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プリンス自動車 - 外山保/石橋正二郎

本業投資 本流出身者 大量生産-コスト削減 日産合併

イラスト:筆者作成

「ベンツを超えた!」と絶賛された幻の乗用車メーカー

  • 高級乗用車メーカーの量産投資
  • 1960年にプリンス自動車(外山保・専務)は「五カ年計画」を発表し、乗用車開発と乗用車量産工場の新設を決断した。総投資額は約200億円で、当時のプリンス自動車の年間純利益の20倍の金額であった。プリンス自動車はスカイラインとグロリアの2つの車種を高級車として開発し、東京都村山に新工場を建設することで、先発乗用車の「御三家」(日産・トヨタ・いすゞ)に追随した。

  • 日産自動車が吸収合併
  • 発売当初、グロリアは完成度の高い車種として、性能はベンツを超えると絶賛された。だが、日産とトヨタがすぐに高級乗用車の値下げによって対抗し、量産工場が村山の一拠点だけのプリンス自動車は劣勢に追い込まれて単独存続が困難となった。1965年にプリンス自動車は日産自動車に吸収合併される道を選択し、単独企業としての存続を諦めたが、グロリアとスカイラインは日産に継承された。

    目次

  • プリンス自動車 - 基本情報
  • 売上高 - 過去推移

    売上構成比 - 過去推移

    売上高利益率 - 過去推移

    従業員数 - 過去推移


  • プリンス自動車の歴史
  • 1940年代 立川飛行場の技術者が独立

    1950年代 ブリヂストンの兼業問題

    1960年代 資本自由化


  • 乗用車の量産に賭ける
  • 1960年代 1. スカイライン・グロリアの開発

    1960年代 2. 乗用車専門工場の新設(村山工場)

    1960年代 3. 浜松工場(ミシン製造)を分社化

    1960年代 3. 工場稼働〜グロリアDXの量産


  • 日産自動車と合併〜プリンス消滅
  • 1960年代 乗用車の競争激化

    1960年代 日産自動車と合併

    1960年代 労使対立の悪化

    1980年代 日産自動車の業績悪化

    1990年代 日産・村山工場の閉鎖


    プリンス自動車 - 基本情報

    売上高 - 過去推移

    単位:億円

    出所:会社四季報


    売上構成比 - 過去推移

    単位:%

    注:トラックと乗用車の比率は筆者推定

    出所:会社四季報、各種報道資料


    売上高利益率 - 過去推移

    単位:%

    出所:会社四季報


    従業員数 - 過去推移

    単位:名

    出所:会社四季報


    軍用航空機から自動車事業に転身

  • 1945年 立川飛行機の解体
  • 1948年 外山保ら従業員200名が独立
  • 1948年 電気自動車「たま号」の開発
  • 1949年 石橋正二郎(ブリヂストン)が出資
  • 1954年 エンジン技術習得のため富士精密と合併
  • 1954年 プリンス販売会社を設立
  • 1961年 社名を富士精密からプリンス自動車工業に変更
  • 立川飛行機の技術者が独立

    1945年の終戦により、全盛期には4万人の従業員を抱えた巨大軍需会社・立川飛行機は実質的に解体された。1948年に飛行場が接収されたため、旧立川飛行機の技術者は自動車製造に参入することを決め、外山保が200名の従業員を率いて独立し、「東京電気自動車(たま電気自動車)」を設立した。

    だが、自動車製造に必要な資金を工面できなかたため、1949年に東京電気自動車は経営危機に陥った。この時、タイヤメーカー・ブリヂストンの創業家・石橋正二郎が東京電気自動車の株式を取得し、経営再建を図る。

    ところが、1950年に勃発した朝鮮戦争により、鉛価格が高騰したため電気自動車はガソリン自動車に対するコスト優位性を喪失し、たま電気自動車は経営危機に陥った。自動車事業の続行にはガソリンエンジンの技術が必要であったため、1954年にブリヂストン系の富士精密と合併し、プリンス自動車が発足。同時に自動車販売のために、プリンス自動車販売を設立する。

    (補足)合併前まで富士精密はミシン製造や、繊維機械(自動織機など)の製造に従事しており、自動車関連はプリンス向けのエンジン製造のみであり、自動車メーカーではなかった。

    外山保(プリンス自動車専務・1960年)

    私は戦争中飛行機の設計や、製作をやったのです。それで終戦になり飛行機が終りになったときに一番飛行機に似ているのは自動車で、構造、機械、加工、板金塗装など、またできあがったもののテストの仕事等まで、全部似ていますね。そこでどうしても自動車を作ろうと私は考えたわけです。

    そうしたら、あつちこちから、日本で自動車をつくることができるか!君が自動車をつくるというのは道楽か趣味でやるのだろう。飛行機をつくっていても、自動車をつくることは困難だとずい分非難されて、非常に困りました。しかしみんなが止めるのももっともで、自動車はべらぼうに資金がかかるんですよ。つくるのにかかり、また売るのにもかかるんです

    1960/12経済時代「砂川に大自動車工場を建設・外山保」

    経済展望(1953年)

    飛行機会社が総て、平和産業に移行転身したのだから、当社の意図としては間違っていないが、事業として自動車工業はそれほど容易でないと同時に、予想外に資本を食う。昭和二十四年一月に二百万円増資、これを機会にブリヂストン(石橋)資本が入ることになり会長石橋正二郎氏、社長鈴木里一郎氏となった...(中略)

    当社は自動車メーカーとはいえ肝心の心臓部といえる「エンジン」は同じ石橋資本の富士精密荻窪工場でつくるものをつけるのだ。このエンジンは定評のあるものだが、然し、他社製品だけに採算的に当社に不利なことは勿論だ。

    1953/5経済展望「プリンス自動車は採算悪化せん」

    ブリヂストンの兼業問題

    ブリヂストンの石橋氏はプリンス自動車の経営を陰で支えたが、タイヤメーカーが自動車完成車メーカーを兼務することは現実問題として難しかった。ブリヂストンの取引先であるトヨタ・日産と円滑な関係を構築することと、プリンス自動車の経営を行うことは、経営上の観点から極めて難しく、1950年代後半に石橋正二郎はプリンス自動車の売却を模索していたと言われる。

    なお、1950年代後半のプリンス自動車は、経営層はブリヂストン系、旧立川飛行機系、石橋氏の仲間(財界人)、社内は旧立川飛行機系、富士精密系と様々なバックグラウンドの社員が入り乱れており、石橋正二郎はプリンス自動車の会長を一貫して続けたが、社長は頻繁に交代を繰り返しており、経営方針は安定しなかったものと推察される。


    国産乗用車の量産

  • 1957年 初代スカイラインを開発
  • 1960年 乗用車/トラック混成量産計画
  • 1960年 米ワシントン銀行より借款交渉
  • 1962年 村山工場の稼働
  • 1962年 グロリアDXの発売
  • 1963年 グロリアDXが好調
  • 1963年 2代目スカイラインを開発
  • 1967年 宮内庁がグロリアを御料車に採用
  • スカイライン・グロリアの開発

    1958年までにプリンス自動車は、新型乗用車「スカイライン」と「グロリア」の2車種を発表し、乗用車メーカーとして生き残りを図る。

    スカイラインの発売は大きな注目を集め、読売新聞は「エンジンは1500cc...(中略)...馬力は61馬力、最高時速125kmとアメリカの大型車なみで、国産車としては最高」[1957/4/29読売新聞朝刊]と高く評価した。だが、価格が高額であり「プリンスというとすごく高級なかんじがしちゃって、私たち庶民には持てない(笑)」[1964/10/7東洋経済]という感想を残す人もおり、大衆車ではなく高級車メーカーとして世間から認知されていた。

    スカイラインとグロリアは好調な売れ行きを見せ、プリンス自動車は高級乗用車メーカーとして業容を拡大。1959年の時点でミシン・自動織機・エンジンなどの副業部門の売上構成比は25%まで低下し、85%が自動車(トラックおよび乗用車)を占める自動車メーカーに転身した。

    また、1962年から1963年にかけてプリンス自動車は2代目スカイライン(1500cc)と、2代目グロリア(1900cc)を発表し、普及車種のスカイラインと、上位機種のグロリアという棲み分けを鮮明にし、創業当初の目的である大衆乗用車の製造販売を最終目的に据えた。

    田中次郎(元プリンス自動車・技術部長)

    自由化対策として、日本の自動車産業を幾つかの車種と会社とくっつけたものにしようと。例えばあらゆる車種、総合的な自動車をつくる会社と、それからある一部の、例えば小型車をつくるとか高級車をつくる会社とか、そんなふうにしようというのが通産省の考え方で、プリンスは高級乗用車をつくる自動車会社にしようといううわさが立ったんですね。

    ぼくらは高級乗用車だけをやっていたんでは食っていかれないと思って、そんなにされちゃ大変だということもあって、「グロリア」と「スカイライン」を分けて、まず「グロリア」をフラットデッキの大きな車にしまして、その次に「スカイライン」を小さくしようということで、S50というスカイラインにしたんです。

    1996自動車技術会「キ74から「たま」電気自動車、歴代プリンス車の開発・田中次郎氏」

    乗用車専門工場の新設(村山工場)

    1960年に外山保(プリンス自動車・専務)は五カ年計画を発表し、1964年末までに東京都村山にて乗用車1万台(月)の生産能力を持つ自動車量産工場を新設する方針を決め、土地買収がほぼ完了したことを発表した。買収地区は農地であったが、農地転用の正式許可を経て工場建設に着手した。

    イラスト:筆者作成

    (補足)村山工場稼働前の自動車生産台数は、乗用車1300台/月、トラック700台/月であった。

    村山工場の稼働後は、村山工場は自動車工場(主にグロリアの生産)として活用し、売り上げの約40%を占めるトラック生産を三鷹工場に移管する計画であった。また、荻窪工場では旧富士精密が抱える非自動車事業(織機などの繊維関係)の生産拠点として活用する計画であった。

    投資額は、村山工場の新設で225億円、乗用車量産設備で50億円、合計約275億円(プリンス自動車の年間純利益は約10億円[1959年12期])であった。年間利益を大幅に上回る投資資金を確保するために、米ワシントン輸出銀行から約800万ドルの借款を受け、グリーソン歯切り盤などの輸入工作機械の購入資金にあてた。また、メインバンクの住友銀行、大株主のブリヂストンからの資金援助を受けたものと推察される。

    なお、巨額投資を必要とする村山工場の新設について、業界内では賛否が割れ、順調に進むという見方と、大規模投資は危険であるという2つの見解が存在した。

    外山保(プリンス自動車専務・1960年)

    池田総理の10年間に経済成長率9%で国民所得が倍になると、自動車の需要は10倍になるといわれています。国民所得が倍になっても、食物費への支出は今までと大して変わらないので、生計費に余力が出てくる。その余力が自動車に流れる。アメリカでは自動車の月賦や維持費に所得の2割が使われています。日本でもそのうち何割かは自動車に向けられ、急速に自動車の需要が増える。その増え方が急カーブを描くと思うのです...(中略)

    では新工場でどういうものを作るかといいますと、その一つとしては今問題になっている大衆車ですね。これは早くから手をつけていて、プリンスをつくるときに、大衆車をつくろうと考えたのです。どういうものをつくろうか、いろいろ検討して、ドイツへいって技術提携の話をしたこともあったのです。

    1960/12経済時代「砂川に大自動車工場を建設・外山保」

    ダイヤモンド(1960年)

    大量生産の乗用車工場の建設計画があるが無理と思われる。...(中略)...大きな事業計画を持つと、あぶない。プリンス自動車は、その先に、大きな計画をもっているようである。富士精密は、東京都下の村山、砂川周辺に40万坪の地所を買う話を進めている。現在の自動車製造に使用している地所は4万坪だから、その10倍である。その土地に、日産1万台以上の乗用車専門工場を建設するということである。土地も含めて300億円以上の資金が必要である。

    1960/9/9ダイヤモンド「競争激化する自動車会社」

    ダイヤモンド(1960年)

    五カ年計画のすべり出しは、順調に進むものとみてよかろう。現在、当社は、好調である。当社の車は、乗用車も、小型トラックも、ともに、国産車としては高級車で、他社の車と真正面からの競争ではない。...(中略)...当面の利益増加は確実だし、ブリヂストンタイヤ社や住友系のバックもよいから、借り入れも容易。

    1960/9/16ダイヤモンド

    浜松工場(ミシン製造)を分社化

    1962年にプリンス自動車は旧富士精密の浜松工場(ミシンの製造)を子会社「リズムフレンド製造」として分社化し、実質的にミシン事業から撤退した。浜松工場の分離により、プリンス自動車の製造拠点は、荻窪、三鷹、村山に集約され、東京都内の中央線沿線に工場が集約された。

    他方、旧富士精密で製造を行っていた織機および航空宇宙分野は本社として事業を継続した。村山工場の稼働により、キャパシティーに余裕が生じた荻窪工場で、非自動車事業の経営を継続した。

    工場稼働〜グロリアDXの量産

    1962年にプリンス自動車は村山工場を稼働するとともに、新型高級乗用車「グロリアDX」を発売した。グロリアDXはベンツを凌駕する車種として注目を浴び、1962年12月には顧客対応できないほどの受注を抱える。

    プリンス自動車は高級車としての実績が宮内庁から認められ、1967年には「日産・ロイヤル」が日本メーカーとして初めて宮内庁の御料車に採用されている。

    野田経済(1963年)

    「グロリア・デラックス」の専門工場として都下村山に超近代化された量産工場を完成、いまや昼夜兼行のフル操業を行っている。社運をかけた国産最高級乗用車の"グロリア・デラックス"は発売以来、大きな人気を博し、去年12月などは多くの受注残をかかえて、注文に応じ切れなかったという...(中略)

    好調な業績を支えている「グロリア・デラックス」であるが、すでにスカイラインで高級車の先鞭をつけた実績もあり、性能的には、まさに国際水準と自他ともに認められている。一部の声では、このクラスで世界に君臨する西独のベンツよりも優れているといわれているほどで、日産のセドリック、トヨタのクラウンカスタムなどの強敵であることは間違いない

    1963/06/13野田経済「グロリアで勝負する・追いつけ追い越せのプリンス自動車」」


    日産自動車と合併〜プリンス消滅

  • 1965年 日産・プリンス合併合意
  • 1966年 日産自動車による吸収合併
  • 1967年 労使間で内紛が発生
  • 1998年 旧プリンス・荻窪工場の閉鎖発表
  • 1999年 旧プリンス・村山工場の閉鎖発表
  • 2004年 村山工場の閉鎖
  • 乗用車の競争激化

    1963年12月期にプリンス自動車は厳しい決算を公表。売上高純利益率は6月期7.0%から12月期4.3%に低下した。以降、1965年6期までプリンス自動車の売上高純利益率は3%台を推移し、慢性的な低収益に陥った。

    プリンスの利益率が低下した理由は、日産およびトヨタが相次いで高級乗用車の値下げを断行し、プリンス自動車が乗用車の値下げに追随できなかったことにある。1960年代を通じてトヨタと日産は乗用車専用工場を相次いで稼働したのに対し、プリンス自動車の量産拠点は村山工場の1つだけで、コスト低下に限界が生じていた。

    プリンス自動車は単独存続が困難となり、1965年にダイヤモンドは「乗用車中心のプリンスは生き残るだろうか?」[1965/4/26ダイヤモンド]と問題提起した。

    ダイヤモンド(1965年)

    確かなことは、ブルーバード、コロナに続くスカイラインが、上位2車の乱売戦に、巻き込まれ始めた点だ。プリンスの収益力と資金力から推して、トヨタ・日産との対決は危険である。現実に、40年6月期の総販売台数は、39年12月期を下回る。...(中略)...1000cc〜1500cc乗用車の乱売戦がおさまらない限り、収益はますます苦しくなる

    1965/4/26ダイヤモンド「乗用車中心のプリンスは生き残るだろうか」

    日産自動車と合併

    1965年5月31日にプリンス自動車(石橋正二郎・会長)は日産自動車との合併の覚書に調印し、日産として生き残る方針を決断した。日経新聞は一面記事で「日産・プリンスが合併」と報道し、自動車産業の業界再編の先駆事例として注目され、自動車業界を初めて一面記事で本格的に報道したニュースとなった。

    (補足)1965年の時点で、国内自動車産業の生産台数シェアは、1位トヨタ(25%)、2位日産(20.1)、プリンス(5.2%)であり、日産・プリンスの合併により、国内生産台数では日産がトヨタをわずかにリードする形となった。

    プリンス自動車工業は日産自動車との合併により、単独企業としての歴史に終止符を打った。村山工場、荻窪工場、三鷹工場の各製造拠点は日産自動車に引き継がれ、スカイライン・グロリアの各車種も日産に継承された。

    日経新聞(1960年)

    自動車業界は31日、日産自動車とプリンス自動車の両者が1966年末までをメドに合併するとの方針を発表したことに伴って、業界再編成は新局面を迎える見通しである。1962年12月、通産省の産業構造調査会乗用車政策特別小委員会が乗用車の自由化を目前にして、集中生産体制の確立、メーカーの提携合併を基本方針として打ち出して以来、久しく関心を集めてきた自動車業界の再編成はこの合併計画の具体化によって、いよいよ大手メーカーによる寡占化に向かい、本格的な幕開けを迎えたわけである。

    日産自動車については業界第1位のトヨタ自動車との格差はいっこうに縮まらず、現状のままではむしろそれがますます広がる恐れが強く、この辺で合併のような思い切った手を打つ必要があったこと、またプリンス自動車については乗用車中心という自由化に弱い企業体質をもっているうえ、販売網も他社に比べ見劣りのすることから、ここ当分はともかく、長い目でみて現勢力でやっていくことに不安があった

    1965/06/01日経新聞p4「早まる自動車業界の再編成」

    労使対立の悪化

    1965年以降、プリンス自動車の旧村山工場は、日産自動車の村山工場として再スタートを切る。だが、村山工場にはプリンス時代から過激な労働組合(総評系労組)が存続し、経営陣に非協力的な態度であったため、日産経営陣は村山工場における生産改善などの施策を十分に行えなかったものと推察される。

    合併から約28年を経た1993年に日産はプリンス系の少数組合と和解協定に調印したが、この間、トラブルが相次いだ。

    (補足)日産本体の労組も日産経営陣に対して非協力的であり、会社全体としての労働統制が取れなかった。業界関係者は「長い間の組合との摩擦が大きく災いした。...(中略)...社員は組合に対しても会社に対しても萎縮してしまった。全体の空気がさびれて荒廃した。大変に不幸な時代だった」[1987/4/27日経ビジネス]と総括している。

    JIMU日産自動車支部

    プリンスの組合は、合併による労働条件の切り下げに反対し、労働者の生活を守るための要求づくりをすすめました。しかしこの間、合併の遂行にプリンスの組合の路線は有害と考える日産資本は、日産労組を使ってプリンスの組合を転覆させるための準備を着々と進めていました。第二組合として発足した日産労組は、会社の庇護のもとに日産の系列企業の労働組合を次々と傘下におさめ、「自動車労連」という名称の企業連組合を組織し、その頂点に塩路一郎会長が君臨していました。...(中略)...

    1967年年頭から、日産の各工場は「暴力工場」と化しました。昼休みおよび定時後、第二組合幹部を先頭に数十名の労働者が組合員を取り囲み、口々に罵声を浴びせ、足を踏む、蹴飛ばす、体当りをする、ひどいところでは押し倒すなど、暴力のかぎりをつくしました。組合は直ちに反撃を開始しました。青年行動隊は都内に訴えに散りました。暴力攻撃覚悟で毎朝就労する組合員を励ますために、中央合唱団をはじめとする門前支援者の歌声が連日組織されました。警察への告訴、人権擁護委員会への提訴が検討されました。総評・全金も人的、経済的支援を惜しみませんでした。

    この暴力攻撃で旧プリンスの職場を恐怖の底におとしいれた後、日産型の「合理化」が導入されました。戦後のプリンスの労働組合が営々として築き上げてきた労働条件が、一挙に日産の低い条件に切り下げられたのです。

    webページ日産自動車支部JIMU「組合の歴史」

    日産自動車の業績悪化

    1971年のニクソンショック、1985年のプラザ合意によって円高ドル安が進行すると、日本国内における乗用車生産のコストが相対的に高くなり、国際競争力が低下した。また、国内ではトヨタとホンダが乗用車のシェアを拡大する一方、日産は生産現場における労使対立による自滅によってシェアを落とす形となり、1987年に営業赤字に転落した。

    日経ビジネス(1987年)

    「技術の日産」といわれ、スカイラインGTを始め、数々の名車を生み出したこの日本を代表する超優良企業は、ここ数年、労使対立、シェア低迷と衰退を続け、ついにこの円高のさ中、営業赤字に転落するまでに落ち込んだ。日産は悪循環を断ち切るため、流れを変えようとしてもがき、苦しみ、そして今、どん底からはい上がろうとしている。官僚主義、権威主義に沈滞したこれまでの歴史を否定し、因習を打ち壊し、トヨタでもホンダでもない第3の道を模索しつつある。

    1987/4/27日経ビジネス「進化の研究・日産自動車」

    日産・村山工場の閉鎖

    1990年代を通じて日産の業績は低迷。1999年に日産は経営危機に陥りルノーの支援を仰ぎ、ルノー出身のカルロス・ゴーンが日産の社長として就任した。ゴーンは村山工場の閉鎖を目玉とする「リバイバルプラン」を提示し、プリンス自動車時代の負の遺産を処理しつつグローバル展開を加速することで日産の業績のV字回復を達成した。

    2004年の村山工場の完全閉鎖に伴い、従業員2400名のうち栃木工場への異動が1930名、退職者が470名であったが、異動者のほとんどが単身赴任となり移動後に退職した人もいたという。なお、プリンス自動車の旧村山工場は、739億円で宗教法人に売却され、生産拠点としての役割を終えた。

    カルロス・ゴーン(日産自動車社長、1999年)

    伝統ある日産自動車を再生する。この重くもやり甲斐のある目標を持って、今年4月に来日してから半年あまりたった10月18日、かねてお約束していたとおり、「日産リバイバルプラン(再生計画)」を発表いたしました。村山工場や関連会社である日産車体の京都工場の閉鎖、グループ全体で2万1000人の人員削減など、痛みが犠牲を伴う内容を盛り込んだだけに、様々な反響がありました。

    実際、工場の閉鎖は厳しい決断でした。そこで働く人々の心の痛みを伴うつらい決断であったことは、私も重々承知しています。これまで頑張って働き、生活してきた場所を離れなければならないと涙ぐむ人もいたと、後から知らされました。こうした感情にたいして無神経になれる者はいません。彼らのことを思うと、私自身、心が痛みます。しかし、何もしなければ競争力が低下した状態が続くだけです。これは許されることではありません。

    1999/11/01日経ビジネス「カルロスゴーンが語る日産第リストラのすべて」


    参考文献

    新聞・雑誌記事

    1953/5経済展望「プリンス自動車は採算悪化せん」

    1960/9/9ダイヤモンド「競争激化する自動車会社」

    1960/9/16ダイヤモンド

    1960/12経済時代「砂川に大自動車工場を建設・外山保」

    1963/06/13野田経済「グロリアで勝負する・追いつけ追い越せのプリンス自動車」

    1965/4/26ダイヤモンド「乗用車中心のプリンスは生き残るだろうか」

    1965/06/01日経新聞「早まる自動車業界の再編成」

    1987/4/27日経ビジネス「進化の研究・日産自動車」

    1996自動車技術会「キ74から「たま」電気自動車、歴代プリンス車の開発・田中次郎氏」

    1999/11/01日経ビジネス「カルロスゴーンが語る日産第リストラのすべて」

    書籍・その他

    会社四季報

    webページ日産自動車支部JIMU「組合の歴史」


    事例一覧