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ノーリツ - 太田敏郎

創業期 特許買収 能率教 1950年代

ノーリツ創業者・太田敏朗。20代でノーリツを創業し、ガスインフラの普及に合わせて自宅風呂を特約店経由で販売することで業容を拡大させた。だが、1962年に同社専務のクーデターにより社長を解任されてしまう。

イラストは筆者作成(参考:2016/10/18日経新聞電子版)

銭湯業界を破壊した20代の起業家

  • 銭湯の黄金時代
  • 1950年代の日本人にとって自宅風呂は高嶺の花であり、近所の銭湯に通うことが生活の日課であった。東京都内には1965年の時点で2641箇所の銭湯が存在しており、中には江戸時代から続く老舗の銭湯も数多く存在した。

  • 特許買収で自宅風呂事業に参入
  • 1951年に太田敏郎(24歳)は能率風呂工業を設立し、入浴時に火傷をしにくい画期的な家風呂(能率風呂)の特許を買収したうえで、日本各地の特約店を通じて自宅風呂の販売を開始。1950年代を通じてガスインフラが日本に普及したことで、庶民が手軽に家風呂を楽しめる時代が到来し、ノーリツも急速に業容を拡大した。また1960年には大学教授と共同開発したアルミ製の風呂釜の販売を開始し、ガス会社135社を通じて売り出した。ノーリツはガスインフラの普及とともに業容を拡大し、1984年に株式上場を果たす。

  • 銭湯市場の縮小
  • 1960年代以降、自宅風呂の普及に伴い、都心部における銭湯が減少。1965年の時点で東京都内に2000以上存在した銭湯は、2015年までに628軒に激減した。1970年代から1980年代にかけて、銭湯の経営者は相次いで店じまいを決断したが、当時は風呂無しの家も多く、一部の住民は政治家を動員して廃止反対運動を起こした。現在、反対運動は沈静化し、ひっそりと廃業する銭湯が多くなった。


    目次

  • ノーリツ - 基本情報
  • 売上高 - 過去推移

    売上構成比 - 過去推移

    営業利益率 - 過去推移


  • 銭湯の黄金時代
  • 1910年代 水道インフラにより銭湯が普及

    1930年代 贅沢品だった自宅風呂

    1950年代 ガスインフラの普及


  • ノーリツの創業
  • 1. タイル職人と出会い起業

    2. 代金回収に失敗して倒産

    3. 倒産原因の分析〜再起

    4. 建材系代理店の確保

    5. 世界初のアルミ風呂釜を開発


  • ガス風呂普及〜銭湯消滅
  • 1960年代 太田社長の社長解任〜社長復帰

    1960年代 街の銭湯の消滅


    ノーリツ - 基本情報

    売上高 - 長期推移

    単位:億円

    出所:有価証券報告書、会社四季報


    売上構成比 - 過去推移

    単位:%

    出所:有価証券報告書、会社四季報、1985/9証券

    2018年のガス・石油機器には「海外事業」を含む


    営業利益率 - 過去推移

    単位:億円

    出所:有価証券報告書、注:連結決算を優先して掲載


    都心銭湯の黄金時代

  • 1898年 淀橋浄水場の稼働(近代水道)
  • 1911年 淀橋浄水場の拡張工事
  • 1924年 豪勢な銭湯が多数出現
  • 1954年 東京ガスが豊洲新工場を稼働
  • 1954年 LPガスが普及
  • 1960年 ガス器具が急速に普及(コンロ、暖房、風呂、温水)
  • 水道インフラにより銭湯が普及

    明治時代に日本政府は都心部における衛生環境の改善のために、水道インフラの敷設を進めた。1898年(明治31年)に東京新宿の淀橋浄水場が稼働したことで、井戸水ではなく、衛生的な近代水道を都心部でも利用できるようになった。水道の利用は年々増え、1911年に東京市は淀橋浄水場の拡張工事を実施し、1927年には村山貯水池を稼働させた。

    水道水の普及により、安全な水を大量に消費できる時代に突入し、都心部における銭湯が急増した。明治時代後期において、東京浅草における一般的な入浴頻度は夏場でも1ヶ月に3回にとどまったが[1915/5大阪毎日新聞]、銭湯の普及により、毎日入浴する生活文化が徐々に根付いた。

    特に、1923年の関東大震災後の復興において、東京都心部において豪勢な造りの銭湯が相次いで誕生。庶民の間に銭湯という文化が、震災からの復興の過程で根付いた。

    イラストは筆者作成

    贅沢品だった自宅風呂

    1930年代までは、自宅風呂を担当できる人は富裕層に限られた。自宅風呂を楽しむためには高額な風呂釜を購入する必要があり、さらに1時間かけてお湯を沸かすという手間がかかったため、大半の庶民は近場の銭湯に通い詰めていた。

    家風呂を楽しむ場合、熱源(石炭・マキ・ガス)と風呂釜(銅・鉄)を総合的に比較して、風呂の形式を選択する必要があった。燃焼時間は早い順にガス>蒔>石炭、燃料代金は石炭が最も安く、絶対的に優れた組み合わせは存在しなかった。また、風呂釜は、耐用年数は銅>鉄(10年)であったが、石炭燃料を利用すると硫黄分の関係から銅<鉄になるなど、購入には総合的な判断が必要であった。

    (補足)終戦直後の自宅風呂は、石炭や蒔を使って水を直接加熱した「五右衛門風呂」が主流であったが、湯加減の調整が難しく、入浴者に火傷をすることが多々あった。このため、安心して風呂に入るには銭湯に行く以外に方法はなかった。1952年には東京新橋で自宅風呂の湯加減を確かめる時に、謝って湯船に転落した17歳の女性が熱湯で火傷負い死亡するという事故も発生した。[1954/3/13読売新聞夕刊p3「フロの熱湯で女学生死亡」]

    主婦の友(1930)

    お風呂は何と言っても、自宅風呂です。ゆっくりと気持よく入れます。ところが、この自宅風呂となると、相當な家でないと構えられないやうに思われてゐますが、ごく僅かな空き地と、少しの費用で構えられるのですから、どなたにもお勧めできるわけです。


    読売新聞(1977年)

    戦前まではかなりの商家でも内ぶろを持たず、家族も従業員も銭湯に通ったところが多かった。今と違って、人間一人がほとんどつきっきりでマキを燃やし続けなければならなかったのだから、確かに贅沢なものである。...(中略)...入浴者はお互いの町内の顔見知り同士、地域のコミュニケーションの場としての役割を果たしてきたといえる

    1977/2/4/27読売新聞朝刊p7「銭湯は遠くになりにけり」

    ガスインフラの普及

    1954年に東京ガスは首都圏におけるガスの大型供給基地として東京の豊洲にを新設する方針を決断。当時の東京ガスの資本金80億円を上回る90億円を投資し、1956年に豊洲工場を稼働した。豊洲の稼働により、東京ガスは首都圏のガス需要の増大に対応するとともに、ガス料金の値下げを実現した。

    また、1950年代を通じてLPガスという新しいガスの流通方式が誕生し、ガスインフラに乏しい地方にもガスが普及した。LPガスは専用の高圧容器に液化したガスを封入する方式で、各家庭にボンベを据えつけることでガスが利用できることが利点であった。LPの登場により、都心部以外でもガスの熱源利用が広まり、日本全国にガスが普及した。

    ガスインフラの充実に合わせて、ガス器具分野にフロンティアが登場し、全国各地で中小メーカーが台頭。リンナイ、パロマ、ノーリツ、高木、世田谷製作所などのガス器具各社が急成長を遂げた。徐々に各家庭にガス器具が普及し、1971年の時点で、ガスコンロは普及率95.9%、ガスレンジは普及率7.1%、ガス炊飯器は普及率88%、ガス湯沸かし器は普及率46.9%、ガス風呂釜は普及率62.3%を記録した。[1971/5日本瓦斯協会誌]


    ノーリツの創業

  • 1950年 能率風呂商会を創業
  • 1950年 能率風呂商会が倒産
  • 1951年 能率風呂工業を創業(現ノーリツ)
  • 1953年 代理店を100社以上組織
  • 1960年 大手ガス会社がガス風呂に参入
  • 1960年 技術研究所を設置.富塚教授と共同研究
  • 1961年 世界初のアルミ風呂"GS-1"を開発
  • 1962年 国内100社のガス会社がGS-1を採用
  • 1. タイル職人と出会い起業

    [解説:ノーリツ創業者・太田敏郎]1927年に軍人の町・姫路市で生まれる。父は師範学校の絵画教師であり校長も務めた人物である。16歳のときに合格倍率40倍の超難関と言われた海軍兵学校に合格して軍人への道を進む。だが、戦場に出ることなく1945年に広島の海兵学校で終戦を迎えた。終戦後は空腹を満たすためにサツマイモを栽培しつつ、兵庫師範学校に転入。卒業後に川崎重工に入社するが鋳造現場の環境が劣悪で喉を痛めたため1年で退職。その直後に小学生向け問題集のビジネスを立ち上げて8万円(現在換算800万円)の資金を作る。

    1950年に太田敏郎(23歳)は神戸で植松清次という人物に出会う。植松は腕の良いタイルの職人で、新しく開発した風呂釜を太田に披露した。太田は湯船に浸かると、湯加減の良さに驚き、風呂釜の事業化を決意する。太田は終戦直後に小学生向け問題集の販売で稼いだ8万円を原資として、1950年に能率風呂商会を設立。神戸元町5丁目に事務所を設置した。

    能率風呂の凄さは浴槽の底が二重構造になっている特許技術にあった。熱湯が浴槽を対流することで水を温める仕組みであり、保温性に優れ、やけどの恐れもなかった。燃料費の節約にも有効で、当時としては"能率に優れた"画期的な風呂であった。

    1950年から能率風呂紹介は画期的な能率風呂の販売を開始。発売直後から能率風呂には注文が殺到し、会社は順調なスタートを切った。

    2. 代金回収に失敗して倒産

    創業から1年未満で能率風呂商会は資金回収に行き詰まり倒産した。原因は銭湯向けの大型風呂釜の工事において、売掛金の回収が滞ったためである。1950年の夏に能率風呂商会は淡路島・洲本市の旅館の風呂釜を受注したものの、工事途中で旅館の経営者が突如夜逃げし、工事代金を回収できず能率風呂商会も経営危機に陥る。

    最後の打開策として、1950年12月に太田敏郎は植松を誘って西宮の競輪場に出向いた。必勝祈願をしたうえで全財産を競輪に賭けたものの全滅し、能率風呂商会の倒産が確定した。

    3. 倒産原因の分析〜再起

    太田敏郎は能率風呂商会の倒産原因を細かく分析し、最大の問題は風呂の設置工事を自ら手がけた点にあると結論付けた。

    そこで、太田敏郎は能率風呂の販売で再起する計画を策定。全国に代理店網を整備することで、能率風呂を代理店に売るビジネスモデルに鞍替えする。だが、起業資金が底をついていたため、父や知り合いをツテに53万円(現在換算:約1000万円)の資金を調達した。また、太田は植松との間で"風呂釜1個の販売につき500円の権利料を支払う"という契約を結んだうえで、能率風呂の特許を譲り受けた。

    (補足)出資者の内訳は黒川緑朗(30万円・小学生向け問題集の販売で太田と知り合った人物)、太田の父(15万円)、太田敏郎(8万円)であった。ちなみに、太田敏郎は起業資金の確保のために銀行を訪れたことがあるが、融資を拒絶された。このため、ノーリツは長らく無借金経営を続けた。

    1951年10月に太田敏郎は能率風呂工業(資本金53万円)を設立した。事業経営にあたっては、父も息子の仕事を手伝い、特に師範学校の校長を務めた父の存在は、代理店などの取引先からの信頼獲得に大きく貢献したという。

    太田敏朗(2016年)

    能率風呂商会は、なぜ倒産したのか。問題は自ら受注して風呂を施工、販売するビジネスモデルにあったと考えた。大卒の初任給が5千円にも満たない当時、能率風呂は6千円で販売していた。ただ、月に3〜4件の受注では毎月の売り上げが工賃や材料費などで消えてしまい、事業の拡大は難しい。自前で販売と施工を手がける商売のやり方を抜本的に見直し、全国を強力な特約店制度で網羅して能率風呂を売ってもらえば一気に広まると考えた。

    2016/10/12日経産業新聞p26「ノーリツ名誉会長太田敏朗氏・仕事人秘録」

    4. 建材系代理店の確保

    太田敏朗は、計画通りに建材屋などの代理店を経由して風呂釜を販売する方式を採用。代理店を探すために太田は飛び込み営業を繰り返した。太田は1ヶ月のうち5日を本社のある神戸、残りの25日を全国を飛び回って代理店を探す時間にあてた。また、銅製の風呂釜の製造は、姫路の鋳物業者が引き受けた。

    代理店を組織化するため、1953年にノーリツは熱海の富士屋ホテルにて集会および宴会を実施し、親睦を深めた。これらの施策によって代理店は100社以上に増えたという。急激な能率風呂の普及に対して、関係者からは「能率教」や「能率狂」と揶揄されたという。

    (解説)風呂釜の仕入原価は2500円、代理店への販売価格は7500円、工事代を含めた末端価格は25,000円であったことから、能率風呂工業は莫大な利益を獲得した。また、代理店にとっても能率風呂は利益率の良い商材であり、販売に積極的であった。

    5. 世界初のアルミ風呂釜を(委託)開発

    1960年頃に大手ガス会社は、ガスを普及させるためにガス器具の販売に参入。風呂分野でも、ガス風呂を格安で販売したため、風呂釜専業のノーリツは経営危機に陥る。

    そこで、1960年にノーリツは技術研究所を設置し、新しい風呂釜の開発を急いだ。技術開発にあたっては航空機エンジンの権威であった富塚教授に協力を依頼。当時の風呂釜の素材は銅が主流であったが、富塚教授はアルミニウムに着目し、量産を可能にした風呂釜の開発に成功。懸念事項の強度はアルミの純度を向上させることで確保することができた。1961年にノーリツは業界の常識を覆す世界初のアルミ風呂「GS-1」を発売した。

    太田敏朗(2016年)

    当時、ガス釜は銅製が一般的で、アルミといえば弁当箱のイメージが強く「梅干しで穴があく」とまで言われていた。アルミのガス釜ではガス燃焼で発生する強酸性の水分で腐食してしまうと業界内から批判された。だが富塚先生は「アルミの純度を上げれば強度を上げられる」と主張し、世界初となるアルミ製ガス釜「GS-1」を開発。...(中略)...GS-1は銅製からアルミ製へとガス釜の歴史を変えた。

    2016/10/17日経産業新聞p20「ノーリツ名誉会長太田敏朗氏・仕事人秘録」


    ガス風呂普及〜銭湯消滅

  • 1962年 ノーリツ社長が交代(創業者解任)
  • 1964年 銭湯の減少が社会問題に
  • 1968年 ノーリツ社長が交代(社長解任)
  • 1971年 ガス風呂普及率62.3%
  • 1980年 ノーリツ社長が交代(創業者復帰)
  • 1984年 ノーリツが株式上場
  • ガス風呂釜の普及

    GS-1釜は大ヒットを記録し、1962年までに135社のガス会社が採用。1962年にノーリツは売上高約50億円を記録した。アルミ製のガス風呂も日本に定着し、1971年に国内におけるガス風呂釜の普及率が62.3%に達した。

    1960年代を通じてノーリツは売上高を拡大したものと推察されるが、1984年までは非上場のため詳細な数値は不明である。

    (補足)1962年に同社の経理担当専務は太田社長の解任動議を提出し、取締役会で半数以上の賛同を得たため、太田は研究担当の専務に降格された。このクーデターの後、1980年に太田が社長に復帰するまでは、平役員兼株主として同社にとどまった。

    資本金 - 創業期の過去推移

    単位:万円

    出所:1985/9証券


    街の銭湯の消滅

    1960年代に入ると家庭風呂が普及して銭湯の廃業が目立つようになる。特に、東京都心部(千代田区・港区・中央区)では郊外への人口流出も重なり、銭湯の廃業が相次いた。銭湯経営者は続々と事業継続を諦めて、銭湯跡地を貸しビルないしマンションに転換して事業転換を図った。

    だが、1960年代は銭湯を利用する住民がまだ多い時代で、銭湯の廃業に困る人が多く、廃業に反対する請願運動も起こった。日本橋では、町内会の人が銭湯継続のチラシを配る姿もあったが、銭湯は徐々に姿を消していった。

    銭湯の事業所数 - 長期推移(東京都内)

    単位:店

    出所:https://www.1010.or.jp/menu/sentousu.html

    読売新聞「"江戸"のふろやまた消える」(1967年)

    江戸時代からつづいてきた日本橋の銭湯が十日、姿を消した。江戸っ子の社交の場でもあったふろも、都心部では、人口の郊外流出で入浴者が減る一方。これと、高い地価に転進組もふえ、中央、千代田、港区では、毎年七、八軒ずつ廃業していくありさま。都市構造の変わり方にともなうやむを得ない時の流れではあるが、消える銭湯を懐かしむ東京人はい多い...(中略)...生活が豊かになってくると、家庭ぶろが普及し「二十年後にはふろ屋はなくなる」という経済学者もいるほど。


    廃業を決意した経営者(1967年)

    わたしも江戸っ子のはしくれ。ご先祖が苦労して続けてきたふろ屋をやめるのは涙が出るほど残念でしょうがない。...(中略)...去年までは一晩七百人ちかかった客が、ことしは五百人前後。ふつうふろ屋は一晩に六百人以上の客がはいらないとやっていけない

    1967/6/11読売新聞朝刊p13「"江戸"のふろやまた消える」


    参考文献

    新聞・雑誌記事

    1929/2婦人之友「風呂釜問答」

    1952東邦経済

    1956/10/10読売新聞朝刊

    1967/6/11読売新聞朝刊p13「"江戸"のふろやまた消える」

    1969/9鉄鋼界

    1971/5日本瓦斯協会誌

    1977/2/4/27読売新聞朝刊p7「銭湯は遠くになりにけり」

    1985/9証券

    2016/10日経産業新聞「ノーリツ名誉会長太田敏朗氏・仕事人秘録」(連載記事)

    2016/10/18日経新聞電子版「成長下、突然の社長解任 二度の降格で得たもの ノーリツ名誉会長 太田敏郎氏(11)」


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