ソニー - 井深大

#国内投資 #2019/9/21

イラスト:筆者作成(参考:1976/1/19日経ビジネス)

独創製品を開発

  • 背景:黒物家電の普及

  • 決断:東京通信工業の創業(1946年)

  • 結果:戦後生まれの1兆円企業(1981年10期)

  • 社史的意義
  • 戦後に創業した日本企業のうち、最も成功した企業がソニーとホンダの2社であった。黒物家電(オーディオ・カラーテレビ、ビデオ等)という嗜好性の高い家電製品を次々と開発することで業容を拡大して1982年に売上高1兆円を達成し、「ソニー神話」を世界に轟かせた。本稿ではソニーの成長期(1946年〜1980年代)に焦点を当てている。


    ソニー - 基本情報

    売上高 - 過去推移

    単位:億円

    出所:有価証券報告書、会社四季報


    売上構成比 - 過去推移(推定含)

    単位:%

    出所:会社四季報、日経ビジネス


    売上高利益率 - 過去推移

    単位:%

    出所:有価証券報告書


    時代背景:黒物家電の普及

    黒物家電の市場拡大

    家電製品には生活必需品である白物家電と、嗜好品である黒物家電と呼ばれる分類が存在する。白物家電は洗濯機や冷蔵庫など、生活に欠かせない家電製品を意味することに対し、黒物家電はカラーテレビやオーディオ機器など、生活を彩るための電機製品をさす。

    日本における黒物家電として一番最初に普及したのが白黒テレビであった。1950年代を通じて白黒テレビが各家庭に普及し、松下電器、シャープを始め、八欧電気、日本ビクター、日本コロムビアの各社がテレビ事業に参入。1965年に日本が一時的な経済不況に陥るまでは、黒物家電業界はテレビの需要増加に沸いた。

    白黒テレビに続いて普及した黒物家電は、ステレオなどの各種オーディオ機器であった。1960年代にステレオ録音が普及してレコードの音質が飛躍的に向上し、オーディオ好きがこぞって最新鋭のオーディオ機器を購入し、ステレオ、コンポ、アンプ、スピーカーといった音響部品の需要が拡大した。この分野ではパイオニア、山水電気、日本ビクターなどのオーディオ中心の電機メーカーが技術的な強みを発揮した。

    1960年代後半にはカラーテレビも国内市場に普及し、家電業界は白黒テレビの買い替え需要に沸いた。カレーテレビ戦線では、東芝、日立、三菱電機などの重電メーカーや、松下電器などの白黒テレビ勢に加え、戦後ベンチャーのソニーが独自技術で参入するなど、各社ともカラーテレビの工場に大規模な投資を決断した。

    黒物家電の市場縮小

    ところが、1970年代に突入すると電機メーカーの規模が大型化して研究開発体制が充実すると、テレビ中心の黒物家電メーカーと、オーディオ中心の黒物家電メーカーの垣根が崩れて何十社もの家電メーカーが「次なる大型商品」の開発を競うようになった。このため、1970年代から1980年代にかけて大型商品と言われた「ビデオ」では、各家電メーカーが規格を独自に提唱するなど、黒物家電の市場における競争が激化した。

    加えて、1980年代にプラザ合意が各国政府間で締結されて円高ドル安が進行すると、家電製品の製造および輸出を主体としてきた電機メーカーが相次いで苦境に陥ってしまう。まずは輸出系のオーディオメーカーが相次いで脱落し、1990年代から2000年代にかけて、日本ビクター、アイワ、山水電気、赤井電機といった往年の名門企業が消滅した。

    黒物家電メーカーに最後の致命的な打撃を与えたのがデジタル化の進行である。1980年代のCD、1990年代のDVD、2000年代のHDDの普及により映像・音声情報がデジタル化によって保存されるようになると、高い技術力を駆使したアナログオーディオが競争劣位に立たされてしまった。デジタル化の進行で、iPodやiPhoneなどの端末が誕生し、黒物家電の市場は、まるごと消滅し、オーディオマニア向けや業務用向けの市場が僅かに残るだけとなっている。


    決断:ソニーの創業(1946年)

  • 1. 東京通信工業の創業
  • 2. 名門出身・盛田昭夫の参画
  • 3. 交流磁気バイアス特許を買収
  • 4. トランジスタラジオの開発
  • 5. SONYブランドで世界展開出
  • 6. ソニー神話の形成
  • 7. 直接金融による資金調達
  • 8. 多角経営を否定
  • 9. カラーテレビの自社開発
  • 10. ビデオ戦争で劣勢に
  • 11. 一貫性なき多角化
  • 12. 井深大・盛田昭夫の退任
  • 1. 東京通信工業の創業

    ソニーの創業は、創業者・井深大(38歳)が戦時中に「この戦争が終わり、もし生き残って新しい仕事が始められるなら、その時こそ一般の大勢の人々を相手にしたコンシューマー・プロダクトをやろう、民生用の仕事をやろう」と決意し、終戦直後の1946年に東京日本橋にて"東京通信工業"を創業したことに始まる。

    当時の銀行業界では、産業向けの製品が「上」であり、民生品は「下」という扱いであったが、井深大は民生品というコンシューマー向けの製品を開発して大量生産することを目標に据えた。

    だが、井深大には資金が乏しく、財務面での不安があった。創業当時の東京通信工業は給料を期日どおりに払えないなど、資金繰りに苦労している。

    2. 名門出身・盛田昭夫の参画

    井深大は東京通信工業の経営にあたり、軍隊時代に知り合った盛田昭夫(25歳)を誘ったところ、盛田はこれを快諾して入社を決めた。以降、東京通信工業は技術面では井深大、財務・販売・海外の面では盛田昭夫が経営を担う体制となった。

    盛田昭夫は名門の酒蔵の跡取り息子であったが、昭夫の父は東京通信工業を全面的に支援することを決め、出資および借金の個人保証も決断している。盛田家は江戸時代から続く愛知県知多半島の名門酒造家であり、日本酒の製造に加え、戦前にはパン製造(敷島製パン)にも参入して経営の多角化を図る地方の資産家であった。

    したがって、東京通信工業は盛田昭夫の参画によって、盛田家という潤沢な資金を確保することに成功する。なお、盛田家はソニーへのシード投資により、その後のソニーの急成長および株高の恩恵を受け、莫大な資産を形成している。

    盛田家の親戚で、幼少時代に盛田昭夫とよく遊んでいた中埜又左衛門(ミツカン・創業家)は、東京通信工業への盛田昭夫の参画の舞台裏について、以下のように語っている。

    中埜又左衛門(ミツカン創業家)

    我々の常識では、あれだけの旧家の跡取り息子が家を出るなんて信じられん。父親は勘当して当たり前なのに息子の勝手を許し、しかもソニーの借金を全部個人補償してやっている。親父を説得した息子も偉かったが、父親も偉かった。昭夫さんは要領がいいんだよ。

    1986/3/31日経ビジネス「シリーズ人・盛田昭夫」

    3. 交流磁気バイアス特許を買収

    東京通信工業にとって喫緊の課題は、1945年の終戦により営業活動を停止した松下電器などの大企業が、再び電機メーカーとして復活を遂げた場合、東京通信工業という弱小メーカーは厳しい競争にさらされる可能性が極めて高いことにあった。加えて、松下電器は家電業界で最も強力な販売網を有しており、販売力に乏しい東京通信工業の苦戦は必須であった。

    そこで、井深大は特許によって松下電器との競争を避ける道を模索し、1950年に安立電気(現アンリツ)より「交流場をバイアスとする磁気録音法」に関する特許を日本電気(現NEC)と共同で買収した上で、磁気録音レコーダー事業に参入した。

    1950年代前半を通じてソニーは磁気テープレコーダーの市場を独占し、主に教育機関などに売り込み利益を確保した。さらに、1954年に東京通信工業は特許の5カ年延長を申請することに成功し、松下電器や三洋電機といった巨大メーカーは1959年までテープレコーダー市場に参入することができず、東京通信工業が市場独占に成功した。

    4. トランジスタラジオの開発

    東京通信工業はテープレコーダーで安定した利益を確保しつつ、次なる事業の柱を確立するために小型ラジオに着目した。当時のラジオは真空管方式であり、巨大な真空管をラジオに組み込むために持ち運べるような手軽なサイズなラジオは市場に存在しなかった。

    そこで、1954年に井深大はアメリカを訪問し、Western Electric社にてゲルマニウムトランジスタの生産工程を見学し、トランジスタを真空管の代替として用いることで、小型ラジオを開発することを決断した。ただし、当時のトランジスタの歩留まり20〜50%と非常に悪く、WE社の技術者もトランジスタラジオの実用化には疑念を呈しており、井深大は孤立無援のなかラジオ開発に邁進する。

    井深大(1954年)

    トランジスターは民間需要の90%以上は補聴器に使われている。今まで数時間で電池を取り替えねばならなかったのが、トランジスターを使うと500〜800時間もつ。値段は130〜250ドルくらいでちょっと高いが、電池の取り替えがいらぬので、どんどん普及している。このように値段が高いのは、歩留まりが悪いからで、悪いところで20%、WEあたりでも50%くらいである。これが良くならなければ値段は下がらない

    歩留まりの悪い原因は、シングルクリスタルにしてからの工程で、製品になって試験をしてみなければ不良品の区別がつかない。同じ製造工程でつくっても、出来上がった特性はマチマチで5種類くらいに分かれる。WEでも2種類に分けていた。このように不同であるため、人件費がかかる。これが、人件費の安いに日本のつけ目で、量産して特性が均一になるようになるあと2、3年間が日本製品の成り立つ期間であろうと思う。

    1954/07放送技術「最近の電子工業と音響技術・井深大」

    そして、1954年に東京通信工業はWE社とゲルマニウムトランジスタに関する特許実施契約を締結し、トランジスタ製造に着手。その後、たまたま、ゲルマニウムの精製過程でアンチモンを投入するという偶然の思いつきが生産面でのブレークスルーとなり、歩留まりの向上に成功している。

    トランジスタ量産の目処をつけ、東京通信工業は小型ラジオの開発を本格化。小型ラジオは前代未聞の製品であったため、東京通信工業は近隣の部品メーカーに対してスピーカーなどの部品を小型化できないかを相談しつつ、小型ラジオの開発に邁進した。

    そして、1955年に東京通信工業は世界的に稀な小型のトランジスタラジオを開発。当時のラジオは大型が主流であったが、小型ラジオの登場と民間放送局の増加という時代の潮流が合わさり、個人が好きなラジオ局の番組を小型ラジオで聴くという新しい需要を創造することに成功し、東京通信工業という会社に注目が集まる。

    ダイヤモンド(1955年)

    当社は智能の会社である。智能をもって製品を作り、時代の先端を進んでいる会社である。その製品は、完成が容易でない代わり、完成すると独占的の利益がある。その利益を土台にして次の製品に移る。...(中略)

    トランジスタは、現在でも、1年に2000万円くらい売れる。今後、所期のごとく原価が低下し、これを用いて、安価なラジオを製作するようになれば、前にいうごとく、その発展は無限大である。それだけ、その株式に興味がある。

    1955/07/21ダイヤモンド「知能で業績をあげている東京通信工業」

    5. SONYブランドで世界展開

    1957年に盛田昭夫(36歳)はトランジスタによる小型ラジオ「TR-63」について、米国で「SONY」という独自のブランドで輸出販売する方針を決めた。なお、当時の日本メーカーの北米輸出のほとんどはOEMであり、自社ブランドを展開するのはカメラの「Nikon」と、ラジオの「SONY」など数える程度しか存在しなかった。

    SONYのトランジスタラジオはそれまでの世界に存在しなかった「小型ラジオ」という市場を開拓し、瞬く間に世界市場を席巻。1958年には社名を東京通信工業からソニーに変更し、世界転換を本格化させた。

    1963年には盛田昭夫の一家はアメリカ・ニューヨークの一等地である五番街に移住し、現地コミュニティーとの溶け込みを図り、ソニーの国際化に大きく寄与した。

    盛田昭夫(1989年)

    副社長の肩書きのまま、妻に10歳と8歳の息子、6歳の娘を連れ一家でニューヨークへ移り住んだのは38年のことだ。五番街1010番地、メトロポリタン美術館の真ん前のそのアパートは、わたしと家族にとって全身で米国を知り学ぶ場となった。

    それに先立つ10年、米国市場と単身格闘してきた中で、米国を真に知り米国民を顧客として本当に掌握するにはコミュニティーに根をはらねばならないことを痛感していた。それは家族があげて移り住むことを必須の課題としたのである。

    このときの米国生活は結果としてさほど長くはなかったが、わたしたち一家は毎日を日の丸を胸につけたオリンピック選手のような気持ちで過ごした。1年足らずのわずかの間に妻は400人を超える客をわが客間に迎え、わたしはといえば、次にいつ渡米しても「ウエルカム・バック」と言われるだけの知遇をわが物にした。

    1989/5/15日経ビジネス「盛田昭夫・摩擦解消は"草の根"から」

    6. ソニー神話の形成

    1959年にソニーは東京証券取引所に株式を上場し、戦後に創業したベンチャー企業の高度成長として日本の経済界で話題となった。経済メディアは高度経済成長企業として「ソニー」を取り上げ、日本企業の一つの代名詞となる。

    1962年には高成長企業ソニーの秘密を明かす新書「S社の秘密(田口憲一著)」がベストセラーになるなど、ソニーの動向に注目が集まった。以降、ソニーにまつわる状況は経済メディアの注目するところとなり「ソニー神話」といった様々な言説が生まれた。

    ソニー 売上高 - 過去推移

    単位:億円

    出所:S社の秘密、会社四季報

    S社の秘密(田口憲一著・1962年)

    ここにふしぎな会社がある。一握りの技術屋集団から、やがて町工場となり、あッという間に、大企業にのし上がってしまった。資本金は当初の十九万円から二十一億円、つまり一万二千倍、売上高は半期七十二万円から九十四億円、つまり1万三千倍、従業員も当初の数名から今や四千名を超えて、五百倍以上に伸びたのである。

    それだけではない、この会社は、戦前からの同業大メーカーを尻目に、「世界で最初」という製品を七種、「日本で最初」という製品を五種発表して、国内のみならず、海外にまで社名をとどろかせてしまったのである。以上は決して誇大な表現ではない。事実、戦後の十数年間に、正にこの通りのことが起こったのである。

    1962田口憲一「S社の秘密」

    7. 直接金融による資金調達

    1960年代を通じてソニーの評判が高まり、株式市場における資金調達の面で優位にたった。1959年から1963年における公募増資と日本初のADR(米国預託証券)の発行により、約45億円の資金調達に成功し、銀行に頼らない直接金融中心の財務戦略として注目を浴びた。

    財務戦略の遂行にあたっては、ソニーは取引先であった三井銀行の八重洲店長だった吉井陸(よしい・のぼる)氏を中途採用し、盛田昭夫と吉井陸が中心となって計画を遂行した。

    かねてより、盛田昭夫は「これまでのように、銀行からお金を借りて会社を動かしていたのではだめだ。銀行から独立しなくては……。それなら証券市場を通じてやろう、しかも日本だけに限らず、世界中から資金の調達をしようじゃないか」[Sony History]という考えを持っており、日本では珍しく海外での直接金融に積極的な経営者であった。

    ソニー - 資本金推移

    単位:億円

    1961.6と1963.4はADRによる

    出所:会社四季報

    日経ビジネス(1973年)

    日本の多くの企業が、成長金融を銀行借り入れに依存することに甘んじていた中で、ソニーは銀行依存から脱する方法を真剣に考え、着々と実行していたのである。銀行依存が経営の独自性をそこなうおそれが強いことは誰もが考えつくことだが、ソニーはそれ経営の本質にかかわるものであるという鋭い感受性を持っていた。

    1973/8/20日経ビジネス「ソニー"価値創造競争"の勝利の記録」

    8. 多角経営を否定

    1960年までに日本国内では白黒テレビ、冷蔵庫、洗濯機が各家庭に普及したが、カラーテレビ、クーラー、オーディオ機器、ビデオといった大型商品は実用化されておらず、今後の市場の伸びが約束されていた。このため、松下電器や三洋電機は「総合電機メーカー」を志向し、あらゆる家電製品への参入を急いだ。

    電機業界の総合化という趨勢に対し、1961年に井深大はソニーは「多角経営はやらぬ」[1961/1/13日経新聞]と宣言し、従来から手がけてきたテープレコーダー、トランジスタラジオに加え、今後はテレビの開発に注力する方針を決めた。

    日経新聞(1961年)

    テレビの需要がようやく頭打ちし始め、軽電機業界がひとつの曲がりかどにさしかかっているとの見方が強く、これを契機に軽電機業界に経営を多角化する傾向が出ているが、ソニー社長の井深大氏は十二日、①今後も経営は多角化しない②ことしはトランジスター・テレビとテープレコーダーの生産、販売に力を入れるなどの経営方針を明らかにした。

    1961/1/13日経新聞「多角経営はやらぬ・井深ソニー社長、経営方針語る」

    井深大(1961年)

    当社はトランジスター・ラジオ、トランジスター・テレビ、テープレコーダーを大きな柱としているが、これらを中心にした技術開発に努める。あくまで専門メーカーの特色を発揮し、総合メーカーになろうとの考えは全く持っていない。

    1961/1/13日経新聞「多角経営はやらぬ・井深ソニー社長、経営方針語る」

    9. カラーテレビの自社開発

    トランジスタラジオの輸出と、テープレコーダー市場での高いシェアで獲得した利益を元手に、ソニーは次なる主力事業としてテレビの開発に注力した。当初はトランジスタを用いた小型の白黒テレビの開発に邁進したが、1960年頃に白黒テレビ市場が頭打ちになったことで主力製品にはならなかった。

    そこで、ソニーはカラーテレビの開発に注力する。当時のカラーテレビは米RCAの技術を採用する必要があり、高い特許使用料を負担する必要があったことから、ソニーは独自技術でカラーテレビの開発を行う方針を決めたが、後発参入のために苦戦が必至であった。

    井深大(1993年)

    世界中の会社が一つの例外もなく、RCA社のシャドー・マスク方式をやっていました。三本の電子銃で三本の電子ビームを発射する方式です。でも、ソニーが他社に遅れてカラーテレビの開発を進めるのに、いまさらNHKに頭を下げて教えてもらうのもしゃくにさわる。といって、こっちは切るべきカードを何も持っていない。独自の技術をですね。しかし、始めるなら、どんなことがあっても、他社とは違った方式でいこう、とまず決めちゃったのです。

    1993「井深大の世界」(インタビュー集)

    1964年にソニーは独自のカラーテレビ「クロマトロン」を開発したが、故障が多く量産化も難しかったことから、1台つくる毎に莫大な赤字が発生する問題製品となり「苦労マトロン」とも評された。そこで、井深大はクロマトロン方式を諦め、電子ビームの透過率を向上させた「トリニトロン」方式のカラーテレビの研究に邁進した。

    そして、1968年に井深大はトリニトロンカラーテレビを発表するとともに、年内に1万台の量産を宣言した。ソニーの社内は騒然となったが、急遽、カラーテレビ生産のための工場を愛知県の稲沢に新設し、量産ラインを立ち上げる。ソニーはカラーテレビへの電光石火の参入に成功し、1970年代を通じてカラーテレビがソニーの稼ぎ頭となる。

    1972年には日米貿易摩擦を回避する目的で、米サンディエゴにカラーテレビの現地生産拠点を新設。カラーテレビを国内のみならず、米国でもソニーブランドで販売することで利益を確保した。なお、ソニーのテレビは小型テレビとして重用され、各家庭で2台目のカラーテレビとして買う顧客が多かったという。

    なお、1969年度から1970年度にかけて、ソニーは年間利益を上回る設備投資を行っているが、カラーテレビへの投資分は数年以内に回収したと言われている。莫大な投資資金は、主に直接金融により工面したものと推察される。

    ソニー - 設備投資および年間利益(全社)

    単位:億円

    出所:1973/8/20日経ビジネス

    日経ビジネス(1973年)

    ソニーの高度成長は"価値創造競争"における勝利の記録である。自由競争が"衆愚経営"になりがちな日本の経営環境の下で自由競争の名に値する経営とは何かの一例を示しているからだ。資源の乏しい国での企業の社会的責任、それと密接に結ばれている経営国際化を問い、実践してきたのがソニーである。...(中略)

    最大の推進力となったのは、トリニトロン・カラーテレビだ。(筆者注:1968年度=昭和43年度に)45億円だった利益を4年間で192億円にした---トリニトロン・カラーテレビの経営へのインパクトをひとことでいえばこうなる。トリニトロン・カラーテレビが本格的に業績に寄与し始めたのは、44年度からだ。そして47年度にはカラーテレビだけで931億円と43年度の売り上げ712億円(連結ベース)を上回った。全体で2451億円と43年度の3倍になったが、このうちの38%をカラーテレビが占めている。この間、利益は4倍強になった。

    1973/8/20日経ビジネス「ソニー"価値創造競争"の勝利の記録」

    10. ビデオ戦争で劣勢に

    1974年にソニーは家庭用ビデオの新規格「ベータマックス」を発表し、世界に先駆けて家庭向けビデオの普及を試みた。当初ソニーには、日本および欧米の家電メーカーが結集し、ベータマックスの規格を支持し、ソニーはライセンスを供与することでビデオの普及を試みる。

    ところが、1975年9月に日本ビクターが同じく家庭用ビデオの「VHS」規格を発表し、同社の親会社・松下電器はビデオデッキが軽量であったVHSを支持する方針を打ち出した。このため、ビデオメーカーはソニーを中心とするベータマックスと、日本ビクターを中心とするVHSの2陣営が熾烈な競争が勃発し、「ビデオ戦争」として注目を浴びた。

    日本ビクターは松下に続き、日立、シャープ、三菱電機などの大手電器メーカーに対してVHS規格を採用させることに成功。同社は日本のみならず、トムソン、RCA、フィリップスなどの世界の大手電機メーカーに対してもVHS規格の採用を呼びかけ、ソニーのベータマックス方式を圧倒してシェアを拡大した。厳しい立場に立たされたソニーは、1988年にVHSの併売を決定し、ベータマックス方式でのシェア獲得を諦めた。

    ビデオ戦争での敗北は、ソニーの経営に変調をもたらした出来事として注目を浴び、日経ビジネスは「ソニー・"神話"はよみがえるか」という記事を掲載している。

    日経ビジネス(1984年)

    「創業以来の"節目"」(盛田昭夫)に差し掛かったソニー。2期連続の大幅減益という挫折を前に、今、ソニー社内ではトップ層の意識変革と同時に、再生への模索が始まっている。家庭用VTRのファミリー作りに失敗、売り物の技術も絶対的な優位を失いかけている。海外を活躍の舞台としてきた"非日本的"な経営体質の脆弱性が露呈、突出した独自技術を武器に先行ダッシュで稼ぐのがお家芸のソニー商法も通用しにくくなっている。...(中略)

    ソニーが今、求められているものは、べンチャービジネスの創業の精神に戻ることもさることながら、大企業としての開発、製造、販売のバランスのとれた経営である。販売の松下が開発に必死の形相で取り組み、生産のトヨタは最も苦手とする国際化の宿題を突きつけられている。"ソニー神話"は崩れたかもしれないが、国際化の実績とブランドの力はまだ他者を寄せ付けないものがある。...(中略)...今回の危機で、ソニーの内部には反省と改革の意識がかつてないほど盛り上げっている。

    1984/06/11日経ビジネス「ソニー・"神話"は蘇るか」

    11. 一貫性なき多角化

    1970年代までのソニーは、経営資源が限られていたこともあり、テープレコーダー、トランジスタラジオ、カラーテレビといった、特定商品に集中投資をする傾向にあった。だが、1970年代までにソニーは潤沢な自己資金を蓄えたことから、財務体質に余裕が生まれ、盛田昭夫、井深大、現場社員が発案した事業を新しく立ち上げることで、経営の多角化が進行した。

    1970年代には現場社員の岩間和夫が中心となって、イメージセンサーの研究を始めたことがきっかけとなり、ソニーは画像半導体に参入。ビデオカメラやデジタルカメラにCCDが応用され、ソニーはこの分野で2010年代に至るまで高いシェアを確保し続けている。

    一方、1980年代を通じて盛田昭夫は金融業や映画制作業への参入を決めた。盛田はアメリカで興隆していた保険業や映画といったソフト産業に目をつけ、企業買収ないし提携により参入する。1989年にソニーは米コロンビアピクチャーを44億ドルで買収するなど、欧米にソニーの名前を轟かせた。

    この他には、オランダ・フィリップスと共同でCD(コンパクトディスク)の開発や、ウォークマンの発案など、新しい技術や既存の技術を生かしながら、黒物家電のアップデートを試みている。

    しかし、1970年代以降のソニーの多角化路線には一貫した方針がなく、盛田昭夫を始めとする経営陣が「好き」な分野に参入した意味合いが大きかった。このため、1990年代以降のソニーの事業構成は複雑化し、歴代経営陣は様々な組織改革を試みるものの、効果は芳しくなかった。

    大賀典雄(ソニー社長・1985年)

    皆さんは「神話」とか「崩壊」とかおっしゃいますが、私自身は、過去のソニーに神話があったとは思わないんです。皆さんがかってに「神話」をつくり、「崩壊」とか言っているだけです。ソニーは過去も現在も地に足のついた会社です。

    ただ、私が思っているソニーの唯一の問題点は、会社が大きくなったのに組織がそれに対応できなかったということです。企業というものは規模に応じた相応の体制というものがあります。ただ、体制をしっかりし、レイヤーというか、階層ですね、これが出来すぎると風通しが悪くなってしまう。やはり、クイック・デシジョンが可能でかつ放漫にならない組織をつくらなければなりません。

    1985/11/25日経ビジネス「編集長インタビュー・大賀典雄」

    12. 井深大・盛田昭夫の退任

    1982年に盛田昭夫はソニーの後継者長として大賀典雄を指名し、ソニーの経営の第一線から退き、主に財界活動に軸足を移した。1980年代を通じて盛田昭夫はソニーによるコロムビア買収などを提案するなど、ソニーの経営に関わった時もあるが、1992年に脳内出血に倒れてからは実務を退く。その後、1999年に78歳にて逝去した。

    井深大は1976年にソニーの名誉会長に就任し、経営の一線から退いた。以降は長年考えてきた幼児教育を深めるための研究に没頭している。その後、1997年12月に89歳にて逝去した。

    日経ビジネス(1998年)

    ソニーの創業者である井深大氏が亡くなった。終戦後の焼け跡から技術立国として奇跡の復活を果たした日本経済への貢献度は計り知れない。ソニーが今もなお輝きを失っていないのは、井深氏の精神が脈々と受け継がれているからだと言えよう。

    1998/1/5日経ビジネス「ソニー井深大氏逝くも創業者精神は死なず」


    結果:戦後生まれの1兆円企業(1981年10期)

    奇跡的な成長、利益率の低迷

    1981年10月期決算でソニーは売上高1兆円を達成し、戦後生まれの企業としては驚異的な成長を実現した。1984年までに戦後生まれの日本企業のうち、売上高1兆円を実現した会社は、ホンダ、ソニー、ダイエー、三洋電機の4社のみであり、ソニーは「四人組」の1社として賞賛を浴びた。

    しかし、ソニーの売上高純利益率は長期的に低迷傾向にあり、1983年10期には同2.7%という低い水準となった。ソニーが大型商品として売り込んだビデオ(ベータマックス)が日本ビクターのVHSとの規格競争に敗北して利益率を確保できなかったことや、テレビやオーディオなどの電機製品市場での競争激化により収益性が低下した。1984年には二期連続の減益となり、盛田昭夫社長は危機感を募らせたという。

    このため、1980年代を通じてソニーという企業のブランドは世界に轟き、就職先として人気を誇る有名企業となったが、事業の競争環境の悪化は止まらず、利益率の低下は2000年代まで続いた。2003年にはソニーの株価が暴落して「ソニーは普通の会社」という評判が定着してしまう。

    日経ビジネス(2003年)

    仮にソニー株の評価がこのPBR(株価純資産倍率)1倍の水準で定着するのであれば、その意味はとてつもなく大きい。PBR1倍とは、解散価値で株価が評価されているのと同じである。つまり、バランスシートに計上されていない「SONY」ブランドの価値や、ユニークな製品を世界に送り出していく能力、成長への期待感について、市場の評価がゼロというのに等しいことになる。

    戦後の発展を支え、日本の製造業を代表する三菱重工業や日立製作所も既にPBRが1倍を割り込んだ評価しか与えられていない。ここで成長企業の名をほしいままにしたソニーまでが、「普通の会社」になってしまうのだとしたら、それは1つの時代の終わりを物語っているのではないか。

    2003/5/5日経ビジネス「激震電気決算・ソニーショックが招いた株安連鎖の危機」



    参考文献

  • 1954/07放送技術「最近の電子工業と音響技術・井深大」
  • 1955/07/21ダイヤモンド「知能で業績をあげている東京通信工業」
  • 1961/1/13日経新聞「多角経営はやらぬ・井深ソニー社長、経営方針語る」
  • 1962田口憲一「S社の秘密」
  • 1973/8/20日経ビジネス「ソニー"価値創造競争"の勝利の記録」
  • 1984/06/11日経ビジネス「ソニー・"神話"は蘇るか」
  • 1985/11/25日経ビジネス「編集長インタビュー・大賀典雄」
  • 1986/3/31日経ビジネス「シリーズ人・盛田昭夫」
  • 1989/5/15日経ビジネス「盛田昭夫・摩擦解消は"草の根"から」
  • 1993「井深大の世界」(インタビュー集)
  • 1998/1/5日経ビジネス「ソニー井深大氏逝くも創業者精神は死なず」
  • 2003/5/5日経ビジネス「激震電気決算・ソニーショックが招いた株安連鎖の危機」
  • Sony公式サイト「Sony History」
  • 日経新聞連載「私の履歴書・井深大」