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初稿 2019/6/01


赤井電機 - 赤井三郎

成長期 実力主義1960's 猛烈高収益企業 ボーナス日本一

猛烈高収益企業"赤井電機"を創り上げたオープンリール式のテープデコーダー。 LPレコードに比べて高音質な音楽再生が可能だったため、米国などの先進国の富裕層が購入した。

イラストは筆者作成

実力主義を1960年代に導入し、ボーナス日本一の会社へ

  • 天才技術者の雇用
  • 1950年代に赤井社長は天才&奇人技術者・大津光一の才能見出し、家業の赤井電機の主力事業を高度な技術を要するオープンリール式のテープレコーダーに転換することを目論む。酒浸りであった大津を、破格の待遇(毎日2〜3時間労働+報酬総額は社長以上)で社員として迎え入れたところ、大津は赤井社長の期待に応えてコストパフォーマンスの良いオープンリール式のテープレコーダーを開発。オーディオ好きにとって音質が良いオープンリール式のテープレコーダーは垂涎の的となる。

  • 給料日本一の会社
  • 1950年代に赤井社長はテープレコーダーの北米(OEM)・欧州(AKAIブランド)への輸出を実施し、1960年代を通じて世界100カ国に代理店による販売網を構築。さらに、故障しやすいアナログ式のテープレコーダーのアフターサービスを充実させるために、企業内学校「アカイ・サーヒス・スクール」を設置し、若手社員を世界各地に派遣することで他社の追随を許さないサービス網を構築した。この結果、赤井電機は1960年代末に売上高営業利益率が約20%、海外輸出比率80%以上という高収益グローバル企業へと変貌した。

    また、組織面では、赤井社長は優先すべきは従業員の利益であると考え、1960年代に実力主義を導入し、利益の一定額をボーナスとして還元する方針を決めた。この結果、1960年代末に赤井電機はボーナス日本一の会社として注目を集め、週刊誌などが赤井電機の社員の待遇に注目するなど脚光を浴びた。

  • 民事再生法を申請
  • 1973年に赤井社長が急逝。1970年代を通じて赤井電機は、技術開発面でビデオの開発競争に敗北し、生産面で国内生産にこだわったため円高ドル安の進行により国際競争力を失った。また、主力であったオープンリールはCDというデジタルオーディオ機器の登場により市場が急縮小し、赤井電機が育てたサービス要員も不要な存在となる。

    赤井電機の経営は行き詰まり、1982年に希望退職者を200名募集し、有能な人材からソニーや富士フイルム、キヤノンなどに流出した。人材を失った赤井電機は業績不振から抜け出すことができなかったが、メインバンクである三菱銀行の支援のもとで一時的な延命に成功する。だがメインバンクも金融ビックバンによる業界再編の波にのまれ、頼みの綱を失った赤井電機は2000年に民事再生法を申請して倒産した。

    目次

  • 赤井電機 - 基本情報
  • 売上高 - 過去推移

    売上構成比 - 過去推移

    海外比率 - 過去推移

    営業利益率 - 過去推移

    従業員数 - 過去推移


  • アナログオーディオ時代
  • 1910年代 電気の時代=レコードの登場

    1920年代 ラジオの登場

    1950年代 磁気テープの登場


  • 赤井三郎の半生
  • 1940年代 三菱銀行羽田支店長が創業資金を融資

    1950年代 音響用小型モーターで業容拡大


  • テープレコーダーに後発参入
  • 1950年代 1. 奇人天才技術者をスカウト

    1950年代 2. コスパの良い高級機を開発

    1960年代 3. 北米へOEM輸出

    1960年代 4. Akaiブランドでグローバル展開

    1960年代 5. 企業内学校の設置(組織強化)

    1960年代 6. 利益を社員に還元


  • 猛烈高収益会社・赤井電機
  • 1960年代 世界110カ国に展開

    1960年代 ボーナス日本一の会社

    1970年代 創業者・赤井三郎の急逝


  • その後...民事再生法を申請
  • 1970年代 技術開発競争で敗北

    1980年代 生産競争で国際競争力を喪失

    1980年代 人材獲得競争で敗北

    2000年代 民事再生法を申請


    赤井電機 - 基本情報

    売上高 - 過去推移

    単位:億円

    出所:有価証券報告書、会社四季報


    売上構成比 - 過去推移

    単位:%

    出所:有価証券報告書、会社四季報。2000年はデータの関係上省略


    海外売上比率 - 過去推移

    単位:%

    出所:有価証券報告書、会社四季報


    売上高利益率 - 過去推移

    単位:%

    出所:有価証券報告書


    従業員数 - 過去推移

    単位:名

    出所:会社四季報


    アナログオーディオ時代

  • 19世紀 世界各地で電気が普及
  • 1877年 エジソン(米)が蓄音機を発明
  • 1900年 レジナルド(米)がラジオ放送に成功
  • 1910年 日本蓄音機商会の創業
  • 1914年 日本でカチューシャの唄がヒット
  • 1925年 NHKがラジオ放送を開始
  • 1925年 日本各地にラジオメーカー・販売店が出現
  • 1929年 東芝が真空管の量産を開始
  • 1931年 松下電器がラジオ製造に参入
  • 1937年 パイオニアが高音質スピーカーを開発
  • 1950年 ソニーが磁気テープ特許を取得
  • 1951年 日本コロムビアがLPレコードを発売
  • 1952年 音楽之友社が「レコード芸術」を創刊
  • 1960年 日本ビクターが株式上場
  • 1961年 パイオニアが株式上場
  • 電気の時代=レコードの登場

    人類にとって、音という捉えどころのない空気振動を記録し、音を綺麗に再生することは長年の宿願であった。だが、音の再生には電気モーターによる円盤(レコード)の回転運動が必要であり、電気が普及する前の人類は「音符」や「文字」として音を記録していた。このため、ショパン、ベートーベン、ワグナーといった19世紀の作曲家は、自作を楽譜という紙に記録することで、出版物として音楽を流通させた。

    19世紀に電気技術が確立されると、1877年にエジソンは音声を記録するためのフォノグラフを発明。人類は歴史上初めて、音を記録することが可能となったが、技術上に問題があり人間の音声が辛うじて聞き取れる音質に過ぎなかった。このため、音質の向上を目指して数多くのオーディオ好きが起業し、アナログオーディオの時代が幕を開けた。

    日本では1910年に日本蓄音機商会(日本コロムビア)が米国人によって設立され、蓄音機やレコードの製造販売をスタートさせる。

    1914年に日本コロムビアは「カチューシャの唄」のレコードを発売したところヒットし、日本にレコード文化を根付かせることに成功した。しかし、レコードの製造や歌手の発掘は同業他社にとっても容易であったため、1920年代に日本蓄音機商会(日本コロムビア)の他に、合同蓄音機会社、日東蓄音機、内外蓄音機の各社が、有望な歌手の発掘で熾烈な競争を繰り広げた。

    東京朝日新聞(1925)

    一種のレコードで五千枚や一万枚売るのはそう難事ではない。現在日本では米国人の経営している日本蓄音機商会のワシ、オリエント、地球、ラクダの四印、合同蓄音機会社の富士山、ヒコーキ、象の三印、日東蓄音機のツバメ印、内外蓄音機のカイガラ印その外鶴印、ハト印等の各□あるが、要するに日本では日蓄と日東の二社が競争で、レコードに吹込む芸人の争奪がこの二社の間において激烈である。

    1925/12/14東京朝日新聞「蓄音機」

    注:読み取れなかった箇所は「□」で表記

    ラジオの登場

    1920年代の蓄音機は高級品であり、庶民にとっては高嶺の花であった。このため、戦前の日本人は音という娯楽をレコードではなく、1925年に登場したラジオを通じて音声娯楽で楽しんでおり、ラジオの普及がオーディオ業界の発展の鍵を握った。

    20世紀初頭にアメリカで電気技術者"レジナルド・フェッセンデン"は電波に音声をのせることに成功。この技術が基礎となり、世界各地でラジオ放送の商用化がスタートする。

    日本では1923年に逓信省が放送用私設無線電話規則を制定してラジオ放送の事業化を許可。1925年に東京放送局(NHK)がラジオ放送を開始し、1926年までにラジオ放送はNHKに一本化された。以降、1951年にラジオ放送の規制緩和で民間の参入が許可されるまで、NHKが日本のラジオ放送を独占し、ラジオ機器に必要な各種部品(スピーカー、真空管など)に関わる企業が相次いだ。

    ラジオ放送の開始に合わせて、日本では相次いでラジオ受信機や各種備品の製造を手がけるメーカーや販売店が誕生し、オーディオ市場が急速に勃興した。ラジオ本体の組み立てはシャープや山中無線(倒産済)、高木商会(倒産済)などのベンチャー企業が手がけた。また、ラジオの基幹部品であり、製造に高度な技術を擁する真空管(音の増幅に必須の部品)は東芝や日本電気などの関東系の老舗企業が供給を担った。スピーカーなどの細かい部品については、各地に部品メーカーが次々と誕生した。さらに、修理販売を担う中小商店が相次いで出現する。

    このため、1923年前後には誰もが小資本で参入できる事業としてラジオ(機器製造or機器販売)が脚光を浴び、ラジオベンチャーブームが巻き起こる。

    大阪朝日新聞「この頃流行のラジオ屋」(1925年)

    市中の電気器具屋さんは早速表看板を「ラジオ」と塗り替えるし、蓄音器屋さんも商売の前途が心細くなったのか、その飾窓には蓄音器とラジオとを睨みっこさせている。ラジオの店は雨後の筍同様、殖えるわ殖えるわ、定めて甘い汁の吸い放題にちがいない...(以下略)

    1925/6/28大阪朝日新聞「この頃流行のラジオ屋」


    松本望(パイオニア創業者)

    この頃の販売業者というのは、信用のおける店は、わずかしかありませんでしたね。なにしろ、新しい業界ですから、いろんな企業から転進して来た人の集まりだったのです。しかも、それらの多くは、今までの事業が思わしくなくて、ラジオで一旗あげてやろうという人達が多かったのです。だから銀行では、ラジオ屋には金を貸すな、という命令が出ていたほどです。

    松本望「回顧と前進」

    磁気テープの登場

    1930年代にBASFはアセテート樹脂を用いて実用的な磁気録音テープを開発。磁気テープの登場によって、録音時の音質が向上したため、音声および音楽の録音には磁気テープが用いられることとなった。日本では1950年にソニーが磁気録音テープの特許(交流バイアス式)をアンリツから買収。1950年代以降、日本の放送や録音現場には磁気テープが普及した。

    音楽再生面でも1950年代に大きな技術進歩があった。塩化ビニール樹脂を用いたレコード(LP)が登場し、長時間再生が可能になるとともに、音質が向上。LPの登場による音質の向上という時機を捉え、日本では1952年に音楽之友社が「レコード芸術」という雑誌を創刊している。

    1960年代にはステレオの普及と再生装置の低価格化が進行。スピーカー、アンプ(増幅装置)、LPレコード再生装置の各種オーディオ機器の技術進化が急速に進み、1960年代に日本ビクター、パイオニア、山水電気、トリオの各社は高音質を手軽に楽しめるオーディオ機器を開発。各社ともに、日本のみならず、北米などの海外に輸出することで業容を拡大し、アナログオーディオの全盛時代を謳歌する。

    実業の日本(1959年)

    戦後の音響業界において、三大革命といえばトランジスターを除いては、L・Pレコード、ハイファイレコード、それにここへ登場するテープレコーダーであろう。...(中略)...それまであらゆる録音はいわゆる円盤レコードに吹き込んでいた。それがすべてテープで必要なだけ録音でき、さらに、それを編集して放送することができるのだから、驚くのも当然で、なかでも、放送に関係する人々の喜びは、大変なものだった。おそらく、戦後ラジオ放送の発達が急激だった最大原因の一つに、このテープレコーダーの出現をあげることができる。

    1959/5実業の日本「一町工場から出発 世界的なテレコーダー会社を築いた赤井電機赤井三郎氏」


    赤井三郎の半生

    赤井三郎(あかい・さぶろう)

    イラストは筆者作成(1973/11/12日経ビジネスを参考にした)

  • 1926年 赤井三郎が東京都に生まれる
  • 1945年 父が家業(初代赤井電機)を同業他社に売却
  • 1946年 三菱銀行羽田支店が融資を実施
  • 1946年 赤井三郎が再び赤井電機を創業
  • 1947年 大田区東糀谷(羽田)に本社移転
  • 1948年 レコード用小型モータを開発
  • 1951年 旧中島飛行機の工作機械を大量購入
  • 1951年 LP用小型モーターを量産化
  • 1954年 LP用小型モーターでシェア40%
  • 1955年 松下電器にシェアを奪われ始める
  • 三菱銀行羽田支店長が創業資金を融資

    1926年に赤井三郎(赤井電機・創業者)が東京に生まれる。父はラジオの放送開始に合わせてラジオ部品の製造を担う町工場の経営者であった。父は金属加工の技術は持っていたが、電気関係の技術に疎かったため、息子の三郎に電機関係の技術を学校で学ばせ、1937年から家業を手伝わせた。この頃になると家業では映写機向けのモーターの製造にも従事していた。

    だが、戦時中の1945年頃に父は家業を大会社の沢藤電機(従業員1500名)に売却。その直後に日本が敗戦を迎えたため、父は事業に対するモチベーションを失ってしまった。敗戦後、父は神奈川県の山奥にこもり、隠居生活を開始する。

    一方、息子の赤井三郎は生活の糧を得るために働き続けることを決意。当初は沢藤電機で働いていたものの、同社の社風に疑問を抱いた。沢藤電機には、仕事をしない社員がおり、部長でさえ仕事を知らないことに憤りを感じたという。そこで、赤井三郎は自分で事業をやったほうが良いと考え、赤井電気を復活させることを決意した。

    まず、赤井三郎は起業資金を集めるために、父に相談。だが、父は出資を断った。そこで、赤井三郎は銀行を駆け回り起業資金を融資してくれる人物を探す。ほぼ全ての銀行が赤井三郎の融資相談に良い返事をしなかったのに対し、唯一、三菱銀行羽田支店は融資を決断し、同・山本支店長は赤井三郎に1.5万円を融資した。この縁がきっかけとなり、三菱銀行が赤井電機のメインバンクとなる。

    イラスト:筆者作成

    音響用小型モーターで業容拡大

    1946年に赤井三郎は赤井電機を設立し、数人の町工場としてスタートした。最初の事業は農村向けの一馬力モーターの製造であった。戦後の物資難の中で何とか材料を集め、一馬力モーターを製造し、秋葉原の電気街に販売。モーターの最終需要家は埼玉県の農家であり、終戦直後の農村は荒廃した都心と比べて景気が良かったこともあり、赤井電機は一年間に一馬力モーターを8000台販売した。

    だが、一馬力のモーターは大型であり、資材調達が極めて難しかった。そこで、赤井三郎は資材が少なくて済む小型モーターに目をつける。1948年にはレコードの再生装置(電畜)で、レコードを回転させるための小型モーター(フォノモーター)の製造に着手した。

    折しも、レコード業界ではLPレコードという新しい規格が誕生しており、赤井電機はいち早くLPに対応した小型モーターを開発。生産面では1951年に中島飛行機(戦時中の大企業)から生産設備を購入し、小型モーターの量産効率の向上を図った。日本のみならず米国など海外へもフォノモーターを輸出することで業容を拡大し、1954年頃には国内シェア90%を握るニッチトップ企業となった。

    しかし、レコード関係製品は嗜好品であったために、日本政府によって物品税が40%かけられており、ボロ儲けが期待できる製品ではなかった。また、1950年代に財閥解体を免れた松下電器が復活し、フォノモーターに参入。大企業の参入が決定打となり、赤井三郎は主力事業を変更することを考える。


    テープレコーダーに後発参入

  • 1950年? 技術者・大津光一をスカウト
  • 1954年 テープレコーダー試作機を開発
  • 1956年 テープレコーダーを発売
  • 1956年 米ロバーツ社とOEM契約
  • 1960年 ドラッカーの著作がブーム
  • 1962年 世界110カ国に代理店網を構築
  • 1964年 利益の従業員還元を決定
  • 1. 奇人天才技術者をスカウト

    終戦後間もなく、赤井三郎は秋葉原の電気街で、外国製のテープレコーダーに出会う。音楽を再生・録音できる新しい装置であり、赤井三郎は何とか事業化できないかと考えた。だが、自らの電気技術では開発できないと諦めて、テープレコーダーの技術者を探し始めた。そして、赤井三郎は大津光一という技術者に出会う。

    大津光一は浜松高専を卒業した電気分野に強いエンジニアであったが、私生活に難がある人物であった。赤井三郎が大津光一の自宅を訪れた際、大津はシェパードと一緒に寝ており、息は酒とニンニク臭く、家には焼酎の瓶が転がっていたという。それでも、大津は酔っ払いながら赤井三郎の目の前でテープレコーダーを手早く修理する芸当を見せた。

    赤井三郎は悩んだ末に、テープレコーダーに参入するために、奇人技術者・大津光一を採用することを決断する。対して大津は1日のうちシラフの状態になる2〜3時間だけ仕事し、しかも社長以上の報酬金額を要求。それでも赤井三郎は大津の要求を受け入れ、赤井電機はテープレコーダーに参入した。

    赤井三郎(1972年)

    私は大津光一という人物を捜しあてた。私が赤井テープレコーダーに進出すべき機会を掴み、決断したのは、この時だった。大変なのは、この大津という男で、会った当座は、飲んだくれで、一日二〜三時間しか正気のときがないという状態だった。しかし、せっかく捜しあてた技術者だ。技術屋は技術屋を知るとでもいうべきか、とにかく私はこの人物に賭けてみることにした。というわけで、この人物を会社によぶことにしたのだが、条件としては酒の切れた正気の2〜3時間でも働いてくれというものだった。

    1972/2オール大衆「業界の衝撃となる新開発経営法・赤井三郎」

    2. コスパの良い高級機を開発

    1954年に赤井電機はテープレコーダーの試作機「AT-1」を開発。さらに、1956年に「AT900」を発売してテープレコーダー市場に後発参入した。

    当時、米国のアンペックス社の同種の製品が約7〜8万円だったのに対し、赤井電機は2万8900円という価格を実現し、業界に衝撃をもたらす。また、国内の競合であるソニーはトランジスタラジオの製造販売に全力を注いでいたため、赤井電機はソニーの隙をつく形となった。

    3. 北米へOEM輸出

    テープレコーダー問題は国内市場が小さいことであった。価格が安くなったとはいえ、日本人にとってテープレコーダーは高嶺の花であったため、赤井三郎は海外輸出を販売の中心に据える。1956年に赤井三郎は渡米し、小型モーターで取引があった米国のキャリドン・ロバーツ社を訪問。赤井三郎はロバーツ社に対してテープレコーダーのOEM輸出を行うこととで合意した。

    ロバーツ社は赤井電機のレコーダーをコストパフォーマンスの良い"高級品"として販売したところ、音楽好き(ハリウッドスターなど)に支持された。だが、1962年にロバーツ社はテープレコーダーの値下げを赤井電機に要求。赤井三郎は赤井製品を高級機として売り出したかったため、販売をロバーツ社に依存するのではなく、Akaiブランドとして自らの手で売り出すことを画策する。

    4. Akaiブランドでグローバル展開

    1962年頃から赤井電機は米軍PX(購買部)向けの販路を通じて"Akai"ブランドのテープレコーダーの販売を開始した。PX向けでは税金がかからず、米国内での購入よりも安い価格を提示できたことから、軍隊からの帰休兵に好評を博す。これにより、Akaiブランドの良さが米兵の口コミで広まった。

    続いて、1960年代を通じて赤井電機は世界100カ国以上に代理店網を整備した。赤井電機の貿易部の社員はAkai製品を取り扱う代理店を探すために全世界を奔走。ある貿易部の社員は、1ヶ月間に15カ国訪問し、代理店を探して契約をするというハードな仕事をしていたという。

    5. 企業内学校の設置(組織強化)

    赤井電機は順調に業績を拡大するが、1962年にテープレコーダーの技術責任者であった大津光一がガンで逝去。テープレコーダー事業は大津の技術開発力に依存していたため、赤井三郎は将来を悲観して赤井電機の売却を真剣に検討したが、赤井三郎は会社に大津が育てた技術者がいることに気づき、事業の継続を決意。1人の天才と16名の個性を持った技術者は同じであると考えたという。

    赤井三郎(1970年)

    私はその時に本当に、事業をやめて会社を売ろうと思った。大津くんとの人間的結びつきも離れがたいものになっていたが、それよりも、あれだけ優秀な技術者を失って、赤井電機をやってゆける自信がなかったんです...(中略)...この時、意外なことを発見したんです。大津君の生きている時はわからなかったが、彼が育てた優秀な技術者が、たくさんいることがわかったのです

    大津君の死で、うちの技術陣はふるいたったのです。大津君の死は悲しいことだったが、彼の死は赤井電機にとって大きなプラスになった

    1970/3サンデー毎日「私の人生決断の瞬間・赤井三郎氏」

    また、赤井電機はサービスエンジニアの養成にも力を入れる。

    テープレコーダーは複雑なアナログ機構で動作する製品であったために、赤井電機は修理対応を充実させる必要があり、1969年にサービスエンジニアを養成するために企業内学校「アカイ・サービス・スクール」を設置。21歳以下の若い日本人の社員に語学および技術教育を施し、全世界に送り込むことで修理体制を充実させた。同スクールは授業料が不要で、高卒並みの月給の支給、卒業後は1年間の海外留学が認められており、非常に良い待遇が受けられる企業内学校として話題になった。

    なお、授業内容は、英会話、電子工学の基礎、赤井電機の製品に関する実習などで、講師には外人専任講師、国立大学の教授・助教授が担当したという。ただし、勉強内容は高密度であったため、学習者は徹夜で勉強に勤しむこともあったという。

    日経ビジネス(1970)

    ただいま国際ビジネスマン製造中。3〜4年かかって一人前になる担当者を、わずか1年間で育てあげるというモーレツな企業内学校を開いた企業がある。学校を名乗っているが、教育機関というより、まるで人間を製造する工場。きびしくシゴいて育てた人材が、海外進出の戦力の中心になるのである。...(中略)...

    赤井の場合、特に製品が高級品ばかりなので、売りっぱなしでなく、売ったあともサービスを徹底して、高級品メーカーとしての企業イメージを守ろうとしている。赤井電機が海外でアフターサービスできるセールス・エンジニアの養成に力を入れてきたのはこのためだ。

    1970/09/21日経ビジネス「「教育」より「製造」の猛烈哲学」

    6. 利益を社員に還元

    1964年に赤井三郎は優秀な従業員に高給で報いる方針を決断。具体的には赤井電機が稼いだ利益のうち、4億円を上回る金額については、従業員へボーナスとして支給すると宣言した。終身雇用が定着しつつあった日本において、赤井電機の報酬体系は異色のものであった。

    同時期に、赤井三郎は企業の存続ではなく、企業を通じて従業員が家族を養うことの重要性を主張。当時のほとんどの日本企業が福利厚生施設を充実させる一方で給料を抑制したのに対し、赤井電機は福利厚生を充実させない代わりに従業員に給料で報いる方針を貫いた。

    赤井三郎(1964)

    若い人の話もよく聴くのだが、ドラッカーでさえ利潤の追求だといっているようだが、やはり経営の目的というものは、公共性とかばく然としたものではなくて、究極は、労働者の利益にならなければ何の意味もない。会社があるから従業員があるんじゃないかというような考えかたもあるが、従業員の生活にいろいろ利益をもたらせない会社なら、そういう会社がいくらできても何もならない。自分たちの生活がよくなり、向上するために、そういう企業団体を作って仕事をするんだ。それを会社というのではないか。・・・という考え方が非常に強くなってきた。

    1964/12先見経済「赤井三郎氏の語る私の感ずること」


    猛烈高収益企業・赤井電機

  • 1966年 ボーナス日本一の会社
  • 1969年 東証第二部上場
  • 1970年 東証第一部上場
  • 1973年 赤井三郎の急逝
  • 世界100カ国以上にグローバル展開

    1960年代後半の世界の大都市の電機店には「Akai」のテープレコーダーが高級機としてショーウィンドウに飾られていたという。特に欧州で成功を収め、Akaiの知名度はSONYと並んでいた。1968年時点で赤井電機の輸出比率は95%であり、世界100カ国以上に代理店を擁するグローバル企業となった。

    猛烈高収益企業"赤井電機"を創り上げたオープンリール式のテープデコーダー。 LPレコードに比べて高音質な音楽再生が可能だったため、世界各地のオーディオ好きが購入した。

    イラストは筆者作成

    1968年に赤井電機は株式を上場。1968年時点の赤井電機の売上高営業利益率は約20%と極めて高い水準で、同業の松下電器やソニーを圧倒した。このため、経済雑誌が「猛烈な高収益会社赤井電機」1968/11/4ダイヤモンドと評するなど、赤井電機の好業績に様々なメディアが注目した。


    赤井電機 売上高 - 過去推移

    単位:億円

    出所:各種報道資料より


    ボーナス日本一

    赤井三郎は当初の約束通り、利益の超過金額を従業員のボーナスに反映させた。1966年に赤井電機は28歳という若い社員でも50万円のボーナスを獲得しており、当時のサラリーマンの月給は平均3万円であったことを考慮すると破格の水準であった。

    赤井電機の給料の良さは様々な週刊誌に取り上げられ、1966年に赤井電機は「ボーナス日本一」の会社として話題になる。

    週刊現代「ボーナス日本一の会社」

    いくら"史上最高"といっても、今年暮れのボーナスが、なんと28歳で平均50万円。おそろしく景気のいい会社があったものである。しかし、おどろくのはまだ早い。社内を見わたすと、百万円クラスの社員が百人もいるというのだから、まるでウソみたいな話。...(中略)...いったい、どこのなんという会社のおハナシなのか。---さっそく、くだんのホクホク会社に登場してもらおう。赤井電機...(中略)

    赤井電機・貿易部勤務A氏(1966年)

    働きがいがありますね。私ですか?100万円まではいきませんでしたが、80万円と少しです。大学時代の同級生に話すと、"ホラを吹くな"なんていわれるんだが、ホントの話だとわかると"ぶんなぐってやりたくなった"なんて・・・その気持ちはわかりますよ。むこうは一流会社に就職したんだが、ボクがこんな身分に成るなんて夢にも思わなかったでしょうから。だけど、ウチの会社はうるさいですよ。仕事もヨソにくらべたら三倍も四倍もつらいですよ。

    1966/12/8週刊現代「28歳で50万、ボーナス日本一の会社」

    赤井三郎の急逝

    1973年12月24日に赤井三郎は57歳の若さで、休養先の志賀高原(スキー場)で急性。死因は急性心不全。赤井三郎は大のスキー好きであり、スキーをやめるくらいなら死んだほうがマシだ、と生前から口していたという。

    創業者の逝去により、番頭として赤井電機を創業期から切り盛りしてきた斎藤己之吉が後継の社長に就任した。だが、赤井三郎は生前に後継者を指名していなかったことから、斎藤社長の就任は一部から快く思われなかったという。以降、赤井電機では経営陣の内部分裂が起こる。


    [その後]民事再生法を申請

  • 1969年 ビデオV1-100を発売
  • 1973年 赤井三郎が急逝。斎藤己之吉が社長就任
  • 1976年 日本ビクターがVHSを発売
  • 1980年 脇(三菱銀行出身者)が社長就任
  • 1982年 200名の希望退職者を募集
  • 1985年 赤字転落
  • 1986年 三菱電機に第三者割り当て(筆頭株主)
  • 1994年 香港企業セミテックの傘下へ
  • 1997年 本社を売却(現ニトリ大田大鳥居店)
  • 2000年 民事再生法を申請
  • 技術開発競争で敗北

    1969年に赤井電機はビデオ「V1-100」を発売し、将来性のある大型市場として脚光を浴びつつあったビデオ機器事業に参入した。だが、1970年代を通じてビデオはソニーのベータマックスと、日本ビクターのVHSが壮絶な規格争い「ビデオ戦争」を巻き起こし、他の電機メーカーはソニーないしビクター陣営のOEMとしてビデオを供給するにとどまった。赤井電機も規格争いには参入できず、日本ビクターのOEMを請け負ったため、ビデオ事業の売り上げを伸ばすものの、収益性は著しく低迷した。

    また、1960年代までの赤井電機の主力であったオープンリール式のテープレコーダーは、オーディオ機器のデジタル化の侵攻に伴い、市場そのものが徐々に消滅。特に、1980年代を通じてソニーがコンパクトディスク(CD)を普及させたことで、誰もが手軽に高音質の音楽を楽しめる時代が到来し、オープンリール市場は一部のマニア向けを残して消滅した。同時に、赤井電機の抱えていた世界各地の修理サービス要員も不要な存在となり、過剰人員にも悩まされる。

    生産競争で国際競争力を喪失

    1970年の時点で赤井電機は輸出比率87%のグローバル企業であったが、製造拠点は日本国内であり、人件費の安い香港、台湾、中国への生産拠点の移転を積極的に行わなかった。このため、1971年のニクソンショックによる円高ドル安の影響を受けて、コストの高い国内生産により国際競争力が低下した。この結果、いち早く生産拠点を東南アジアに移管した同業他社に比べて、赤井電機は早い時期に苦境に陥り、1982年には最終赤字に転落した。

    また、1985年に日本政府がプラザ合意を締結すると、円高ドル安がさらに進行し、輸出比率の高い日本のオーディオメーカーを直撃した。海外では香港などの東南アジア企業が台頭し、国内では、赤井電機、山水電気、アイワなどの国内生産を主体とするメーカーが相次いで行き詰まり、オーディオ業界は「構造不況業種」と化した。

    日経ビジネス(1982)

    オーディオ、時計、カメラという、個人用耐久消費財の"御三家"が、そろって需要不振の直撃を受けている。...(中略)...中でも深刻なのは、オーディオで、すでにパイオニア、トリオ、ソニーなどの大手が20〜30%前後の減産体制に突入。中堅、中傷メーカーでは一時帰休や海外子会社の従業員を解雇する動きが相次いでいるほか、倒産企業も出ている。

    1982/4/5日経ビジネス「消費財"御三家"が苦戦」

    為替相場の推移(円/1ドル)

    単位:円/ドル(基準相場)

    出所:総務省統計局・長期統計「18-8外国為替相場」、2005年以降は年間平均レートを記載

    人材獲得競争で敗北

    苦境を打破するため、1980年に赤井電機はメインバンクの三菱銀行から脇社長を迎え入れ、コスト削減を実施。脇社長は社員の給料の引き下げを最初に実行し、1982年に200名の希望退職者の募集を決断した。

    希望退職の募集直後から、赤井電機では有能な社員の流出が相次いだ。会社側は退職してほしい人物の特徴として、(1)健康状態のよくない人、(2)欠勤、早退の多い人、(3)すぐ辞めても生活に困らない人、(4)自営のできる人、(5)人員整理後の配置転換に従えない人、(6)少数精鋭主義についていけない人、の6点を提示したが、幸いにも赤井電機が東京を拠点とする関係から同業他社への転職が容易で、有能な人材から流出していった。

    元社員の新しい就職先は、富士フイルム、日本ビクター、キヤノン、ソニーなどの大企業であったという。市場が伸びていたビデオ設計部の部長と課長は、同業の富士フイルムに転職し、残った社員に大きなショックを与えた。また、海外営業本部長でやり手と言われた取締役も赤井電機に見切りをつけて去っていった。

    財界「かつての人気会社・赤井電機の転落譜」(1981)

    "第二のソニー"ともてはやされ、高収益企業の代名詞とまで呼ばれたオーディオ・メーカーの赤井電機が、ついに赤字に転落、無配必至の状況に追い込まれている。創業者・赤井三郎の急死をキッカケに長い坂をころがり落ちてきた結果である。無為無策のまま、かつての遺産で喰いつないできた名門企業の悲劇の姿がそこにある。

    1981/9財界「かつての人気会社・赤井電機の転落譜」

    民事再生法を申請

    1980年代を通じて主力のビデオ事業の価格競争が激化し、国内生産比率の高い赤井電機の収益は悪化し続け、三菱銀行は再建は失敗した。最後の切り札として、1986年に三菱電機が第三者割当てにより赤井電機の筆頭株主となるが、苦境は打破できなかった。このころになると、赤井電機の車内では「"三菱電機羽田工場"になるかもしれない」「この本社工場を売却するらしい」[1983/2宝石]という噂が飛び交ったという。

    1994年に三菱電機は赤井電機の再建を諦め、株式を香港企業に売却。赤井電機は香港外資として再建を試みるが、この方法も芳しい成果を残せなかった。2000年11月2日に赤井電機は民事再生法を申請し、負債総額約470億円にて倒産した。全盛期には約2700名いた従業員は、倒産時には44名までに激減しており、往年の勢いはなくなっていた。

    赤井電機の旧本社(東京都大田区)は、2019年時点で「ニトリ大田東糀谷店」となっており、高給取りの社員が闊歩した往時の面影を残すものはない。


    参考文献

    1925/6/28大阪朝日新聞「この頃流行のラジオ屋」

    1925/12/14東京朝日新聞「蓄音機」

    1959/5実業の日本「一町工場から出発 世界的なテレコーダー会社を築いた赤井電機赤井三郎氏」

    1964/12先見経済「赤井三郎氏の語る私の感ずること」

    1966/12/8週刊現代「28歳で50万、ボーナス日本一の会社」

    1970/3サンデー毎日「私の人生決断の瞬間・赤井三郎氏」

    1970/9/21日経ビジネス「特訓1年で海外サービス・エンジニアに・赤井電機」

    1972/2オール大衆「業界の衝撃となる新開発経営法・赤井三郎」

    1973/11/12日経ビジネス「経営者は共産主義化している・赤井三郎氏」

    1975/1 Popular Electronics「Altari8800」

    1975/3/4読売新聞p5「電子の音楽、日本に上陸」

    1977/1/17日経ビジネス「マイコンが変えるビジネス社会」

    1981/9財界「かつての人気会社・赤井電機の転落譜」

    1985/4発明「わが社の技術開発・ローランド」

    1990/4/9日経ビジネス「挫折の軌跡・岡田眞氏(赤井電機社長)」

    1996/5/19日経新聞朝刊p11「小室マジック」

    2005/9/22日経産業新聞p24「プラザ合意きょう20年」

    松本望「回顧と前進」

    総務省統計局・長期統計


    事例一覧