ドン・キホーテ - 安田隆夫

#業態転換 #2019/9/15

イラスト:筆者作成(参考:1999/3/22日経ビジネス)

不動産→現金問屋→ドンキ→(不動産)

  • 前史:ファーストキャリアは不動産

  • 背景:現金問屋の構造不況

  • 決断:ドン・キホーテの業態開発

  • 結果:30期連続増収増益(1989年〜2019年)

  • 考察:「不動産屋」の血を引く会社

  • 社史的意義(業態転換)
  • 1980年代に安田隆夫(PPIH創業者)は現金問屋の行き詰まりを見据えて、夜間衝動買いという独自の小売業態を開発し、現場社員に仕入れ〜陳列を委任することで、都心部の深夜若者マーケットの開拓に成功した。本業に見切りをつけ、従来の小売業とは全く新しい市場を独自に作り上げた点で、社史的意義がある。


    ドン・キホーテ(PPIH) - 基本情報

    売上高 - 過去推移

    単位:億円

    出所:有価証券報告書、決算短信、会社四季報


    売上高利益率 - 過去推移

    単位:%

    出所:有価証券報告書


    決断前史:ファーストキャリアは不動産

    不動産業で失敗

    1978年に安田隆夫は慶応大学を卒業し、不動産会社のサラリーマンとしてのキャリアをスタートさせる。

    安田は大学生時代に「同級生たちは、みんな要領よく群れを作って、うまく学生生活に溶け込んでいる。自分も無理して仲間に入っていたが、それは本来の己の姿とは違うな」「このままサラリーマンになって一生無理を続けるのかと思うとぞっとした」[1999/3/22日経ビジネス]と感じたことから、起業家になることを志向する。最初に不動産会社に入社した理由は、将来の独立が容易であると判断したためであった。

    不動産会社に2年間勤務した後、1974年に安田は会社の上司が起業した不動産会社に転職するものの、オイルショック後の土地バブルの崩壊により安田の会社も倒産してしまう。だが、安田は「ここでサラリーマンに戻ったら人生の敗北だ」[1999/3/22日経ビジネス]という考えのもと、別の会社を創ることで起業家として人生を歩むことを決めた。

    現金問屋で関東No.1へ

    1978年に安田はディスカウントストア「泥棒市場」を東京・杉並区にて創業し、物品販売業をスタートさせた。だが、開業当初の業績は不振で、アルバイトを雇う資金さえも確保できなかったため安田が一人で店番をしたという。少しでも売り上げを伸ばすため、安田は昼間時間帯のみならず、深夜0時まで営業を続けた。この深夜営業は、のちのドン・キホーテに引き継がれた。

    しかし、仕入面に工夫がなく利益がでなかった。そこで、裁判の差し押さえ品などの「訳あり商品」の仕入れに注力したところ、ようやく儲かり始めた。安田は泥棒市場の店を閉めて、現金問屋「ジャスト」として生き残りを図ることを決意。メーカーや問屋の裏口を周り、訳あり商品をかき集める現金問屋に転身した。顧客は関東各地に点在するデイスカウントストア向けで、この分野では関東一の卸売業者となった。


    時代背景:現金問屋の構造不況

    ディスカウントストアの台頭

    1990年代を通じてディスカウントストア(DS)の大規模化が進行し、それまでDSが仕入先として頼ってきた現金問屋の機能を自社に取り込むことが一般化した。このため、DSの黎明期を支えてきた現金問屋という業態が行き詰まる。

    1990年におけるディスカウントストアは、ダイエー系(トポス、Dマート、バンドール)、家電系(ヨドバシカメラ、コジマ)、総合系(ダイクマ、ロジャーズ)などが主な企業で、いずれも店舗売上高が500億円を超えており、メーカーとの直接取引を志向した。

    日経流通新聞(1994年)

    わが国のディスカウントストア(DS)の初期成長過程で、安価な商品の供給源として重要な役割を担ってきた現金問屋が岐路に立たされている...(中略)...総合スーパーやDSの台頭で、現金問屋の主要顧客である中小小売業者は転廃業に追い込まれている。現金問屋も、新たな顧客を獲得しなければ生き残れない時代が到来しつつある

    1994/01/27日経流通新聞p1「現金問屋「脱皮」へ模索」


    決断:ドン・キホーテの業態開発

  • 1. 衝動買い業態「ドン・キホーテ」の開発
  • 2. POS/EOSの導入+権限委譲
  • 3. 株式上場により資金調達
  • 4. 新宿で物件確保(初の都心店舗)
  • 5. GMS買収で地方郊外に拡大
  • 1. 衝動買い業態「ドン・キホーテ」の開発

    1989年に安田は「もう1度、店をやりたい」という思いを募らせ、小売業への本格参入を決断。東京・府中市に「ドン・キホーテ」の1号店を開業し、深夜時間帯まで営業する新しい小売業態の開発を志した。この理由について、安田は「当時の私は逆張りにならざるをえなかった。何もないわけですから。何もないやつが、たくさん持っている人たちと戦う際、同じやり方では勝てっこない」と語っている。

    ドン・キホーテの顧客層は泥棒市場と同じく大学生に狙いを定める。東京の府中地区には70年代の学園紛争後に郊外移転した大学などが多数あり、若者の消費が期待できる地域であった。府中は自動車での移動が中心の郊外であり、ドンキの府中店は郊外店舗としてスタートする。

    大学生は昼間時間帯のみならず、深夜時間帯における購買も期待できたため、泥棒市場時代の営業時間を踏襲し、ドン・キホーテも深夜営業を志向した。安田は深夜と昼間における人間の購買心理の違いに目をつけており、昼が目的外中心なのに対し、夜は衝動買い中心であることを見抜いていた。

    安田隆夫(ドンキホーテ創業者・1999年)

    昼のお客さんは、買う商品が決まっている目的買いだから、見やすく、買いやすい従来の陳列でいい。ところが深夜のお客さんは、ほとんどが衝動買い。唯一、消費行動の中で残された衝動買い市場を業態として作り上げたかった。これは夜祭りに集まる心理と同じなんですよ

    1999/3/22日経ビジネス

    そこで、ドン・キホーテでは顧客の衝動買いの欲求を満たすための商品陳列および仕入れを行うため、狭い店内に大量の商品を並べる方式を考案し、安田は「見にくい、買いにくい、わかりにくい売り場を作れ」と現場に指示したというが、当初はなかなか軌道に乗らなかった。

    ドン・キホーテ1号店は、しばらくの間は毎月1000万円の赤字を計上していたという。このため、稼ぎ頭の現金問屋の利益でドン・キホーテの赤字を補填していた。

    安田隆夫(ドンキホーテ創業者)

    89年に、東京・府中にドン・キホーテの1号店を出した。圧縮陳列を取り入れたが、最初はなかなかうまくいかなかった。店舗の社員たちに「見えにくく、取りにくい」売り場を作れと言っても、思い切ったことができなかったからだ。

    悩んだ私が最終的にたどり着いた結論は、「雇われ気分ではダメだ」ということ。私も泥棒市場では自分の生活がかかっていたから、必死になって考えた。同様に、サラリーマンである社員たちを「商店主」に変えなければならないと思った。そこで、売り場の担当者に、仕入れから値付け、陳列、アルバイトの管理まで、何も言わないから好きにしろといった。すると社員たちは、面白そうに仕事をするようになった。売れないと悔しがって、仕入れや陳列を工夫し始めた。

    2002/10/14日経ビジネス「ドン・キホーテ・楽しく競わせ快進撃」

    2. POS/EOSの導入+権限委譲

    1992年にドンキホーテはPOS、1993年にはEOS(電子発注システム)を導入し、ITシステムへの投資を積極的に行う。なお、1995年時点の取扱品総数は2万品目で、POSを活用した仕入れが60%に対して現金問屋から適宜仕入れる割合を40%とし、売れ筋商品とともにマイナーな商品も取り扱った。

    POSとEOSというITシステムを導入する一方で、仕入れおよび陳列という小売業の基幹をなす部分は、現場の社員に権限委譲した。1999年の時点でドン・キホーテは、問屋やメーカーとの商談のために「一括商談システム(1998年1月導入)」を本社に設けていたが、実際に商品を仕入れるかは現場の各店の判断によって決定された。仕入れには、入社1年未満の社員が担当することもあったという。当時の小売他社は、仕入れは古参社員が行うことが多く、素人が仕入れ決定権を握ることは業界の常識に反しており、ドンキは常識の逆を追及した。

    現場社員の評価基準も数値によって厳格に定め、「平均年齢が27歳という店長の年収は成績に応じ400万〜1200万円まで差がつく」[2002/10/14日経ビジネス]方式を採用した。数値化の内容は、売り場面積あたりの売上高ないし粗利益で、比較対象は店長間ないし、同一カテゴリーの担当者間であった。結果は社内にランキングとして公表され、安田社長は「競育」としてこれらの競争を奨励した。ただし、社内がギスギスしないように「下剋上宣言」といった競争をゲーム化する要素を取り入れるなどの工夫をしている。

    安田隆夫(ドンキホーテ創業者)

    ドン・キホーテが扱っている商品にプライベートブランド(PB)は少ない。つまり、誰でも仕入れることができるから、参入障壁は低い。しかし、それでも他社がなかなか追随できないのは、結局、社員の潜在力を引き出す体制になっていなからだろう。圧縮陳列というのは、手間がかかる。手作りのPOP広告を作るのも大変だ。結局、ドン・キホーテの店は、志の高い社員でないと作れない。本部が仕入れた商品を、決められた値段で売ることに慣れた人では、こんな大変な仕事はできないのだ。

    商品の喜びは、自分のリスクで仕入れて、値段をつけ、狙い通りに売れた時に初めて、味わえる。私が一番大事にしようとしているのは、従業員にその喜びを知ってもらうことだ。それさえ伝われば、従業員は放っておいても、創意工夫を凝らし始める。従業員が面白がって仕事をしていない店舗に魅力があるはずがない。

    2002/10/14日経ビジネス「ドン・キホーテ・楽しく競わせ快進撃」

    日経ビジネス(2002年)

    同社の競育は決してぎすぎすしたものではない。むしろ競争を楽しむ企業風土があるところが特徴だ。...(中略)

    例えば、同社には上司や同僚に「下剋上宣言」をする習慣がある。職場にはそのための専用シートがあり、そこに「次の番付表ではあなたを必ず抜きます」と記入したうえで、相手にファックスを送る。ちなみに花井店長(筆者注:28歳・女性・新宿東口店店長)は現在、大関であり、3人の店長から下剋上宣言をもらっている。挑戦を受ける側は、この紙を何枚もらうかが一種のステータスだ。宣言通りに下剋上を果たしたからといって、特別ボーナスなどの報奨金が出るわけではない。その意味では、一種の「お遊び」にすぎないが、こんなところからも競争を楽しむ社風がうかがえる。...(中略)

    安田社長の経営を、一言で言えば、本能に忠実な経営と呼べるだろう。人間の持つ競争心や賞賛されたい気持ちを、巧みに引き出し、そのパワーを売り場作りに向かわせている。覚悟を決めて現場に任せ、結果だけを問う。勝利者や、敗者復活した人を賞賛する一方で、社風になじめずに去っていく人はあえて追わない...(中略)...ドン・キホーテが1000億円企業に上り詰めた今も、輝きを失わないのは、経営の軸足が個人の潜在力を引き出していることにあるからだろう。

    2002/10/14日経ビジネス「ドン・キホーテ・楽しく競わせ快進撃」

    3. 株式上場により資金調達

    1996年にドン・キホーテは株式を公開。1998年には株式を東証一部に上場し、店舗の出店資金を確保した。

    4. 新宿で物件確保(初の都心店舗)

    ドン・キホーテの運営が軌道に乗ると、首都圏の郊外を中心に多店舗展開を志向。1994年にドン・キホーテの2号店を杉並に開業し、1998年3月の葛西店・環八世田谷店の開業をもって10店舗体制を確立した。このうち、注目すべき出店は1997年に新宿への進出で、ドンキにとって初の都心進出となった。

    1997年4月にドン・キホーテは東京都心部への進出を決断し、新宿店の新設を発表した。従来のドン・キホーテは利用者が車で訪れる郊外店が中心であったが、新宿店は利用者が利用しやすく来客数も多い繁華街に位置する店舗であり、ドン・キホーテとしては初めての都心進出の試みとなった。ただし、出店地区の職安通りは治安の悪い地域でありリスクも大きかったが、安田氏は警察OBが所属する「エス・ピー・ネットワーク」との連携により潜在的なリスクを抑えて出店を強行した。

    1997年の新宿店を皮切りに、ドン・キホーテは全国の都心部への出店を継続した。1999年には渋谷、2000年には新宿東口、2001年には六本木の各店舗を新設し、東京都内における若者人口が多い地区をほぼ掌握した。なお、新宿および六本木の進出にあたっても土地を取得しており、金融ビックバンによって統廃合された銀行支店の跡地を取得している。

    なお、2000年前後はバブル崩壊により地価が急落したことから、安田社長は「保有したほうが安上がりになる」[1999/7/12日経ビジネス]と判断し、賃貸ではなく土地取得による出店を加速させる。

    2001年に開業した六本木店は、もともと三井銀行の六本木支店であった。ドンキは建物をそのまま活用しつつ、ドン・キホーテの店舗として流用した。

    5. GMS買収で地方郊外に拡大

    1970年代から1990年代にかけて総合スーパー(GMS)という業態が日本に定着し、ダイエー、イトーヨーカ堂、イオン、ユニー、長崎屋といった各社が業容を拡大したが、2000年代にユニクロなどの専門店が急成長を遂げたため、総合スーパーという業態の収益性が悪化した。2001年にダイエーが大規模な人員削減と店舗閉鎖を決断するなど、大量仕入れ・大量販売に根ざしたGMSの経営が行き詰まる。

    2007年にドン・キホーテは経営危機に陥った長崎屋(GMS:総合スーパー)を子会社化し、郊外・地方における店舗展開を本格化する。ドンキは長崎屋の店舗跡地を「MEGAドン・キホーテ」に業態変更することで業容を拡大した。2017年には中部地方を中心にGMSを展開するユニーの株式を取得するなど、経営不振だが良い立地条件に店舗を構える小売業を相次いで買収した。

    安田隆夫(ドンキホーテ創業者・2015年)

    イトーヨーカ堂さんもイオンさんも、世界基準からいったら最も優れたGMSだと思う。ただ、日本はあまりにも消費が成熟しすぎて、それでも儲からないという厳しい局面にある。最も優れたGMSで儲からないとなると、GMSという業態がある種、現在に合っていないという可能性が出てくる。GMSは食品と非食品を買い回りしてくださいという業態だ。ところが、お客さんは今そんなことをしない。品物ごとに専門店で買うようになった。

    われわれはGMSだった長崎屋を買収し「MEGAドン・キホーテ」にしたが、軒並み高収益を上げている。それは、違うことをやったからだ。長崎屋はイトーヨーカ堂やイオンに比べたら店舗も小さく勝ち目がなかった。そこで、レベルアップするのではなく、中身を変えた。われわれは買い回りなんかしてくれなくたっていいと思っている。1階と2階を分離して商品構成と演出を考えている。GMSは1階で売れても2階は売れないというのが永遠の悩みだか、MEGAドン・キホーテは1階と2階の売り上げがほぼ同じくらいだ。

    2015/03/21週刊東洋経済「わが「勇退」」


    結果:30期連続増収増益

    競合企業は出現せず

    ドン・キホーテは2000年代を通じて都心部の夜間マーケット、2010年代を通じて地方郊外の昼間マーケットを開拓することで業容を拡大。2019年6月期までの30期連続で増収増益を達成するなど、小売業各社が苦戦する中で、異例の高成長を続けている。ただし、ドンキの得意領域であった都心・夜間マーケットは、若者人口の減少により近年、縮小傾向にある。

    2015年にドン・キホーテはHD化を実施し、商号をドンキHDに変更。2019年には商号をパン・パシフィック・インターナショナルホールディングズ(PPIH)に変更し、ドンキという小売業態に限らない事業展開を行う体制に組み替えるとともに、アジアを中心とした海外展開にも注力している。

    なお、2010年代を通じてPPIHは有形固定資産(主に土地)の取得を積極化しており、2019年には渋谷道玄坂地区における大規模再開発を主導する方針を発表した。再開発はオフィスやホテルが入居する高層ビルとなる予定で、PPIHは新しい主力事業として「不動産賃貸(再開発)」を立ち上げつつある。

    安田隆夫(ドンキホーテ創業者・2015年)

    流通業界の中で、ドン・キホーテという歌詞はだけはいまだに類似業態が現れていない。SPA(製造小売業)と違い商品に独自性があるわけではない。単なる編集と演出をしているだけです。そうして成功している。にもかかわらず、新規参入がない。「業態あって業界なし」、これはドン・キホーテだけだ。この理由を、多くの経済学者を含めて誰も解き明かせないでいる。

    最初は皆「あの会社、なんだろう。ある種、ゲテモンなんやな」と思っていた。しかしそのゲテモンが年間6000億円も売り上げていると話が違ってくる。しかも、北海道から沖縄まで満遍なく繁盛している。その理由を考えて、最終的には消化不良に陥って「もういいや、あの会社のことは」となる。そこがドンキの強さだ。

    2015/03/21週刊東洋経済「わが「勇退」」


    ドンキは「不動産屋」の血を引く会社

    ドン・キホーテの特色は、独特な小売業態にあるというのが一般的な意見だが、筆者は「不動屋」にあると見ている。

    第一に、出店立地に対する異常な嗅覚に特徴がある。深夜マーケットを開拓するためには若者人口が多い場所を選定する必要があり、繁華街の物件所有者の事情に精通する必要がある。2000年前後には、金融ビックバンという大変化によって、都心部の銀行店舗が統廃合されたチャンスを捉え、ドン・キホーテは新宿店への出店という大仕事を成し遂げた。なぜ、有力な繁華街にある「銀行支店跡地」や「訳あり物件」といった優良な土地を確保できたのかは、世の中に疎い筆者には読み解けない。

    なお、近年もドン・キホーテ(現在は社名をPPIHに変更)の投資動向を見ると、有形固定資産(土地)の取得に毎年数百億円を投じていることが興味深い。2019年にPPIHは「渋谷道玄坂」の再開発を決めたが、あの界隈の土地を買収することは並大抵のことではない。当該地区はいわゆる「ホテル街」に近く、訳あり物件も相当存在することから、素人が容易に手出しできる不動産ではない。

    第二に、ドンキの現場への権限委譲の伝統も、安田氏がかつて不動産会社という一匹狼の世界に生きていたことが大きいと考えられる。独立心旺盛な不動産屋社員のマネジメントと、権限委譲に特色のあるドンキの運営の根本は近い世界にある。安田氏が大学卒業後に不動産会社に勤務したという事実は見過ごされやすいが、不動産あがりの小売屋という点が、ほかの小売業者と決定的に違う点であり、PPIHのオリジナリティーでもある。

    土地の確保、権限委譲の方法といったドンキ(PPIH)の中核をなす部分は、いずれも「不動産」を連想させる。ダイエーやイオンなどの小売業が「大量仕入れ・大量販売」を旗に掲げて創業したのに対し、PPIHの創業者が一匹オオカミ的で社員一人ひとりを生かす「不動産屋」が原点も対照的であり、この血筋の違いがドンキを特徴づけている。

    不動産への嗅覚が鋭い小売業としては、かつて百貨店からの業態転換を志向したパルコも同様である。百貨店の否定からパルコが生まれたように、GMSの否定からドンキが誕生した。いずれも不動産への嗅覚が鋭いことは偶然なのか、必然なのか・・・。



    参考文献

  • 1994/1/27日経流通新聞p1「現金問屋「脱皮」へ模索」
  • 1996/7/29日経ビジネス「ドン・キホーテ・深夜に稼ぐ"非常識"DS」
  • 1999/3/22日経ビジネス「フォーカスひと・安田隆夫氏」
  • 1999/7/12日経ビジネス「銀行の売却物件などに熱い視線」
  • 1999/9/06日経ビジネス「深夜営業騒動、安田隆夫ドン・キホーテ社長に聞く」
  • 2002/10/14日経ビジネス「ドン・キホーテ・楽しく競わせ快進撃」
  • 2015/03/21週刊東洋経済「わが「勇退」」