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日本NCR - 後藤達也

本業投資 本流出身者 啓蒙活動+サービス重視 小売業の近代化

後藤達也(ごとう・たつや:日本NCR元社長)。日本の小売業の近代化に尽くし、レジの販売を通じた開業支援によりスーパーマーケット産業を創造した。イラストは依頼作成

日本のスーパーマーケット産業を創造する

  • 紀ノ国屋のスーパー開業を支援
  • 1953年頃に後藤達也(日本NCR・副社長)は東京青山の果物屋「紀ノ国屋」に対して、米国で普及しつつあるセルフサービス式のスーパーマーケットへの転業を提案し、同社の増井社長は業態転換を決断した。日本NCRは紀ノ国屋に対して、海外事例の紹介、レジ機械の導入、値付け方法、店員教育を実施してスーパーの開業を全面的に支援し、1953年に紀ノ国屋は日本初のスーパーマーケットを開業した。だが、大学教授などの専門家は、スーパーは時期尚早であるとし、業界関係者も紀ノ国屋の増井社長を「セルフ・サービス狂」と揶揄した。

  • スーパーマーケット産業の創出
  • 1950年代を通じて日本各地にセルフサービス式のスーパーマーケットという産業が定着。イトーヨーカ堂、ダイエーなどの大規模小売業も出現し、1960年代にはスーパーマーケットが日本の小売業の新しい形として定着した。日本NCRは全国に営業サービス拠点を充実させ、スーパーの開業を支援することで業容を拡大。レジ機械の販売と経営アドバイスによってスーパーマーケットという巨大産業の成長を裏から支援し、売上高純利益率20%という驚異的な高収益を記録した。

    目次

  • 日本NCR - 基本情報
  • 売上高 - 過去推移

    売上構成比 - 過去推移

    売上高利益率 - 過去推移

    従業員数 - 過去推移


  • 機械式レジの普及
  • 1910年代 米レジ業界の独占企業NCR

    1930年代 戦前の日本でレジは普及せず


  • 小売業の経営近代化を支援
  • 1950年代 1. 経営合理化の啓蒙+米国視察

    1950年代 2. 紀ノ国屋のスーパー開業支援

    1960年代 3. 営業・サービス体制の強化


  • 小売業の近代化に貢献
  • 1960年代 スーパーマーケット業界の創出

    1960年代 売上高純利益率20%超え


  • [その後]業績不振〜上場廃止
  • 1970年代 電子化により競争激化

    1980年代 人材流出

    1990年代 資産売却〜上場廃止


    日本NCR - 基本情報

    売上高 - 過去推移

    単位:億円

    出所:有価証券報告書、会社四季報


    売上構成比 - 過去推移

    単位:%

    出所:有価証券報告書、会社四季報


    売上高利益率 - 過去推移

    単位:%

    出所:有価証券報告書


    従業員数 - 過去推移

    単位:名

    出所:会社四季報、有価証券報告書、日本NCRwebページ


    機械式レジスターの歴史

  • 1884年 米国でNCRの設立
  • 1912年 米NCRが独占禁止法で有罪に
  • 1915年 NCR出身者・WatsonがIBM社長に就任
  • 1916年 日本進出(米国貿易会社と提携)
  • 1935年 日本金銭登録機と合弁会社(米資本が70%取得)
  • 1950年 日本ナショナル金銭登録機(日本NCR)として再出発
  • 米レジ業界の独占企業NCR

    産業革命によって精密な歯車の量産が可能となり、1879年にJames Rittyが米国初の機械式レジスターを開発した。その後、1884年にJohn Henry PattersonはRittyからレジスターの特許と会社を買収し、NCR(National Cash Register Company)を設立してレジの製造販売に参入した。Pattersonは全米の小売業者に対して、レジという機械を販売するのではなく、「店員による売上金の誤魔化しを防止する」という人間不信を解決するサービスとして機械式レジを売り出した。

    NCRは小売店に対してレジの導入や、経営全般をアドバイスするセールス部隊によって業容を拡大。1911年までにNCRは強力な販売網を確立して全米シェアNo.1を獲得した。しかし、あまりにもNCRのビジネスが強く、1912年頃に創業者を含む経営陣が独占禁止法により有罪に問われた。

    ちなみに、1886年にThomas John Watson, Sr はNCRに入社し、1週間で100ドルを稼ぐ敏腕セールスマンとして活躍。その後、Watsonは1914年にCTR社に転職し、1915年に同社の社長に就任した。1924年にWatsonはCRTの社名をIBM(International Business Machine)に変更し、統計集計のためのパンチカード事業により業容を拡大した。

    戦前の日本でレジは普及せず

    1906年に牛島商会が機械式レジの将来性を見出し、NCRの日本における販売代理店となった。その後、1916年に米国貿易会社(A.T.C)が牛島商会に代わってNCRと契約を締結し、日本市場におけるNCR製の機械式レジの本格販売を開始した。

    当時の日本の商習慣は大福帳と、店員によるそろばん(手計算)が中心であったが、徐々に近代的な複式簿記に移行しつつあった。店員不正防止の観点からも、機械式レジの導入は小売店にとって有効であったが、機械式レジは高額(当時のセールスマンの月給の5〜50倍)であったため、導入に対する費用対効果の問題からあまり普及しなかった。

    そこで、米国NCR本社は、NCRを取り扱う米国貿易会社に日本人で米NCRの社員であった後藤達也を派遣。後藤は、機械式レジを日本国内で普及させるためのセールス部隊の育成や、商業近代化のための啓蒙雑誌「燈台」を刊行するが、高額なレジはなかなか普及しなかった。当時はタテ書きが一般的で「算用数字が預金者が信用しないからだめだ」[1963/11/18ダイヤモンド]としてNCRの機械の導入を断った銀行も存在し、近代的な数字利用に対する否定論が根強かった。

    実際に、機械式レジを導入した店舗は三越など、ごく一部の有力小売店であり、需要は限定的であった。

    (日本NCR:経営の系譜)当初、米国貿易会社はNCRの日本事業を担ったが、1935年に米NCRと国産メーカー日本金銭登録機による合弁会社「日本ナショナル金銭登録機」(米国70%:日本30%)を設立し、機械式レジ会社は国内で一本化された。だが、1940年に日本政府はNCRを敵国資産と判断し、日本ナショナル金銭登録機は東芝に売却され、東芝の子会社として再発足した。しかし、1945年8月に日本がポツダム宣言を受託したことを受け、1946年に日本ナショナル金銭登録機(日本NCR)が復活。日本NCRは、1950年に大仁工場を東京電気器具(東芝系)に譲渡し、販売中心の外資として日本市場に復帰した。


    零細小売業の近代化

  • 1953年 紀ノ国屋のスーパー転業を支援
  • 1957年 大磯工場の稼働
  • 1959年 全国に40箇所の営業/出張所を整備
  • 1962年 東京赤坂に本社ビルを竣工(赤坂1-2-2)
  • 1966年 相模原に教育センターを新設
  • 米国視察+スーパー開業支援

    1945年の終戦直後に、後藤達也(日本NCR・副社長)は「事務の能率化、あるいは経営の合理化に務め人物資源を十分に活用して輸出産業を発展しなければならない」と考え、1949年に日本事務能率協会(日本経営協会)を立ち上げて、同協会の副会長に就任した。協会活動を通じて後藤達也は日本の経済界(大蔵省、通産省、商工会議所など)に最新の機械を用いた「経営合理化」の重要性を説き続けた。

    また、1950年に日本NCRが従業員86名で再スタートを切ると、直後に後藤達也(日本NCR副社長)と長戸剛(同企画課長)は渡米して米国の流通事情を視察し、スーパーマーケットの急成長に着目。当時は冷蔵庫が日本国内で普及していなかったが、日本でもアメリカと同様にスーパーマーケットが定着すると考えた。そこで、1953年に後藤達也はスーパーマーケット7原則を提唱して、零細小売業の近代化=スーパーマーケット化を推し進める。

    後藤達也(日本NCR社長、1957年)

    結論として私が申し上げたいことは最近、マスプロダクション、大量生産に対する大量販売ということが大きく叫ばれております。日本でもテレビが一吋一万円という相場であったのがマスプロのお蔭で一四吋のものが七万円とか五万円という値段で買えるようになった。マスプロは時に生産過剰となります。生産が進みすぎてストックがあふれてしまう、そうなるとどうしてもこれを売らなければならないので割引しても何しても売るという面が出て来ます。これがマスプロの結果でしてアメリでは現にその結果が現れております。

    日本でもすでにそれに直面しており対岸の火ではなくなっている。それがあるので割引ハウスの販売も決してバカにならないのです。そしてこれを止める方法も殆どないでしょう。日本では販売協定とか、安く売る小売店には、製品を売るとか占いとか言っておりますが、果たして何時まで維持できるか疑問だと思います。いずれはこういう時期が来るものだと思っていただきたい。

    1957/1商業界「小売業界の革命期・後藤達也」

    「紀ノ国屋」のスーパー開業支援

    1953年頃に後藤達也(日本NCR・副社長)は東京青山にある果物屋「紀ノ国屋」を頻繁に利用していた。ある時、後藤副社長は紀ノ国屋の店主に対して、アメリカで普及していたセルフ方式のスーパーマーケットへの業態転換を提案したところ、店の幹部がセルフ化に賛成し、紀ノ国屋の増井社長は日本初となるスーパーマーケットに業態転換することを決断した。だが、当時の大学教授などの専門家は、冷蔵庫の普及率が低い等の理由で、スーパーマーケットの開業には悲観的であったという。このため、業界関係者は増井を「セルフサービス狂」[商店界44(7)]と揶揄した。

    それでも、日本NCRは長戸毅(企画宣伝課長)を通じて紀ノ国屋の開業を全面的に支援し、セルフ・サービスに必要となるレジ機械販売のほかに、商品包装、値付け、陳列方法、レジ訓練などのサービスを半年間にわたって提供した。当時は日本にスーパーに関する文献がほとんど存在せず、紀ノ国屋の幹部は長戸氏が所有するスーパーの文献を翻訳し、店づくりの参考にした。また、後藤副社長は紀ノ国屋のために、銀座3丁目のNCR本社の副社長室を貸し出し、紀ノ国屋の増井社長は半年間にわたって週に何回か通い詰め、様々な課題を検討した。

    日本NCRの支援により、1953年に紀ノ国屋は日本初のスーパーマーケットを東京青山に開業。日本初のスーパーマーケットとして開業直後から話題を呼び、新聞・雑誌・ラジオなどの様々なメディアが東京紀ノ国屋を取材した。紀ノ国屋のスーパーへの業態転換により、日本でもスーパーマーケットという業態が定着し、1950年代から1960年代にかけて、日本各地の零細小売店がセルフ式のスーパーマーケットに転業した。

    増井徳男(東京紀ノ国屋社長、1963年)

    折も折、当時、日本ナショナル金銭登録機株式会社の副社長をしておられた後藤達也氏が、よく買物にこられてたのですが、ある日「ひとつセルフ・サービスに切換えてみたらどうか」と話され、同社の企画宣伝課長(当時。現在日本ショッピングセンター株式会社専務)長戸毅を紹介してくださいました。...(中略)...

    今になれば夢のような話ですがその頃のセルフ・サービスなどといっても、誰にも通じませんでしたし、私自身もほとんど何も理解していなかったような状態でした。私は元来、どちらかといえば臆病のほうで一歩一歩進むたちなのですが、長戸氏の説明を聴くうちにまず最初に弟(専務)、次に店の幹部が、俄然、熱中いたし、そのうちに幹部全員がこれこそ紀ノ国屋の現状を打破し、飛躍すべき最高の方法だと確信するようになりました。...(中略)...

    専門家も、大学の先生がたもほとんどセルフ・サービスに対しては、悲観的であり、不可能論であり、時期尚早論でした。そして、それらの証拠の最大公約数は、①日本はアメリカとは事情が異なり、自家用車も、電気冷蔵庫も普及していないから、まとめて買わない。②週給制でない。③ご用聞きという便利な制度があり、とても現金持ち帰りにはなれない。④従業員の人件費はアメリカと比較にならないほど安い。⑤客は個人的な接客を好む、⑥万引きが多くて、うまくいかない。等々でした。

    1963/7商店界「セルフ・サービス十年の歩み・増井徳男」

    セールス部隊の教育

    1961年までに日本NCRは日本全国に63の営業所・出張所を設置し、全国各地で小売業の近代化を支援することでスーパーマーケット産業の台頭を側面から支援する体制を整えた。1961年の時点で日本NCRは北海道釧路から九州鹿児島に至る全国に営業所を設置し、東京都心部では溜池・上野・宝町・蒲田・新宿・池袋・渋谷・神田に営業所を集中設置してスーパーや百貨店など、小売店への手厚いサービスを実施した。

    日本NCRの63営業所(1961年時点):札幌、旭川、釧路、青森、盛岡、秋田、仙台、新潟、宇都宮、前橋、千葉、川崎、横浜、溜池、上野、宝町、蒲田、新宿、池袋、渋谷、神田、立川、松本、金沢、富山、静岡、浜松、名古屋、岐阜、津、京都、大阪、大阪北、和歌山、神戸、姫路、岡山、高松、松山、広島、松江、山口、小倉、福岡、大分、宮崎、長崎、熊本、鹿児島

    また、日本NCRは従業員の教育訓練を重視し、セールスマンは吉祥寺の訓練研究所、技術員は蒲田にてそれぞれトレーニングを受講した。1966年には相模原(現青山学院大・淵野辺)に教育センターを設置し、社員教育を強化している。

    後藤達也(日本NCR社長1959年)

    当社の経営方針としては「サービスは心臓である」ということを私は常に申しております。つまり、人間にとって心臓が一番大事であるように、事業経営に当たってはサービスということが最も大切である。お客にサービスする、売る前のサービスも、もちろん大切であるが、売ってからの後のいわゆるアフターサービスも非常に重要である、と申しておるわけです。...(中略)...

    だからこれらの愛用者を大切にして、あくまでもご満足ゆくサービスをしなければなりません。もう一つ、当社の商品は消耗品ではありません一度買ったら二十年も三十年も、あるいは四十年も使っていただいている人があります。こういう事業の性質から、お客さんではありますが、そういうお客さんと長く親密に交って、ともに出納組織の近代化と、健全化をはかってゆく、そこに根本組織があるわけです。

    1959/12/1経済展望「サービスは心臓である・後藤達也」


    小売業の近代化に貢献

  • 1960年 スーパーマーケットブーム
  • 1962年 東京赤坂に本社ビルを竣工(赤坂1-2-2)
  • 1966年 相模原に教育センターを新設
  • 小売業界の近代化に貢献

    1950年代から1960年代にかけて日本各地に無数のスーパーマーケットが開業。多くが呉服店などの零細小売からの業態転換であり、近代的な経営組織に欠けていたため、日本NCRによる開業支援(コンサルティングサービス)に対する引き合いが殺到した。スーパーの相次ぐ開業に対して、日本NCRは日本全国を網羅する営業サービス網を有効活用し、機械式レジ事業をスーパー向けに伸ばすことで高収益をキープした。

    1963年時点において、日本国内のスーパーマーケットのほぼ全てが日本NCRの指導を受けた店であったという。[1963/11/18ダイヤモンド]

    日本NCRは日本小売業の近代化に貢献し、スーパーマーケットという新しい産業を定着させた。紀ノ国屋の増井社長は、日本NCRの貢献について「後藤達也氏の好意も忘れることができません。今でも銀座三丁目の表通り角の銀芳閣ビルの前を通るたびに、四階の当時副社長室のあった窓を感慨深く見上げてしまいます」[商店界44(7)]と語っている。

    スーパーの出現により、1960年代には日本の小売業界で「流通革命論」が台頭。経営の近代化に遅れた零細小売業の淘汰が確実となり、波に乗り遅れた商店主たちは政治的に結託することで、自らの商圏にスーパーが新規出店することに断固反対するなど、業界内で明暗が分かれた。スーパーは時間をかけて、日本に定着していった。

    増井徳男(紀ノ国屋社長、1963年)

    私自身は、世の中で何といおうとセルフ・サービス狂といわれようとセルフ・サービスの近代化のために火をともすのであると確信しておりました。そして、当時、アメリカやヨーロッパに浸透しつつある流通革命の嵐が、必ずや日本をも席巻する時がそう遠くない将来にくるであろうと考え、セルフ・サービスを一つの足がかりとして、合理的な近代小売業の道を進まうと心を決めておりました。

    もしも読者の皆様が、紀ノ国屋の過去十年のスーパー・マーケットとしての発展を成功であると、また、私自身の考え方が歴史の進展に合っていたとお考えになるとするならば、それらの成功、正しさの大半は、長戸氏の卓越せる見識と、日本の配給機構、特に小売業を近代化しようという情熱に負うものであり、文字通り今日の紀ノ国屋はその識見と情念と努力の賜物と、心から感謝と敬意を表するものであります。

    ともかく、セルフ・サービスの技術的問題の解決がなかなかつかない頃で、苦難の連続ではありましたが、どうにか好調に推移し、また、私に続いて全国各地に、だんだんとセルフ・サービス店も出てまいりました。

    1963/7商店界「セルフ・サービス十年の歩み・増井徳男」


    後藤達也(日本NCR社長、1959)

    今日の中小企業特に小売業の出納法など、われわれが常に指導して新しい方法を取り入れたものです。小売店の今日発展しているのについてはわれわれは大いに貢献していると考えております。現に日本の百貨店、及び連鎖店なども世界で米国に次ぐ繁栄をしている国となりました。今日まで出来るだけ経営の改善に就いてご指導致しました。

    1959/12/1経済展望「サービスは心臓である・後藤達也」

    売上高純利益率20%超え

    1960年代を通じて日本NCRは高い売上高利益率を維持。競1960年代前半の時点で、日本NCRはレジスターで国内シェア60%を確保し、競合の東京電気(東芝TEC)を利益率とシェアで大きく凌駕した。

    日本NCRの強さについて、競合の東京電気・社長(隅野真一郎)は「どうしてもNCRにかなわない。相手はすでに大手百貨店などのいいお客をがっちり抑えていて、手も足も出なかった」[1984/12/24日経ビジネス]と述懐している。

    ダイヤモンド(1962)

    "スーパーマーケット"を経営する上で、金銭登録機はきわめて重要な役割を果たす。そこで、日本NCRでは、販売政策の一環として、この新しい営業方式を日本でも採用することを提唱し、実地指導をすることにした。現在では3000軒くらいになっているであろうか。数えているひまがないほど、つぎつぎに生まれている。これら、日本のセルフ・サービル店のほとんど全部を日本NCRが指導して開店させている。

    ところで、"スーパーマーケット"は、次のような原因が重なりあって、今日発展していると考えられる。1、近年大量生産によって商品が規格化された。その結果、消費者は商店の格に重点をおかず、商品名で買うようになった。2、買いやすい、スピーディーに買い物ができる、うるさくつきまとう店員がいないといった利点から、消費者がセルフ・サービスを好むようになった。3、商店側も、新しい経営技術を背景に、計算的な管理を行なおうという気風が高まってきた。

    日本の流通革命は、10年前にスタートした。それは、日本NCRがアメリカから導入したセルフ・サービス方式で、火蓋をきったというわけである。

    1963/11/18ダイヤモンド「"経営近代化"のパイオニア・浜野弥一(下)」


    浜野弥一(日本NCR社長、1963年)

    いま、うちの会社は、時流とともに経営コンサルタント(診断)の会社とか、ブームメーカーとか呼ばれて発展している。それは、苦しかったあの当時の種マキが、ようやくにして実を結んだという感じだ。感慨無量!

    1963/11/18ダイヤモンド「"経営近代化"のパイオニア・浜野弥一(下)」


    その後...業績不振〜上場廃止

  • 1969年 ジャスコ発足(スーパー再編)
  • 1971年 ECRの開発
  • 1978年 競争激化により業績悪化
  • 1985年 POSをヨーカ堂に大量納入
  • 1994年 輸出の中止・蒲田工場を売却
  • 1998年 本社社員を620名削減
  • 1999年 赤坂本社を133億円で売却
  • 2000年 米本社の公開買い付けにより上場廃止
  • 2000年 相模原研修所を売却(現青山学院大)
  • 2006年 大磯工場を売却
  • 東京電気がシェアNo.1へ

    1970年前後にレジの顧客である小売業(スーパー)の大規模化および寡占化が進行し、店員教育を自前で行う企業が増加。このため、スーパーの開業支援を行う日本NCRという強みは、スーパー業界が創業期から成長期にシフトしたことで消滅し、日本NCRの売上高利益率の低迷の一つの要因となった。

    また、技術面では1970年初頭にICおよびMPUが普及し、レジスターの電子化が進行。従来の機械式レジは徐々に淘汰され、電子式のレジスター(ECR)が市場の大半を占める時代が到来した。当初、日本NCRは1971年に大磯工場にてECRの生産を開始し、日本国内のみならず海外輸出を行うことで高い利益率を確保したが、1971年のニクソンショックを発端とする円高ドル安の進行により、国内生産による輸出競争力が低下。また、電子式では各パーツを組み合わせることで簡単にECRの製造に参入できるため、シャープ、カシオ、日本電気、東京電気(東芝)の各社もECR市場に参入。1970年代には国内だけで20社がECRに参入したため価格競争が激化した。

    レジの競合会社のうち、技術開発で先陣を切ったのがNCRの宿敵・東京電気であった。1971年に東京電気は世界で初めてマイコン(MPU)を組み込んだレジスター「マイコニック」を開発。当初は高額がネックとなり普及しなかったが、従来のECRに比べて小型軽量化を実現し、電子部品の価格下落とともにコストを改善。1973年に東京電気はダイエーへのECR納入に成功し、日本NCRを脅かした。

    1978年までに東京電気(東芝)がレジスターの国内シェアを55%確保し、日本NCRのシェアは約40%に低下。電子化により、日本NCRは競合の東京電気に対して劣勢となった。

    また、ECRの次の大型商品として1980年代に普及したPOS分野でも東京電気が攻勢を仕掛け、日本NCRは苦戦。POSはレジ装置以外にシステム全体を構築する技術部隊が必要なため、人件費および開発費の高騰がNCRの収益を圧迫した。競合の東京電気は1984年に日本IBMと提携してPOSのシステム構築体制を強化したが、NCRはコンピューター部門を自社で抱える関係上、同様の提携を他者と締結することができず、POS分野でも東京電気・日本IBMの連合の後塵を拝した。

    日経ビジネス(1978年)

    最近の日本エヌ・シー・アールを評して、ある流通関係者はこう語る---「魚雷を何発か受けながら、面舵をいっぱいに切ろうとしている巨艦に似ている」。同社は昭和48年に「日本ナショナル金銭登録機」から現在の社名になるまでは、流通・金融業のユーザーをほぼ独占し、高収益の"超優良企業"を自他共に認めてきた。...(中略)

    しかしここ数年、事務機のコンピューター化が進む過程で、競合メーカーが続出、価格競争も激化し、同社の製品シェア、利益率は大きく落ち始めたのである。パイオニアメーカーとしての宿命ともいえるが、この低落傾向に歯止めをかけ、反撃に転じる決め手に、いまひとつ欠けるというのが同社の実情のようだ。

    1978/12/4日経ビジネス「競合メーカー続出、反撃へ決め手欠く・日本エヌ・シー・アール」

    人材流出

    1970年代を通じて日本NCRは人員削減を実施し、1972年に約7000名だった従業員数は、1979年までに約5700名に減少した。日本NCRの関係者は「あの時の決断がなければ今日の繁栄はあり得ない。社長にとってはまさに泣いて馬謖(しょく)をきる思いだったろう」「経営にも不透明感があった。それに不満を抱いてやめて行った人もいた」[1986/02/25日経産業新聞]と明かしている。

    1970年代を通じて日本NCRの卒業生が各分野で活躍。岩瀬真義はイトーヨーカ堂の取締役に就任し、原田泳幸は日本マクドナルドに転職するなど、卒業生は流通分野で頭角を現した。1984年に日本NCRは卒業生のネットワークを自社営業に活かすためにOB会を組織している。

    業績不振〜上場廃止

    1985年に日本NCRはイトーヨーカ堂へのPOSの大量納入に成功した。だが、米NCRは業績不振により1991年にAT&Tに74億ドルで買収され、1997年にNCRは再び独立するなど、米国本社の経営は迷走を続けた。この間、日本NCRの業績も競争の激化により低迷し、1995年11期に上場後初の最終赤字に転落した。

    1990年代を通じて、日本NCRは資産売却、工場閉鎖、人員削減を実施。1999年に日本NCRの本社ビル(東京赤坂)を133億円で売却し、本社の中央区新川に移転した。2000年には相模原研修所、2006年には大磯工場を売却し、日本事業を大幅に縮小する。

    2000年6月に日本NCRは米NCRによる公開買い付けにより上場が廃止された。ある株主は「ノスタルジアは感じるが、本社の決定だから」[1998/04/20日経産業新聞p24]と後悔しつつ、日本NCRの株式を手放したという。


    参考文献

    新聞・雑誌記事

    1957/1商業界「小売業界の革命期・後藤達也」

    1959/12/1経済展望「サービスは心臓である・後藤達也」

    1961/2実業の世界「オートメーションの花形・日本ナショナル金銭登録機」

    1963/7商店界「セルフ・サービス十年の歩み・増井徳男」

    1963/11/18ダイヤモンド「"経営近代化"のパイオニア・浜野弥一(下)」

    1978/10政経人「"超優良"の金メッキがはげた日本NCR」

    1978/12/4日経ビジネス「競合メーカー続出、反撃へ決め手欠く・日本エヌ・シー・アール」

    1986/02/25日経産業新聞p32「日本NCR社長三富啓亘氏」

    1998/04/20日経産業新聞p24「東証から消える、日本NCR」

    書籍・その他

    有価証券報告書

    会社四季報

    ビジネス機械・情報システム産業協会・流通システム機器部会「小売業を支えたレジスタ・POSの125年」


    事例一覧