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パイオニア - 石塚庸三

経営者の決断 成長期 技術開発 13社vs1社

光ディスクの開発競争でパイオニアを勝利に導いた東芝出身のプロ経営者"石塚庸三"。イラストは筆者作成

光映像ディスク開発競争で勝利

  • 高級スピーカーの国産化
  • パイオニアの祖業は、高級スピーカーの製造である。1930年代に外国製スピーカーの音質の良さに魅了された松本望(パイオニア・創業者)が、高音質スピーカーの国産化のためにパイオニア(福音商会電機製作所)を創業し、部品メーカーとして業容を拡大する。1950年代に日本製の小型ラジオ(トランジスタラジオ)が世界的なヒット商品になると、部品メーカーのパイオニアも売上高を拡大させ、1961年に株式上場を果たす。

  • 完成品ステレオに転業
  • スピーカーの需要増大により、スピーカーの単価下落がパイオニアに襲いかかった。このため、パイオニアは部品メーカーとして生き残ることが難しいと判断し、創業者の松本望は経営再建を試みる。1960年代にセパレートステレオを発売し、自社で直販営業網を整備することで、部品メーカーから完成品メーカーへの転換を果たした。

    業態転換にあたって、松本社長は東芝出身の石塚庸三を"プロ経営者"としてスカウトし、実質的にパイオニアの再建を任せた。石塚は同業の日本コロムビアなどの経営危機に陥ったオーディオメーカーの技術者をスカウトすることで、パイオニアの技術力の底上げを図った。パイオニアの再建の成功により、1971年に石塚はパイオニアの社長に就任する。

  • 光学式映像ディスク"LD"に投資
  • 1970年代を通じて石塚庸三(パイオニア・社長)は技術開発力を強化し、大手電機メーカーと新製品開発で戦う方針を掲げた。まず、NHKから有名技術者をスカウトし、当時普及しつつあった映像メディア機器への参入を検討。当時は磁気テープ式のVTRに参入する企業が多かったが、パイオニアは相対的に競合が少ない映像ディスクへの参入を決断した。

    さらに、映像ディスクのうち、レーザーを用いた非接触によるLD方式を採用。競合の日本ビクターや松下電器、ソニーなどの国内13社は、ダイヤモンド針を用いた接触式の映像ディスク(VHD)の開発を志向したため技術選択が分かれた。LD陣営は国内ではパイオニア1社のみであり、13対1という圧倒的に不利な状況でパイオニアはLDの開発に邁進する。

  • 知財収入を確保
  • 1980年代を通じてLDはカラオケ市場を中心に拡大。従来は8ミリテープが主流であったが、LDは瞬時に選曲できる利便性と、ヒット曲のディスクの磨耗体制が評価され、一気に市場に普及。パイオニアは第一興商などのカラオケ機器メーカーを通じてLDを販売し、両社は急成長を遂げた。他方、VHDはランダムアクセスが難しく、パイオニアに比べて2年量産に遅れたこともあり、1987年に日本ビクターがVHDから撤退。これにより、映像ディスクではパイオニアだけが生き残る。

    1990年代には、LDに次ぐ光ディスクとしてデジタル方式のDVD企画が東芝などの家電各社により提唱された。LDはDVDによって代替されたが、DVDの製造にはパイオニアが保有する光関係の知財を利用する必要があり、パイオニアは特許収入を確保。1998年にパイオニアの経常利益188億円のうち、特許収入が128億円を占め、2000年代に特許が切れるまでのパイオニアは"知財"で儲ける会社となった。

  • 新製品の失敗により上場廃止へ
  • 1990年代を通じてLDはカラオケ市場の通信方式へのシフトにより市場が消滅。パイオニアは映像と光ディスクで培った技術を生かし、1996年に世界初のDVD方式のカーナビシステムを開発し、1997年には世界初の民生用プラズマテレビを発売して、新製品開発に邁進した。

    だが2000年代にプラズマは液晶テレビに駆逐され、カーナビはOEM比率の増大による収益性の低下とタブレット端末の普及による市場消滅に直面した。パイオニアは単独存続を諦め、2018年にファンド傘下での経営再建を決断し、2019年に上場を廃止した。

    目次

  • パイオニア - 基本情報
  • 売上高 - 過去推移

    売上構成比 - 過去推移

    営業利益率 - 過去推移


  • パイオニアの歴史
  • 1930年代 高級スピーカーの開発

    1950年代 スピーカーの競争激化

    1960年代 ステレオセットで起死回生


  • 石塚庸三の半生
  • 1930年代 B級東大生・東芝に入社

    1960年代 東芝から問題会社に転職


  • LD開発に集中投資
  • 1. 技術者のスカウト

    2. 祖業から撤退

    3. LDへ集中投資

    4. IBM,MCAと合弁設立

    5. 第一興商と取引開始


  • 光ディスクの知財会社
  • 1980年代 カラオケ市場を掌握

    1990年代 特許収入を確保


  • [その後]業績不振〜上場廃止へ
  • 2000年代 プラズマTVの頓挫

    2010年代 上場廃止,ファンド傘下で経営再建へ


    パイオニア - 基本情報

    売上高 - 過去推移

    単位:億円

    出所:有価証券報告書、会社四季報、各種報道資料


    売上高利益率 - 過去推移

    単位%

    出所:有価証券報告書、会社四季報


    売上高構成比 - 過去推移

    単位:%

    2005年以降は映像もオーディオに含む

    出所:有価証券報告書、会社四季報


    パイオニアの歴史

  • 1937年 松本望がダイナミックスピーカーの開発に成功
  • 1938年 福音商会電機製作所を東京に設立
  • 1953年 パーマネント型スピーカー発売
  • 1961年 社名をパイオニアに変更
  • 1961年 東証第二部に上場
  • 1962年 世界初のセパーレトステレオ発売
  • 1966年 欧米に販売子会社
  • 1968年 東証第一部に上場
  • 1972年 取引先への支払いを現金に一本化
  • 1975年 車載用オーディオの発売
  • 高級スピーカーの開発

    パイオニアの創業はラジオ放送が日本に普及しつつあった1938年にさかのぼる。外国製スピーカーの高音質の魅力にとりつかれた松本望(パイオニア・創業者)は、同年に福音電機を創業。松本望はラジオやレコード向けの高級スピーカー「ダイナミックスピーカー」の開発に従事し、東芝や日本ビクターなどのオーディオ大手メーカーにスピーカーを部品として納入していた。

    外国製スピーカーの音質の良さに感動し、高品質スピーカーを製造するパイオニアを創業した松本望。イラストは筆者作成

    ところが、1945年の終戦により大メーカーの生産が停止。松本望はメーカー相手ではなく、個人がラジオを組み立てる際に必要な高級のHiFiスピーカーの市販を開始した。ジュラルミンという新素材を用いた高品質のスピーカーは評判を呼び、市販品は大手メーカーからの値下げ圧力が弱いことから、左団扇の商売が続いたという。

    松本望(パイオニア創業者、1978年)

    針をレコード盤におろした途端、私は今まで聴いたこともない、すばらしい音に圧倒されてしまったのです。あの時の感動を、どう表現したらいいのか、とにかく私はびっくりしてしまいました。今まで聴いていたマグネチック・スピーカーがまるで子供のおもちゃみたいに感じられたことを覚えています。

    これだ。この音だ。ダイナミック・スピーカーでなければ駄目だ。私は、ほんとうにそう思いました。ただ、ただ感動です。ようし、いつかは、きっと、こんなすばらしいダイナミック・スピーカーを作ってやろう。スピーカーは、これに限る。流れてくる音楽を聴きながら、私はそう決心したのです。

    1978松本望「回顧と前進」

    スピーカーの競争激化

    1953年に日本で民間放送が開始されると福音電機の状況は一変した。ラジオの需要が増大するとともに、手作りではなく完成品ラジオが主流となり、大手ラジオメーカーは福音電機に対してスピーカーの値下げを要求した。

    1950年代を通じて福音電機はスピーカーの量産体制の構築で大手メーカーの要望に対応。量産効果により価格は下がったものの、同業のスピーカーメーカーとの価格競争は激化する一方であった。

    松本望は価格競争から逃れる術を考え、1961年にスピーカーの減産を決断。ところが、競合他社が増産したためにスピーカー価格は下げ止まらなかった。パイオニアの経営状況は徐々に悪化したため、松本望は活路を海外輸出に見いだす。米国メーカー(GEやRCAなど)から100万個のスピーカーの注文を獲得するなど、海外需要に着目してスピーカー事業を延命させた。

    (補足)1961年の時点の売り上げのうち、55%がセットメーカー(日立、東芝、ソニーなど)向け、35%が一般市販向け、15%が海外向け輸出であった。主力製品であるスピーカーのシェアは(1962年時点)20〜25%で推移したという。

    松本望(パイオニア創業者)

    スピーカーは特別に決め手になる特長のある製品ではないので、無茶な値段はもちろんつけられませんし、競争は相変わらず熾烈でありますから、スピーカー企業というものはそれほどもうかる企業ではありません。利益率のよくない形で推移してまいりました。

    スピーカーは特別に決め手になる特長のある製品ではないので、無茶な値段はもちろんつけられませんし、競争は相変わらず熾烈でありますから、スピーカー企業というものはそれほどもうかる企業ではありません。利益率のよくない形で推移してまいりました。

    1981/5証券アナリストジャーナル

    ステレオセットで起死回生

    パイオアニアはスピーカーを祖業としたが、創業の目的は高音質の追及であり、オーディオ機器セットへの進出が悲願であった。そのためには、スピーカーに加え、スピーカーを組み込む木製キャビネット、音を読み取るレコードプレーヤー、音を増幅するアンプの3点への進出が重要であった。

    まず、スピーカー本来の能力を発揮するためにはスピーカーを格納する木製キャビネットに進出。1950年代まではキャビネットメーカーが別に存在しており、スピーカーを組み入れる方式が主流であったが、松本望はスピーカー本来の能力を発揮させるには、キャビネットも重要であると考え、そこで、木製キャビネットを製造する「日本オーディオ工業」を子会社として設立する。続いて、音を増幅するためのアンプ製造にも参入し、オーディオセットという完成品に参入した。

    そして、1960年代を通じてパイオニアはセパレート・ステレオという新しい概念を提唱した。セパレート・ステレオでは、スピーカーなどの配置を自由に決めることが可能となり、オーディオ愛好家の心をつかんだ。

    1966年頃からパイオニアはセパレート・ステレオの販売に合わせて販売網を整備。全国各地に営業拠点を設置し、小売店に対する直売営業網を強化して、オーディオ愛好家の声を汲み取る体制を整えた。また、セパレート・ステレオの販売拡大に伴い、パイオニアブランドを最終消費者に浸透させた。

    新製品開発と販売改革により、1972年にパイオニアはステレオ分野で国内シェア1位(18%)を獲得。2位の松下電器が14%のシェアであり、オーディオ専業メーカーのパイオニアが家電の老舗を凌駕した。他方、日本ビクターや日本コロムビアなどの老舗オーディオメーカーはステレオでシェアを取れず、1970年初頭に経営が危ぶまれた。

    日経ビジネス(1979)

    いまパイオニアは優良企業、それも折紙付の優良企業の一つに数えられている。右図にみるように、売上高営業利益率10.2%、自己資本比率74.0%という数字は、松下電器産業以下を圧倒している。それどころか、純利益日本一で鳴るトヨタ自動車工業でさえも、前期の数字はそれぞれ5.7%、57.6%で、こと収益力と安定性にかけては遠く及ばない。

    1979/10/22日経ビジネス「"混血"と"合理"で築いた無借金経営」


    石塚庸三の半生

  • 1915年 山形県生まれ
  • 1937年 東京帝国大学を卒業
  • 1937年 東京電気(現東芝)に入社
  • 1947年 静岡工場部長としてスト解決に奔走
  • 1955年 電子機械工業会に出向
  • 1963年 ミツミ電機にスカウト転職
  • 1964年 パイオニアにスカウト転職
  • LD開発における最重要人物。東芝出身のプロ経営者でもある。石塚庸三(いしづか・ようぞう)。イラストは筆者作成。

    B級東大生・東芝に入社

    1937年に石塚庸三は東京帝国大学の法学部を卒業し、東京電気(現東芝)に就職。当時の学部生は、政府機関や日本銀行、日本興業銀行といった国に近い分野に携われる仕事を選択したが、石塚庸三は学内活動(緑会)に熱を入れてしまい勉強を遅さかにしたため、教授にも愛想をつかされ、求人票で偶然見かけた東京電気(現東芝)に入社した。

    東芝への入社後、石塚は会社の中枢ではなく傍流部署を渡り歩く。1955年には電子機械工業会に出向し、当時急成長を遂げつつあったラジオベンチャー"SONY"の創業者・盛田昭夫や、"弱電メーカー"と揶揄された松下電器の松下幸之助と仕事をする機会に恵まれ、大きな影響を受けたという。

    石塚庸三(1980年)

    あまり勉強する学生ではありませんでしたね。成績はBの下か、Cくらいでしょう。真ん中くらいだったという説もあるけど、いずれにしてもBクラスでしたよ。(中略)

    成績の上のほうから行政官庁、巨大金融機関というふうに決まっていく。メーカーなら三菱重工、化学関係だと当時の新興財閥だった野口コンツェルンの日本窒素肥料とかね。(中略)興銀もうけたけどみごとにはねられました。

    いよいよ卒業期になって『お前、どうするんだ』と(筆者注:教授が)おっしゃるから、『どうしていいかわからないんです』と答えた。そしたら『ろくなことやってないし成績もよくないから炭鉱へでも行くか』とこうなんです。みんなに相談すると『なにも炭鉱にまで行かなくてもいいじゃないか』という。そこで、求人のビラを見たら東京電気というのがあったんで、そこを受けて入りました。まったくの偶然ということです

    1980/1プレジデント

    東芝から問題会社に転職

    ところが、東芝はなかなか石塚を本社に呼び戻さなかった。このため、石塚は「人事が行き詰まりすぎている。腕も振るえない」[1975/10/27日経ビジネス]と考え、大企業である東芝ではなく、成長性著しい中小企業で企業経営をする道を模索した。

    1962年に石塚はミツミ電機の社長にスカウトされて東芝からの転職を決断した。しかし、ミツミの森部社長は石塚の電子機械工業会の人脈に期待するだけで、ミツミの経営を任せなかった。このため、石塚はミツミへの転職を後悔し、わずか1年でミツミ電機を退職した。

    その後、石塚は同業のパイオニアの松本社長にスカウトされ、同社の役員として転職した。当時のパイオニアはミツミに比べて優れた経営成績に劣る問題会社であったが、松本社長と信頼関係を築けると判断して2度目の転職を決意した。

    ミツミ電機:[1962年1期]売上高26億円・売上高純利益率15%

    パイオニア:[1962年7期]売上高36億円・売上高純利益率7.1%

    1960年代を通じて石塚は製品面ではセパレートステレオの開発、販売面では直販営業によるオーディオ機器の販売によって、パイオニアを部品メーカーから完成品メーカーへと発展させた。また、日本コロムビアなどの同業から技術者のスカウトを積極的に行い、パイオニアの技術開発力の底上げにも貢献した。

    パイオニアの再建成功により、1971年に石塚はパイオニアの社長に就任した。

    石塚庸三(1980年)

    私の東芝在職25年の間は、製造会社で一番重要な経営企画、営業あるいは経理というような中枢の仕事には参加させられないで、外縁部から経営の主体を見ていたという立場であったと思う。しかし、関連会社の経営を実際に検討させられ、あるいは、日本の電子工業会の姿というものを見たときに、私は、なんとかして自分も経営の先端に立ってみたい、評論や批評ではなく自分で直接取り組んでみたいという強い希望をもっていたわけである。

    そのときに私は、25年間いた東芝をやめるのであるから一大決心をしたわけであるが、実は重大な過ちを犯したのである。というのは、転職するからには、相手の経営を研究しなければならないということで、バランスシートと損益計算書を詳細に検討した。そして昭和37年代のミツミ電機は、部品メーカーとしては大変すぐれた資産内容をもち、また経営数字でもすぐれていたと判断したわけである。工場も実地に見て大変よい工場だと思い、入社を決心したわけであるが、肝心の人間関係の研究をなおざりにしていた。そういうことで、わずか1年でミツミ電機をどうしても自分で引かざるを得なくなった。

    その後、半年ほどしてから、パイオニアにお世話になったわけである。この当時のパイオニアは、おせじにもよい会社とはいえなかった。しかし、現会長の松本氏と私とは長いつき合いがあって、人間関係ではうまくいけると私なりに考えたわけである。そしてまた、それをパイオニアに入る大きな鍵としたわけである。

    1980証券業報「80年代の企業経営/石塚庸三」


    LD開発に集中投資

  • 1972年 NHKの技術者をスカウト
  • 1977年 光ディスク(LD方式)に集中投資
  • 1979年 LDの試作品「LD-1000」を完成
  • 1981年 LDの量産を開始
  • 1982年 石塚庸三が急逝.松本誠也が社長就任
  • 1983年 日本ビクターがVHDを発売(87年撤退)
  • 技術者のスカウト

    1972年にパイオニアはNHKの主任研究員の山本武夫をスカウトし、パイオニアの音響研究所長に配属して本格的な映像ディスクの開発をスタートする。スカウトに当たって、石塚社長は「当社はつぶれそうになったら国が支えてくれる大企業ではない。自らの活力で生きなければならない中小企業だ。それには技術力を向上するしかない。そのために力を貸して欲しい」[1980/1プレジデント]と懇願したという。

    以降、石塚社長はエレクトロニクス関連の技術者の採用を強化。1975年頃のパイオニアの技術者は約500名程度であり、日立・東芝・松下電器の1万人、ソニー・富士通の4000人に見劣りしたが、1980年までにパイオニアは1000人に倍増させる方針を決断した。

    (補足)技術陣の受け入れは、同業で経営不振に陥った電機メーカーが主な対象になったと推察される。パイオニアと同じく関東に拠点を置くゼネラル(現富士通ゼネラル)、日本コロムビアなど、家電事業が行き詰まった老舗企業から人材を受け入れた。1972年の時点で、パイオニアの部課長160名のうち、生え抜きは10名で、残りの150名は転職人材であったという。また、スカウト人事の成功率は50%程度で、半数はパイオニアになじめずに去っていったと言われている。

    石塚庸三(パイオニア社長、1980年)

    エレクトロニクス業界は技術革新の業界であって、業績の向上は有能な技術者の数に正比例するといっても過言ではないと思う。(中略)パイオニアでは、つい数年前までは技術者は500人しかいなかった。いくら事業の間口が狭いといっても、500人で1万人と戦えるわけがない。そこで、私は、技術者の数を5年計画で倍増させることにして、現在までに4年を経過して約1,100人になったわけである。しかし、我々の業種では現在でも1,500人から2,000人は必要であると考えているので、まだまだ足りない。

    1980証券業報「80年代の企業経営/石塚庸三」


    山本武夫(NHK→パイオニア、1980年)

    社長は役員たちに、オレは技術のことはわからんが、といってはいけないといっています。それだけに本人も大変な勉強をしている。われわれからだけではなく、どうも独自のルートからも技術の情報を集めているようです。われわれがなにか報告などをすると、そのルートで自分自身ウラを取ったりする。

    1980/1プレジデント「石塚庸三・やりすぎる男の「寄らば大樹」論」

    祖業から撤退

    1970年代にパイオニアは祖業のスピーカーの部品製造から撤退する方針を決断。当時、部品としてのスピーカーの売上は全社比15%程度で、国内シェア20%を確保していたが、生産には人手がかかり利益率が低い製品であったため、生産拠点の山形工場を分社化し、主力の製造拠点を台湾に移管した。

    撤退の際、一部の大手メーカーは「長年セットメーカーの恩恵をうけていながら、いまさら供給しないとは何事だ」と反発したが、石塚社長は採算の悪いスピーカーの部品製造からの撤退を実行する。また、山形工場はカーステレオと自社ブランドスピーカーの生産にシフトした。

    スピーカーを生産していた頃の山形工場は、従業員1000人に対し売上高60〜70億円であったが、カーステレオ生産時代は従業員800人に対し売上高340億円に改善した。

    LDへ集中投資

    1970年代の時点で、映像ディスクの規格にはTeD、CED、LD(レーザーディスク)の3方式が存在したが、TEDは画質が悪く録音時間が短い点、CEDはデータ読み取り用のダイヤモンド針がディスクに物理的に接触する方式のために磨耗がありランダムアクセスも困難であることを勘案し、1975年にパイオニアは次世代ディスクの本命として、技術的に最も難しいと考えられていたレーザー光を用いるLD方式を選択する。

    石塚社長はLD事業について、成功する確率を40%と見積もっていたが、「うちの企業規模からいって、6分の可能性がみえてから走り出したのではもう遅い。大手メーカーが作るだろう。4分のリスクのある段階だからやるんだ」[1984/5/14日経ビジネス]と考え、投資を決断した。

    (LDの仕組み)LDはレーザービームをディスクに照射する非接触という点に特色があった。ディスクは反射膜、保護膜、接着層、PMMA樹脂で形成され、レーザーはPMMAの上面に形成された凹部位を記録信号として読み取り、映像を再生した。各層は蒸着によって形成されるため、半導体の製造に似ている面がある。

    当時、LDを選択したオーディオメーカーは日本ではパイオニア、米国ではMCA、欧州ではフィリップスであり、日本ビクターや松下電器などの13社の大手電機メーカーはVHD(CDE方式)を採用した。このため、次世代ビデオディスク開発において、国内勢はパイオニアの1社だけが孤立する形となった。

    13社のVHD陣営の内訳は、日本ビクター、松下電器、東芝、三菱電機、三洋電機、シャープ、新日本電気、ゼネラル、赤井電機、山水電気、トリオ、ヤマハ、オーディオテクニカという錚々たる面子であった。このため、13社とパイオニアの戦いは、業界内で「13社対1社の競争」と呼ばれて話題になった。

    石塚庸三(パイオニア社長、1980年)

    テープ方式とディスク方式の双方を手がけることはパイオニアの力ではできないことであったので、そのどちらを選択するかということを技術者を交えて検討した結果、音響メーカーとしてのパイオニアは、音声20点をおいたディスク方式を選ぶのが本当ではないかという結論を得た。更に、ディスク方式の中の3種についてそれぞれの利害特性を検討した結果、光学方式のビデオ・ディスクが最優秀の商品であると判断して、それ以来7〜8年間これを開発してきたのである。(中略)

    ビデオディスクには三つの方式があるが、当社以外の方式は、在来のレコードと同じように、針で映像と音声をピックアップするわけである。これに対し、当社の機器は、レンズと鏡を通じてレーザー光線をレコードに照射して、その反射光で読み取る方式で、新しい技術である。針でさわる技術は、エジソンが100年前に発明した技術であるが、どうしてもレコードの磨耗ということがあるので寿命がある。当社の方式は針で触っていないので、レコードが半永久的である。

    1980証券業報「80年代の企業経営/石塚庸三」

    IBM,MCAと合弁設立

    パイオニアはLDの開発を強化するために、1977年にMCA、IBM、パイオニアの3社により合弁会社「UPC(ユニバーサル・パイオニア)」を設立し、"絵の出るディスク"と言われた夢の製品の実用化に乗り出した。UCPの責任者として、パイオニアの技術者・柳重義が出向した。

    ところが、MCAによる試作品は1mの幅をもつ巨大な円盤であり、ディスクの回転に強い動力を要したため、実用的な製品ではなかった。このため、UPCでは柳重義が中心となり、ディスクの小型化を試行。1978年春までにディスクの直径1/3縮小することに成功。1979年3月にパイオニアはレーザーディスクの実用的な試作品「LD-1000」を完成させた。

    ところが、量産の立ち上げでLD陣営は苦戦した。ディスクの製造はDVA社が請け負う予定であったが、製造における歩留まりが50%以下で採算に乗らないとして製造から撤退。このため、ディスクの量産を急遽UPCが担うことになった。柳重義はパイオニアの甲府工場で歩留まり向上に奔走し、1981年2月までに歩留まりを改善した。

    (LDの量産)LDディスクの生産は、(1)プリマスタリング、(2)マスタリング、(3)レプリケーションの三段階を経て行われる。まず、(1)でLDに保存する映像と音声をVTRに記録し、(2)でVTRからフォトレジストの原盤に信号をカッティングしたうえでスタンパーを製作し、最後に(3)においてスタンパーを用いてアクリル樹脂を成形する、という工程で製造される。

    1981年10月にパイオニアは実用的なレーザーディスクを世界で初めて発売。競合の日本ビクターなど13社連合が映像ディスク(VHD)を発売したのは1983年4月であり、映像ディスクではパイオニアが先行した。この結果、1987年に日本ビクターはVHDから撤退し、映像ディスクの開発競争ではパイオニアが独走態勢を築いた。ソニーなどの一部のメーカーはVHDから、パイオニアのLD陣営に鞍替えした。

    ところが、1982年4月に石塚社長が67歳にて急逝。後任に創業家の松本誠也が社長に就任する。

    松村純孝(パイオニア元執行役員)

    VHDのフォーマット発表時(1978年)には、特性、予想コスト、機能はLDより優れていた点が含まれていたが、特にディスク量産化技術の開発に手間取り製品の市場導入が1983年までずれ込んでしまい、導入時のプレーヤーやディスクの価格もLDに対し特に優位性があるものではなかった。

    松村純孝「LD(レーザディスクシステム)の開発、実用化に関する系統化調査」

    第一興商と取引開始

    1980年代の時点で映像メディアの主流は日本ビクターのVHS方式であり、LDは主流になり得なかった。VHSは家庭のビデオレコーダーとして番組録画可能であったのに対し、LDは高額かつ家庭でのテレビの録画が不可能であったことが足かせとなり、1990年時点のLDの世帯普及率は5%にとどまった。

    しかし、1980年代を通じてLDはカラオケスナック向けという業務用で市場を拡大した。従来のカラオケボックスでの音楽・映像再生では8mmテープが活用されたが、巻き戻しなどの選曲時に手間がかかったが、LDは選曲時に便利な機器として注目を浴びた。

    カラオケ用LDの販売に際して、パイオニアはカラオケスナックに対する営業部隊を擁する第一興商との取式を開始した。


    光ディスクの知財会社

  • 1984年 LDによるカラオケブーム
  • 1994年 通信式カラオケの台頭
  • 1996年 東芝などがDVD規格を提唱
  • 1998年 特許収入128億円/年
  • カラオケ市場を掌握

    1980年代を通じてパイオニアはLDをカラオケ向けの業務用ソフトとして売り込み、業容を拡大した。他方、競合の日本ビクターもVHDにてカラオケ市場の参入を試みるが、VHDは選曲時のランダムアクセスに難があり、LDがカラオケ市場を独占した。LD事業の利益額の詳細は不明だが、パイオニアにおける「ドル箱」[1998/8/31日経ビジネス]であったという。

    LDソフト出荷金額の推移

    単位:億円

    (解説)1990年代後半にカラオケ市場では、通信方式が台頭。従来のLD方式は一気に廃れ、パイオニアは第一興商というLDの大口顧客を失い、慢性的な赤字に陥った。

    出所:松村純孝「LD(レーザディスクシステム)の開発、実用化に関する系統化調査」

    松本誠也(パイオニア社長、1991年)

    現在のようなカラオケーブームは15年ほど前にもありましたが、ほんの数年で下火になってしまいました。当時は音しか出ない8トラックのテープを繰り返し使っていたのです。選曲がめんどくさい上に、テープですからどうしても劣化して音が悪くなってしまう。そこで、音と一緒に映像と歌詞が画面に映るレーザーディスクのカラオケを発売したら、これが当たりました。(中略)開花するまで10年の歳月を費やしましたが・・・。

    1991/8/5日経ビジネス「カラオケで開花したLD」

    DVD特許収入を確保

    また、1990年代後半にDVDの規格が東芝などの大手メーカー提唱された際、LDの技術が活用されることになり、パイオニアはDVDメーカーからライセンス収入を獲得。2000年代に特許が失効するまで、パイオニアの知的財産が業績を下支えした。1998年の時点で、パイオニアの経常利益188億円のうち、特許収入が128億円、本業における利益は60億円であり、2002年頃までのパイオニアの実態は光関連の知財の会社であった。

    日経ビジネス(2003年)

    特許関連は毎年百数十億円の営業利益を生み出してきた。経営状態が悪く ても研究開発費は削らないという技術重視の戦略のおかげで、1999年3月期に311億円だった開発費は2003年3月期には454億円まで増えている。その特許も徐々に権利切れを迎える。特許関連の営業利益は2002年3月記の168億円から2003年3月記には107億円まで減少

    2003/7/14日経ビジネス「パイオニア"新三種の神器"で飛躍」


    [その後]業績不振〜上場廃止へ

  • 1993年 管理職35名に退職勧告
  • 1996年 世界初DVDカーナビシステム
  • 1997年 世界初の民生用50型プラズマTV
  • 2004年 NECよりプラズマ事業を買収
  • 2008年 プラズマパネル生産から撤退
  • 2009年 特別損失466億円
  • 2009年 ホンダと資本提携(第三者割)
  • 2010年 特別損失357億円
  • 2015年 オーディオ事業をオンキョーへ譲渡
  • 2019年 投資ファンド傘下で経営再建へ
  • プラズマTVの頓挫

    1990年代を通じてパイオニアはLDに次ぐ新製品として、カーナビシステムとプラズマディスプレイへの投資を決断した。カーナビ分野では、1996年に世界初のDVDカーナビゲーションシステムを発売し、先発企業となった。また、プラズマ分野では、1997年にパイオニアは世界初の民生用50型ハイビジョンプラズマテレビを発売し、大型パネルの業界発展をリードする。

    しかし、2000年代にプラズマテレビは液晶テレビの台頭による市場の消滅に直面。パイオニアと松下電器のプラズマ陣営は総崩れとなり、両者ともに巨額損失を計上。2009年にパイオニアはプラズマテレビの製造から撤退した。プラズマ撤退に合わせ、2009年3期にパイオニアは466億円、翌2010年3期に357億円の特別損失を計上した。

    上場廃止〜ファンド傘下で経営再建

    パイオニアの主力であるカーナビ事業においても2000年代に富士通テンなどの競合が参入して競争が激化。さらに、完成車にカーナビが標準搭載される時代が到来すると、カーナビメーカーはトヨタなどの大手完成車メーカーに向けのOEMの比率が増大。パイオニアは2016年の時点で国内シェア2位(27.7%)を確保したが、2017年3期のパイオニアのカーエレクトロニクス事業のOEM比率は57%と高く、同期のトヨタ向け販売高は618億円[パイオニア有価証券報告書]に及び、収益を圧迫する要因となった。

    カーナビ国内出荷台数シェア[2016年]

    1位パナソニック30.3%

    2位パイオニア27.7%

    3位JVCケンウッド13.9%

    4位富士通テン13.8%

    5位アルパイン7.1%

    出所:日本経済新聞調査(2017/10/6AUTO CAR Japan)

    1990年代以降、パイオニアは通信カラオケによるLD市場の消滅、液晶パネルによるプラズマパネス市場の消滅、タブレット端末によるカーナビ市場の消滅という相次ぐ市場消滅に見舞われた。ほぼ全ての事業が行き詰まり、2019年にパイオニアは投資ファンド傘下での経営再建を決断し、上場を廃止した。


    参考文献

    新聞・雑誌記事

    1961/9/1経済展望「音と電気を結ぶ事業は発展一途」

    1962/2/12ダイヤモンド「市場第二部銘柄の検討パイオニア」

    1964/6証券アナリストジャーナル「パイオニアの現況と見通し・松本望」

    1967/3/6ダイヤモンド「異数の発展を続けるパイオニア」

    1972/6/26日経ビジネス「パイオニア・高度成長支える"混血"経営」

    1975/10/27日経ビジネス「石塚庸三社長が語るパイオニア成長の秘訣」

    1979/10/22日経ビジネス「"混血"と"合理"で築いた無借金経営」

    1980/1プレジデント「石塚庸三・やりすぎる男の「寄らば大樹」論」

    1980証券業報「80年代の企業経営/石塚庸三」

    1981/5証券アナリストジャーナル

    1984/5/14日経ビジネス「レーザーディスクを3年半で商品化・柳重義」

    1986/12/8日経ビジネス「パイオニア「攻め」から「守り」へオーディオ回帰」

    1990/6/11日経ビジネス「パイオニア「音楽を見る」ファン開拓。LD事業が軌道に」

    1991/8/5日経ビジネス「カラオケで開花したLD」

    2003/7/14日経ビジネス「パイオニア"新三種の神器"で飛躍」

    2017/10/6AUTO CAR Japan

    書籍・その他

    有価証券報告書

    パイオニア決算説明資料

    会社四季報

    松本望「回顧と前進」

    松村純孝「LD(レーザディスクシステム)の開発、実用化に関する系統化調査」


    事例一覧

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