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いすゞ自動車 - 荒牧寅雄/岡本利雄

本業投資 本流出身者 資本・業務提携 乗用車撤退

岡本利雄(いすゞ自動車・社長)。GM提携の効果を最大化するために、小型乗用車「R car」の量産計画を推進した。

イラストは筆者作成(参考:1986/10/7日経ビジネス)

世界的自動車メーカー"GM"との提携で起死回生を図る

  • GM提携に活路を見出す
  • 1971年にいすゞ自動車(荒牧寅雄・社長)は世界一の自動車メーカーGMとの提携を決断し、第三者割当てにより34.2%の株式を渡す代わりに、米国における小型車の販売でGMの販路を活用する契約を締結した。GMとしては開発が遅れていた小型車分野を強化できるメリットがあった。いすゞの株式の大半が外資企業に握られる提携劇であったため、いすゞに対して「国賊である」というバッシングも発生するが、いすゞは政財界の支援によりGMとの提携を貫徹した。

  • 国内生産頓挫〜乗用車撤退
  • いすゞは国内の生産拠点を北米GM向けの輸出を増大させる方針を決断し、1982年に累計1000億円を投じて国際生産拠点の増強と、小型乗用車「ジェミニ」の開発を決定した。だが、日米貿易摩擦の深刻化により日本政府は、いすゞの輸出を制限したため、いすゞの国内生産拠点の投資は失敗に終わる。挽回のために、1986年にいすゞは富士重工と共同で北米現地生産を決めるが、現地生産も軌道に乗らず、1992年10期に483億円の経常赤字に転落した。

    1992年にいすゞは乗用車からの撤退を決断し、トラックなどの商用車専業メーカーとして再スタートを切る。

    目次

  • いすゞ自動車 - 基本情報
  • 売上高 - 過去推移

    売上構成比 - 過去推移

    売上高利益率 - 過去推移

    従業員数 - 過去推移


  • いすゞ自動車の歴史
  • 1930年代 軍用トラックメーカーとして発展

    1960年代 乗用車量産に出遅れる

    1960年代 業界再編に取り残される


  • GM提携〜乗用車事業に注力
  • 1970年代 1. General Motorsと資本提携

    1980年代 2. Rカー開発+国内工場に投資

    1980年代 3. 貿易摩擦により国内生産が頓挫

    1980年代 4. 富士重工と共同で北米現地生産


  • 乗用車撤退〜経営危機
  • 1990年代 乗用車から撤退〜経営危機

    1990年代 みずほ銀行の融資により危機脱却

    2000年代 タイに重点投資 with 三菱商事


    いすゞ自動車 - 基本情報

    売上高 - 過去推移

    単位:億円

    注:2010年以前の海外にはタイを含む

    出所:有価証券報告書、会社四季報


    売上構成比 - 過去推移

    単位:%

    注:乗用車には小型車・ライトバンを含む。1980.10は乗用車のみ

    出所:会社四季報


    売上高利益率 - 過去推移

    単位:%

    出所:会社四季報


    従業員数 - 過去推移

    単位:名

    出所:会社四季報


    いすゞ自動車の歴史

  • 1916年 東京石川島造船所が自動車製造に参入
  • 1933年 石川島+ダット自動車=自動車工業
  • 1934年 鶴見製造所の新設
  • 1936年 日本初の空冷ディーゼルエンジンを開発
  • 1937年 自動車工業+東京瓦斯電気=いすゞ自動車
  • 1938年 川崎製造所の新設(軍用トラック製造)
  • 1942年 日野製造所を分離(日野自動車=戦車製造)
  • 1953年 英ルーツ社提携(ヒルマン乗用車の国産化)
  • 1961年 藤沢製造所の新設(乗用車量産)
  • 1961年 乗用車「ベレル」を発表
  • 1966年 泰国いすゞ自動車設立(タイ進出)
  • 1966年 富士重工と提携(1968年解消)
  • 軍需自動車メーカーとして発展

    1910年代に欧米で普及しつつあった自動車の技術が日本にも流入し、東京を中心に自動車会社の設立が相次いだ。1916年に東京石川島造船所は経営多角化の一環として自動車製造事業に参入。同じく1916年には東京瓦斯電気も多角化事業として自動車製造に参入した。当時は第一次世界大戦によって日本企業が好況に沸いており、余剰資金で自動車製造に参入する企業が相次いだ。

    東京における自動車の普及は1923年の関東大震災が発端となった。インフラが壊滅する中、自動車の利便性に注目が集まり、輸送手段としての自動車が定着した。だが、当時の自動車は米国からの輸入品が主体であり、国内各社の自動車の品質は悪く、量産には程遠い状態であった。1920年代にはGMが横浜で自動車の組み立て生産を開始すると、国産自動車メーカーは苦境に陥った。

    1930年代を通じて軍需の拡大により自動車の大量生産の機運が高まったため、1937年に東京石川島造船所の流れを汲む自動車工業株式会社と東京瓦斯電気の2社が合併していすゞ自動車が発足。いすゞ自動車は1938年に川崎製造所を新設し、自動車の大量生産を開始し、軍需用トラックのメーカーとして業容を拡大した。

    乗用車量産に出遅れる

    1945年の終戦により、いすゞ、日産、トヨタの「御三家」は軍需を失い、民間自動車メーカーとして再出発した。このうち、トヨタは1959年に日本初の乗用車専用の元町工場を新設し、いち早く乗用車の量産化に乗り出した。当時の日本で乗用車は高嶺の花であり、トヨタの乗用車は主にタクシー会社に販売された。トヨタから数年遅れて、1961年に日産は乗用車専門の追浜工場を稼働し、乗用車業界ではトヨタと日産が優位に立つ。

    一方、いすゞ自動車は、米軍向けトラックの生産を主体としたため、乗用車の量産に出遅れた。1950年代を通じていすゞは英国の自動車メーカーと提携して国産外車「ヒルマン」乗用車の研究開発を行ったものの、堅実経営を標榜したため肝心の乗用車量産工場の建設に出遅れた。

    1961年に三宮吾郎(いすゞ社長)は乗用車量産工場の建設を決断して藤沢工場を稼働したが、販売網の弱さもあり乗用車事業の赤字をトラック事業の黒字で補填して経営を成り立たせていた。1960年代を通じて競合の日産とトヨタが猛烈な勢いで乗用車工場に設備投資を行う中で、いすゞの劣勢が確定的となった。

    1966年にいすゞ自動車・三菱重工・富士重工の3社が提携することで、日産とトヨタに対抗する案が浮上するが、三菱重工と富士重工が航空機分野で競合する理由から社内の融和が難しく、IMF提携と呼ばれた国産3社による提携案は白紙となった。その後、富士重工は日産、三菱重工はクライスラーと手を組むことで生き残りを図り、最後に残されたいすゞの去就に注目が集まった。

    ダイヤモンド(1965年)

    日産と当社(筆者注:いすゞ)、それにトヨタを加えて自動車の"御三家"という。伝統や規模などから、この格付けとなったものだが、実際にも、わが国自動車工業の歴史は、この三社によって展開されてきた。とくに当社は、前身が石川島造船所の自動車部であり、御三家のなかでも最古、業界の草分け会社を誇ってよい。

    だが、この御三家とのことばがそのまま”ビックスリー”とならないところに、現実のきびしさと当社の問題点、悩みがある。生産と販売の規模、それに利益の面からみると、当社の現状はトヨタと日産に大きくはなされ、さらに"新興勢力"の東洋工業にも三位の座を、しばし脅かされている。

    なぜ、こうなったかについては幾つかの理由があるが、現象的にみるならば、乗用車部門の確立のための努力がカラ回りに終わり、その出血が、トラック部門の利益を食ってしまったかっこうである。

    1965/9/30ダイヤモンド臨時増刊「いすゞ自動車」


    GM提携〜乗用車事業に注力

  • 1971年 GMと提携調印
  • 1972年 栃木製造所を新設
  • 1972年 小型トラックの北米輸出
  • 1982年 乗用車「Rカー(ジェミニ)」の開発
  • 1982年 国内量産拠点に1000億円投資
  • 1984年 輸出規制により無配転落
  • 1984年 苫小牧工場を新設/Rカー輸出
  • 1986年 米国現地生産で富士重工と提携
  • 1989年 北米現地生産の開始
  • General Motorsと資本提携

    1970年11月にいすゞ自動車(荒牧寅雄・社長)は伊藤忠商事の仲介を経て、世界一の自動車メーカー"General Motors"と資本提携を締結する方針を決断した。提携により、いすゞ自動車は北米市場に対してGMの販路を活用しつつ小型車を輸出し、GMとしては苦手分野であった小型車のラインナップの拡充を目論んだ。

    いすゞ自動車はGMとの提携にあたり、自社の株式の30%をGMに渡すため、資本提携によりいすゞは外資企業の資本を受け入れることを容認した。国内の名門乗用車メーカーのいすゞが外資企業の軍門に下ったことは、日本の経済界に大きな衝撃を与え、日経新聞は一面記事で「GM・いすゞ提携へ」[1970/11/1日経新聞]と報道するなど、国際化の時代を象徴する提携事例となった。

    提携の当初、いすゞは株式の30%をGMに渡すという観測がなされたため、読売新聞などの日本のメディアは「乗っ取り防げるか」と論じた。最終的にGMが第三者割当増資によりいすゞの株式を34.2%取得し、いすゞとの提携に踏み切った。

    いすゞ外資化論に対して、荒巻社長は「入社以来43年、いすゞを愛する気持ちは誰にも負けないつもりだ。1万3000人の従業員、220の関連企業の将来のためにも、いすゞの名が消えるような提携の仕方はしない。GMだって、乗っ取りはしないとはっきりいっている」[1970/11/15読売新聞]と語り、外資企業に飲み込まれる可能性を否定している。

    提携後、1974年よりいすゞ自動車はGMに対して小型トラックの北米輸出を開始。1973年の石油ショック直後の低燃費の小型車ブームの波に乗り、比較的順調に輸出事業が立ち上がった。このため、1974年に日経ビジネスはGM提携について「表面的には際立った成果をあげているとはいえない。だが、確実に経営体質の改善が進みだした」[1974/6/10日経ビジネス]と評価した。

    日経新聞(1970年)

    わが国自動車業界では来春の資本自由化実施前に、昨年クライスラーと三菱重工業、また最近は米フォードと東洋工業の提携が決まり、今回いすゞの提携が決まれば自由化を前に世界の三大自動車会社がそろって対日進出することになり、わが国産業界はいよいよ世界資本との本格的な国際競争時代を迎えることになる。

    なお、いすゞがGMとの提携に動いている背景には現在の自動車産業が公害、安全など技術的にも厳しい環境にあり、またすでに国内ではフォード、クライスラーの対日進出の確定に見られるように、事実上、資本自由化も進み、提携しやすい環境にあることも事実である。

    1970/11/01日経新聞朝刊p1「GM・いすゞ提携へ」

    岡本利雄(いすゞ自動車・名誉会長、1985年)

    振り返って、交渉時の15年前と現在とでは世の中も随分変わったが、日米関係だけは驚くほどよく似ている。当時も、繊維をめぐり日米貿易摩擦は一触触発の危機的状況だった。いすゞ-GMの提携は、自国産業に対する日本の侵食にいきり立つ米国をなだめるための有効な説得材料という見方をすれば、いすゞは日本 産業の生け贄の山羊であったともいえる。

    もちろん、一般の世論ばかりか、同業に至るまで、受け止め方はまるで違っていた。外国企業の軍門に下ることなどもってのほか、「国賊」と呼ぶに相応しい行為とみなされた。外国企業との提携といえば、貿易摩擦の緩和の一助、と歓迎されても非難される余地のない現在に比べ、当時は外資アレルギーが充満していた時代だから、環境は最悪だった。...(中略)

    当時の世論が世論だったので、交渉は難航を極めた。有難かったのは、政財界がこぞって支援してくれたことだ。...(中略)...15年経った現在、日本は米国を追い抜いたといっているが、この先はどうだろうか。これだけ世の中が変化しているのだから物事を固定的に考えてはいけない。私は、今、GMとの提携が間違ってはいなかったと、素直に思えるのである。

    1985/10/07日経ビジネス「有訓無訓・岡本利雄」

    Rカー開発+国内工場に投資

    1982年にいすゞ自動車(岡本利雄・社長)は宿願であった乗用車事業を拡大するために「R car」計画を策定。計画の骨子は、国内工場に累計1000億円を投じてR car(国内名:ジェミニ)を生産し、GMに対して供給。北米ではGMといすゞの各販路を通じて小型車を販売するというものであった。莫大な設備等が必要となるため、GMはいすゞに対して2億ドルの支援を表明した。

    莫大な投資を伴うため、いすゞにとっては社運をかけた乗用車事業の投資となった。日経新聞は「乗用車部門を強化して総合自動車メーカーとしての安定した地位を確立したいと願う岡本利雄社長が"入社以来49年、今がいちばん苦しいとき"というように、まさに社運を賭しての決断である」[1982/04/28日経新聞朝刊]とRカー計画を報道した。

    岡本利雄(いすゞ自動車社長・1982年)

    当社の株価はこのところ下げているが、2年後に生産開始予定のSTカー(1300〜1500ccの小型乗用車)へ1000億円の設備投資を行うことが“無謀”とか“危険な賭け”とかマスコミに報道されたことが響いているのではないだろうか。だが、経営を賭けで行うようなら経営者失格だ。STカーの投資も成算なくしては行わない。

    むしろ、今まで石橋をたたいても渡らなかった当社が、今回は石橋をたたいてからやっと渡ったと考えてもらいたい。確かに今の業績は予想外のトラック需要の不振で良くはないが、悪い時期に投資をやめたらだめだ。ここで何とか耐えながら先行投資を行ってこそ、会社の飛躍がある。

    1982/07/16日経産業新聞p18「STカーへの投資に自信・岡本利雄」

    貿易摩擦により国内生産が頓挫

    1980年代を通じて日米貿易摩擦が深刻化し、日本の自動車メーカーは米国から政治的な非難を浴びた。日本政府は貿易摩擦の悪化を避けるため、日本の乗用車について輸出台数を制限し、各メーカーに割り当てることで事態の沈静化を図る。

    GMと提携するいすゞ自動車も輸出台数が政治的に制限されたが、過去の実績に基づいて日本政府・通産省は輸出台数を割り当てたため、いすゞへの割り当ては僅かとなり、莫大な金額を投資した国内拠点が十分に活かせないことから、国内生産〜北米輸出を前提とした「Rカー計画」は頓挫する。

    1984年に飛山一男(いすゞ社長)はGM提携について「摩擦緩和をなくすためのものが、摩擦緩和の輸出規制によって犠牲になってしまった。同じ大義名分をもった措置がなんで犠牲にならねばならないのか。この提携が国家利益に貢献するものだったという本来の意味を、もっと評価してもらわねばたつ瀬がない」[1984/7/23日経ビジネス]と怒りをあらわにし、通産省に対してRカーの規制枠からの除外を要求したが、いすゞだけが優遇措置を受けることは無かった。

    1984年にいすゞは輸出不振により、170億円の最終赤字を計上して無配に転落。日経ビジネスは「GM頼みの"戦略の甘さ"が悲劇生む」[1984/7/23日経ビジネス]と総括した。

    また、1984年という最悪のタイミングで、いすゞは2年前に策定したRカー計画によって投資した北海道・苫小牧のエンジン製造工場を稼働したが、広大な土地はほとんど空き地のままであり、苫小牧市を失望させたという。

    日経ビジネス(1984年)

    1971年、いすゞは世界最大の自動車メーカーGMと資本提携し、念願の乗用車メーカーへの脱皮を高らかに宣言した。この時、抱いた夢と今日の現実とのギャップを、当時提携交渉にあたっていた飛山社長は誰よりもよく知っている。今年は記念すべき年になるはずだった。総額700億円を投入した戦略乗用車"Rカー"が、年間20万台のペースで米国向けに出荷される最初の年に当たっていたからである。年に10万台そこそこの乗用車をつくっていたいすゞが中堅乗用車メーカーとして第一歩を踏み出すはずの年だった。

    1981年度に始まったわが国の対米乗用車輸出規制が、「3年間限り」の公約通り解除されていれば、夢はそのまま現実になっていたろう。(中略)1984年度の輸出総ワクは185万台だから、ざっと1兆円近くが業界全体に流れ込む勘定になる。しかし、この恩典を受けるのは実質的にトヨタ自動車、日産自動車、本田技研工業の実力派メーカー3社にすぎない。この3社で輸出総ワクの8割弱を占めているからだ。...(中略)

    いすゞの悲劇は巨大企業GMとの提携にあると決めつけたら、言い過ぎだろうか。...(中略)...Rカー計画を手がけた時点で、輸出規制延長の可能性はあったはず。米国でのGMの政治力を過信して、通産省さえも動かせると考えたのだとしたら、早計だったと言わざるを得ない。...(中略)...GM依存の体質は、今やいすゞの経営の隅々にまで浸透している。

    1984/07/23日経ビジネス「GM頼みの"戦略の甘さ"が悲劇生む」

    富士重工と共同で北米現地生産

    1985年に主要先進国の間で「プラザ合意」が締結され、円高ドル安の進行が確定的となった。このため、いすゞ自動車を始めとする国内製造業は国際競争力を失うことが予想されたため、輸出先である北米での現地生産を検討することが一つの経営トレンドとなる。自動車業界では、トヨタ、日産、マツダ、三菱の各社は現地生産による北米進出を決めていた。

    1986年にいすゞは富士重工と共同で、北米における小型乗用車の現地生産を決断し。予定投資額は800億円で、共同新会社「SIA」を設立(出資比率は富士重工51%・いすゞ49%)して北米事業の拡大を目論む。共同進出を選択した理由は、富士重工といすゞ自動車の両社に単独工場を建設するほどの資金的余裕がなかったためである。

    いすゞとしては、提携先のGMに向上を借受けるという選択肢もあったが、この場合だとGMの労使関係が適応されてコストが高くなるため、日本的な雇用慣行と低コストを貫徹するために、日系メーカーである富士重工との共同進出を選択した。

    日経ビジネス(1986年)

    日本車の米国現地生産が本格化すれば、カナダでの鈴木-GMの生産20万台を含めると、現地生産の供給台数はゆうに年間150万台を越す。かじょうせいさん は目に見えている。こうしたことから一時、富士重、いすゞ社内では「現地生産しないのが最も賢明な策」という消極論もあったが、円高の進展に伴って「現地生産しない限り、現状の規制台数を確保することすることすらできなくなる」という空気に変わってきた。これを打開するには現地生産しかない。...(中略)

    投資額の800億円は折半するにしても、それでも両社にしてみればまさに社運を賭した事業であることに変わりはない。失敗は絶対に許されない。万が一、失敗すれば、両社の屋台骨がたちどころに揺らぐことは目に見えている。

    1986/5/26日経ビジネス「資本系列のワク越え、米国で小型車を共同生産」


    乗用車撤退〜経営危機

  • 1992年 3期連続の営業赤字に転落
  • 1992年 乗用車の自社開発を中止
  • 2000年 特別損失1233億円を計上
  • 2001年 グループ内で1万人削減
  • 2002年 三菱商事とタイ生産で関係強化
  • 2002年 富士重工に北米工場を譲渡
  • 2002年 乗用車製造から完全撤退
  • 2003年 特別損失1363億円を計上
  • 2006年 GMと資本提携解消
  • 乗用車から撤退〜経営危機

    いすゞの乗用車事業は一貫して赤字が続き、年間300億円の赤字を計上していた。米国におけるSIAも米国の不景気により売れ行きが悪化し、いすゞ自動車の業績を圧迫し、1991年10期にいすゞは483億円の経常赤字に転落した。

    1992年に関和平がいすゞの社長に就任し、乗用車の自社開発を中止して実質的に乗用車事業からの撤退を決断した。関社長は事業の主力をトラック・バスなどの商用車に絞り、強みであるディーゼルエンジンを生かせる分野に経営資源を集中した。撤退にあたり、いすゞの社員は「乗用車をやめる話を正式に聞いた時、うちもそこまで悪くなっているのか、と改めて驚いた」[1995/6/5日経ビジネス]と口にしたという。

    関社長の構造改革によりいすゞの業績はV字回復し、日経ビジネスは「いすゞ、関イズム徹底で再生」[1995/6/5日経ビジネス]と高く評価した。だが、1990年代後半に国内の商用車需要がバブル崩壊によって低迷し、いすゞの業績も急速に悪化して2000年3期に1041億円の最終赤字に転落。1990年代を通じて乗用車事業およびトラック事業、そして最後の切り札であった北米現地生産の全ての事業で苦戦したため、2000年3期にいすゞは経営危機に陥った。

    みずほ銀行の融資

    2001年にいすゞはグループ内で1万人を削減する方針を決定。2002年には北米現地生産(SIA)事業を富士重工に譲渡し、北米のSUV生産から撤退した。また、メインバンクのみずほ銀行はいすゞの倒産は社会亭な影響が大きいと判断し、金融機関5行による約1500億円の融資を決断した。

    2002年には関和平(元社長・特別相談役)が辞任し、いすゞはトラック専業メーカーとして再出発する新3カ年計画を公表した。だが、一部のアナリストは「この先、いすゞが何で食べていくのかわからない」[2002/11/11日経ビジネス]という疑念を提示した。

    (補足:GM提携その後)2006年にいすゞの親会社GMが経営危機に陥り、いすゞの株式の売却を決定。この決定により、1971年から2006年まで35年間続いたいすゞ・GMの提携は、親会社GMの経営危機によって消滅した。GMのいすゞ保有分の株式は、三菱商事、伊藤忠、みずほ銀行の各社に売却され、2006年11月にはトヨタ自動車がいすゞに5.9%出資した。

    日経ビジネス(2002年)

    この10年、いすゞの歴史はリストラの連続だった。新3カ年計画はそうした過去との決別を目指している。計画発表と同時に関和平・特別相談役が辞任したことが象徴的だ。...(中略)...乗用車事業に続き、今回SUV生産から撤退したことで、いすゞは「創業時のトラックメーカーに戻る」(井田社長)ことになる。得意の商用車にすべての経営資源を投入することに、生き残りを賭ける。

    2002/11/11日経ビジネス「いすゞ自動車・SUV撤退、トラック専業に回帰」

    タイに重点投資 with 三菱商事

    2000年代を通じていすゞ自動車は国際競争力を失った国内の生産拠点を相次いで閉鎖した。2001年から2005年にかけて主力の川崎工場を閉鎖し、跡地を都市盤整備公団とヨドバシカメラに売却。また、鶴見工場および大和工場も閉鎖し、いすゞの国内生産拠点は藤沢工場および栃木工場の2カ所に集約された。

    一方、いすゞ自動車はタイをグローバル生産拠点として活用し、国内からタイの生産シフトを実施。2005年の時点で、タイの製造合弁会社IMCT(いすゞ71.15%・三菱商事27.5%)では約18万台/年の自動車を製造し、ASEAN地区の本社機能を有する拠点として業容を拡大した。いすゞは1966年という早い時期にタイに進出し、三菱商事とともに現地の販売網を強化してきた歴史があり、2000年以降のいすゞのグローバル事業を支える拠点となった。

    2004年にいすゞはタイ事業の子会社「泰国いすゞ自動車」の議決権比率を47.9%から70.9%に引き上げることで、タイを起点とした本格的なグローバル展開を開始。タイをグローバル生産拠点として拡充することで、タイ国内およびASEAN地域へのトラックの輸出に注力した。

    2019年3期時点でタイの連結子会社「泰国いすゞ自動車」は売上高6291億円に対し経常利益674億円(利益率10.7%)という好業績を維持しており、タイ事業はいすゞ自動車の全社業績を牽引する事業に育ちつつある。

    (補足)タイは道路事情が悪い地域が多く、悪条件でも走行可能なピックアップトラックの需要が多い地域であり、2005年時点でタイの自動車市場に占めるピックアップトラックの割合は60%と非常に高かった。いすゞは歴史的に三菱商事と二人三脚でタイの販売網+アフターサービス体制を充実させてきた経緯もあり、2005年時点で同国のピックアップトラック市場で38%のシェア[2005有価証券報告書]を獲得しており、タイの内需の取り込みにも成功した。

    泰国いすゞ自動車・売上高 - 過去推移

    単位:億円

    出所:有価証券報告書


    参考文献

    新聞・雑誌記事

    1970/11/01日経新聞朝刊p1「GM・いすゞ提携へ」

    1970/11/11読売新聞朝刊p7「乗っ取り防げるか」

    1970/11/15読売新聞朝刊p7「いすゞの名消させぬ」

    1974/06/10日経ビジネス「"GM式経営"学んで再建軌道に」

    1982/04/28日経新聞朝刊p7「STカー、いすゞ背水の陣」

    1982/07/16日経産業新聞p18「STカーへの投資に自信・岡本利雄」

    1984/07/23日経ビジネス「GM頼みの"戦略の甘さ"が悲劇生む」

    1986/05/26日経ビジネス「資本系列のワク越え、米国で小型車を共同生産」

    1995/06/05日経ビジネス「いすゞ、関イズム徹底で再生」

    2002/08/20日経新聞朝刊p2

    2002/11/11日経ビジネス「いすゞ自動車・SUV撤退、トラック専業に回帰」

    書籍・その他

    有価証券報告書

    会社四季報


    事例一覧