ユニデン - 藤本秀朗

#国内投資 #2019/9/3

藤本秀朗・ユニデン創業者。日本の電機メーカーとしてはいち早くグローバル生産体制を確立し、1980年代には「巧みな分業体制」として賞賛された。

イラスト:筆者作成(参考:1985/5/12日経ビジネス)

NICS生産〜北米輸出(1973年)

  • 前史:中堅商社マンが起業

  • 背景:ニクソンショック(1971年)

  • 決断:NICS生産〜北米輸出(1973年)

  • 結果:最終赤字107億円(2009年)

  • 考察:グローバル化よりも商売第一

  • ユニデン - 基本情報

    売上高 - 過去推移

    単位:億円

    出所:有価証券報告書、会社四季報


    売上構成比 - 過去推移

    単位:%

    出所:有価証券報告書、会社四季報


    売上高利益率 - 過去推移

    単位:%

    出所:有価証券報告書


    決断前史:中堅商社マンが起業

  • 1960年 藤本秀朗が日本大学を卒業
  • 1960年 藤本秀朗がツルミ貿易に入社
  • 1966年 会社設立・市川工場の新設
  • 1974年 香港現地生産を開始
  • 商社を脱サラして起業

    ユニデンの創業者・藤本秀朗氏は10代の頃から商社マンとして米国で活躍することを夢見ていたという。日本大学に進学後、在学中の1957年頃に藤本氏は、英会話の勉強に加え、学生を動員したアルバイト会社「大日株式会社」を起業し、アドバルーンを上げる請負業を立ち上げて商才を発揮したという。1960年に日本大学を卒業し、中堅輸出商社と言われた「ツルミ貿易」に就職し、入社2年目で米国駐在を果たした。

    藤本氏が電機業界に足を踏み入れた理由は、米国でトランシーバー製造会社の経営再建に関わったことに始まる。そして、1967年に藤本氏はツルミ貿易から、このトランシーバーメーカーの株式を買い取って「ユニ電子産業(ユニデン)」を設立し、商社マンから起業家に転身した。

    トランシーバー地獄を回避

    創業期のユニデンの主力事業は、トランシーバーの米国輸出であった。当時の為替では米国での生産ではなく、相対的に賃金が安い日本生産の方が競争力があったため、藤本社長は日本で生産したトランシーバーを米国にOEMで輸出することで業容を拡大した。特に、1970年代には米国内で自動車のスピード違反の取締りを回避するために、トランシーバーが大ブームとなり、1972年時点のユニデンの売上高は推定10億円程度であったが、1976年には400億円を突破して急拡大に成功した。

    しかし、1976年を境にトランシーバーブームが終焉を迎えると、市場規模は1976年の1150万台から、1978年には650万台へと約1/2に縮小した。1976年の時点でユニデンは需要急減に備えて30万台規模のキャンセルを決断して倒産を回避した。なお、市川工場の在庫分のトランシーバーは、ブルドーザーによって地中に埋められて廃棄されたという。

    ブームの終戦により、ユニデンは1976年の売上高418億円から、1979年に約120億円に激減するが、ギリギリの判断によって企業倒産を免れた。

    なお、同業のトランシーバーのトップメーカーだった「サイバネット工業(1977年3期売上高671億円)」は大量の在庫によって経営が行き詰まり、1979年に京セラに吸収合併される形で消滅。1980年にサイバネットの創業者・友納春樹は後悔の念を語っている。

    友納春樹(サイバネット創業者・1980年)

    急成長していたのが、一転して急降下ですからね。この4、5年間、まさに天国と地獄の両方を経験したような気持ちですよ。CB(市民バンド)トランシーバーの最大手の専業メーカーとして、需要の急減をなぜ見通せなかったのか。そう言われれば、見通しが悪かったと言わざるを得ないでしょう。

    市場をよくつかんでいなかったことや需要変化への対応が適切でなかったことなど、反省すべき点も多々あります。ただね、振り返ってみるとそうは簡単に言えない事情もあるし、何か運命的なものが作用したのではないかと感じる面もあるわけなんです。

    今度の"地獄"の経験で一番感じさせられたのは会社というものは上り坂のときは社長が1動くと、10倍にも100倍にもなっていい方向に動くが、悪くなると、1の動きは1にしかならない。1以下になる場合だってあるということですね。自分1人の力がいかに弱いかを思い知らされましたよ。いいときはそれに気づかない。100倍になるとそれは自分の力だと思い込んでしまう。頭で考えると、わかり切ったことのようですが、これは敗軍の将になった人でないと、本当のところはわからないでしょうね。

    1980/1/28日経ビジネス「敗軍の将、兵を語る・友納春樹・サイバネット工業社長(上)」


    背景:ニクソンショック

  • 1971年 ニクソンショック
  • 1985年 プラザ合意
  • 円高ドル安の進行

    1971年に米ニクソン大統領は金とドルの交換停止を発表し、1970年代を通じて円高ドル安が進行。この結果、安い日本人という人件費を武器にした日本の製造業は相次いで行き詰まり、より賃金の安い新興国がグローバル生産拠点として発展した。

    1985年には先進国の間で締結されたプラザ合意により、円高ドル安が一段と進行したため、日本国内では「製造業の空洞化」による雇用維持が問題となる。

    日経ビジネス(1971年)

    1ドル360円は、永久不変であると考えてきたのに、"為替レートは動くもの"という前提に立った企業戦略が必要だ。360円を不変とするから、わずか2〜3%の利益幅の輸出を可能にする。それ日本の輸出競争力でもあった。...(中略)...使い捨て商品の多くが、発展途上国からの輸入品で間に合い、日本企業は高級品生産に特化しなければならない。

    1971/12/27日経ビジネス「70年代を見直す」

    NICSの経済発展

    一方、新しい生産拠点としての台湾・韓国・シンガポール・香港が注目を浴び、NICS(Newly Industrializing Countries)と呼ばれた。

    しかし、1980年代の時点で日本国内ではアジア各国を「遅れた国」とみなす意見も多く、NICSで現地生産を決断する日本企業は少数派であった。

    日経ビジネス(1985年)

    景気後退に見舞われながらも、すでに一部産業分野では日米欧を凌ぎつつあるアジア。もはや、「遅れた地域」という"常識"は通用しない。特に注目すべきは韓国、台湾、香港、シンガポールという「4匹のドラゴン」..(中略)

    だが、アジアを「遅れた地域」とのみとらえる目には、その流れが映ることもあるまい。アジアに関するかつての"常識"はもう通用しなくなっているのだ。まず、アジアを「産業国家」としてとらえ直す。そしてその内部の変化や、アジアと超大国とのかかわりから、超大国の戦略を読む---そうした視点が今、必要なのではないか。

    1985/9/2日経ビジネス「岐路に立つNICS」


    決断:グローバル生産体制(1973年)

  • 1979年 AMERICAN RADIO CORPORATIONを買収
  • 1979年 コードレス電話の発売
  • 1984年 衛星放送受信機を発売
  • アジア新興国での現地生産

    1973年にユニデン(藤本社長)はアジア地区での現地生産を開始。以降、賃金の安い国(台湾・シンガポール・韓国・香港)で集中生産することで、製品の価格を極限まで安くすることを試み、国内・国外に関係なく、世界で一番安く製造できる国に進出した。

    藤本秀朗(ユニデン社長・1986年)

    もはや日本では労働集約的な産業は成り立たない。これが大前提です。日本には労働力がなくなってしまった。今はもちろん、13年前でも中学卒業者は「金の卵」といわれるほど採るのは難しかった。高校卒業者にしても、ベルトラインに並ばせるのはほとんど不可能です。それでどうなったかというと、下請けに部品を作らせ、自分は最終組み立てだけということになる。

    一方、台湾は18歳から22歳までの若くて良質な労働力が豊かなのですね。だから下請けを使わなくても、自社工場で一貫作業体制を自由に組むことができる。一見すると、日本で作る方が品質が良いように思えますが、生産の現場から見ますと、現実には一貫作業で作る台湾の方が遥かに良いものができますよ。...(中略)

    青森県で作って米国へ出したら無税、東京で作ったものには6.5%課税されるとすれば、誰でも当然、青森へ行きますよね。国境を取り払って考えれば、誰もが台湾や香港など海外へ出ていくはずです。まあ、うちはたまたま国内に地盤がなかったから、早い時期に出やすかったといえますけど。

    1986/5/12日経ビジネス「編集長インタビュー・藤本秀朗」

    新商品の連続開発(1979年)

    1980年代を通じてユニデンは「総合通信機メーカー」を目指し、寿命の短い新商品を米国市場に投入することで業容を維持した。

    まず、1979年にユニデンは格安コードレス電話を米国で発売した。当時、米国内でコードレス電話の価格帯は300ドル〜3000ドルであったが、ユニデンは市場価格を大幅に下回る200ドルという価格設定をしたため、ユニデンはコードレス電話の市場を瞬く間に席巻し、1984年には米国内のシェア60%を[*1]確保した。

    また、ユニデンは販売促進のために、1979年にAMERICAN RADIO CORPOTATIONを買収するとともに、テレビCMを通じた販売促進を実施。CMの俳優にはプロ・ゴルファーの"ジャック・ニクラウス"を起用し、話題を集めた。

    電話に次ぐ大型商品として、1984年にユニデンは米国で衛星放送受信機を発売。米国は国土面積が広大なため、池上放送を視聴できない世帯が約30%存在したため、テレビの視聴を可能にするために衛星放送が1980年代に普及し、CATV会社と制約せずに合法的に衛星放送を視聴できる受信機がヒットした。ただし、1986年にCATVが放送の暗号化を行ったため、衛星放送受信機のブームはすぐに終わった。


    結果:最終赤字102億円(1999年)

    上場後に士気低下

    1990年にユニデンはコードレス電話の販売で業容を拡大し、東京証券取引所第一部には指定され、かてねより目標だった「一部上場」を成し遂げた。ところが、東証一部上場後に古参社員は数十億円の資産をもつことになり、逆に社内の士気低下につながったという。

    藤本秀朗(1993年)

    (筆者注:一部に上場して)皆、目標を失っちゃたんです。...(中略)...なんとか上場できるような会社をつくろうと、皆で始めたのが、最短距離を走って一部上場を果たした。しかし、その間に、いろいろな垢(あか)がたまり、マンネリになり、プロダクトも老朽化する。リッチになって、ガッツも失ってしまった。

    1993/11/1日経ビジネス「編集長インタビュー・藤本秀朗」

    コードレス電話市場の消滅

    1990年代から2000年代を通じて全世界で携帯電話が新しい通信機として普及した。これの変化により、ユニデンの牙城であったコードレス電話という固定電話の市場が縮小し、1999年にユニデンは102億円の最終赤字に転落した。また、ユニデンの売上高も、1998年3月期の1,144億円から、2002年3月期に607億円へと激減した。

    ユニデンは市場の縮小にあわせて、従業員の削減を実施。2010年6月時点で10,134名いた連結従業員数は、2015年6月時点で1,130名となり、9割の社員がユニデンを去った。


    考察:グローバル化よりも事業の創り込み

    ユニデンの盛衰は、時代の変化に合わせて「グローバル化」を志向したとしても、展開する事業が根本的に強くなければ、どこかで行き詰まる事を示している。

    ユニデンの功績は円高ドル安という時代の流れをいち早く察知し、香港、台湾などのNICS各国での現地生産に集中投資し、いち早く生産のグローバル化を成し遂げた点である。ユニデンの経営方法はメディアを通じて日本企業の経営者に共有され、新興国進出のある種の模範事例となった。

    一方でユニデン教訓は、トランシーバーや衛星放送受信機などの流行り廃りがある短命事業が中心で、安定した利益を確保できなかったことにある。そして、頼みの綱であったコードレス電話が携帯電話の普及により市場が消滅すると、ユニデンは厳しい状況に。現在、ユニデンはユニデンHDとして上場を維持しているが、往年の勢いはない。

    ビジネスパーソンは往々にして「グローバル化」を至上命題のように思い込むが、あくまでも地域展開の拡大にすぎない。グローバル視点は必要だが、優先順位としては事業の創り込みが先ということだろう。



    参考文献

  • [*1]1987/6/8日経ビジネス「ユニデンの「三角経営」も曲り角に」
  • 1971/12/27日経ビジネス「70年代を見直す」
  • 1980/1/28日経ビジネス「敗軍の将、兵を語る・友納春樹・サイバネット工業社長(上)」
  • 1986/5/12日経ビジネス「編集長インタビュー・藤本秀朗」
  • 1985/9/2日経ビジネス「岐路に立つNICS」
  • 1987/6/8日経ビジネス「ユニデンの「三角経営」も曲り角に」
  • 1988/4/25日経ビジネス「人・藤本秀朗」
  • 1993/11/1日経ビジネス「編集長インタビュー・藤本秀朗」