本田技研工業 - 本田宗一郎

#国内投資 #2019/9/17

イラスト:筆者作成(参考:日経ビジネス)

二輪&四輪への新規参入

  • 前史:浜松の自動車修理工

  • 背景:自動車社会の到来

  • 決断:会社設立〜藤沢武夫のスカウト

  • 結果:売上2兆円・利益率10%超(1983年2期)

  • 社史的意義(国内投資)
  • 戦後に創業した日本企業の中で最も成功したのは、本田技研とソニーの2社である。本田技研は乗用車進出に必要な経営体力を二輪車事業で蓄えたうえで、念願の小型乗用車「シビック」を発売して日産とトヨタを猛追した。戦後日本企業における稀有な成功例として社史的意義があると判断した。


    本田技研工業 - 基本情報

    売上高 - 過去推移

    単位:億円

    出所:有価証券報告書、会社四季報


    売上構成比 - 過去推移

    単位:%

    出所:有価証券報告書、会社四季報


    売上高利益率 - 過去推移

    単位:%

    出所:有価証券報告書


    決断前史:浜松の自動車修理工

    機械好きな本田宗一郎

    1906年に本田宗一郎は静岡県浜松市に生まれ、鍛冶屋の息子として育った。幼少期からオイルの醸し出す香りが好きな少年で、浜松に飛来した航空機を見に行くなど、機械に関心があった。1922年には東京に出て、当時日本に普及しつつあった自動車を修理する「アート商会」で働き始めた。

    本田宗一郎は自動車の黎明期に修理技術を取得したことで稀有な存在となり、1928年には21歳の若さで地元浜松で自動車修理のための「アート商会」をのれんわけする形で開業した。自動車そのものが珍しい時代で、本田宗一郎は、当時としては破格の高収入を得ていたという。

    その後も自動車修理業を営んでいたが、1930年代に日本が戦時経済に突入した際に、自動車のピストリングの製造に参入し、修理工から製造業へと事業をシフトさせた。だが、1945年に勃発した東海地震で工場が倒壊したため、会社を豊田自動織機に売却し、事業から手を引いてしまう。

    本田宗一郎はしばらくの間、事業を行わなかったが、1945年の終戦直後に簡易エンジンを自転車に取り付けることを発案し、会社経営に復帰した。


    時代背景:自動車社会の到来

    モータリゼーションの到来

    米国では1910年代にフォードが自動車を大量生産し、全米で馬車が駆逐されて自動車が普及した。一方、日本には1920年代から自動車が東京などの都心部を中心に普及し始めたが、庶民にとっては高級品であり、バス・タクシー・要人送迎といった一部の用途でしか用いられなかった。

    1920年時点の日本国内の乗用車はほぼ全て外車であった。日本の自動車メーカーとしては、1930年代までに日産、トヨタ、いすゞの各社が自動車事業に参入するが、いずれも技術が未熟であったため日本政府の保護を受けつつ事業を継続していた。

    日本で本格的に自動車が普及したのは1945年の終戦後である。庶民の移動手段としての自動車は、まず1950年代に二輪車および三輪車が普及し、四輪車はトラックとしての需要が主体であった。

    そして、1960年代にサラリーマンの所得が四輪乗用車の購入が可能な水準に高まったことで、ようやく日本の庶民が自動車を購入できる「モータリゼーション」の時代が到来した。


    決断:四輪乗用車への進出

  • 1. 会社設立〜藤沢武夫のスカウト
  • 2. DMにより販売網を整備
  • 3. 高級工作機械を大量輸入
  • 4. 倒産危機〜三菱銀行京橋支店が支援
  • 5. 二輪車量産〜北米輸出
  • 6. 四輪乗用車への参入見送り
  • 7. 特振法を受けて四輪車に急遽参入
  • 8. 四輪量産工場の新設
  • 9. 軽乗用車「N360」の発表
  • 10. 四輪販売網の整備
  • 11. 小型乗用車H1300の教訓〜開発体制改革
  • 12. CVCCエンジン搭載「シビック」の発売
  • 13. 本田宗一郎・藤沢武夫の円満退任
  • 1. 会社設立〜藤沢武夫のスカウト

    1948年9月24日に本田宗一郎は「本田技研工業株式会社」を浜松に設立し、個人経営から株式会社に転換した。設立時点の従業員数は34名であったが、前日までと同じように自転車向けエンジンの製造業務を遂行しており、創業当日に特別な雰囲気はなかったという。

    会社設立直後の1949年8月に本田宗一郎(42歳)は、知人の紹介で藤沢武夫(38歳)という人物にであった。藤沢は財務に明るい人物で、一方の本田宗一郎は技術力に長けているものの営業や財務面が弱かったため、両者は意気投合し、1949年に藤沢は本田技研の常務取締役に就任した。以降、本田技研は、本田宗一郎(社長)と、藤沢(副社長)の二人三脚で経営を遂行した。

    なお、1950年に本田技研は東京都北区のミシン工場跡地を買収し、二輪車の生産拠点に転換して浜松から東京への進出を果たした。

    本田宗一郎(1986年)

    「金の回収のうまい奴がいる」と友だちに紹介されて、藤沢に浜松のうちに来てもらった。お袋のつくったうどんを食って、1時間か30分ですよ、話をしたのは。そこで「俺は社長をやるよ。技術は任せろ。君は副社長になれよ。金を頼むよ」と決めた。これだけの会話で任せられるかと言えば、誰も任せられないと思うし、俺が惚れ込まなければできない話だ。

    俺と藤沢という人間がいなければ本田技研はできない。これは運賦天賦。何かの巡り合わせが良かったことに尽きるのではないかな。要するに、自分を知り、相手を見ての決断が大事なのだ。決断できない奴は、あっちへ行ったりこっちへ行ったりしているうちに自分の持っているものまでなくしてしまう。

    1986/2/24日経ビジネス「編集長インタビュー ・本田宗一郎」

    2. DMにより販売網を整備

    1949年ごろの本田技研の流通網は手薄であり、日本各地に存在するモーターサイクル販売店約300店のうち、ホンダ製品を取り扱う代理店は約20店であり販売面に課題が存在した。当時の二輪車メーカーの数は数十〜百社とも言われ、本田技研は数ある二輪車メーカーの一つに過ぎなかった。このため、本田技研の代理店に対する立場は弱く、委託販売形式で現金回収も遅れがちであったという。

    販売のテコ入れのために、藤沢武夫は1952年3月に本田宗一郎が試作した「カブF型」を売り込むことを決め、全国5万店の自転車店にダイレクトメールを送付した。DMの内容は「あなたのご先祖は、日露戦争の後、勇気を持って輸入自転車を売る決心をされた。それが今日のあなたのご商売である。ところが今、お客様はエンジンの付いたものを求めている。そのエンジンをホンダがつくりました。興味がおありなら、ご返事下さい」[ホンダ70年史]という趣旨であった。

    この結果、全国から3万件以上の自転車店から「関心がある」という返事を獲得し、藤沢は再度「ご興味があって大変うれしい。ついては一軒一台ずつ申し込み順にお送りします。小売価格は二万五千円ですが、卸価格を1万九千円にします。代金は郵便為替でも、三菱銀行京橋支店へ振り込んでいただいても結構です」と返信をした。

    なお、返信用DMには三菱銀行京橋支店長の名前で「当行の取引先・ホンダへのご送金は三菱銀行京橋支店にお振込ください」という一筆を加えることで、無名企業であったホンダ技研は、三菱銀行という財閥系銀行の信用を巧みに使い、自転車店の信頼を獲得することに成功した。

    なお、5万通のダイレクトメールは、本田技研の社員が総出で宛名を手書きし、三菱銀行京橋支店からも宛名書きの手伝いのために行員が派遣されたという。

    DM作戦の結果、すぐに5000軒の自転車店から反応があり、その後も反響が続き取扱店は15,000軒に及んだ。

    川島喜八郎(ホンダ元副社長・1999年)

    反響はすごかったですよ。五千軒くらいからすぐ反応があって、どんどん増えていく。委託販売が常識の二輪車業界に、前金を払ってもらう商売をぶっつけて、しかも、ぴたっと当てた。私に言わしめれば、藤沢武夫は、度胸がよくて非常に緻密なバクチ打ちです(笑い)。アッという間に、『自前の販売網』をつくり出すのに成功したわけですからね...(中略)

    あのDM戦略の時に、三菱銀行京橋支店さんが、言わばホンダの身元保証をしてくれた。そのころにはまだ三菱銀行さんからは融資は受けていなかった。ですが藤沢さんは、取引を始めた時から一貫して、おつきあいの仕方・態度を変えていません。いわゆる経営・経理のディスクロージャー(情報公開)をやっています。

    いい時も、悪い時も。藤沢さんは、私たちに教えてくれました。『銀行さんはなぁ、かくかくしかじかで、これはこうだけれど、次にはこうなりますと、何も隠さず、情理をつくして現在と先行きを説けば、かならずわかってくれるんだよ』と

    ホンダ技研「語り継ぎたいこと・チャレンジの50年(ホンダ50年史)」

    3. 高級工作機械を大量輸入

    1952年6月に本田技研は第二次増資を行い資本金600万円とし、DM作戦によって喚起したカブの需要に応えるための量産設備への投資を決断する。すでに本田技研は埼玉に工場を新設していたが、生産能率を大きく左右する工作機械への集中投資を決めた。

    1952年10月には資本金600万円を大きく上回る4.5億円を投じて、最新鋭の輸入工作機械の導入を決定した。当時の工作機械はスイスやアメリカなどの欧米製が最高級品であり、航空機生産や四輪乗用車生産にも適した工作機械(スイス・マーグ社、米・リースブラドナー社など)を導入することで、本田技研は将来の四輪乗用車への参入に備えつつ、二輪車製造に注力する。

    だが、4.5億円という巨額投資を本田技研(資本金600万円)という無名の中小企業が行うことは前代未聞であった。1950年代初頭は外貨が貴重であったため、工作機械の輸入に投資をすることは冒険であったが、本田宗一郎は輸入工作機械によって品質の優れた二輪車を製造して、世界各地に輸出することで外貨を獲得する方針を打ち出し、工作機械の輸入は外貨を稼ぐ手段であると位置付け、本田技研を世界一にすることを宣言した。

    このため、周囲の同業者は本田技研の大型投資に懐疑的であったという。

    なお、1952年の本田技研の社内報には、本田宗一郎が「世界一」を目指すために、工作機械の輸入に込めた熱い思いが記述されている。

    本田宗一郎(1952年)

    四月に建設した埼玉工場を次々に増築拡充し、国内一流メーカーの手になる機械を購入して性能の向上に努めて参りましたが、此の程このような方法に拠ったのでは限度のあることを悟りました。...(中略)

    之は吾が国---日本において一流になったということで、一度眼を世界的視野に転じます時、現在私達の到達しておりますレベルはまことに恥しく、寒心に堪えないものであります。本年の年頭の辞にも申し上げましたように、私の願っておりますのは製品を世界的水準以上にまで高める事であります。私は日本の水準と英米等先進国の水準との開きの、余りにも甚だしい事をよく知っております。

    ところが今回愈々私の念願であった世界的技術の水準において、世界市場で世界第一流のメーカーとの競争を実行に移すことになりました。この根本要素は申すまでも無く製品そのもののアイデアと共に、精度と生産能率であります。戦争中我が国の工作機械の精度は一ミリの百分台でありました。現在でも一般にはそのレベルより余り向上しておりません。

    幸い私の会社の製品の主要部品の精度は既に世界的水準の千分台に達し、エアマイクロという精密検査器を用いて検査測定を行っております。一方生産能率も他の会社とは比べものにならぬ程高くなっておりますが、外国の一流の機械と比べますと全く問題になりません。ギヤ一つ切るにしても、吾が国の最も高性能の機械で十分を要するものを十秒で作ってしまいます。正に六〇倍の性能であります。

    このように不完全な機械の精度を、日本人特有の技術によって漸く補っている現状ですから、吾が国の工作機械メーカーの製品を用いたのでは世界的技術水準に達することは不可能であり、世界市場において性能とコストを争うことのできないことは申すまでもありません。我々の創意工夫を生かし実現するには、優秀な機械でなくてはなりません。「弘法筆を選ばず」と言ったのは昔の諺です。そこで私は、今回一大決心を以て世界大一流の工作機械を購入することにしました。既に註文したもの、目下輸入許可の手続き中のものを併せますと三億円に上ります。

    戦後これだけの機械を輸入するのは吾が社が最初であって、主管官庁でも格別の理解と熱意を以て援助してくれて居ります。機械は主としてアメリカとドイツのものでありますが、これ等の工作機械の精度と能率とを利用すれば、尠くともオートバイと小型エンジンとでは世界市場において必ず勝利を得る自身を持っております。

    優秀な外国製の機械を購入しても、私は国内同業者各位の販路を奪い尽くそうというような小さな考えは毛頭持ちません。私の会社では機械を買うドルは国のドルであります。国のドルを用いて買った機械で逆にドルを稼ごうというのが私の願いであります。

    こうは申しても私の会社は輸出のみを目論むものではありません。一定量の国内需要を満たせば、その余力を挙げて輸出貿易に振り向け、世界的視野に立って技術者として国家に貢献し、今日まで私の会社を育ててくださった皆様方にお報いしたいと思うのであります...(中略)

    外国車の輸入制限によって自分の仕事を守ろうとするような鎖国的な考え方には、私は絶対に組しません。技術の競争はあくまで技術を以てすべきであります。どのような障壁を設けても良い品はどしどし入って来ます。三万台の自動車がよい例でありました。良品には国境はありません。他の業種は知らず、私は自分の関係するオートバイと小型エンジンにおいては断じて自動車の轍を踏み度くありません。

    日本だけを相手とした日本一は真の日本一ではありません。現在の日本は世界産業機構の中の一環であって、一度優秀な外国製品が輸入される時日本だけの日本一は忽ち崩れ去ってしまいます。世界一であって日本一となり得るのであります。我々日本人特有の優秀な技術によって、高性能高能率な外国の工作機械を利用してこそ世界市場への進出は可能であります。...(中略)

    一日も早く完璧無敵の優秀製品を作り、買って喜び、売って喜び、作って喜び、三つの喜びをより深く味わうために、又各自の生活を豊かに愉しくするために一層のご支援とご協力を重ねてお願いいたします。

    1955「本田技研・社史(1952年10月・月報14号)」

    4. 倒産危機〜三菱銀行京橋支店が支援

    1953年に本田技研に輸入工作機械が到着したが、1954年頃に日本経済が一時的な不況に突入したため、本田技研も不況のあおりを受けて企業倒産の危機に陥る。財務を担当した藤沢武夫は「とても、自分には、金融の方途が立たない。投げ出す以外にない」[1955/8/21ダイヤモンド]と本田宗一郎に打ち明けて、事業の生産を決意した。

    なお、工作機械や生産拠点の買収には、二輪車の競合メーカー・東京発動機が名乗りを上げた。同社の赤司社長は、本田技研のメインバンクである三菱銀行に以下のような買収提案を行っている。

    赤司大介(東京発動機元社長の回想)

    いまトーハツは日の出の勢いです。本田さんがつまずいたのはジュノオの製作上の誤りだけでなく、あまりに設備投資に金をかけすぎたからです。まるで飛行機を作るような機械まで入れている。私は、このさい、本田の成増の工場を譲ってもらいたいと思っているが、ご尽力いただけないでしょうか

    1966「敗軍の将、兵を語る」

    なお、1955年の時点で二輪車業界のトップ企業は東京発動機であり「本田技研を凌ぐ優良会社」[1956/4/28ダイヤモンド]として経済雑誌から賞賛を受けている。

    一方、本田技研は「技術者は、高能率の機械をいると、すぐ惚れこむ。そして高い金を出してその機械を購入する。ところが、買ってみるとなかなか使い切れない」[1956/4/28ダイヤモンド]と批判された。

    本田技研は清算が確実視されたが、三菱銀行は支援を決断。三菱銀行の判断により本田技研はギリギリの所で身売りを回避する。

    川原福三(三菱銀行元常務の回想)

    私は京橋支店長に、一億円の預金に目をくらまされずに、よく本田、藤沢の両氏を研究しなさい、と命令しました。自分も、本田技研本社に足を運びました。すると、二階の廊下に『世界的視野に立て』という社是が、かかげてある。私は、こんなちっぽけな会社のくせにと思ったが、ともかくバイタリティーがあると、妙に心をひかれたのを覚えています

    1966「HONDA商法」p142

    5. スーパーカブの量産〜北米輸出

    1955年以降、本田技研は最新鋭の工作機械を用いて二輪車の大量生産を続行。1958年にはスーパーカブを発売し、大量生産によるコストダウンによって同業の二輪車メーカーを徐々に駆逐した。1960年には三重県鈴鹿に二輪車量産工場を新設し、二輪車の輸出を本格化している。

    なお、本田はスーパーカブなどの新製品の発売にあたっては、先発メーカーの売れ行きを確認してから、本格的な市場投入をしている。このため、一部で、本田技研は「モルモットを注意深く観察」する会社とも言われた。

    三鬼陽之助(1966)

    本田技研の慎重さを物語るのは、スーパーカブの発売である。スーパーカブは、本田宗一郎が創業時代、自転車に取り付けた独創的な補助エンジンにはじまると言われるが、五〇CCのモペット(スーパーカブ)については、丸正自動車が出したベビーライラック号(九〇CC)にはじまるし、さらにドイツのクライドラー社もモペットを発売していた。ことに、ベビーライラックは、本田技研のスーパーカブ発売よりも、五年まえの昭和二十八年であった。しかし、その丸正自動車も、現在、倒産している。

    昌和製作所が、五〇CCの東昌エコーを発売、いよいよ五〇CCのモペットブームが到来すると見てとった本田技研は、待っていましたとばかり、電光石火に進出、たちまち市場を席巻したのであった。この間、もちろん、本田技研にも数々の技術開発はある。しかし、ソニーのような決定的な開発ではない。たしかに、本田技研は四サイクルエンジンの小型化、量産のきくプレスシャーシの開発など、オートバイ界では画期的である。しかし、ソニーの常識を打破する新製品の開発にくらべれば問題にならない。

    1966「HONDA商法」

    国内市場の掌握後、本田技研は二輪車の輸出を本格化する。

    輸出先の本命に据えたのはアメリカで、1959年に本田技研はロサンゼルスに現地法人を設立して、北米輸出を開始した。北米の現地で販売に奔走した人物は川島喜八郎(のちの本田技研副社長)である。川島はシアーズなどの巨大通信販売会社ではなく、自分自身で販売店を拡大する道を選択した。

    当時の北米市場では「オートバイは暗い」というイメージがあり、黒ジャンバーの暴走族が使うものであった。この常識に対し、アメリカホンダはスーパーカブを庶民の日常の足として、女性や若者でも気軽に乗れる商品として売り出す方針を決めた。

    新しいブランド構築のために、1962年に本田技研はグレイ社(大手広告代理店)と提携し、全米で読まれるLIFE誌に「You meet the nicest people on a Honda」というキャンペーンを展開したところ、評判を呼んだ。この宣伝の成果により、ホンダは北米市場で「二輪車のフォルクスワーゲン」という評判を獲得して販売店を確保した。

    川島喜八郎(本田技研・元副社長)

    アメリカの可能性に私どもを挑戦させたのは本田技研の前副社長(現最高顧問)の藤沢武夫でした。藤沢のアメリカに対する挑戦は、一種の執念というべきものでした。すなわち「オートバイが世界商品になるには、消費経済の王国であるアメリカに受け入れられなければだめだ。広大な土地、豊かな国民、高い技術をもつアメリカで評価されてこそ本物というべきだ。アメリカへの挑戦、アメリカ市場の開拓、それが俺の夢だった。今こそ、それができる」と。藤沢から至上命令が出たわけです。...(中略)

    アメリカの広告代理店グレイ社と契約を結んだことは大成功でした。34年以来、カリフォルニアを中心とする西部13州のセールス・ネットワークをつくりあげ、徐々に中部、南部から、ニューヨーク、ボストンなど東部への本格的な売り込み考えていました。このようにネーション・ワイドに商品を売り込むには、グレイのような宣伝広告のプロフェッショナルズの手を借りなければとても不可能です。グレイが真先に示したアイデアこそ、その後のホンダの躍進を決定付けた、あの"ナイセスト・ピープル"キャンペーンだったのです。

    1976/9プレジデント増刊号「オートバイ市場をかく創造せり」

    1964年の時点でホンダは国内の二輪車市場でシェア63%を確保。輸出先地域は、北米48%、欧州27%、東南アジア15%であり、先進国が主体であった。国内と輸出の好調により、本田技研は売上高純利益率10%以上を記録する高収益企業となり、四輪市場進出に向けた経営体力を蓄えた。

    一方、ライバルの東京発動機は設備投資に出遅れ、二輪車のデザインも洗練されていないという問題を抱え、ホンダとの競争に敗れた。1960年までに二輪車業界ではホンダの一強が確定し、1964年に東京発動機は会社更生法を申請し、二輪事業から撤退した。

    東京発動機の元社長は、本田技研との競争に敗れた過去について赤裸々に語っている。

    赤司大介(東京発動機元社長の回想)

    今だから言うが、そのころ私は、そうとうな金を使って本田にもスパイを入れた。本田の工員を買収して、いろいろ探ってみると、本田さんは何か新しいことを企んでいる。新製品をつくるかもしれないということがわかった。それが、本田のモペットだった。...(中略)

    ライバル本田が、こういうものを出すと知ったので、「よし、その図面を一枚複写してこい。」とスパイに命じた。そのときの金で50万円ぐらい使ったが、モペットの全部の図面を手に入れることができた。こんなことを知ったら、本田さん、怒るだろうけど、試作車の写真も撮った。そして、うちの工場の技術者に「1年後に、本田はこういうものを出してくる」と言ったのだが、「とても、こんなものはできなせん」と受け付けない。

    ここで一足先に本田にもペットを出されたら、トーハツが負けるのは、火を見るより明らかだと考えて、私は当時、富士銀行の副頭取の岩佐凱実さんに相談した。

    1966「敗軍の将、兵を語る」

    三鬼陽之助(1966)

    過去十年間、日本のオートバイ業界の変遷はめまぐるしかった。六十社以上あった会社が、十分の一に激減した。それも合併という形はほとんどない。宮田製作所が松下電器、目黒製作所が川崎航空機に吸収合併されたくらいで、その他は、悲惨な倒産で幕を閉じた。とにかく本田技研のモルモットとなって、消えさったメーカーが多いのである。...(中略)

    1966「HONDA商法」

    6. 四輪乗用車への参入見送り

    1952年の工作機械導入の時点で、本田技研は四輪乗用車への参入を見据えていた。1955年に日本政府・通産省が国民車構想を発表し、これに呼応する形で1955年にススキが「スズライト」、1958年に富士重工が「スバル三六〇」を発表するなど、二輪車メーカーが四輪乗用車を相次いで発表しており、業界内でも四輪車への注目が高まった。

    しかし、本田宗一郎は「自動車は十二分の検討をし、性能においても、設備の点においても、あらゆる点で絶対の自身と納得を得るまで商品化を急ぐべきではない」[ホンダ50年史]と判断し、1959年の時点で四輪乗用車への本格参入を見送った。

    その一方で、本田技研は四輪乗用車の開発を本格化するために、1957年から1958年にかけて中途技術者を50人近く採用し、四輪開発のための「第三研究課」を発足した。集められた技術者は三輪車や航空機の開発に携わった人物もいたという。

    1959年には四輪乗用車の試作車を一旦完成させた。さらに、ホンダは四輪乗用車の開発技術を向上させるためには、スポーツカーの開発が適当であると判断して開発を続行する。加えて、二輪車の販売店でも売りやすい商用の軽トラックの開発も進めた。

    7. 特振法を受けて四輪車に急遽参入

    1961年5月に通産省は「特定産業振興特別措置法(特振法)」の概要を公表し、国際競争力のない乗用車・特殊鋼・石油化学の三分野について、通産省が主導する形で企業の再編統合する方針を打ち出した。乗用車については、量産車グループ2社、特殊車両グループ(スポーツカー・高級車など)2〜3社、ミニカー(軽自動車)グループ2〜3社に集約する方針を打ち出し、競争力のない自動車会社の統廃合を目論んだ。

    自動車会社の集約案は本田技研の四輪進出を頓挫させることを意味したため、本田宗一郎は「特振法は日本を滅ぼす!」と激昂し、通産省に抗議した。

    本田宗一郎(本田技研社長・1963年)

    私がここで声を大きくしていいたいのは、やがて日本がもっと海外へ進出しなきゃならんときがあると思う。そのときに、こんな法律をつくって隠れみのみたいなものがあるとしたら、向こうでかたき討ちをやられるということだ。わずか自動車という特定な業者を保護するために、他の産業が全部損害をこうむって、それで国家としていいのかということを私はいいたい。これは慎重に議論を尽くしてやってもらいたい。...(中略)

    特振法は日本を滅ぼす!これは日本の自動車の特振法ではなくて、日本のあらゆる産業に関係がある。だから、雑貨の人もおもちゃをたっている人も、ほかにいろいろ輸出している人も、あらゆる人がこれに対してだまっていてはいけない。連鎖反応的にくるから、自動車のことだといって国民が黙って見ていてはいけない。...(中略)

    自動車産業は戦前から戦後までずっと保護されている。いまでも保護されている。たとえば償却期間がだいぶ違う。それまで保護されていて、またこういうことをやるとは何事だといいたい。私は政治の生命というものは平等であるというところにあると思うし、それでみんなが納得できると思う。こんなに差別待遇して、特定の業者を保護しているというのはよくない。それは、国民の犠牲において成り立っている商売だということをいいたい。

    1963/11/1実業の日本「本田宗一郎・特振法は日本を滅ぼす」

    特振法を受け、本田技研は急遽、四輪車での実績を残す必要に迫られ、1962年に四輪車の正式開発を決定。1962年6月にホンダスポーツ360を発表し、本田技研は四輪車への参入を果たす。

    だが、本田宗一郎は「四輪はできた。これは良いということで、工場を建ててしまうということは、非常に危険だ」[ホンダ50年史]と考え、四輪に携わる技術者の能力を十分に磨いてからでも遅くないと判断した。この間、四輪車は各製作所(埼玉・浜松・鈴鹿)で分散生産されたため、効率は悪く、四輪事業の赤字が続いたという。

    一方、様々な批判に晒された特振法は1964年に廃案となり、自動車会社の集約は幻に終わっている。

    8. 四輪量産工場の新設

    1964年に本田技研は四輪車の量産工場の新設を決め、工場用地の確保を急ぎ、最終的に埼玉県狭山市の約11万坪の土地買収に成功する。二輪車の製造拠点の近くであり、ホンダと創業以来付き合いのある部品メーカーとの取引にも問題のない立地条件であった。

    1964年に本田技研は四輪車量産のための狭山工場を新設し、四輪乗用車の生産体制の集約を図る。1968年までに狭山工場には197億円が投資され、月産1000台の体制を確立する。

    ところが、1965年に日本経済が一時的な不況に陥り本田技研の業績が低迷。株価も1964年5月の310円から1965年12月に168円まで暴落した。このため、様々なメディアは本田技研について、人員整理、会社解散、三菱重工との合併といった様々な黒い噂を流した。

    ダイヤモンド(1965年)

    なぜウワサが続出し、暴落する事態に落ち込んだのか。理由は簡単である。成長株の本命と目されてきた本田技研の"夢"が消えてしまったのだ。戦後の23年、町工場から出発、世の中の常識を破って"倍・倍"の伸びを重ねた結果、世界のホンダにのし上がった。周知の通りである。その本田が38年8月、四輪車に進出した。一般は"本田のやることだから"と多くを期待した。

    現実は、違った結果になった。四輪車は遅々として伸びず、収益は1年後の39年8月期決算で三割近い減益になっている。まして主力の二輪車が39年7〜10月にわたって、減産していたのだから、ウワサの出る余地があったといえる。...(中略)

    (筆者注:四輪車は)もちろん、まだ赤字である。狭山工場に投入した資金が三七億円、四輪車全体では一〇〇億円をこえている(会社側)だけに、お荷物であることは否定できない。...(中略)...いちばんの泣き所は販売力にある。狭山工場を増強し、月産五〇〇〇台から一万台へと進んでも実際に売り切れるのかどうか。本田技研のディーラー数は三万店におよぶ。量的には、文句なく業界最大である。が、そのディーラーのほとんどは、自転車屋に毛のはえた程度で、四輪車の整備・サービス能力に欠いている。

    1965/2/1ダイヤモンド「高収益時代の再現をねらう本田技研・問題会社」

    9. 軽乗用車「N360」の発表

    狭山工場の本格稼働を受け、1966年11月に本田技研は四輪乗用車「N360」を発表した。360ccエンジンを搭載した軽自動車であり、サラリーマンなどが購入者のターゲットで、ホンダとしては初の一般人向けの乗用車であった。

    N360は同種の軽自動車よりも安価であり、モーターショーで大きな注目を集めた。N360の発表により、本田技研は軽自動車分野で四輪車市場にデビューを果たす。

    本田宗一郎(本田技研創業者・1967年)

    我々はいつも世界的視野に立って、というポリシィを掲げているのであって、これからは一日も早く、Nを輸出できる体制を作らなければならない。(中略)当時日本の軽四輪は三七万円からしていた訳で、そこへ三一万三千円という値をつけた。Nは三七万円でも十分売れる車です。(中略)

    しかし、我々の商品は、一億の日本人だけを相手にして作っているものではない。皆さんの頭脳、皆さんの腕によってつくられた商品は日本の人達にこよなく愛されるのはもちろん、世界三十億の人達にも、もっともっとより愛されなければならない。(中略)国際的にも立派に通用し、それでも工場が儲かり、経営が成り立っていくという値段を私はほしいと思う。Nの価格はまさにそれであって、それで成り立つような企業でなければ本物とはいえない

    ホンダ技研「語り継ぎたいこと・チャレンジの50年」

    10. 四輪販売網の整備

    本田技研は四輪乗用車「N360」の発表と同時に、四輪車の販売のために販売網の整備を急いだ。乗用車業界ではトヨタと日産が主要な販売店を確保しており、後発参入の本田技研は販売網の構築で劣勢な立場にあった。そこで、本田技研は従来から取引がある二輪車販売店のうち、経営体力に余力がある店を四輪販売店に転換させることで、販売網を拡充する方式を考案する。

    だが、二輪車販売店は総じて小規模であり、総合的な四輪車のサービスを提供するには不適であった。そこで、本田技研が修理点検業務(SF:サービス・ファクトリー)、中古車の下取り、販売のサポートなどの支援体制を構築し、販売店が「乗用車を売る」ことに集中できる体制(通称:業販)を作り上げた。特にSFの充実に注力し、1967年までに全国100箇所のSF拠点を整備した。

    SFの業務内容は、各販売店が共同でサービス工場を建設し、四輪車サービスをSFが請け負う担うもので、販売店における修理負担を軽減するものであった。SFの考案者は藤沢武夫である。

    N360の販売に際してもう一つ重要な点として、販売情報を的確に把握する必要があると判断して代理店制度ではなく、本田技研が設立した営業所を介して直接販売店に送るシステムの導入を決めた。1967年までに全国各地の主要都市70箇所に営業所を新設することで、業販体制を強化した。営業所では、人が集まる場所を特定してN360の展示会を企画するなど、売り込みに奔走した。

    販売が徐々に軌道に乗った1970年代に、本田技研は販売面の強化を続行し、1972年からは特約店制度を導入した。経営体力のある代理店は続々とホンダの特約店へと移行したが、一部の代理店は脱落したと言われている。

    販売網の整備と軽自動車「N360」の量産により、本田技研は四輪車市場の軽自動車分野でシェアを確保。同業の富士重工や三菱重工を凌駕し、一気に軽自動車のトップメーカーに躍り出た。

    藤沢武夫(本田技研元副社長・1974年)

    SF(サービス・ファクトリー)の組織ひとつみても、もしこれがなかったらいまの本田技研はこんな気軽に商売はできなかったはずである。ところが、ひところはSFがあったために本田は損をしているのだと目の仇にされたこともあった。トヨタ、日産といった先輩メーカーは、やはり歴史が古いだけに、販売店をつくるにしても、いろいろなことが都合よく展開していった。ところが本田が販売店をつくろうとしても土地は高くなっているし、その土地の名士もすでに他社の製品で開業しているので協力をあおげない。したがって、もし本田が先輩メーカーと同じやり方をしていたら、とても競争にはならなかったにちがいない。

    ほかと別なことをやるということは、そのときにわかる仕事でないだけに、いろいろの抵抗もあるわけである。いきおい金融面も苦しくなる。本田技研という会社は、内部的には私のいったことをみんな認めて賛成してくれた。しかし、全部が全部というわけにもいかない。また全部が全部賛成だったら世の中かえっておかしいだろう。そこには、当然、批判はある。この批判は、未来に関連してくることを現在で判定するために生ずるものだから、当然議論しても平行線をたどってしまう。

    しかし、私としては、このSFの問題については、だれよりも自分が年月をかけて考えてきたという自身があった。私の知人の中には、トヨタさんがこうだから、日産さんがこうだからという立場で反対した人もいた。ところが、私の場合は、小さい後発メーカーがどうしたら四輪車をやっていかれるかという視点に立っていたから、トヨタや日産の方式とは、まったく関係がなかったのである。

    1974/10/15実業の日本「企業は芸術品である・藤沢武夫」

    11. 小型乗用車H1300の教訓〜開発体制改革

    N360によって本田技研は軽自動車市場で頭角を現したが、本命である小型乗用車市場への進出機会を伺った。1967年に本田技研は小型乗用車への正式参入を決断し、エンジンの開発に着手し、1970年に小型乗用車「H1300」の価格発表会を開催した。高額商品であるため、購入ターゲット層を医者や会社経営者と想定し、販促のためのダイレクトメールを送付している。

    ところが、H1300の反響は芳しくなかった。鈴鹿工場の生産ラインは閑散としており「ラインにはH1300がポツン、ポツンとしか流れていなかった」という絶望的な状況に陥る。

    最大の問題は本田宗一郎が主張した空冷エンジンの採用で、水冷式に比べて環境対策(排ガス対策)が難しく、当時、社会問題になりつつあった自動車の排ガス規制への対応も難しかった。そこで、本田技研の技術者は本田宗一郎を説得した上で水冷式エンジンの開発を試みるとともに開発体制をチーム化するための改革を実施した。

    杉浦英男(本田技研・技術者1999年)

    一言で言えば、商品としての自動車というものに対する理解が、必ずしも十分ではなかったと言えるのではないだろうか。クルマのありようを総合的に考えるべきものを、部分最適の積み重ねで全体最適ができていると思い込んでしまっていたところがあったように思う。また、開発に当たっては、当然のことながらお客さまの視点というものを意識していたつもりだったが、結果としては技術というものが前面に出てきてしまって、このクルマが最終的に、"どんな人たちに、どんなふうに乗ってもらうか"ということが不明確になってしまった。

    技術というものは、あくまでも、お客さまに喜んで買っていただけるものを作り出すために使う手段であったはずなのに、つい肩に力が入ってしまい、目的が後ろへ下がって、反対に、手段であったはずの技術が前に出てきてしまっていた。これがH1300から得た最大の教訓だったと思う。

    本田技研50年史

    12. CVCCエンジン搭載「シビック」の発売

    1970年頃の世界各地で、自動車による排ガスが問題となっており、大気汚染問題をクリアできるエンジンの開発が喫緊の課題となった。1970年にはアメリカでマスキー法(大気清浄法)が制定され、自動車メーカーは排ガス対策が急務となる。だが、レベルの高い水準をクリアするエンジンの開発は難しく、アメリカのGMでさえ、開発成果は芳しくなかった。

    世界的な自動車メーカーが排ガス規制に苦しむ中、1974年に本田技研はH1300の教訓を生かした技術陣が世界に先駆けて排ガス基準をクリアするCVCCエンジンの開発に成功し、世界を驚かせた。

    そして、本田技研はすでに開発済みであった小型乗用車「シビック」にCVCCエンジンを搭載することで、低公害車として発売。日本のみならず米国にも輸出することで業容を拡大し、小型乗用車メーカーとしての地位を確立する。

    13. 本田宗一郎・藤沢武夫の退任

    1973年に本田宗一郎(66歳)と藤沢武夫(62歳)は本田技研の経営から円満に退くことを決意し、後任には本田技研の創業期の社員である河島氏が就任した。本田宗一郎の退任は日本経済界で大きな話題となり、引き際の美しさが賞賛された。

    退任について、本田宗一郎は以下のように語っている。

    本田宗一郎(本田技研創業者・1973年)

    低公害エンジンの開発でも、私は開発に成功すればGMやフォード、トヨタ、日産などとこの排気問題に関しては同一のスタート・ラインに立てると考えた。ところがこれが若い人たちから猛反対を受けた。「社長は企業本位に立って排気ガス問題を考えているが、それはまちがいで、社会的責任の観点から開発に務めるべきだ」というわけだ。全く彼らの言うとおりだ。

    長く経営にたずさわっていると、どうしても経営の苦労がしみ込んで、つい経営というものを基盤に置いた話をしがちである。ところが、最近は企業の社会的責任が非常にやかましく言われだした。こうした急激な変化に対応するには、私も年老いたなということをはっきり認めざるをえない。こうした問題は、どこの企業でもかかえていると思うんだが、トップが早く認識するかどうかの違いだろう。

    1973/9/1週刊東洋経済「わが勇退の弁・本田宗一郎」


    結果:売上2兆円・利益率10%超(1983年2期)

    四輪車メーカーとして成長

    1980年代を通じて本田技研は四輪事業の好調により、1980年2月期から1984年2月期までの5年間の売上高営業利益率の平均が「11.1%」という高水準を記録した。売上面でも、1983年2月期に2兆円を突破して2.2兆円を記録し、日本を代表する企業に躍り出た。

    また、1962年の時点で売上構成比の90%を二輪車が占めていたが、1980年2月期までに二輪車の割合は25%に低下する一方で四輪車が62%を占め、本田技研は二輪車から四輪車への転換を成し遂げた。

    なお、本田宗一郎は高齢により1991年に84歳で逝去、藤沢武夫は1988年に78歳で逝去した。

    日経ビジネス(1987年)

    戦後派企業で世界市場に打って出て急成長したのがホンダとソニーである。ソニーが次々と新製品を生み出すモルモット企業とすれば、ホンダは絶えず既成の価値観に挑戦し続けてきたパイオニア企業である。そのホンダは今や押しも押されもせぬ大企業になった。

    しかし、真価が問われるのはパイオニア精神の源流となった創業者・本田宗一郎氏が完全に表舞台から去った時であろう。果たしてホンダは「万物(企業)流転の法則」から逃れることができるだろうか。

    1987/12/21日経ビジネス「進化の研究・本田技研工業」



    参考文献

  • 1963/11/1実業の日本「本田宗一郎・特振法は日本を滅ぼす」
  • 1965/2/1ダイヤモンド「高収益時代の再現をねらう本田技研・問題会社」
  • 1973/9/1週刊東洋経済「わが勇退の弁・本田宗一郎」
  • 1974/10/15実業の日本「企業は芸術品である・藤沢武夫」
  • 1976/9プレジデント増刊号「オートバイ市場をかく創造せり」
  • 1986/2/24日経ビジネス「編集長インタビュー ・本田宗一郎」
  • 1987/12/21日経ビジネス「進化の研究・本田技研工業」
  • 1966「敗軍の将、兵を語る」
  • 本田技研50年史(ホンダ技研「語り継ぎたいこと・チャレンジの50年」)
  • 1955「本田技研・社史(1952年10月・月報14号)」