが必要であるが、前述のように桂絵悪化のため、新鉱探鉱はもとより鉱量確認のための探鉱費支出さえ困難とならざるを得ない

    1971/11経団連月報「非鉄金属鉱業の現状と問題点・河上健次郎」


    藤崎章(住友金属鉱山・社長、1971年)

    「これだけ探鉱にカネをかければコストはトン40万円台だ。製品価格は36万円ぐらいだから採算に合わない」と説得してもダメなんですよ。実際に掘ってみないとね。

    別子鉱山なんか、社内を説得するため、最後にわざわざ大斜坑を掘ったんですよ。「これでダメならあきらめるか」といってね。約30億円かかりましたが、まあ、伝統ある別子鉱山の葬式代ですな。私自身、鉱山の勤務が長く、人一倍ヤマの愛着は強いんですが、冷静に考えれば閉山せざるを得なかった。同業の他社よりも、早く主力鉱山を閉めて身軽になれたんですが、まあこれは計画的にやったからというよりも、幸運だったんですね。他社の主力鉱山よりも早く鉱量が乏しくなりましたからね。

    1982/08/09日経ビジネス「藤崎章氏が語る長期戦略作りの秘訣」

    社長交代+多角化推進

    別子銅山の閉山に合わせ、1973年に藤崎章(55歳)が住友金属鉱山の社長に就任。新社長の就任について、日経ビジネスは「300年近くも、同社発展の角となってきた別子鉱山との訣別。それは、同社がまったく新しい歴史に向かって挑戦しなければならない時期を迎えたといえよう。藤崎氏はいわば、その初代社長である」[1974/1/21日経ビジネス]と注目している。

    1970年代以降、住友金属鉱山は藤崎新社長のもとで経営の多角化を推進。新事業としては、非鉄金属を用いた電子材料、建材、原子力関連事業を本格化した。また、本業の非鉄・資源分野では引き続き海外における資源開発に従事するとともに、国内における新鉱床の探鉱も実施した。

    1982年に住友金属鉱山は鹿児島県菱刈における住友金属鉱山の所有地にて、世界的にも高品位な金鉱床を奇跡的に発見した。菱刈鉱山の開所にあたっては、機械を導入して合理化を徹底することで、省人化を実現しいた鉱山となった。菱刈は住友金属鉱山の収益源となり、1990年には同社の単体売上高の過半を金が占め、同社の業態転換を支える鉱山となった。

    藤崎章(住友金属鉱山・社長、1971年)

    冷静に考えると、ベースメタルで1割配当やれると思ったら大間違い。非鉄はしょせん地盤沈下産業ですが、私の目から見ると、たいていの人がまだ非鉄に固執している。地盤沈下産業では、新しい分野に展開できたところが生き残る(中略)

    わが社では2度帰路があったと思います。最初は30年代の後半、二度目はご多聞にもれず、石油ショックのあとですね。古い話で恐縮ですが、当社は昭和20年代から30年代にかけて、鉱山会社として優良会社でした。創業が元禄にさかのぼる住友の源流ですし、株式市場でも優良株の勲章をもらっていました。しかし、鉱山というものはいずれは鉱量が乏しくなり、探鉱、採鉱のコストが上がって、採算に合わなくなるのが宿命です。

    そこで30年代後半に、不採算の鉱山から閉めていくことに方向転換しました。当時私は管理部門にいたんですが、そういう方向づけをして、まず、1962〜1963年に東北、北海道の3山を閉めることになりました。まだ、鉱山業が全体としては隆盛の頃です。8000人いた従業員を5000人に減らしました。主力鉱山の別子(愛媛県)、鴻之舞(北海道)を閉めたのは1973年ですからほぼ10年がかりだったわけです。

    1982/08/09日経ビジネス「藤崎章氏が語る長期戦略作りの秘訣」


    グローバル資源会社へ変貌

  • 1986年 モレンシー銅山に共同投資
  • 1988年 PTIに資本参加(インドネシア・ニッケル)
  • 1989年 MCLE法によるNi生産開始
  • 1999年 特別損失235億円
  • 2005年 HPALの共同PJに参画
  • 2006年 ポゴ金鉱山の生産開始
  • 2011年 シエラゴルダ銅鉱山PJに参画
  • 2015年 特別損失512億円
  • 2016年 特別損失403億円(シエラゴルダ銅鉱山)
  • 2017年 特別損失315億円(シエラゴルダ銅鉱山)
  • 2018年 ボゴ金鉱山の権益を約290億円で売却
  • 非鉄国内大手6社で時価総額No.1

    1960年代のベスレヘムとの共同資源開発の成功を皮切りに、住友金属鉱山は事業の主力を海外へとシフトした。1986年にはモレンシー銅山に共同投資を実施するなど、海外の採算性の良い鉱山の獲得に邁進した。資源開発では、従来からの知見がある銅山と金山を中心に権益を取得した。

    また、国内の菱刈鉱山からの金の採掘も好調に推移し、モレンシー銅山への投資資金を実質的に捻出した。1997年には新潟県の佐渡金山の総産出量(83t)を超える総産出量を記録し、日本一の金鉱山となった。鉱石1トンあたりの金の保有量は40g(世界平均5g)[2011/1/29週刊東洋経済]と高品位であり、同社の経営を支える鉱山となる。また、住金鉱山の鉱山技術の伝承の場としても重要な役割を担う。

    2000年代における銅などの資源価格の高騰により、住友金属鉱山の業績も上向いた。住友金属鉱山は2000年代を通じて世界各地の金鉱山・銅鉱山・ニッケルに関するプロジェクトに参画し、グローバル資源会社に変貌した。ただし、2011年に参画したシエラゴルダ銅鉱山プロジェクトは、2016年〜2017年にかけて特別損失を累計約700億円を計上するなど、一部の投資に失敗している。

    しかし、1960年代に存在した非鉄鉱山大手6社の鉱山会社のうち、2019年7月時点で住友金属鉱山は時価総額No.1を維持しており、業態転換に最も成功した鉱山会社となった。


    2019年7月2日時点の時価総額

    住友金属鉱山 :9,407億円

    三菱マテリアル:4,128億円

    同和鉱業   :2,191億円

    三井金属鉱業 :1,483億円

    古河機械金属 :587億円

    ※日立鉱山を母体とする日本鉱業は国内鉱山の閉鎖に対応することができず企業の単独存続を諦めた。1992年に日本鉱業は共同石油と合併している(現JXTG)。


    (補足)2010年代までに住金鉱山はニッケルの垂直統合を推進しており、こちらも同社を支える基幹事業に育った。ニッケル鉱石の採掘ではフィリピンとニューカレドニアにて共同投資を実施し、製錬分野では低品位鉱石を効率よく製錬できるHPAL(高圧硫酸浸出)を開発し、コスト競争力を高めている。また、需要面ではパナソニック(テスラ向け)やトヨタなどの自動車向け電池材料として2010年代を通じて増大しており、住金鉱山は電気自動車の重要部材を握る非鉄会社となっている。


    参考文献

    新聞・雑誌記事

    1916/6/22大阪朝日新聞「赤子の育たぬ四阪島・農民は移住するか倒れるか」

    1960/6/24日経新聞夕刊p1「自由化計画の大綱決まる」

    1961/03/16読売新聞朝刊p4「銅鉱山の閉鎖や開発中止」

    1961/05/03読売新聞朝刊p4「カナダの銅山開発」

    1963/02/01実業の日本「非鉄鉱山は斜陽ではない・三間安市」

    1963/10経団連月報「海外鉱山開発の現場から・河上健次郎」

    1964/1鉱山「探鉱助成策の強化と鉱山製錬所の合理化について・河上健一郎」

    1971/11経団連月報「非鉄金属鉱業の現状と問題点・河上健次郎」

    1982/08/09日経ビジネス「藤崎章氏が語る長期戦略作りの秘訣」

    1984/1/23日経ビジネス「企業の命運左右するトップの退き時・藤崎章」

    2011/1/29週刊東洋経済

    書籍・その他

    住友金属鉱山「統合等報告書」

    有価証券報告書

    会社四季報

    1988「私の住友昭和史」

    1991「住友別子鉱山史」


    事例一覧