ブラザー工業 - 安井義博

#業態転換 #海外投資 #2019/9/24

イラスト:筆者作成(参考:2003/4/7日経ビジネス)

ミシンから複合機への業態転換

  • 前史:打倒シンガーを実現

  • 背景:プラザ合意(1985年)

  • 決断:情報機器に業態転換(1990年)

  • 結果:営業利益率9.5%(2003年3期)

  • 社史的意義
  • ブラザー工業はミシン製造の名門企業であったが、いち早くミシン需要の低迷を見据えて経営の多角化を推進。1990年代に米国のSOHO向けの複合機を製造〜販売する体制を構築し、ミシンから情報機器への転換を成し遂げた。ミシンで一時代を築いた企業の業態転換として、社史的意義があると判断した。


    ブラザー工業 - 基本情報

    売上高 - 過去推移

    単位:億円

    出所:有価証券報告書、会社四季報


    売上構成比 - 過去推移

    単位:%

    出所:会社四季報


    売上高利益率 - 過去推移

    単位:%

    出所:有価証券報告書


    決断前史:打倒シンガーを実現

    打倒シンガーを掲げる

    ブラザーの創業は、大正時代に安井正義(18歳)が、国内ミシン市場を米国シンガー社がシェア95%を確保して独占していることに危惧し、ミシン製造の国産化を志したことに始まる。だが、周囲でミシン製造に賛成する人はおらず、資金調達に失敗したことから、安井の試みは頓挫し、ミシンの修理業に従事した。

    安井正義(ブラザー工業創業者・1969年)

    私は考えたものである。金のある人は、ミシンは儲からないからやらない。となると一体、日本ではいつになったらミシンができるのかと。そこで、どうしてもやる人がいないなら、この俺がやろうという意地っ張りな気持ちが出てきた。そしてこれに当たった。だが、機械や工場設備が必要である。資金も必要である。しかし、当時の私に金を貸してくれる銀行などありはしない。あらゆる問題をかかえて何もかも一人でやらなければならなかった。こうして、国産化ミシンへの私の作戦はスタートしたのである。

    1969/10経営者「堅実で"波のない"経営・安井正義」

    打倒シンガーを実現

    幸運にも、1932年に日本が戦時体制に移行した際に、日本政府は米国産ミシンに対して35%という法外な増税を決断したため、リッカーの日本国内における競争力が低迷し、国産メーカーが台頭する余地が生じた。このチャンスをとらえ、1934年に安井は兄弟で「日本ミシン製造(現ブラザー工業)」を設立し、ミシンの国産化に乗り出した。

    ブラザーにとって最大の懸案事項は、ミシンの販売網にあった。ミシンの需要家は日本全国の家庭に散らばる女性の内職用途が主流であり、緻密な販売網の形成がシェア確保に必須であった。偶然にも、シンガー社の日本展開で販路を開拓した山本東作がブラザー製品を売ることを約束して販売会社(のちのブラザー販売)を立ち上げるなど、試行錯誤を重ねた末に、1941年に販売部門を分社化(社名:のちのブラザー販売)して、直営販売網を組織した。

    ブラザーの本格的な発展は戦後である。終戦直後の1947年にGHQはミシンの輸出を許可し、1950年に安井正義は渡米してライバル・シンガー社の工場を見学。ここで、安井はシンガーに勝てることを確信し、1951年に名古屋本社工場を増設し、北米輸出拠点の中核に据え、ミシンの北米出を本格化した。

    1960年代を通じてブラザーはミシンの輸出により業容を拡大し、1962年に株式上場を果たした。なお、1980年代までブラザー無借金経営を貫いている。

    安井正義(ブラザー工業創業者・1979年)

    なるほどシンガーはずば抜けた巨人だが、販売競争という面から見れば、そのことはかえって私どもに有利ではないのか、図体が大きければ大きいほど、小回りは効かなくなる。小さなメーカーが安い価格を武器に市場に踏み込んでも、シンガーは値下げで対抗するわけにはいかないだろう。わずかな市場を守るために全製品を値下げしたら、それによるマイナスの方が市場を失うことより大きい。シンガー恐るるに足らず。相手が巨大だからこそ負けない

    1979/02日経新聞連載(私の履歴書・安井正義)

    経営の多角化

    ミシンの北米輸出を進める中で、米国現地法人の社長がブラザーに対してタイプライターの需要があることを進言した。これを受け、1961年に安井正義(ブラザー工業・社長)は輸出英文タイプライターと工作機械への参入を決断し、経営の多角化を本格化する。

    多角化を急いだ理由は、ミシン需要の飽和にあった。1964年に安井正義は「ミシンはご承知のように、国内もある程度普及しておりますから、どんどん、これから伸びていく商品ではありません」[1964/3/23ダイヤモンド]と判断し、ミシンに次ぐ事業の育成を急いだ。

    なお、ブラザーの経営多角化は1950年代より試行錯誤しており、すでに愛知県の刈谷工場で、扇風機やアイロンなどの家電製品の製造に従事していたが、タイプライターへの参入がブラザーにとっては本格的な多角事業のスタートであった。

    1970年代を通じてブラザーはタイプライターを欧米に輸出することで、ミシンに次ぐ輸出製品に育て上げた。


    時代背景:プラザ合意

    円高ドル安〜輸出競争力の低下

    1960年代までの日本製のミシンは全世界に輸出され、欧米のミシンメーカーを凌駕した。だが、1971年のニクソンショックによる円高ドル安の進行により、ミシン産業の新しい産地として台湾企業が台頭し、輸出市場で日本メーカーを駆逐し始めた。

    1985年のプラザ合意の締結により円高ドル安が一層進むと、日本で生産されるミシンの国際競争力は消滅。まず、リッカーが1984年に倒産し、続いて、産業用ミシンのJUKIとシンガー日鋼、家庭用ミシンの蛇の目ミシン工業の各社の経営が行き詰まり、ミシン製造は斜陽産業と化した。ミシン業界関係者は悲痛な現状を吐露している。

    大和弘巳(シンガー日鋼社長・1994年)

    正直言って万策尽きた。これ以上の合理化をすれば企業として立ちいかなくなる。生産部門の海外移転も一つの選択肢だが、そう簡単にはいかない。売り上げが右肩下がりの中で、海外への設備投資と、退職金など国内の人員整理に要する費用という二重の負担に耐えきれないジレンマがあるからだ。この方程式が解けない限り海外進出の決断は難しい

    1994/06/28日経新聞北関東p4


    決断:情報機器に業態転換

  • 1. 安井義博の社長就任
  • 2. 家電事業の撤退
  • 3. 新事業の立ち上げ失敗
  • 4. 営業赤字に転落・無配へ
  • 5. 米国向け399ドルFAXの発売
  • 6. 中国で量産拠点の新設
  • 7. 米国SOHO向けプリンターの発売
  • 8. 米国物流拠点の拡充
  • 9. 国内ミシン販社の整理
  • 1. 安井義博の社長就任

    1989年にブラザーの創業家出身の安井義弘(50歳)が社長に就任した。ところが、社長の言うことを聞かない役員もおり、安井社長が社内統制を利かせることが難しかったという。

    そこで、1990年に安井社長は「21世紀委員会」を発足し、ブラザーの長期ビジョンを議論するチームを発足させた。21世紀員会はA〜Cの3つの7人チーム制とし、平均50歳のAチーム、平均40歳のBチーム、平均年齢30歳のCチームをそれぞれ発足して将来を議論させた。

    この結果、平均50歳のAチームが現状を肯定する一方、平均30歳のCチームが現状に危機感を抱く結論を出した。なお、Cチームの意見は「ミシン撤退・情報機器への集中」という方針であったという。

    21世紀委員会の結果を踏まえ、安井社長はミシン事業を継続しつつも、情報機器事業に積極的に投資するという方針を打ち出した。

    安井義博(ブラザー工業社長・2002年)

    私が50歳で社長に就任した時、ある方から「住職3年もの言わず」という言葉を頂戴しました。まず3年間は黙って周りの言うことを聞け、と言う意味です。実際、12歳年上の副社長もおり、いくら社長が方針を出しても役員は勝手に動いていたのです。そうした中で経営の大きな方向性を決めようと、1990年に「21世紀委員会」を設け、長期ビジョンを議論することにしました。

    2002/8/19日経ビジネス「ブラザー工業・愚直に徹し、情報機器で復活」

    2. 家電事業の撤退

    ブラザーの多角事業の一つであった家電事業は、1980年代を通じて競争力を失い行き詰まる。掃除機、ドライヤー、電子レンジ、電子オルガンといった新製品を継続的に開発しており、松下電器などの大手との競争を避けるために、ミシンで培った訪問販売で販路を開拓していたが、家電量販店の台頭により競争力を失いつつあった。

    そこで、ブラザーは情報機器に集中投資するために、競争力の回復が見込めない家電事業からの撤退を決めた。

    なお、家電事業に従事していた愛知県の刈谷工場を有効活用するため、ブラザーは同工場を工作機械の製造向け拠点として転用した。

    小池利和(ブラザー工業社長・2014年)

    私が入社した1979年には、訪問販売による国内事業の売り上げの伸びに陰りが見え始めていました。国内の消費者向けに電子レンジや洗濯機といった家電製品や電子オルガンなどの楽器など、実に多様な製品を生産していましたが、大手家電メーカーとの競争で次第に旗色が悪くなっていたのです。

    ミシン営業で培った訪問販売が主な販路だったのですが、家電量販店の台頭で古い売り方が機能しなくなったのも衰退の一因です*2。そのため、海外市場での売り上げ拡大は喫緊の課題となっていました。

    2014/7/11日経ビジネス「"異才の集団"が新事業を切り開く」

    3. 新事業の立ち上げ失敗

    1980年代にブラザーは円高により輸出競争力を失ったタイプライターに変わる製品を生み出すために、新規事業として(1)カラーコピー、(2)ファックスの2つの市場への参入を図った。

    だが、新規事業はなかなか軌道に乗らなかった。カラーコピーの開発は失敗に終わり100億円の損失を計上し、頼みの綱であったファックスも35社が参入する乱戦市場にあって競争優位を確立できなかった。このため、ブラザーの常務会では新規事業からの撤退という案が浮上した。

    2つの新規事業の失敗から、新事業の責任者であった菅原氏は、製品開発優先のプロダクトアウトではなく、市場調査に基づくマーケットインの重要性を認識したという。

    安井義博(ブラザー工業社長・2002年)

    ファックスがうまくいかなかった時は担当役員が撤退したいと言いました。...(中略)...それでも頑張って続けさせたのは、ミシンやタイプライターの輸出に頼っていては、売上高の安定成長は難しいと考えたからです

    2002/8/19日経ビジネス「ブラザー工業・愚直に徹し、情報機器で復活」

    4. 営業赤字に転落〜無配へ

    ミシン市場の縮小と新事業の失敗、そして円高による国際競争力の喪失により、1992年11期にブラザー工業は営業赤字に転落。1963年の上場以来、初となる無配に転落した。

    5. 米国向け399ドルFAXの発売

    カラーコピおよびファックスの教訓を生かし、1991年9月にブラザーは米国におけるファックス市場の調査のために社員(中尾氏)を派遣。ブラザーにとって米国市場はタイプライターの販売で培った販売網が存在しており、新規事業を進める上で有利な土地柄であったことから、安井社長は米国市場のニーズを探らせた。

    米国における市場調査の結果、現地のファックスの店頭価格が799ドルであったことを受け、中尾氏は399ドルのファックスを作れば売れると本社に進言した。

    市場調査の結果を受け、ブラザーの本社では背水の陣で399ドルのファックスの開発に邁進。前代未聞のコスト競争力のあるファックスを製造するために、村田製作所、富士電機などの部品メーカーと組むことで開発期間を短縮した。

    わずか1年という開発期間を経て、1992年6月にブラザーは399ドルの低価格ファックスを米国で発売。流通経路は米国で台頭しつつあった事務用品の量販店3社(オフィスデポ、ステープルズ、マックス)を通じて販売された。なお、量販店の販路を開拓した人物は、当時26歳のブラザー社員だった小池氏(のちの社長)であった。

    399ドルファックスは米国市場で爆発的なヒットを記録し、1993年には売上高の当初予想40億円を大幅に上回る約150億円を記録した。

    6. 中国で量産拠点の新設

    円高ドル安の進行に対応するため、ブラザーは国内生産ではなく、コストの安いアジアでの量産拠点の立ち上げを画策する。

    1994年にブラザーは中国の深センにて事務機量産のための南嶺工場を新設し、北米などへの輸出拠点として活用した。

    7. 米国SOHO向けプリンターの発売

    399ドルファックスの米国発売に続き、ブラザーは引き続き米国市場における製品投入の機会を伺った。1990年代初頭に、米国ではカリフォルニア州を中心に、インターネット企業が相次いで出現し、技術動向に敏感な零細企業のオーナーが数多く誕生していた。

    そこで、ブラザーはこれらの起業家のオフィス向けの複合機を開発したところ、現地のPC Magazineがブラザーの複合機を低価格かつ省スペースの画期的な製品であると絶賛し、起業家がこぞって買い求めた。

    1990年代後半には、起業家の間の口コミでブラザー製品の良さが伝わり、ブラザーは米国のSOHO向けの事務機市場の開拓により業容を拡大。複合機には本体のほかに、消耗品としてのインクの定期需要も存在することから、高収益事業に育つ。

    8. 米国物流拠点の拡充

    ブラザーは米国における複合機/ファックスの販売を軌道に乗せるために、物流拠点の新設を決断。1997年にテネシー州に倉庫および配送機能を有した物流拠点を新設し、インクなどの付属製品を含めた全米各地への配送拠点として活用した。

    なお、米国事業の展開に当たって、小池氏はSAPを導入し、合理化を徹底している。

    9. 国内ミシン販社の整理

    1990年代を通じてブラザーは国内におけるミシン市場の縮小に抗うことができなかった。ブラザー製品の販売を担う「ブラザー販売(上場会社)」が多額の負債を抱えて経営機器に陥ったため、ブラザーは「ブラザー」というブランドを守るために販社の救済を決断した。

    1997年にブラザーはブラザー販売を吸収合併する方針を決め、販社の不良債権処理を断行。1999年4月時点のブラザー販売の株価は約50円で、有利子負債635億円を引き継ぐ形となった。この販社合併により、ブラザーの社内には危機感が醸成されたという。

    なお、販社救済の過程で、ブラザー販社の安井信広、ブラザー工業の安井義博の間に確執が生じたと言われている。

    安井義博(ブラザー工業社長・2003年)

    当時、販売の株価は50円を切っていましてね。販売からは借金を635億円引き継ぎました。半分の300億円は3年以内に返済しますと宣言しましたが、そんな重荷を背負ってブラザーは再生できるのかと、不安を持たれた部分があったと思います。...(中略)

    当時は、危機感が全社に広がり、かえって「負の遺産を早く処理しよう」「会社を変えて行かないといけない」という思いを共有できるようになりましたね。

    2003/4/7日経ビジネス「安井義博・失敗は必ず成功に変わる」


    結果:営業利益率9.5%(2003年3期)

    ミシン→情報機器に業態転換

    1990年代を通じてブラザーはプリンター・複合機への業態転換を成し遂げた。1993年11月期の最終赤字から、2003年3月期には売上高営業利益率9.5%を達成し、ミシンの会社からプリンターの会社への転身を果たした。

    日経ビジネス(2002年)

    うなぎ登りの株価上昇である。ブラザー工業の株価は、過去1年半でざっと4倍になった。...(中略)...「成熟企業と見られていたブラザーが現防止、収益構造が大きく変わった」(ドイツ証券の星野英彦アナリスト)ことが、市場で評価されたからである。

    ブラザーと言えば、保守的で堅実な企業の多い名古屋の名門企業。ミシン中心だった事業の多角化を進め、今や最大の稼ぎ頭は情報機器だ。ファックス、プリンター、あるいはこれらに複合機やスキャナーの機能をつけ加えた複合機などである。

    2002/8/19日経ビジネス「ブラザー工業・愚直に徹し、情報機器で復活」

    ミシン業界の斜陽化

    1990年代までに国内のミシン専業メーカーは相次いで経営が行き詰まり、ブラザーのミシン事業の売上構成比も2010年までに約6%まで低下した。

    2019年9月時点で上場している家庭用ミシンメーカー「蛇の目ミシン工業」は時価総額79億円であるのに対し、業態転換に成功したブラザーは時価総額5236億円であり、業態転換の成否により大差がつく形となった。

    安井義博(ブラザー工業社長・2003年)

    ブラザーの創業以来の主力事業であったミシンは、210年程前にイギリスやドイツなどヨーロッパで発明され、アメリカで大きく育ち、戦後はブラザー工業をはじめ蛇の目、JUKI、リッカーなどの日本のミシンメーカーが世界を制覇していたが、歴史的に見れば、1980年代、1990年代初めから産業としては緩やかに衰退に向かっていかざるを得ない状況にあった

    2003「ブラザーの再生と進化」安井義博著



    参考文献

  • 1964/03/23週刊ダイヤモンド「品質絶対優先で伸びる・ブラザー工業」
  • 1969/10経営者「堅実で"波のない"経営・安井正義」
  • 1979/02日経新聞連載(私の履歴書・安井正義)
  • 1984/10/01日経ビジネス「ブラザーの半世紀かけた変身」
  • 1993/01週刊野田経済「注目される多角化の前途・ブラザー工業」
  • 2002/8/19日経ビジネス「ブラザー工業・愚直に徹し、情報機器で復活」
  • 2003/4/7日経ビジネス「安井義博・失敗は必ず成功に変わる」
  • 2003「ブラザーの再生と進化」安井義博著