パイオニア - 石塚庸三

#業態転換 #2019/7/1(初稿) #8/28(改稿)

石塚庸三(いしづか・ようぞう):光ディスクの開発競争でパイオニアを勝利に導いたパイオニア社長。元東芝出身のプロ経営者で、ミツミ→パイオニアと渡り歩いた。このため、外部人材の中途採用に積極的で、NHKや競合他社から技術者をスカウトして映像ディスクの開発陣営を強化した。

イラスト:筆者作成

オーデオ→ビジュアルへの業態転換

  • 前史:オーディオ機器メーカー

  • 背景:ビデオ時代の到来

  • 決断:LD開発に集中投資(1977年)

  • 結果:カラオケ市場を掌握(1990年)

  • 考察:変化への対応は非常に難しい

  • パイオニア - 基本情報

    売上高 - 過去推移

    単位:億円

    出所:有価証券報告書、会社四季報、各種報道資料


    売上高構成比 - 過去推移(推定含む)

    単位:%

    2005年以降は映像もオーディオに含む

    出所:有価証券報告書、会社四季報


    売上高利益率 - 過去推移

    単位:%

    出所:有価証券報告書、会社四季報


    決断前史:オーディオ機器メーカー

  • 1937年 松本望がダイナミックスピーカーの開発に成功
  • 1938年 松本望むが福音商会電機製作所を東京に設立
  • 1953年 パーマネント型スピーカー発売
  • 1961年 社名をパイオニアに変更
  • 1961年 東証第二部に上場
  • 1962年 世界初のセパーレトステレオ発売
  • 1966年 欧米に販売子会社
  • 1968年 東証第一部に上場
  • 1972年 取引先への支払いを現金に一本化
  • 1975年 車載用オーディオの発売
  • 高級スピーカーで業容を拡大

    パイオニアの創業はラジオ放送が日本に普及しつつあった昭和初期にさかのぼる。外国製スピーカーの高音質の魅力にとりつかれた松本望(パイオニア・創業者)は、1938年に「福音商会電機製作所」を東京で創業した。

    松本望(パイオニア創業者、1978年)

    針をレコード盤におろした途端、私は今まで聴いたこともない、すばらしい音に圧倒されてしまったのです。あの時の感動を、どう表現したらいいのか、とにかく私はびっくりしてしまいました。今まで聴いていたマグネチック・スピーカーがまるで子供のおもちゃみたいに感じられたことを覚えています。

    これだ。この音だ。ダイナミック・スピーカーでなければ駄目だ。私は、ほんとうにそう思いました。ただ、ただ感動です。ようし、いつかは、きっと、こんなすばらしいダイナミック・スピーカーを作ってやろう。スピーカーは、これに限る。流れてくる音楽を聴きながら、私はそう決心したのです。

    1978松本望「回顧と前進」

    松本望はラジオやレコード向けの高級スピーカー「ダイナミックスピーカー」の開発に邁進し、東芝や日本ビクターなど、関東に拠点工場を構える大手完成品メーカーにスピーカーを部品として納入した。

    福音電機商会にとっての幸運は、1945年の終戦により大メーカーが完成品ラジオの生産を停止したことに始まった。松本望は価格交渉力の強いメーカー相手ではなく、交渉力の弱い個人がラジオを組み立てる際に必要な高級のHiFiスピーカーの市販を開始。アルミ合金の「ジュラルミン」という新素材を用いた高品質のスピーカーは評判を呼び、大手メーカーからの値下げ圧力と無縁なことから、福音商会は左団扇の商売が続いたという。

    スピーカーの競争激化

    しかし、福音商会の左団扇の商売は長く続かなかった。1953年に日本で民間放送が開始されるとラジオの需要が増大し、完成品ラジオが主流となり大手ラジオメーカーが復活した。このため、大メーカーは福音商会に対してスピーカーの値下げを要求したため、同社の利益率が悪化した。1959年3期には売上高純利益率14.6%という高収益を記録したものの、1963年3期には同2.8%へと急落してしまう。

    当初、松本望はスピーカーの量産によるコストダウンにより値下げ圧力に対抗しようと考えたが、部品メーカー各社も量産工場を新設したため価格は下げ止まらなかった。そこで、1961年に松本望はスピーカーの減産を決断するとともに、米国完成品メーカー(GEやRCAなど)に対する輸出を強化することで、部品事業の延命を図った。

    なお、1961年の福音商会の売上高のうち、55%がセットメーカー(日立、東芝、ソニーなど)向け、35%が一般市販向け、15%が海外向け輸出であった。1962年におけるパイオニアのスピーカーの国内シェアは20〜25%で推移したという。

    松本望(パイオニア創業者)

    スピーカーは特別に決め手になる特長のある製品ではないので、無茶な値段はもちろんつけられませんし、競争は相変わらず熾烈でありますから、スピーカー企業というものはそれほどもうかる企業ではありません。利益率のよくない形で推移してまいりました。

    1981/5証券アナリストジャーナル

    ステレオセットに業態転換

    パイオアニアは、スピーカーの価格競争から脱却するために、1960年代を通じて完成品オーディオ機器への業態転換を試みる。しかし、完成品にはスピーカーに加え、スピーカーを組み込む木製キャビネット、音を読み取るレコードプレーヤー、音を増幅するアンプの3点つの機器への進出が必要であった。

    まず、スピーカーの能力を発揮するための木製キャビネットに進出。1950年代まではキャビネットメーカーが別に存在していたが、パイオニアは子会社「日本オーディオ工業」を設立して内製化を図る。続いて、アンプ製造にも参入し、オーディオセットへの参入に備えた。

    そして、1960年代を通じてパイオニアはセパレート・ステレオという新しい概念を提唱した。セパレート・ステレオでは、左右のスピーカーを自由に配置できたため、オーディオ愛好家の心をつかんだ。

    また、1966年頃からパイオニアは手薄だった販売網を整備した。全国各地に営業拠点を設置し、小売店に対する直売網を強化して、オーディオ愛好家の声を汲み取る体制を整えて製品開発に反映した。セパレート・ステレオの販売拡大に伴い、パイオニアは自社ブランドを最終消費者に浸透させるための広告宣伝も実施した。

    ステレオという完成品参入と販売改革により、1972年までにパイオニアはステレオ分野で国内シェア1位(18%)を獲得。2位の松下電器が14%のシェアであり、オーディオ専業メーカーのパイオニアが家電の老舗を凌駕した。他方、日本ビクターや日本コロムビアなどの老舗オーディオメーカーはステレオでシェアを取れず、1970年初頭に経営が危ぶまれた。

    日経ビジネス(1979)

    いまパイオニアは優良企業、それも折紙付の優良企業の一つに数えられている。右図にみるように、売上高営業利益率10.2%、自己資本比率74.0%という数字は、松下電器産業以下を圧倒している。それどころか、純利益日本一で鳴るトヨタ自動車工業でさえも、前期の数字はそれぞれ5.7%、57.6%で、こと収益力と安定性にかけては遠く及ばない。

    1979/10/22日経ビジネス「"混血"と"合理"で築いた無借金経営」


    時代背景:ビデオ時代の到来

    ビデオ市場の勃興

    オーディオ業界の各社にとって、ビデオへの参入は悲願であった。しかし、1960年代までは映像を安価に記録〜再生する方法がなく、各社ともビデオ分野への本格投資を行うことができなかった。このため、1960年代の家電各社はオーディオ機器ないし、普及途上にあったカラーテレビの研究開発に邁進していた。

    ビジュアル機器においてブレイクスルーとなったのは、1970年代のカセット方式の採用であった。記録手段には磁気テープによるカセットテープを用いて、再生手段では専用機器を用いることで、家庭内で手軽にテレビ番組を録画する「ビデオ」の実現可能性が高まり、「情報産業の明日の本命」としてもてはやされた。

    なお、記録の技術方式には、磁気テープとディスクの2つの技術が存在したが、ほとんどのメーカーは技術的に実現可能性の高い「磁気テープ」方式でビデオの開発に邁進した。1974年にはソニーがベータマックス、1975年には日本ビクターがVHSのビデオ規格を提唱し、熾烈なビデオ戦争を通じて、各家庭にビデオが普及した。

    日経ビジネス(1970年)

    ポスト・カラーの本命商品、ビデオパッケージをめぐる関連業界の動きはあわただしい。日本のVTR(ビデオ・テープレコーダー)メーカー各社は、日本ビクター、ソニー、松下電器産業を中心に、昨年相次いで発表したカセット式カラーVTRの規格統一を国際的に取り決めようと、オランダのフィリップス社など海外有力メーカーに呼びかけるとともに、できれば、ことしから来年にかけて、発売に踏み切ろうとしている。

    1970/7日経ビジネス「情報産業の明日の本命・ビデオパッケージの泣き所」


    決断:LD開発に集中投資(1977年)

  • 1971年 石塚庸三が社長就任
  • 1972年 NHKの技術者をスカウト
  • 1977年 光ディスク(LD方式)に集中投資
  • 1979年 LDの試作品「LD-1000」を完成
  • 1981年 LDの量産を開始
  • 1982年 石塚庸三が急逝.松本誠也が社長就任
  • 1983年 日本ビクターがVHDを発売(87年撤退)
  • 同業から技術者を大量にスカウト

    1971年に石塚庸三がパイオニアの社長に就任し、創業者の松本望は社長を退いて会長に就任した。石塚はパイオニアの経営方針として、当時ブームになりつつあった映像関連の技術開発を強化する方針を重視し、技術者のスカウトを熱心に行う。

    1972年にパイオニアはNHKの主任研究員の山本武夫をスカウトし、パイオニアの音響研究所長に配属して本格的な映像ディスクの開発をスタートする。スカウトに当たって、石塚社長は「当社はつぶれそうになったら国が支えてくれる大企業ではない。自らの活力で生きなければならない中小企業だ。それには技術力を向上するしかない。そのために力を貸して欲しい」[1980/1プレジデント]と口説いたという。

    以降、石塚社長はエレクトロニクス関連の技術者の採用を強化。1975年頃のパイオニアの技術者は約500名程度であり、日立・東芝・松下電器の1万人、ソニー・富士通の4000人に見劣りしたが、パイオニアは2000人に増員させる方針を決断した。

    なお、スカウト技術者の供給源は、同業で経営不振に陥った電機メーカーが主な対象になったものと推察される。パイオニアと同じく関東に拠点を置くゼネラル(現富士通ゼネラル)、日本コロムビアなど、家電事業が行き詰まった老舗企業の技術者の一部がパイオニアに転職したものと思われる。

    ちなみに、1972年の時点で、パイオニアの部課長160名のうち、生え抜きは10名で、残りの150名は転職人材であったという。また、スカウト人事の成功率は50%程度で、半数はパイオニアになじめずに去っていったと言われている。

    石塚庸三(パイオニア社長、1980年)

    エレクトロニクス業界は技術革新の業界であって、業績の向上は有能な技術者の数に正比例するといっても過言ではないと思う。(中略)パイオニアでは、つい数年前までは技術者は500人しかいなかった。いくら事業の間口が狭いといっても、500人で1万人と戦えるわけがない。そこで、私は、技術者の数を5年計画で倍増させることにして、現在までに4年を経過して約1,100人になったわけである。しかし、我々の業種では現在でも1,500人から2,000人は必要であると考えているので、まだまだ足りない。

    1980証券業報「80年代の企業経営/石塚庸三」

    山本武夫(NHK→パイオニア、1980年)

    社長は役員たちに、オレは技術のことはわからんが、といってはいけないといっています。それだけに本人も大変な勉強をしている。われわれからだけではなく、どうも独自のルートからも技術の情報を集めているようです。われわれがなにか報告などをすると、そのルートで自分自身ウラを取ったりする。

    1980/1プレジデント「石塚庸三・やりすぎる男の「寄らば大樹」論」

    祖業スピーカーの縮小

    1970年代にパイオニアは祖業のスピーカーの部品製造を縮小する方針を決断。当時、部品としてのスピーカーの売上は全社比15%程度で、国内シェア20%を確保していたが、生産には人手がかかり利益率が低い製品であったため、生産拠点の山形工場を分社化し、主力の製造拠点を台湾に移管した。

    撤退の際、一部の大手メーカーは「長年セットメーカーの恩恵をうけていながら、いまさら供給しないとは何事だ」と反発したが、石塚社長は採算の悪いスピーカーの部品製造からの撤退を実行する。なお、主力の山形工場はカーステレオと自社ブランドスピーカーの生産にシフトした。

    LDへ集中投資

    1970年代の時点で、映像ディスクの規格にはTeD、CED、LD(レーザーディスク)の3方式が存在したが、TEDは画質が悪く録音時間が短い点、CEDはデータ読み取り用のダイヤモンド針がディスクに物理的に接触する方式のために磨耗がありランダムアクセスも困難であった。そこで、1975年にパイオニアは次世代ディスクの本命として、技術的に最も難しいと考えられていたレーザー光を用いるLD方式を選択する。

    石塚社長はLD事業について、成功する確率を40%と見積もっていたが、「うちの企業規模からいって、6分の可能性がみえてから走り出したのではもう遅い。大手メーカーが作るだろう。4分のリスクのある段階だからやるんだ」[1984/5/14日経ビジネス]と考え、投資を決断した。

    (LDの仕組み)LDはレーザービームをディスクに照射する非接触という点に特色があった。ディスクは反射膜、保護膜、接着層、PMMA樹脂で形成され、レーザーはPMMAの上面に形成された凹部位を記録信号として読み取り、映像を再生した。各層は蒸着によって形成されるため、半導体の製造に似ている面がある。

    当時、LDを選択したオーディオメーカーは日本ではパイオニア、米国ではMCA、欧州ではフィリップスであり、日本ビクターや松下電器などの13社の大手電機メーカーは接触型のVHD(CDE方式)を採用して対抗した。このため、次世代ビデオディスク開発において、国内勢はパイオニアの1社だけが孤立する形となった。

    13社のVHD陣営の内訳は、日本ビクター、松下電器、東芝、三菱電機、三洋電機、シャープ、新日本電気、ゼネラル、赤井電機、山水電気、トリオ、ヤマハ、オーディオテクニカという錚々たる面子であった。このため、13社とパイオニアの戦いは、業界内で「13社対1社の競争」と呼ばれて話題になり、圧倒的に不利な状況からスタートした。

    石塚庸三(パイオニア社長、1980年)

    テープ方式とディスク方式の双方を手がけることはパイオニアの力ではできないことであったので、そのどちらを選択するかということを技術者を交えて検討した結果、音響メーカーとしてのパイオニアは、音声に重点をおいたディスク方式を選ぶのが本当ではないかという結論を得た。更に、ディスク方式の中の3種についてそれぞれの利害特性を検討した結果、光学方式のビデオ・ディスクが最優秀の商品であると判断して、それ以来7〜8年間これを開発してきたのである。(中略)

    ビデオディスクには三つの方式があるが、当社以外の方式は、在来のレコードと同じように、針で映像と音声をピックアップするわけである。これに対し、当社の機器は、レンズと鏡を通じてレーザー光線をレコードに照射して、その反射光で読み取る方式で、新しい技術である。針でさわる技術は、エジソンが100年前に発明した技術であるが、どうしてもレコードの磨耗ということがあるので寿命がある。当社の方式は針で触っていないので、レコードが半永久的である。

    1980証券業報「80年代の企業経営/石塚庸三」

    IBM,MCAと合弁設立

    パイオニアはLDの開発を強化するために、1977年にMCA、IBM、パイオニアの3社により合弁会社「UPC(ユニバーサル・パイオニア)」を設立し、"絵の出るディスク"と言われた夢の製品の実用化に乗り出した。UCPの責任者として、パイオニアの技術者・柳重義が出向した。

    ところが、MCAによる試作品は1mの幅をもつ巨大な円盤であり、ディスクの回転に強い動力を要したため、実用的な製品ではなかった。このため、UPCでは柳重義が中心となり、ディスクの小型化を試行。1978年春までにディスクの直径を1/3縮小することに成功し、1979年3月にパイオニアはレーザーディスクの実用的な試作品「LD-1000」を完成させた。

    ところが、量産の立ち上げでLD陣営は苦戦した。ディスクの製造はDVA社が請け負う予定であったが、製造における歩留まりが50%以下で採算に乗らないとして製造から撤退。このため、ディスクの量産を急遽UPCが担うことになった。柳重義はパイオニアの甲府工場で歩留まり向上に奔走し、1981年2月までに歩留まりを改善した。

    LDの量産:LDディスクの生産は、(1)プリマスタリング、(2)マスタリング、(3)レプリケーションの三段階を経て行われる。まず、(1)でLDに保存する映像と音声をVTRに記録し、(2)でVTRからフォトレジストの原盤に信号をカッティングしたうえでスタンパーを製作し、最後に(3)においてスタンパーを用いてアクリル樹脂を成形する、という工程で製造される。

    1981年10月にパイオニアは実用的なレーザーディスクを世界で初めて発売。競合の日本ビクターなど13社連合が映像ディスク(VHD)を発売したのは1983年4月であり、映像ディスクではパイオニアが先行した。この結果、1987年に日本ビクターはVHDから撤退し、映像ディスクの開発競争ではパイオニアが独走態勢を築いた。ソニーなどの一部のメーカーはVHDから、パイオニアのLD陣営に鞍替えした。

    ところが、1982年4月に石塚社長が67歳にて急逝。後任に創業家の松本誠也が社長に復帰して対応した。

    松村純孝(パイオニア元執行役員)

    VHDのフォーマット発表時(1978年)には、特性、予想コスト、機能はLDより優れていた点が含まれていたが、特にディスク量産化技術の開発に手間取り製品の市場導入が1983年までずれ込んでしまい、導入時のプレーヤーやディスクの価格もLDに対し特に優位性があるものではなかった。

    松村純孝「LD(レーザディスクシステム)の開発、実用化に関する系統化調査」

    第一興商と取引開始

    1980年代の時点で映像メディアの主流は日本ビクターのVHS方式であり、LDは主流になり得なかった。VHSは家庭のビデオレコーダーとして番組録画可能であったのに対し、LDは高額かつ家庭でのテレビの録画が不可能であったことが足かせとなり、1990年時点のLDの世帯普及率は5%にとどまった。

    しかし、1980年代を通じてLDはカラオケスナック向けという業務用市場を見出した。従来のカラオケボックスでの音楽・映像再生では8mmテープが活用されたが、巻き戻しなどの選曲に手間がかかったため、LDは選曲時に便利な機器として注目を浴びた。さらに、ヒット曲でも「磨耗しない」という利点が評価され、カラオケ市場ではLDが決定版となる。

    なお、カラオケ用LDの販売に際して、パイオニアはカラオケスナックに対sるう強力な営業部隊を擁する「第一興商(証券コード7458)」との取式を開始した。


    結果:カラオケ市場を掌握(1991年)

    カラオケ市場を掌握

    1980年代を通じてパイオニアはLDをカラオケ向けの業務用ソフトとして売り込み、業容を拡大した。他方、競合の日本ビクターもVHDにてカラオケ市場の参入を試みるが、VHDは選曲時のランダムアクセスに難があり、LDがカラオケ市場を独占した。LD事業の利益額の詳細は不明だが、パイオニアにおける「ドル箱」[1998/8/31日経ビジネス]であったという。

    LDソフト出荷金額の推移

    単位:億円

    出所:松村純孝「LD(レーザーディスクシステム)の開発、実用化に関する系統化調査」

    松本誠也(パイオニア社長、1991年)

    現在のようなカラオケーブームは15年ほど前にもありましたが、ほんの数年で下火になってしまいました。当時は音しか出ない8トラックのテープを繰り返し使っていたのです。選曲がめんどくさい上に、テープですからどうしても劣化して音が悪くなってしまう。そこで、音と一緒に映像と歌詞が画面に映るレーザーディスクのカラオケを発売したら、これが当たりました。(中略)開花するまで10年の歳月を費やしましたが・・・。

    1991/8/5日経ビジネス「カラオケで開花したLD」

    DVD特許収入を確保

    また、1990年代後半にDVDの規格が東芝などの大手メーカー提唱された際、LDの技術が活用されることになり、パイオニアはDVDメーカーからライセンス収入を獲得。2000年代に特許が失効するまで、パイオニアの知的財産が業績を下支えした。1998年の時点で、パイオニアの経常利益188億円のうち、特許収入が128億円、本業における利益は60億円であり、2002年頃までのパイオニアの実態は光関連の知財の会社であった。

    日経ビジネス(2003年)

    特許関連は毎年百数十億円の営業利益を生み出してきた。経営状態が悪く ても研究開発費は削らないという技術重視の戦略のおかげで、1999年3月期に311億円だった開発費は2003年3月期には454億円まで増えている。その特許も徐々に権利切れを迎える。特許関連の営業利益は2002年3月期の168億円から2003年3月期には107億円まで減少

    2003/7/14日経ビジネス「パイオニア"新三種の神器"で飛躍」

    業績不振〜上場廃止へ

    1990年代を通じてパイオニアはLDに次ぐ新製品として、カーナビシステムとプラズマディスプレイへの投資を決断した。カーナビ分野では、1996年に世界初のDVDカーナビゲーションシステムを発売し、先発企業となった。また、プラズマ分野では、1997年にパイオニアは世界初の民生用50型ハイビジョンプラズマテレビを発売し、大型パネルの業界発展をリードする。

    しかし、2000年代にプラズマテレビは液晶テレビの台頭による市場の消滅に直面。パイオニアと松下電器のプラズマ陣営は総崩れとなり、両者ともに巨額損失を計上。2009年にパイオニアはプラズマテレビの製造から撤退し、2009年3期に466億円の特別損失、翌2010年3期に357億円の特別損失を計上した。

    パイオニアの主力であるカーナビ事業においても2000年代に富士通テンなどの競合が参入して競争が激化。さらに、完成車にカーナビが標準搭載される時代が到来すると、カーナビメーカーはトヨタなどの大手完成車メーカーに向けのOEMの比率が増大した。

    パイオニアは2016年の時点でカーナビの国内シェア2位(27.7%)を確保したが、2017年3期のパイオニアのカーエレクトロニクス事業のOEM比率は57%と高く、同期のトヨタ向け販売高は618億円[パイオニア有価証券報告書]に及び、収益を圧迫する要因となった。

    1990年代以降、パイオニアは通信カラオケによるLD市場の消滅、液晶パネルによるプラズマパネス市場の消滅、タブレット端末によるカーナビ市場の消滅という相次ぐ市場消滅に見舞われた。ほぼ全ての事業が行き詰まり、2019年にパイオニアは投資ファンド傘下での経営再建を決断し、上場を廃止した。


    考察:変化への対応は非常に難しい

    パイオニアとえば、社名の通り、世界初の製品を次々に生み出した名門企業であり、1990年代までは飛ぶ鳥を落とす勢いであった。オーディオ専業の山水電気、赤井電機といった各社が1980年代に沈滞する中、パイオニアは対照的にLD事業を成功させ、オーディオからビジュアルへの業態転換に成功した。1990年代にはカーナビやプラズマといった未知なる領域に挑戦するなど、業態転換のDNAが組み込まれた稀有な会社であったと言える。

    しかし、現実は残酷であった。デジタル化が進行し、様々なオーディオ機器がスマートフォンなどの高性能端末に集約される時代が到来すると、オーディオおよびビジュアルの市場そのものが急激に縮小した。市場縮小に焦った家電各社は、車載向けの製品開発を急ぐが、これも同質競争に陥り、最終的には事業の縮小を余儀なくされた。VHSで天下をとった日本ビクターでさえも経営統合により消滅している。

    様々な評論家はパイオニアの経営を「変化に適応できなかった」とネガティブに総括するであろうが、筆者は「パイオニアは業界内で最も変化に対応しようとした」企業であり、デジタル全盛期の2019年まで上場を維持した点をポジティブに評価したい。現在の業績はボロボロだが、過去の経営判断におけるリスクを厭わないチャレンジ精神には、学ぶべき点が多い。

    世間の人は「企業や経営者は変化に対応すべきだ!」と簡単に口にするが、社史研究家としては「それでも変化への対応は非常に難しい」という身も蓋もない結論を強調しておきたい。重要なのは「結果として変化に対応すること」ではなく、「変化に対応できるかわからないが、先駆者として常にチャレンジし続ける」ことではないだろうか?



    参考文献

  • 1961/9/1経済展望「音と電気を結ぶ事業は発展一途」
  • 1962/2/12ダイヤモンド「市場第二部銘柄の検討パイオニア」
  • 1964/6証券アナリストジャーナル「パイオニアの現況と見通し・松本望」
  • 1967/3/6ダイヤモンド「異数の発展を続けるパイオニア」
  • 1972/6/26日経ビジネス「パイオニア・高度成長支える"混血"経営」
  • 1975/10/27日経ビジネス「石塚庸三社長が語るパイオニア成長の秘訣」
  • 1979/10/22日経ビジネス「"混血"と"合理"で築いた無借金経営」
  • 1980/1プレジデント「石塚庸三・やりすぎる男の「寄らば大樹」論」
  • 1980証券業報「80年代の企業経営/石塚庸三」
  • 1981/5証券アナリストジャーナル
  • 1984/5/14日経ビジネス「レーザーディスクを3年半で商品化・柳重義」
  • 1986/12/8日経ビジネス「パイオニア「攻め」から「守り」へオーディオ回帰」
  • 1990/6/11日経ビジネス「パイオニア「音楽を見る」ファン開拓。LD事業が軌道に」
  • 1991/8/5日経ビジネス「カラオケで開花したLD」
  • 2003/7/14日経ビジネス「パイオニア"新三種の神器"で飛躍」
  • 2017/10/6AUTO CAR Japan
  • パイオニア「有価証券報告書」
  • パイオニア「決算説明資料」
  • 会社四季報
  • 松本望「回顧と前進」
  • 松村純孝「LD(レーザーディスクシステム)の開発、実用化に関する系統化調査」