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ノーリツ - 太田敏郎

経営者の決断 ノーリツ 創業期 能率教 20代起業家 倒産再起 クーデター 新製品開発 破壊的革新

ノーリツの創業者である太田敏朗。イラストは筆者作成。

決断サマリー

銭湯業界を破壊した海軍出身の20代の起業家

今回取り上げた事例はガス器具メーカーのノーリツの創業ストーリーです。ガス器具業界といえば、パロマやリンナイといった会社が思い浮かびますが、創業期のノーリツの凄さは従来の日本の公共インフラであった「銭湯」という大市場に勝負を挑んだ点にあります。

終戦直後、まだ20代前半だった太田敏朗は能率風呂の特許を譲り受けて、神戸に能率風呂工業を設立します。当時としては画期的だった「火傷しない」風呂釜をヒットさせ、続いて世界初のアルミ製のガス釜を開発し、独自に組織した代理店を通じて日本の各家庭に最新鋭の風呂釜を据え付けます。

経済的な風呂釜の普及の威力は凄まじいものでした。全盛期には東京都に約2500店存在した銭湯という大市場が、家風呂によって破壊されてしまったからです。しかも、たかだか20代〜30代の太田敏朗という若者が、何百年も続いてきた銭湯を駆逐してしまったというのがノーリツの創業期の凄さでした。

ですが、ガス器具業界の歴史を振り返ると、その黄金時代は1980年頃に幕を閉じます。それまでのガス器具業界では、リンナイはコンロ、ノーリツは風呂、パロマは温水器という住み分けがなされていましたが、ガス器具各社はさらなる成長を求めて他のメーカーが強い分野に進出し、住設機器の百貨店化を志向しました。この結果、ガス器具業界は厳しい価格競争にさらされ、各社とも利益率が低迷します。

ノーリツも他社と同様に1980年代に住宅機器全般への多角化を志向しましたが、厨房などの住設機器は先発メーカーの牙城で、ノーリツがシェアを奪い取ることはできませんでした。そのため、1980年代以降のノーリツの利益率は低迷しています。2000年代には割安なノーリツの株価に目をつけた外国籍投資ファンドに買収提案をされるなど、ノーリツは投資ならぬ"投機"の対象となってしまいました。

したがって、ノーリツの黄金時代は1950年から1970年代までと言え、この時期のストーリーが最も輝いています。

目次

  • ノーリツ - 基本情報
  • 売上高 - 過去推移

    売上構成比 - 過去推移

    営業利益率 - 過去推移


  • 銭湯の黄金時代
  • 1930年代 贅沢品だった自宅風呂


  • ガスインフラの普及
  • 1870年代 黎明期は光源として期待されたガス

    1910年代 光源利用から熱源利用へ

    1950年代 ガスの全国的普及


  • [決断]ノーリツの創業
  • 1. タイル職人と出会い起業

    2. 代金回収に失敗して倒産

    3. 倒産原因の分析〜再起

    4. 建材系代理店の確保

    5. 世界初のアルミ風呂釜を開発


  • ガス風呂普及〜銭湯消滅
  • 1960年代 太田社長の社長解任〜社長復帰

    1960年代 街の銭湯の消滅


  • ガス器具業界の競争激化
  • 1990年代 同業他社との競争激化


    ノーリツ - 基本情報

    売上高 - 長期推移

    単位:億円

    出所:有価証券報告書、会社四季報


    売上構成比 - 過去推移

    単位:%

    出所:有価証券報告書、会社四季報、1985/9証券

    2018年のガス・石油機器には「海外事業」を含む


    営業利益率 - 過去推移

    単位:億円

    出所:有価証券報告書、注:連結決算を優先して掲載


    銭湯の黄金時代

    贅沢品だった自宅風呂

    戦前の日本の庶民にとって自宅風呂は高嶺の花であり嗜好品の一つであった。自宅風呂を楽しむためには高額な風呂釜(鉄製or銅製)を購入する必要があり、さらに1時間かけてお湯を沸かすという手間がかかったため、庶民は「街の銭湯」で入浴を済ませた。

    仮に、裕福な家庭が自宅で風呂を楽しむ場合、どの熱源を用いて、どの材質の風呂釜を購入するかが大切であった。

    主な熱源は木材(蒔)、石炭、ガスのいずれかで、このうち最も経済的に安いのが石炭、最もコストが高いのがガスであった。1956年の時点の湯沸における所要時間と燃料代金は、石炭が27円/100分であり最も経済的で、ガスは40円/45分、マキは40円/90分であった。[1956/10/10読売新聞朝刊]

    また、風呂釜の素材は鉄と銅の二種類が主流であった。熱効率は銅の方が優れていたが、銅は石炭燃焼によって発生する硫黄に弱く、鉄釜よりも耐用年数に劣るという欠点があった。仮に銅釜で石炭燃料用いた場合、耐用年数は6年程度で、鉄釜の10年と比べて短くなる傾向があった。

    風呂釜の製造拠点は鋳物の生産地である広島県に集中していた。戦前の全盛期には広島県が国内風呂釜シェア90%[1969/9鉄鋼界]を確保していたという。戦前の東京には、巴風呂、都風呂、福風呂、金時風呂、國華風呂といったブランドが存在しており、販売業社の間では競争が存在したものと推察される。

    読売新聞(1977年)

    戦前まではかなりの商家でも内ぶろを持たず、家族も従業員も銭湯に通ったところが多かった。今と違って、人間一人がほとんどつきっきりでマキを燃やし続けなければならなかったのだから、確かに贅沢なものである。...(中略)...入浴者はお互いの町内の顔見知り同士、地域のコミュニケーションの場としての役割を果たしてきたといえる

    1977/2/4/27読売新聞朝刊p7「銭湯は遠くになりにけり」


    ガスインフラの普及

  • 1812年 ロンドンでガス事業が立ち上がる
  • 1872年 横浜で日本初のガス灯事業がスタート
  • 1920頃 光源は電気、熱源はガスの住み分けが成立
  • 1925年 国内で91社のガス会社が存在
  • 1950年 ガス需要が増大
  • 1954年 東京ガスが豊洲新工場を稼働
  • 1954年 LPガスが普及
  • 1960年 ガス器具が急速に普及(コンロ、暖房、風呂、温水)
  • 黎明期は光源として期待されたガス

    1812年にロンドンで世界初となるガス事業が立ち上がる。それまでの人類は、光源としてはロウソクや松明、熱源としては各種木材を活用していたが、石炭を蒸し焼きにすることで採取できるガスよって、人類は効率よく熱源と光源を活用できる時代に突入した。

    日本には明治維新の直後に西洋からガス技術が導入された。1872年に高島嘉右衛門(横浜の事業家)はガス事業の立ち上げを決意し、ガスを光源として活用するビジネスを考案。横浜の桜木町に日本で初めてのガス灯を設置し、日本でもガスのインフラ利用がスタートした。

    明治時代を通じて、まずは電灯ではなくガス灯が日本全国に普及。従来の松明やロウソクと比べものにならないほど明るいガス灯は日本人にとって新鮮であり、日本各地にガス灯会社が相次いで出現した。1925年には日本に91社のガス会社が存在したという。

    光源利用から熱源利用へ

    明治時代にガス灯が普及する一方で、ガス灯に変わる新しい光源としての電灯が徐々に注目を浴び始めた。最初期の電灯は寿命が短いという欠点があり、ガス灯の利便性には及ばなかったが、大正時代までに寿命の長いタングステン電球が日本にも普及。大正時代には電灯が日本に普及し、ガス灯は急速に衰退した。

    このため、ガス会社はガスを光源ではなく、熱源として利用するためにビジネスをシフトする必要性が生じた。そこで、日本各地のガス会社はガス利用を促進するために、コンロやストーブ、アイロンといった熱を利用する製品をガス器具として販売した。

    だが、一部のガス会社は将来に見切りをつけ、業界では大手への集約が進んだ。この過程で、首都圏では東京ガスが業界の集約によって業容を拡大する。

    ガスの全国的普及

    1950年代にガスの需要が急増し、首都圏ではガス不足が深刻化した。ガスの用途は、コンロ、風呂、ストーブなどの各家庭の熱源や、クリーニング店や各種工場におけるボイラー設備で、日本の経済発展に伴って需要が増大した。

    東京ガス契約件数 - 過去推移

    単位:万件

    出所:1952東邦経済

    そこで、1954年に東京ガスは首都圏におけるガスの大型供給基地として東京の豊洲にを新設する方針を決断。当時の東京ガスの資本金80億円を上回る90億円を投資し、1956年に豊洲工場を稼働した。豊洲の稼働により、東京ガスは首都圏のガス需要の増大に対応できた。

    他方、1950年代を通じてLPガスという新しいガスの流通方式が誕生し、ガスインフラに乏しい地方にもガスが普及した。LPガスは専用の高圧容器に液化したガスを封入する方式で、各家庭にボンベを据えつけることでガスが利用できることが利点であった。LPの登場により、都心部以外でもガスの熱源利用が広まり、日本全国にガスが普及した。

    ガスインフラの充実に合わせて、ガス器具分野でも様々な中小メーカーが台頭。リンナイ、パロマ、ノーリツ、高木、世田谷製作所などの各社が急成長を遂げた。ガスと同時にガス器具も各家庭に普及し、1971年の時点で、ガスコンロは普及率95.9%、ガスレンジは普及率7.1%、ガス炊飯器は普及率88%、ガス湯沸かし器は普及率46.9%、ガス風呂釜は普及率62.3%となった。[1971/5日本瓦斯協会誌]


    ノーリツの創業

  • 1950年 能率風呂商会を創業
  • 1950年 能率風呂商会が倒産
  • 1951年 能率風呂工業を創業(現ノーリツ)
  • 1953年 代理店を100社以上組織
  • 1960年 大手ガス会社がガス風呂に参入
  • 1960年 技術研究所を設置.富塚教授と共同研究
  • 1961年 世界初のアルミ風呂"GS-1"を開発
  • 1962年 国内100社のガス会社がGS-1を採用
  • 1. タイル職人と出会い起業

    [解説:ノーリツ創業者・太田敏郎]1927年に軍人の町・姫路市で生まれる。父は師範学校の絵画教師であり校長も務めた人物である。16歳のときに合格倍率40倍の超難関と言われた海軍兵学校に合格して軍人への道を進む。だが、戦場に出ることなく1945年に広島の海兵学校で終戦を迎えた。終戦後は空腹を満たすためにサツマイモを栽培しつつ、兵庫師範学校に転入。卒業後に川崎重工に入社するが鋳造現場の環境が劣悪で喉を痛めたため1年で退職。その直後に小学生向け問題集のビジネスを立ち上げて8万円(現在換算800万円)の資金を作る。

    1950年に太田敏郎(23歳)は神戸で植松清次という人物に出会う。植松は腕の良いタイルの職人で、新しく開発した風呂釜を太田に披露した。太田は湯船に浸かると、湯加減の良さに驚き、風呂釜の事業化を決意する。太田は終戦直後に小学生向け問題集の販売で稼いだ8万円を原資として、1950年に能率風呂商会を設立。神戸元町5丁目に事務所を設置した。

    能率風呂の凄さは浴槽の底が二重構造になっている特許技術にあった。熱湯が浴槽を対流することで水を温める仕組みであり、保温性に優れ、やけどの恐れがなかった。このため、燃料の節約にも有効で、当時としては"能率に優れた"画期的な風呂であった。

    発売直後から能率風呂には注文が殺到。太田敏朗は順調なスタートを切った。

    補足:終戦直後の個人風呂は、石炭や蒔を使って水を直接加熱した「五右衛門風呂」が主流であったが、湯加減の調整が難しく、入浴者に火傷をすることが多々あった。このため、安心して風呂に入るには銭湯に行く以外に方法はなかった。1952年には東京新橋で自宅風呂の湯加減を確かめる時に、謝って湯船に転落した17歳の女性が熱湯で火傷負い死亡するという事故も発生した。(出所:1954/3/13読売新聞夕刊p3「フロの熱湯で女学生死亡」)

    2. 代金回収に失敗して倒産

    予想外なことに、1950年に能率風呂商会は倒産した。創業から1年も経っておらず、電撃的な倒産であった。

    原因は銭湯向けの大型風呂釜の工事において、代金回収が滞ったためである。1950年夏に能率風呂商会は淡路島・洲本市の旅館の風呂釜を受注したものの、工事途中で旅館の経営者が突如夜逃げした。このため、工事代金を回収できず能率風呂商会も経営危機に陥る。

    そこで、最後の打開策として、1950年12月に太田敏郎は植松を誘って西宮の競輪場に出向いた。必勝祈願をしたうえで有り金を競輪に賭けたものの全滅。ギャンブルにも失敗し、能率風呂商会は創業から1年を絶たず倒産した。

    3. 倒産原因の分析〜再起

    太田敏郎は能率風呂商会の倒産原因を細かく分析し、最大の問題は風呂の設置工事を自ら手がけた点にあると結論付けた。

    そこで、太田敏郎は能率風呂の販売で再起する計画を策定。全国に代理店網を整備することで、能率風呂を代理店に売るビジネスモデルに鞍替えする。だが、起業資金が底をついていたため、父や知り合いをツテに53万円(現在換算:約1000万円)の資金を調達した。また、太田は植松との間で"風呂釜1個の販売につき500円の権利料を支払う"という契約を結んだうえで、能率風呂の特許を譲り受けた。

    出資者の内訳は黒川緑朗(30万円・小学生向け問題集の販売で太田と知り合った人物)、太田の父(15万円)、太田敏郎(8万円)であった。ちなみに、太田敏郎は起業資金の確保のために銀行を訪れたことがあるが、融資を拒絶された。このため、ノーリツは長らく無借金経営を貫く。

    1951年10月に太田敏郎は能率風呂工業(資本金53万円)を設立した。事業経営にあたっては、父も息子の仕事を手伝い、代理店などの取引先からの信頼獲得に大きく貢献したという。

    太田敏朗(2016年)

    能率風呂商会は、なぜ倒産したのか。問題は自ら受注して風呂を施工、販売するビジネスモデルにあったと考えた。大卒の初任給が5千円にも満たない当時、能率風呂は6千円で販売していた。ただ、月に3〜4件の受注では毎月の売り上げが工賃や材料費などで消えてしまい、事業の拡大は難しい。自前で販売と施工を手がける商売のやり方を抜本的に見直し、全国を強力な特約店制度で網羅して能率風呂を売ってもらえば一気に広まると考えた。

    2016/10/12日経産業新聞p26「ノーリツ名誉会長太田敏朗氏・仕事人秘録」

    資本金 - 創業期の過去推移

    単位:万円

    出所:1985/9証券


    4. 建材系代理店の確保

    太田敏朗は、計画通りに建材屋などの代理店を経由して風呂釜を販売する方式を採用。代理店を探すために太田は飛び込み営業を繰り返した。太田は1ヶ月のうち5日を本社のある神戸、残りの25日を全国を飛び回って代理店を探す時間にあてた。また、銅製の風呂釜の製造は、姫路の鋳物業者が引き受けた。

    代理店を組織化するため、1953年にノーリツは熱海の富士屋ホテルにて集会および宴会を実施し、親睦を深めた。これらの施策によって代理店は100社以上に増えたという。急激な能率風呂の普及に対して、関係者からは「能率教」や「能率狂」と揶揄されたという。

    ちなみに、風呂釜の仕入原価は2500円、代理店への販売価格は7500円、末端価格は25,000円であったことから、能率風呂工業は莫大な利益を獲得した。また、代理店も利益率の良い風呂釜の販売に積極的であった。

    5. 世界初のアルミ風呂釜を開発

    1960年頃に大手ガス会社は、ガスを普及させるためにガス器具の販売に参入。風呂分野でも、ガス風呂を格安で販売したため、風呂釜専業のノーリツは経営危機に陥る。

    そこで、1960年にノーリツは技術研究所を設置し、新しい風呂釜の開発を急いだ。技術開発にあたっては航空機エンジンの権威であった富塚教授に協力を依頼。当時の風呂釜の素材は銅が主流であったが、富塚教授はアルミニウムに着目し、量産を可能にした風呂釜の開発に成功。懸念事項の強度はアルミの純度を向上させることで確保することができた。1961年にノーリツは業界の常識を覆す世界初のアルミ風呂「GS-1」を発売した。

    太田敏朗(2016年)

    当時、ガス釜は銅製が一般的で、アルミといえば弁当箱のイメージが強く「梅干しで穴があく」とまで言われていた。アルミのガス釜ではガス燃焼で発生する強酸性の水分で腐食してしまうと業界内から批判された。だが富塚先生は「アルミの純度を上げれば強度を上げられる」と主張し、世界初となるアルミ製ガス釜「GS-1」を開発。...(中略)...GS-1は銅製からアルミ製へとガス釜の歴史を変えた。

    2016/10/17日経産業新聞p20「ノーリツ名誉会長太田敏朗氏・仕事人秘録」


    ガス風呂普及〜銭湯消滅

  • 1962年 ノーリツ社長が交代(創業者解任)
  • 1964年 銭湯の減少が社会問題に
  • 1968年 ノーリツ社長が交代(社長解任)
  • 1971年 ガス風呂普及率62.3%
  • 1980年 ノーリツ社長が交代(創業者復帰)
  • 1984年 ノーリツが株式上場
  • 太田社長の社長解任〜社長復帰

    GS-1釜は大ヒットを記録し、100社のガス会社が採用。1962年にノーリツは売上高約50億円を記録した。アルミ製のガス風呂も日本に定着し、1971年に国内におけるガス風呂釜の普及率が62.3%に達した。1960年代を通じてノーリツの売り上げは拡大したものと推察されるが、1984年までは非上場のため詳細は不明である。

    アルミ釜の成功に続き、太田敏郎は当時注目されつつあった樹脂製の風呂釜の研究開発に焦点を定めた。ところが、樹脂製の風呂は失敗に終わる。このため、当時の経理担当専務は太田社長の解任動議を提出して取締役会で半数以上の賛同を得たため、1962年に太田は社長から研究担当の専務に降格された。このクーデターは太田社長にとって予想外の出来事であったという。

    太田敏朗(2016年)

    当時35歳。新製品のGS釜も大ヒットし思い切って兵庫県明石市西江井ケ島の田んぼの真ん中に自前で工場を建てた。これが最初の工場となる明石工場だ。この年に売上高は50億円を超え、前の年から3割近く増やすなど業績はまさに上り調子だった。まき・石炭からガス釜への転換を成功させたという手応えもあり、社長としての慢心があったのかもしれない。...(中略)...専務ら一部の役員がいつの間にか派閥を作り、私のワンマン経営に反発するようになっていたのだ。

    2016/10/18日経産業新聞p20「ノーリツ名誉会長太田敏朗氏・仕事人秘録」

    だが、太田は会社を辞めずにノーリツで社長に復帰するチャンスをうかがった。1968年に太田はノーリツの業績が伸び悩んだことを理由に、元専務(社長)の解任動議を提出して賛同を得た。だが、自らは社長に復帰せず、別の人物を社長に据えるにとどまった。そして、1980年に太田敏郎は再び、社長の解任動議を提出し、全役員の賛同を獲得して念願の社長に復帰した。

    街の銭湯の消滅

    1960年代に入ると家庭風呂が普及して銭湯の廃業が目立つようになる。特に、東京都心部(千代田区・港区・中央区)では郊外への人口流出も重なり、銭湯の廃業が相次いた。銭湯経営者は続々と事業継続を諦めて、銭湯跡地を貸しビルないしマンションに転換して事業転換を図った。

    銭湯の事業所数 - 長期推移(東京都内)

    単位:店

    出所:https://www.1010.or.jp/menu/sentousu.html

    だが、1960年代は銭湯を利用する住民がまだ多い時代で、銭湯の廃業に困る人が多く、廃業に反対する請願運動も起こった。日本橋では、町内会の人が銭湯継続のチラシを配る姿もあったが、効果は芳しくなかったという。

    読売新聞「"江戸"のふろやまた消える」(1967年)

    江戸時代からつづいてきた日本橋の銭湯が十日、姿を消した。江戸っ子の社交の場でもあったふろも、都心部では、人口の郊外流出で入浴者が減る一方。これと、高い地価に転進組もふえ、中央、千代田、港区では、毎年七、八軒ずつ廃業していくありさま。都市構造の変わり方にともなうやむを得ない時の流れではあるが、消える銭湯を懐かしむ東京人はい多い...(中略)...生活が豊かになってくると、家庭ぶろが普及し「二十年後にはふろ屋はなくなる」という経済学者もいるほど。

    廃業を決意したある銭湯経営者(1967年)

    わたしも江戸っ子のはしくれ。ご先祖が苦労して続けてきたふろ屋をやめるのは涙が出るほど残念でしょうがない。...(中略)...去年までは一晩七百人ちかかった客が、ことしは五百人前後。ふつうふろ屋は一晩に六百人以上の客がはいらないとやっていけない

    筆者注:ある銭湯とは「かめ湯(所在地は日本橋小伝馬3-5)」。創業は江戸時代であり百数年の歴史のある銭湯であった。廃業を決意した中村さんは6代目にあたる。廃業後、6代目中村さんは貸しビル業者と売買契約を締結し、跡地には貸しビルが建設された。

    1967/6/11読売新聞朝刊p13「"江戸"のふろやまた消える」

    1980年代に入っても銭湯の廃業に反対する顧客が多く存在した。1980年に千代田区麹町の麹町温泉は銭湯の廃業を決断するものの、付近の住民が反対。利用者は1249名の署名を集めて千代田区議会に銭湯の存続を訴えるという事も起こった。

    東京都内における銭湯は、利用者の廃止反対運動にもかかわらず徐々に減少。1965年に東京都内には2500箇所以上の銭湯が存在したが、1995年には1546箇所、2015年にはわずか628箇所となり、時間をかけて淘汰が進行している。現在、銭湯へは行政から各種補助がなされており、補助によって延命している銭湯も多くある。


    ガス器具メーカーの競争激化

  • 1988年 ノーリツが住宅設備に進出
  • 2000年 住宅設備事業が低収益に悩む
  • 2004年 米スティールがノーリツの株式取得
  • 2008年 米スティールがノーリツ買収を提案
  • 同業他社との競争激化

    1970年代までのガス器具メーカーの各社は、それぞれの得意分野で棲み分けていた。ノーリツは風呂、リンナイはコンロ、パロマは湯沸器、コロナはストーブを事業の中心に据えることで急成長を遂げたが、1970年代に入ると各社ともに隣接分野に参入した。

    1980年代にはリンナイが温水器分野へ、ノーリツがコンロ分野に参入するなど、業界の垣根が消滅した。また、松下電器などの電機メーカー、TOSTEMなどの住宅設備メーカーも入り乱れるなど、業界全体で競争が激化する。

    競争が激化する一方で、ガス器具の市場は1990年代に頭打ちとなった。1990年代後半に新築着工件数の減少が顕著となり、風呂やコンロなどのガス器具の高度成長時代は幕を閉じた。

    ノーリツは浴槽などの住設機器の競争激化により、1990年代を通じて利益率が低下。特に大手との競争が激しい浴槽および厨房分野で収益性が悪化した。

    2007年には投資ファンドのスティールパートナーズがノーリツへの買収を提案して不採算部門からの撤退を要求するが、太田敏朗を始めとするノーリツの株主はこの案を一蹴して拒否した。このため、2007年のノーリツの株主総会は大いに荒れたという。

    参考文献

    新聞・雑誌記事

    1929/2婦人之友「風呂釜問答」

    1952東邦経済

    1956/10/10読売新聞朝刊

    1967/6/11読売新聞朝刊p13「"江戸"のふろやまた消える」

    1969/9鉄鋼界

    1971/5日本瓦斯協会誌

    1977/2/4/27読売新聞朝刊p7「銭湯は遠くになりにけり」

    1985/9証券

    2016/10日経産業新聞「ノーリツ名誉会長太田敏朗氏・仕事人秘録」(連載記事)


    事例一覧