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更新日:


赤井電機 - 赤井三郎

経営者の決断 赤井電機 成長期 成熟期 名門企業の悲劇

赤井電機を飛躍に導いたオープンリール式のテープレコーダー

イラスト:筆者作成

サマリー

ボーナス日本一、高収益、グローバル展開で一世を風靡したが、2000年に民事再生法を申請

赤井電機は高級テープレコーダーの名門企業であり、1968年の上場時点で製品輸出比率が95%を占めるグローバル企業であった。同年の売上高営業利益率は19.3%であり、同業の松下電器やソニーを圧倒する水準で、日本有数の高収益企業としても知られた。

また、創業者の赤井三郎は優秀な従業員には給料で報いるという方針を一貫しており、1966年には"ボーナス日本一の会社"として週刊誌でも話題になった。赤井電機は業績・給料共に日本を代表するピカピカの会社であり、第二のソニーとも呼ばれた。ところが、1973年に突如として赤井三郎が逝去し、歯車が狂い始めた。

1970年代以降、オーディオ市場はアナログからデジタルへと推移し、低価格でも良い音質を楽しめる時代が到来したため、高級オーディオ市場が縮小した。1980年代に銀行出身の社長が人員削減などの経営再建を図るが効果なく、1990年代に赤井電機は「赤字電機」と揶揄されてしまう。この間、優秀な技術者は富士フイルムなどの同業他社に転職する。

そして、2000年に赤井電機は民事再生法を申請して倒産。東京蒲田の赤井電機旧本社は売却され、21世紀の今では忘れられた企業となった。

だが、創業者・赤井三郎の言葉は、決して色あせていない。

赤井三郎(1964年)

若い人の話もよく聴くのだが、ドラッカーでさえ利潤の追求だといっているようだが、やはり経営の目的というものは、公共性とかばく然としたものではなくて、究極は、労働者の利益にならなければ何の意味もない。会社があるから従業員があるんじゃないかというような考えかたもあるが、従業員の生活にいろいろ利益をもたらせない会社なら、そういう会社がいくらできても何もならない。自分たちの生活がよくなり、向上するために、そういう企業団体を作って仕事をするんだ。それを会社というのではないか。・・・という考え方が非常に強くなってきた。

1964/12先見経済「赤井三郎氏の語る私の感ずること」

目次(総計1.5万字)

  • 企業 - 基本情報
  • 売上高 - 過去推移

    売上構成比 - 過去推移

    営業利益率 - 過去推移


  • アナログオーディオ時代
  • 1910年代 レコードの登場

    1920年代 ラジオの登場

    1950年代 磁気テープの登場


  • 赤井三郎の半生
  • 1940年代 家業の復興

    1950年代 小型フォノモーターでシェア90%


  • [決断]テープレコーダーに後発参入
  • 1950年代 1. 奇人天才技術者をスカウト

    1950年代 2. コスパの良い高級機を開発

    1960年代 3. 北米へOEM輸出

    1960年代 4. Akaiブランドでグローバル展開

    1960年代 5. 天才依存から組織戦にシフト

    1960年代 6. 利益を社員に還元


  • 猛烈高収益会社・赤井電機
  • 1960年代 世界110カ国に展開

    1960年代 ボーナス日本一の会社

    1970年代 創業者・赤井三郎の急逝


  • デジタルオーディオ時代
  • 1970年代 マイクロプロセッサーの登場

    1970年代 音楽制作のデジタル化

    1990年代 音楽再生のデジタル化

    2000年代 音楽流通のデジタル化

    2000年代 アナログオーディオ市場の消滅


  • 赤井電機の消滅
  • 1970年代 VTRで日本ビクターに敗北

    1980年代 銀行経営者でも再建できず

    1980年代 人員削減&人材流出

    2000年代 民事再生法の申請


    赤井電機 - 基本情報

  • 創業年:1946年
  • 創業者:赤井三郎
  • 上場年:1968年
  • 消滅年:2000年(民事再生法)
  • 祖 業:モーターの製造
  • 業 界:オーディオ機器

  • 売上高 - 過去推移

    単位:億円

    出所:有価証券報告書、各種報道資料より


    売上構成比 - 過去推移

    単位:%

    出所:有価証券報告書、会社四季報

    注:1990年以降のオーディオにはテレコを含む


    売上高輸出比率 - 過去推移

    単位:%

    出所:有価証券報告書、会社四季報

    注:1970年〜1990年は輸出比率、2000年は海外比率


    売上高営業利益率 - 過去推移

    単位:%

    出所:有価証券報告書

    注:94年まで11月期決算、95年は6月期、96年以降は3月期決算


    アナログオーディオ時代

    マクロトレンド 技術革新

  • 19世紀 世界各地で電気が普及
  • 1877年 エジソン(米)が蓄音機を発明
  • 1900年 レジナルド(米)がラジオ放送に成功
  • 1910年 日本蓄音機商会の創業
  • 1914年 日本でカチューシャの唄がヒット
  • 1925年 NHKがラジオ放送を開始
  • 1925年 日本各地にラジオメーカー・販売店が出現
  • 1929年 東芝が真空管の量産を開始
  • 1931年 松下電器がラジオ製造に参入
  • 1937年 パイオニアが高音質スピーカーを開発
  • 1950年 ソニーが磁気テープ特許を取得
  • 1951年 日本コロムビアがLPレコードを発売
  • 1952年 音楽之友社が「レコード芸術」を創刊
  • 1960年 日本ビクターが株式上場
  • 1961年 パイオニアが株式上場
  • レコードの登場

    人類にとって、音という捉えどころのない空気振動を記録し、音を綺麗に再生することは長年の宿願であった。だが、音の再生には電気モーターによる円盤(レコード)の回転運動が必要であり、電気が普及する前の人類は「音符」や「文字」として音を記録していた。

    19世紀に電気技術が確立されると、1877年にエジソンは音声を記録するためのフォノグラフを発明。人類は歴史上初めて、音を記録することが可能となったが、技術上に問題があり人間の音声が辛うじて聞き取れる音質に過ぎなかった。このため、音質の向上を目指して数多くのオーディオ好きが起業し、技術開発に挑戦。アナログオーディオの時代が幕を開けた。

    日本では1910年に日本蓄音機商会(日本コロムビア)が米国人によって設立され、蓄音機やレコードの製造販売をスタートさせる。

    1914年に日本コロムビアは「カチューシャの唄」のレコードを発売したところヒットし、日本にレコードを根付かせることに成功した。しかし、レコードの製造や歌手の発掘は同業他社にとっても容易であったため、1920年代に日本蓄音機商会(日本コロムビア)の他に、合同蓄音機会社、日東蓄音機、内外蓄音機の各社が、有望な歌手の発掘で熾烈な競争を繰り広げていた。

    ただし、当時の蓄音機は高級品であり、庶民にとっては高嶺の花であった。このため、戦前の日本人は音という娯楽をレコードではなく、1925年に登場したラジオで楽しんでいた。

    東京朝日新聞(1925)

    一種のレコードで五千枚や一万枚売るのはそう難事ではない。現在日本では米国人の経営している日本蓄音機商会のワシ、オリエント、地球、ラクダの四印、合同蓄音機会社の富士山、ヒコーキ、象の三印、日東蓄音機のツバメ印、内外蓄音機のカイガラ印その外鶴印、ハト印等の各□あるが、要するに日本では日蓄と日東の二社が競争で、レコードに吹込む芸人の争奪がこの二社の間において激烈である。

    1925/12/14東京朝日新聞「蓄音機」

    注:読み取れなかった箇所は「□」で表記

    ラジオの登場

    20世紀初頭にアメリカで電気技術者"レジナルド・フェッセンデン"は電波に音声をのせることに成功。この技術が基礎となり、世界各地でラジオ放送の商用化がスタートする。

    日本では1923年に逓信省が放送用私設無線電話規則を制定してラジオ放送の事業化を許可。1925年に東京放送局(NHK)がラジオ放送を開始し、1926年までにラジオ放送はNHKに一本化された。以降、1951年にラジオ放送の規制緩和で民間の参入が許可されるまで、NHKが日本のラジオ放送を独占した。

    ラジオ放送の開始に合わせて、日本では相次いでラジオ受信機や各種備品の製造を手がけるメーカーや販売店が誕生し、オーディオ市場が急速に勃興した。ラジオ本体の組み立てはシャープや山中無線(倒産済)、高木商会(倒産済)などのベンチャー企業が手がけた。また、ラジオの基幹部品であり、製造に高度な技術を擁する真空管(音の増幅に必須の部品)は東芝や日本電気などの関東系の老舗企業が供給を担った。スピーカーなどの細かい部品については、各地に部品メーカーが次々と誕生した。さらに、修理販売を担う中小商店が相次いで出現する。

    この当時、ラジオに挑んだ中小メーカーや販売店は信用が乏しかったため、銀行は融資に足踏みしたという。1919年に第一次世界大戦が終結して日本経済が不況に陥ったこともあり、従来の事業に見切りをつけてラジオ屋に転業する人が相次ぎ、猫も杓子も「ラジオ」に群がった。

    大阪朝日新聞「この頃流行のラジオ屋」(1925年)

    市中の電気器具屋さんは早速表看板を「ラジオ」と塗り替えるし、蓄音器屋さんも商売の前途が心細くなったのか、その飾窓には蓄音器とラジオとを睨みっこさせている。ラジオの店は雨後の筍同様、殖えるわ殖えるわ、定めて甘い汁の吸い放題にちがいない...(以下略)

    1925/6/28大阪朝日新聞「この頃流行のラジオ屋」


    松本望(パイオニア創業者)

    この頃の販売業者というのは、信用のおける店は、わずかしかありませんでしたね。なにしろ、新しい業界ですから、いろんな企業から転進して来た人の集まりだったのです。しかも、それらの多くは、今までの事業が思わしくなくて、ラジオで一旗あげてやろうという人達が多かったのです。だから銀行では、ラジオ屋には金を貸すな、という命令が出ていたほどです。

    松本望「回顧と前進」

    磁気テープの登場

    1930年代にBASFはアセテート樹脂を用いて実用的な磁気録音テープを開発。磁気テープの登場によって、録音時の音質が向上したため、音声および音楽の録音には磁気テープが用いられることとなった。日本では1950年にソニーが磁気録音テープの特許(交流バイアス式)をアンリツから買収。1950年代以降、日本の放送や録音現場には磁気テープが普及した。

    音楽再生面でも1950年代に大きな技術進歩があった。塩化ビニール樹脂を用いたレコード(LP)が登場し、長時間再生が可能になるとともに、音質が向上。LPの登場による音質の向上という時機を捉え、日本では1952年に音楽之友社が「レコード芸術」という雑誌を創刊している。

    1960年代にはステレオの普及と再生装置の低価格化が進行。スピーカー、アンプ(増幅装置)、LPレコード再生装置の各種オーディオ機器の技術進化が急速に進み、1960年代に日本ビクター、パイオニア、山水電気、トリオの各社は高音質を手軽に楽しめるオーディオ機器を開発。各社ともに、日本のみならず、北米などの海外に輸出することで業容を拡大し、アナログオーディオの全盛時代を謳歌する。

    1960年代の若者にとってステレオは憧れの的だった

    イラスト:筆者作成

    実業の日本(1959年)

    戦後の音響業界において、三大革命といえばトランジスターを除いては、L・Pレコード、ハイファイレコード、それにここへ登場するテープレコーダーであろう。...(中略)...それまであらゆる録音はいわゆる円盤レコードに吹き込んでいた。それがすべてテープで必要なだけ録音でき、さらに、それを編集して放送することができるのだから、驚くのも当然で、なかでも、放送に関係する人々の喜びは、大変なものだった。おそらく、戦後ラジオ放送の発達が急激だった最大原因の一つに、このテープレコーダーの出現をあげることができる。

    1959/5実業の日本「一町工場から出発 世界的なテレコーダー会社を築いた赤井電機赤井三郎氏」


    赤井三郎の半生

  • 1926年 赤井三郎が東京都に生まれる
  • 1945年 父が家業(初代赤井電機)を同業他社に売却
  • 1946年 三菱銀行羽田支店が融資を実施
  • 1946年 赤井三郎が再び赤井電機を創業
  • 1947年 大田区東糀谷(羽田)に本社移転
  • 1948年 レコード用小型モータを開発
  • 1951年 旧中島飛行機の工作機械を大量購入
  • 1951年 LP用小型モーターを量産化
  • 1954年 LP用小型モーターでシェア40%
  • 1955年 松下電器にシェアを奪われ始める
  • 赤井電機の復興

    1926年に赤井三郎(赤井電機・創業者)が東京に生まれる。父はラジオの放送開始に合わせてラジオ部品の製造を担う町工場の経営者であった。父は金属加工の技術は持っていたが、電気関係の技術に疎かったため、息子の三郎に電機関係の技術を学校で学ばせ、1937年から家業を手伝わせた。この頃になると家業では映写機向けのモーターの製造にも従事していた。

    だが、戦時中の1945年頃に父は家業を大会社の沢藤電機(従業員1500名)に売却。その直後に日本が敗戦を迎えたため、父は事業に対するモチベーションを失ってしまった。敗戦後、父は神奈川県の山奥にこもり、隠居生活を開始する。

    一方、息子の赤井三郎は生活の糧を得るために働き続けることを決意。当初は沢藤電機で働いていたものの、同社の社風に疑問を抱いた。沢藤電機には、仕事をしない社員がおり、部長でさえ仕事を知らないことに憤りを感じたという。そこで、赤井三郎は自分で事業をやったほうが良いと考え、赤井電気を復活させることを決意した。

    まず、赤井三郎は起業資金を集めるために、父に相談。だが、父は出資を断った。そこで、赤井三郎は銀行を駆け回り起業資金を融資してくれる人物を探す。ほぼ全ての銀行が赤井三郎の融資相談に良い返事をしなかったのに対し、唯一、三菱銀行羽田支店は融資を決断した。同・山本支店長は赤井三郎に1.5万円を融資した。これが縁となり、三菱銀行が赤井電機のメインバンクとなる。

    赤井三郎(あかい・さぶろう)。1926年東京生まれ。1946年に新生・赤井電機を創業した。

    イラスト:筆者作成

    音響用小型モーターで当てる

    1946年に赤井三郎は赤井電機を設立し、数人の町工場としてスタートした。最初の事業は農村向けの一馬力モーターの製造であった。戦後の物資難の中で何とか材料を集め、一馬力モーターを製造し、秋葉原の電気街に販売。モーターの最終需要家は埼玉県の農家であり、終戦直後の農村は荒廃した都心と比べて景気が良かったこともあり、赤井電機は一年間に一馬力モーターを8000台販売した。

    だが、一馬力のモーターは大型であり、資材調達が極めて難しかった。そこで、赤井三郎は資材が少なくて済む小型モーターに目をつける。1948年にはレコードの再生装置(電畜)で、レコードを回転させるための小型モーター(フォノモーター)の製造に着手した。

    折しも、レコード業界ではLPレコードという新しい規格が誕生しており、赤井電機はいち早くLPに対応した小型モーターを開発。生産面では1951年に中島飛行機(戦時中の大企業)から生産設備を購入し、小型モーターの量産効率の向上を図った。日本のみならず米国など海外へもフォノモーターを輸出することで業容を拡大し、1954年頃には国内シェア90%を握るニッチトップ企業となった。

    しかし、レコード関係製品は嗜好品であったために、日本政府によって物品税が40%かけられており、ボロ儲けが期待できる製品ではなかった。また、1950年代に財閥解体を免れた松下電器が復活し、フォノモーターに参入。大企業の参入が決定打となり、赤井三郎は主力事業を変更することを考える。


    テープレコーダーに後発参入

    経営者の決断

  • 1950年? 技術者・大津光一をスカウト
  • 1954年 テープレコーダー試作機を開発
  • 1956年 テープレコーダーを発売
  • 1956年 米ロバーツ社とOEM契約
  • 1960年 ドラッカーの著作がブーム
  • 1962年 世界110カ国に代理店網を構築
  • 1964年 利益の従業員還元を決定
  • 1. 奇人天才技術者をスカウト

    終戦後間もなく、赤井三郎は秋葉原の電気街で、外国製のテープレコーダーに出会う。音楽を再生・録音できる新しい装置であり、赤井三郎は何とか事業化できないかと考えた。だが、自らの電気技術では開発できないと諦めて、テープレコーダーの技術者を探し始めた。そして、赤井三郎は大津光一という技術者に出会う。

    大津光一は浜松高専を卒業した電気分野に強いエンジニアであったが、私生活に難がある人物であった。赤井三郎が大津光一の自宅を訪れた際、大津はシェパードと一緒に寝ており、息は酒とニンニク臭く、家には焼酎の瓶が転がっていたという。それでも、大津は酔っ払いながら赤井三郎の目の前でテープレコーダーを手早く修理する芸当を見せた。

    赤井三郎は悩んだ末に、テープレコーダーに参入するために、奇人技術者・大津光一を採用することを決断する。対して大津は1日のうちシラフの状態になる2〜3時間だけ仕事し、社長以上の報酬を要求。赤井三郎は大津の要求を受け入れ、赤井電機はテープレコーダーに参入した。

    赤井三郎(1972年)

    私は大津光一という人物を捜しあてた。私が赤井テープレコーダーに進出すべき機会を掴み、決断したのは、この時だった。大変なのは、この大津という男で、会った当座は、飲んだくれで、一日二〜三時間しか正気のときがないという状態だった。しかし、せっかく捜しあてた技術者だ。技術屋は技術屋を知るとでもいうべきか、とにかく私はこの人物に賭けてみることにした。というわけで、この人物を会社によぶことにしたのだが、条件としては酒の切れた正気の2〜3時間でも働いてくれというものだった。

    1972/2オール大衆「業界の衝撃となる新開発経営法・赤井三郎」

    2. コスパの良い高級機を開発

    1954年に赤井電機はテープレコーダーの試作機「AT-1」を開発。さらに、1956年に「AT900」を発売してテープレコーダー市場に後発参入した。

    当時、米国のアンペックス社の同種の製品が約7〜8万円だったのに対し、赤井電機は2万8900円という価格を実現し、業界に衝撃をもたらす。また、国内の競合であるソニーはトランジスタラジオの製造販売に全力を注いでいたため、赤井電機はソニーの隙をつく形となった。

    3. 北米へOEM輸出

    問題は国内市場が小さいことであった。価格が安くなったとはいえ、日本人にとってテープレコーダーは高嶺の花であったため、赤井三郎は海外輸出を販売の中心に据える。1956年に赤井三郎は渡米し、小型モーターで取引があった米国のキャリドン・ロバーツ社を訪問。赤井三郎はロバーツ社に対してテープレコーダーのOEM輸出を行うこととで合意した。

    ロバーツ社は赤井電機のレコーダーをコストパフォーマンスの良い"高級品"として販売したところ、音楽好き(ハリウッドスターなど)に支持された。だが、1962年にロバーツ社はテープレコーダーの値下げを赤井電機に要求。赤井三郎は赤井製品を高級機として売り出したかったため、販売をロバーツ社に依存するのではなく、Akaiブランドとして自らの手で売り出すことを画策する。

    4. Akaiブランドでグローバル展開

    1962年頃から赤井電機は米軍PX(購買部)向けの販路を通じて"Akai"ブランドのテープレコーダーの販売を開始した。PX向けでは税金がかからず、米国内での購入よりも安い価格を提示できたことから、軍隊からの帰休兵に好評を博す。これにより、Akaiブランドの良さが米兵の口コミで広まった。

    続いて、1960年代を通じて赤井電機は世界100カ国以上に代理店網を整備した。赤井電機の貿易部の社員はAkai製品を取り扱う代理店を探すために全世界を奔走。ある貿易部の社員は、1ヶ月間に15カ国訪問し、代理店を探して契約をするというハードな仕事をしていたという。

    また、テープレコーダーは複雑なアナログ機構で動作する製品であったために、赤井電機は修理対応を充実させる必要があった。そこで、サービスエンジニアを養成するために企業内学校を設置。20代の日本人社員に語学および技術教育を施し、全世界に送り込むことで修理体制を充実させた。

    5. 天才依存から組織戦にシフト

    赤井電機は順調に業績を拡大するが、1962年にテープレコーダーの技術責任者であった大津光一がガンで逝去。テープレコーダー事業は大津の技術開発力に依存していたため、赤井三郎は将来を悲観して赤井電機の売却を真剣に検討する。

    だが、赤井三郎は会社に大津が育てた技術者がいることに気づき、事業の継続を決意。1人の天才と16名の個性を持った技術者は同じであると考えたという。

    赤井三郎(1970年)

    私はその時に本当に、事業をやめて会社を売ろうと思った。大津くんとの人間的結びつきも離れがたいものになっていたが、それよりも、あれだけ優秀な技術者を失って、赤井電機をやってゆける自信がなかったんです...(中略)...この時、意外なことを発見したんです。大津君の生きている時はわからなかったが、彼が育てた優秀な技術者が、たくさんいることがわかったのです

    大津君の死で、うちの技術陣はふるいたったのです。大津君の死は悲しいことだったが、彼の死は赤井電機にとって大きなプラスになった

    1970/3サンデー毎日「私の人生決断の瞬間・赤井三郎氏」

    6. 利益を社員に還元

    1964年に赤井三郎は優秀な従業員に高給で報いる方針を決断。具体的には赤井電機が稼いだ利益のうち、4億円を上回る金額については、従業員へボーナスとして支給すると宣言した。終身雇用が定着しつつあった日本において、赤井電機の報酬体系は異色のものであった。

    同時期に、赤井三郎は企業の存続ではなく、企業を通じて従業員が家族を養うことの重要性を主張。当時のほとんどの日本企業が福利厚生施設を充実させる一方で給料を抑制したのに対し、赤井電機は福利厚生を充実させない代わりに従業員に給料で報いる方針を貫いた。

    赤井三郎(1964)

    若い人の話もよく聴くのだが、ドラッカーでさえ利潤の追求だといっているようだが、やはり経営の目的というものは、公共性とかばく然としたものではなくて、究極は、労働者の利益にならなければ何の意味もない。会社があるから従業員があるんじゃないかというような考えかたもあるが、従業員の生活にいろいろ利益をもたらせない会社なら、そういう会社がいくらできても何もならない。自分たちの生活がよくなり、向上するために、そういう企業団体を作って仕事をするんだ。それを会社というのではないか。・・・という考え方が非常に強くなってきた。

    1964/12先見経済「赤井三郎氏の語る私の感ずること」


    猛烈高収益企業・赤井電機

    ボーナス日本一の会社

  • 1966年 ボーナス日本一の会社
  • 1969年 東証第二部上場
  • 1970年 東証第一部上場
  • 世界100カ国以上にグローバル展開

    1960年代後半の世界の大都市の電機店には「Akai」のテープレコーダーが高級機としてショーウィンドウに飾られていたという。特に欧州で成功を収め、Akaiの知名度はSONYと並んでいた。1968年時点で赤井電機の輸出比率は95%であり、世界100カ国以上に代理店を擁するグローバル企業となった。

    1968年に赤井電機は株式を上場。1968年時点の赤井電機の売上高営業利益率は約20%と極めて高い水準で、同業の松下電器やソニーを圧倒した。このため、経済雑誌が「猛烈な高収益会社赤井電機」1968/11/4ダイヤモンドと評するなど、赤井電機の好業績に様々なメディアが注目した。


    赤井電機 売上高 - 過去推移

    単位:億円(11月期)

    出所:各種報道資料より


    ボーナス日本一

    赤井三郎は当初の約束通り、利益の超過金額を従業員のボーナスに反映させた。1966年に赤井電機は28歳という若い社員でも50万円のボーナスを獲得しており、当時のサラリーマンの月給は平均3万円であったことを考慮すると破格の水準であった。

    赤井電機の給料の良さは様々な週刊誌に取り上げられ、1966年に赤井電機は「ボーナス日本一」の会社として話題になる。

    週刊現代「ボーナス日本一の会社」

    いくら"史上最高"といっても、今年暮れのボーナスが、なんと28歳で平均50万円。おそろしく景気のいい会社があったものである。しかし、おどろくのはまだ早い。社内を見わたすと、百万円クラスの社員が百人もいるというのだから、まるでウソみたいな話。...(中略)...いったい、どこのなんという会社のおハナシなのか。---さっそく、くだんのホクホク会社に登場してもらおう。赤井電機...(中略)

    赤井電機・貿易部勤務A氏(1966年)

    働きがいがありますね。私ですか?100万円まではいきませんでしたが、80万円と少しです。大学時代の同級生に話すと、"ホラを吹くな"なんていわれるんだが、ホントの話だとわかると"ぶんなぐってやりたくなった"なんて・・・その気持ちはわかりますよ。むこうは一流会社に就職したんだが、ボクがこんな身分に成るなんて夢にも思わなかったでしょうから。だけど、ウチの会社はうるさいですよ。仕事もヨソにくらべたら三倍も四倍もつらいですよ。

    1966/12/8週刊現代「28歳で50万、ボーナス日本一の会社」

    赤井三郎の急逝

    1973年12月24日に赤井三郎は57歳の若さで、休養先の志賀高原(スキー場)で急性。死因は急性心不全。赤井三郎は大のスキー好きであり、スキーをやめるくらいなら死んだほうがマシだ、と生前から口していたという。

    創業者の逝去により、番頭として赤井電機を創業期から切り盛りしてきた斎藤己之吉が後継の社長に就任した。だが、赤井三郎は生前に後継者を指名していなかったことから、斎藤社長の就任は一部から快く思われなかったという。以降、赤井電機では経営陣の内部分裂が起こる。


    デジタルオーディオ時代

    マクロトレンド 技術革新

  • 1971年 インテルがi4004を発明
  • 1972年 ローランド創業(シンセサイザー発売)
  • 1973年 日本コロムビアがデジタル録音(PCM)に成功
  • 1978年 ミニコンポがブームに
  • 1979年 ソニーがウォークマンを発売
  • 1983年 ソニーがCDを実用化
  • 2000年 赤井電機が民事再生法を申請
  • 2001年 AppleがiPodを発売
  • 2002年 ソニーがアイワを救済合併
  • 2008年 ケンウッドと日本ビクターが経営統合
  • 2014年 山水電気が破産
  • 2019年 香港系ファンドがパイオニアを買収
  • マイクロプロセッサーの登場

    1971年にインテルがマイクロプロセッサー「i4004」(MPU/CPU)を発明し、従来の大型であったコンピューターの頭脳が極小のチップに収まる時代が到来。人類が小型コンピューターを持ち歩ける時代が到来する発端となった。米国では1974年にFortune誌がマイクロチップの誕生によって「第二次情報革命」がもたらされると指摘するなど、マイクロプロセッサーが世界に大変革をもたらすことが期待された。

    マイクロプロセッサーは、最初にパーソナルコンピューター(PC)というフロンティアを切り開いた。1975年に米国で世界初のPC"Altair"が発表されたのを機に、PCベンチャーが相次いで誕生。1977年にApple(Steve Jobs)は"Apple II"を発表し、ゲームクリエーターなどの趣味向けPCの決定版となる。そして、1981年に老舗コンピューターメーカー・IBMがビジネス向けのIBM-PCを発売し、ビジネスの世界でもコンピューターを1人1台使用する時代が到来する。

    上記画像は世界初のパーソナルコンピューター"Altair8800"。同機種は米国のコンピューター好きがほぼ必ず購読していたPopular Electronics誌1975年1月号の表紙を飾り、勘の鋭い(ビルゲイツやスティーブジョブズなどの)当時の若者が相次いで起業するきっかけとなった。PE誌1975年1月号は、世界を変えた雑誌の一つとなったが、1985年に廃刊となった。PE誌の発汗元はZiff-Davis(孫正義=ソフトバンクが1990年代に買収した展示場会社)である。

    画像:1975/1 Popular Electronics(Americanradiohistory.comより)

    また、PC以外にも、複写機、電話、炊飯器、工作機械、ミシンといった仕事で使う機械にもMPUが活用され、高度な位置決め、時間設定が可能となり、オートメーションの時代が到来。日本では1980年前後に「OA化(Office Automation)」という言葉が流行した。

    日経ビジネス「マイコンが変えるビジネス社会」(1977)

    広いオフィスには数個の机がゆったりと置かれている。机の上には薄型のテレビのような画面とタイプライター風のキーボード、それに受話器がスマートに並ぶ。資料の本の棚はどこにも見当たらない---マイクロコンピューターが普及した198x年のオフィス描写はだいたいこんなところである。つまりマイコンはオフィス革命の担い手として躍り出ようとしている。

    1977/1/17日経ビジネス「マイコンが変えるビジネス社会」

    音楽制作のデジタル化

    1970年代以降、音楽分野にもコンピューター技術が応用され、(1)音楽制作、(2)音楽録音、(3)音楽再生、(4)ライブラリー化、の流れでデジタル化が浸透する。

    まずは1970年代に音楽演奏の電子化により、シンセサイザーという新しい楽器が誕生。電子音によって、ミュージシャンが手軽に音楽を制作する時代が到来した。

    1972年に冨田勲がシンセサイザーでクラシックの名曲を演奏したアルバム「月の光」が米国でグラミー賞にノミネートされ、新しい時代の音として注目を集めた。それまでの音楽はアコースティックなオーケストラ、ギター、ピアノ、ドラムの音が主流であったため、シンセサイザーが繰り出す不思議な音は、自然音に慣れきっていた当時の人々にとって衝撃的であった。

    読売新聞(1973年)

    ロック・ミュージシャンや歌謡曲のレコーディングなどでも最近よく使われれている電子楽器シンセサイザー。これを使って作曲家の冨田勲さんが作ったアルバム「月の光」(米RCA)がアメリカで評判を呼び、逆輸入された形で日本国内でも人気が上がってきた。

    1975/3/4読売新聞p5「電子の音楽、日本に上陸」

    ビジネス面でも、音楽制作のデジタル化という波を捉えた人物が登場する。1972年に電子楽器の技術者であった梯郁太郎が"ローランド"を創業。小型シンセサイザー「SH-100」を開発し、海外での名声を高め、電子楽器の開発製造によって業容を拡大した。ローランドはヤマハといったアコースティック楽器メーカーの隙をつき、1989年に株式上場を果たしている。

    梯郁太郎(ローランド・創業者、1985年)

    昔から電子楽器があれば、それぞれの時代の作曲家、演奏家たちはきっとそれを利用していただろう...(中略)...人間は、その当時入手できた木や皮を素材として楽器を作らざるを得なかった。現代のわれわれの科学を生んだシリコンチップという素材として楽器を作るのは至極当然のことである

    1985/4発明「わが社の技術開発・ローランド」

    音楽再生のデジタル化

    音楽制作の現場に続いて、音楽再生装置にもデジタル化の波が到来。1982年にソニーはCDを発売し、従来のLPのような物理的な磨耗がない非接触型のディスクの開発に成功した。CDは音楽流通のスタンダードとなり、1998年には日本の音楽ソフトの総生産額が6000億円を突破。長年王座にあったLPやカセットテープは淘汰され、CDの黄金時代が到来した。

    日経新聞(1996年)

    若者向けのシングルCD (コンパクトディスク)が空前の売れ行き。ミリオンセラー現象を巻き起こしたのは、メディアの影響力を熟知し、特性を巧みに使い分ける音楽プロデューサーたちの周到なプロモーション戦略だ。...(中略)...しかし、彼らが繰り出す歌は、あふれる他の情報と同様に瞬時に消費され、深く記憶されることなく消えていく

    1996/5/19日経新聞朝刊p11「小室マジック」

    音楽流通のデジタル化

    CDの黄金時代は意外にも長続きしなかった。2000年代に光ファイバーが日本に普及し、高速有線ネット通信の時代が到来。高音質の音声をネットを通じたストリーミング、またはダウンロードによって視聴できる時代が到来し、流通媒体としてのCDは消滅した。

    また、2000年代にメモリー関連の技術が進展し、音楽ライブラリーのデジタル化が同時並行的に進行。CDでは最大で90分程度の録音が限界であったが、2000年代に小型HDDやフラッシュメモリーといった新しい記憶媒体が相次いて登場し、何万曲を一つの端末で持ち歩けるようになった。2001年にAppleが発売した大容量のiPodは、iTunesと連携することで、CDアルバムのライブラリ化を可能にした最初の製品となる。

    2010年代に突入すると高速無線通信(LTE)が普及し、音楽流通とライブラリーが融合。ネットのクラウドを介してiTunesやAmazon Primeにアクセスすることで、聞きたい音楽をいつでもストリーミング/ダウンロードできる時代が到来した。これにより、最新のヒット曲から、懐かしの曲、さらには忘れられた曲を発掘できるようになり、ユーザーが音楽に接する幅が格段に広がった。

    アナログオーディオ市場の消滅

    デジタル化の波は、日本のオーディオメーカーに襲い掛かった。アナログオーディオの最後の大型製品となったビデオ市場がDVDの台頭によって急激に縮小すると、日本の老舗オーディオメーカーは相次いで苦境に陥る。

    日経新聞(2005年)

    (筆者注:1985年のプラザ合意の)当時はオーディオ専業という産業セクターが健在。山水電気や赤井電機、ティアックなど小ぶりながらそれぞれ得意分野を持ち、ブランド力もある会社が多数存在していた。ところが、こうした小粒企業は輸出比率が高く、円高の波に直撃された。各社は外資に買収されるなど転変し、今では消費者市場での存在感は無いに等しい。円高は一つの産業を丸ごと消し飛ばすほどの猛威をふるったわけだ。

    2005/9/22日経産業新聞p24「プラザ合意きょう20年」


    オーディオ主要製品 - 国内生産金額推移

    単位:億円

    出所:総務省統計局長期統計より(経済産業省「機械統計年報」)


    赤井電機の消滅

    名門企業の悲劇

  • 1969年 ビデオV1-100を発売
  • 1973年 赤井三郎が急逝。斎藤己之吉が社長就任
  • 1976年 日本ビクターがVHSを発売
  • 1980年 脇(三菱銀行出身者)が社長就任
  • 1982年 200名の希望退職者を募集
  • 1985年 赤字転落
  • 1986年 三菱電機に第三者割り当て(筆頭株主)
  • 1994年 香港企業セミテックの傘下へ
  • 1997年 本社を売却(現ニトリ大田大鳥居店)
  • 2000年 民事再生法を申請
  • VTRで日本ビクターに敗北

    1969年に赤井電機はビデオV1-100を発売。1970年代を通じて赤井電機は主力事業をテープレコーダーからビデオ(VTR)にシフトさせた。

    ところが、VTRではソニーのベータマックスと日本ビクターのVHSの二強時代となり、1980年代までにVHSが世界規格となった。赤井電機はVTRの覇権を握れず、日本ビクターのVHSの下請け生産(OEM)に甘んじたため、収益性が悪化した。

    ビデオはVHS VS βマックスの戦いへ

    イラスト:筆者作成

    また、従来の赤井が強かったテープレコーダーといったアナログオーディオ機器の市場は徐々に縮小。デジタル化によって低価格なオーディオ機材でも高音質を楽しめるようになったため、高級オーディオというジャンルが急激に縮小した。

    銀行経営者でも再建できず

    赤井電機は挽回を図ることができず、生え抜きの社長が退任。代わって、1980年にメインバンクだった三菱銀行出身の脇が赤井電機の社長に就任。だが、業績を回復させることができず、脇も1986年に社長を退任する。

    1986年に赤井電機は三菱電機に第三者割り当てを実施し、赤井電機の筆頭株主となった。このため、赤井電機の社内では「"三菱電機羽田工場"になるかもしれない」「この本社工場を売却するらしい」[1983/2宝石]という噂が飛び交ったという。

    財界「かつての人気会社・赤井電機の転落譜」(1981)

    "第二のソニー"ともてはやされ、高収益企業の代名詞とまで呼ばれたオーディオ・メーカーの赤井電機が、ついに赤字に転落、無配必至の状況に追い込まれている。創業者・赤井三郎の急死をキッカケに長い坂をころがり落ちてきた結果である。無為無策のまま、かつての遺産で喰いつないできた名門企業の悲劇の姿がそこにある。

    1981/9財界「かつての人気会社・赤井電機の転落譜」

    人員削減&人材流出

    1981年に赤井電機・脇社長(三菱銀行出身)は社員に対する賃金カットを実施。脇社長の最初の仕事は、年収1,000万円クラスの社員の家にお菓子を持って訪問し、給料の引き下げをお願いすることであったという。最終的に減給に成功するが、社員の間では反発があったという。

    そして、1982年に赤井電機は希望退職者200名の募集を実施。会社側は退職してほしい人物の特徴として、(1)健康状態のよくない人、(2)欠勤、早退の多い人、(3)すぐ辞めても生活に困らない人、(4)自営のできる人、(5)人員整理後の配置転換に従えない人、(6)少数精鋭主義についていけない人、の6点を提示した。

    だが、優秀な人材から順に、赤井電機を去っていった。彼らの新しい就職先は、富士フイルム、日本ビクター、キヤノン、ソニーなどの大企業であったという[1983/2宝石]。市場が伸びていたビデオ設計部の部長と課長は、同業の富士フイルムに転職し、残った社員に大きなショックを与えた。また、海外営業本部長でやり手と言われた取締役も赤井電機に見切りをつけて去っていった。

    赤井電機の中堅社員(1981)

    私だって、脇社長には期待していたんですよ。でもね・・・、赤井さんのときではえらい違いですよ。我々がつくった商品は着実に売れていたのに何故赤字になるのか、それはトップの責任だと思いませんか。


    三菱銀行(1981)

    脇社長の下での体質改善策はスタートしたばかり。ただ財務体質にしても、純資産、含資産を合計すると200億円近くありますから、あとは収益改善三カ年計画の浸透を待つのみです。カジ取りさえしっかりできれば体質改善はかなり進むと思います


    銀行時評(1981)

    脇社長の責任に転嫁するのはある意味で酷なことかもしれない。赤井の社員が望んだのは、赤井イズムの発揮であったが、赤井三郎氏が築き上げてきた過去の栄光は、すでに昔の夢でしかない。

    出所:1981銀行時評「銀行出身経営者の限界・赤井電機脇社長への反乱」

    民事再生法の申請

    1985年以降の赤井電機は赤字を土地や有価証券の売却益で埋め合わせて延命を図った。それでも本業が儲かることはなく、1994年に香港企業が赤井電機に出資し、三菱電機が赤井電機の株式を手放した。それでも経営が回復することはなく赤井電機は「赤字電機」と揶揄されてしまう。

    赤井電機のトドメを刺したのは円高ドル安であった。1985年のプラザ合意以降、円高の進行とともに輸出比率の高い赤井電機の業績は急激に悪化した。


    為替相場の推移(円/1ドル)

    単位:円/ドル(基準相場)

    出所:総務省統計局・長期統計「18-8外国為替相場」、2005年以降は年間平均レートを記載


    2000年11月2日に赤井電機は民事再生法を申請。負債総額は約470億円であり、2000年3月の時点で約426億円の債務超過に陥っており、自主再建を諦めた。全盛期には2700名いた従業員は、この時点で44名までに激減していた。

    赤井電機の旧本社(東京都大田区)は、2019年時点で「ニトリ大田東糀谷店」となっており、高給取りの社員が闊歩した往時の面影を残すものはない。

    日経新聞(2005年)

    (筆者注:1985年のプラザ合意の)当時はオーディオ専業という産業セクターが健在。山水電気や赤井電機、ティアックなど小ぶりながらそれぞれ得意分野を持ち、ブランド力もある会社が多数存在していた。ところが、こうした小粒企業は輸出比率が高く、円高の波に直撃された。各社は外資に買収されるなど転変し、今では消費者市場での存在感は無いに等しい。円高は一つの産業を丸ごと消し飛ばすほどの猛威をふるったわけだ。

    2005/9/22日経産業新聞p24「プラザ合意きょう20年」


    参考文献

    1925/6/28大阪朝日新聞「この頃流行のラジオ屋」

    1925/12/14東京朝日新聞「蓄音機」

    1959/5実業の日本「一町工場から出発 世界的なテレコーダー会社を築いた赤井電機赤井三郎氏」

    1964/12先見経済「赤井三郎氏の語る私の感ずること」

    1966/12/8週刊現代「28歳で50万、ボーナス日本一の会社」

    1970/3サンデー毎日「私の人生決断の瞬間・赤井三郎氏」

    1970/9/21日経ビジネス「特訓1年で海外サービス・エンジニアに・赤井電機」

    1972/2オール大衆「業界の衝撃となる新開発経営法・赤井三郎」

    1973/11/12日経ビジネス「経営者は共産主義化している・赤井三郎氏」

    1975/1 Popular Electronics「Altari8800」

    1975/3/4読売新聞p5「電子の音楽、日本に上陸」

    1977/1/17日経ビジネス「マイコンが変えるビジネス社会」

    1981/9財界「かつての人気会社・赤井電機の転落譜」

    1985/4発明「わが社の技術開発・ローランド」

    1990/4/9日経ビジネス「挫折の軌跡・岡田眞氏(赤井電機社長)」

    1996/5/19日経新聞朝刊p11「小室マジック」

    2005/9/22日経産業新聞p24「プラザ合意きょう20年」

    松本望「回顧と前進」

    総務省統計局・長期統計


    執筆後記

    ボーナス日本一の会社の顛末記です。いかにメディアに注目され、個性的な社風で、社員が優秀でも、デジタル化という市場の変化にはほぼ無力でした。ある意味で残酷な社史と言えます。

    ですが、赤井電機という会社ではなく、赤井電機で働いた従業員にフォーカスすると、少し異なる風景が広がります。

    1970年代の赤井電機は(コアな)新卒者にとっても人気企業だったようで、オーディオ好きの藤村哲哉(慶應大学・卒)さんは"絶対に入社したい"という想いを持ち、極度の緊張の中で面接を受け、見事に入社します。その後、1980年代に藤村さんは元気のない赤井電機に見切りをつけ、ビデオソフト会社「ギャガコミュニケーションズ」を起業しました。

    その意味で、赤井電機は、企業家精神旺盛な若者の輩出という点では、大きな功績を残しています。起業家の人材の輩出企業という文脈では、1980年代の鈴屋(消滅済)、1990年代の日本興業銀行(消滅済)、2010年代のマッキンゼー(現存)に通じるものがあります。


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