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ノーリツ鋼機 - 西本貫一/西本博嗣

投資家の決断 経営者の決断 ノーリツ鋼機 衰退期 クーデター 業態転換 企業買収 創業家

ノーリツ鋼機の業態転換を推し進めた西本博嗣。イラストは筆者作成。

決断サマリー

グローバルニッチメーカーから"投資会社"への業態転換

  • 祖業は写真現像機の開発製造
  • ノーリツ鋼機の祖業は写真を現像するための業務用機械である。創業者の西本貫一は戦前から和歌山県で写真店を営んでいたが、写真の現像工程の自動化(=能率化)のポテンシャルに着目してノーリツ鋼機を設立。写真現像機の開発に本格的に乗り出した。

  • ミニラボ世界シェアNo.1(46%)
  • 1970年代にノーリツ鋼機は、短時間で現像できる写真ラボ(ミニラボ)を開発。ミニラボは、専門工場で1週間〜10日かかった従来の現像時間を、町の写真屋の店内で45分〜1時間で完結する画期的な機械であった。

    だが、富士フイルムがミニラボの製造に進出し、ノーリツ鋼機は窮地に陥る。そこで、西本貫一は米国進出を決断。全幹部が反対する中で、西本は「わしが自分でいってくる!」と啖呵を切ったという。幸運にも、米国で競合のペコ社のマネージャーをスカウトすることに成功し、ノーリツの米国事業は順調に立ち上がった。1980年代を通じてノーリツ鋼機は米国でミニラボを販売し、グローバルな高収益企業として成長。1995年には株式上場を果たす。

  • デジタル化を読み間違えた経営陣
  • 2000年代を通じてデジタルカメラが普及したため、写真フイルムという大市場が消滅。ミニラボの市場も急激に縮小した。市場が激変する中、創業期からノーリツの経営を率いてきた西本貫一(90歳)が社長在職中に逝去。2005年に佐谷社長が社長を引き継ぎ、写真ラボ事業の継続を模索する。

  • クーデターで創業家が経営に復帰
  • 大株主であった創業家は佐谷社長の写真ラボを継続する経営方針に不満を抱き、2008年の株主総会で社長と副社長を含む生え抜きの取締役を全員更迭した。かわって、創業家の西本博嗣が取締役に就任し、ノーリツ鋼機の経営再建をスタートさせる。この時点で、ノーリツ鋼機には写真ラボで稼いだ豊富な資金が残されていた。

  • 祖業撤退+M&Aの積極化
  • 西本博嗣はノーリツ鋼機の再建のために、祖業への投資をストップ。2016年に祖業を投資ファンドに売却して写真ラボから撤退した。一方、新事業を創るため、2009年に社内にM&Aチームを結成。人材はメルリリンチなどの投資銀行からスカウトした。2010年以降にノーリツ鋼機は、医療、webメディア、ペン先製造会社などを買収して業態転換を果たす。

    目次

  • ノーリツ鋼機 - 基本情報
  • 売上高 - 過去推移

    売上構成比 - 過去推移

    営業利益率 - 過去推移

    無形固定資産 - 過去推移

    現金同等物・有利子負債 - 過去推移


  • ノーリツ鋼機(西本貫一)の歴史
  • 1940年代 米兵向け写真館で成功

    1950年代 写真現像装置の能率化

    1990年代 ミニラボで世界シェアNo.1


  • カメラのデジタル化
  • 1970年代 露出機構の自動化

    1980年代 ピント機構の自動化

    2000年代 写真フイルムのデジタル化


  • 創業家(大株主)が社長を更迭
  • 1. 社長を含む取締役5名を更迭

    2. 祖業を投資ファンドに売却

    3. M&A専門チームを自社内に設立

    4. 積極的な企業買収の実施


  • その後の経過
  • 2020年代 *2028年に執筆予定


    ノーリツ鋼機 - 基本情報

    売上高 - 過去推移

    祖業は写真ラボであったが、2015年までにラボとは無関係の新規事業が主体となった。

    単位:億円

    出所:有価証券報告書、各種報道資料

    注:2019.3は売上収益(IFRS)


    売上構成比 - 過去推移

    主力事業は祖業の写真ラボ1本から、医療(診療データ)、シニアライフ(メディア&通販)、ものづくり企業(ペン先製造)の3つにシフト。

    単位:%

    出所:有価証券報告書、会社四季報


    売上高営業利益率 - 過去推移

    デジタル化の進行により写真ラボ事業が行き詰まったため、2010年より業態転換を志向。

    単位:%

    出所:有価証券報告書

    注:89年〜93年の経常利益は推定


    無形固定資産 - 過去推移

    2013年以降は買収を通じて業態を転換するが、同時に減損リスクを抱え込んだ。

    単位:億円

    出所:有価証券報告書


    現金同等物・有利子負債 - 過去推移

    新事業の買収資金は、借入にて調達した。

    単位:億円

    出所:有価証券報告書


    ノーリツ鋼機(西本貫一)の歴史

  • 1915年 西本貫一が和歌山に生まれる
  • 1943年 和歌山市に報国写真館を開業
  • 1945年 米兵向けの写真館として発展
  • 1956年 ノーリツ光機製作所を設立
  • 1961年 ノリーツ鋼機を設立
  • 1961年 白黒現像機「RF-20E」を販売
  • 1964年 カラー現像機「RF-C1」を発売
  • 1978年 富士写真フイルムが現像機に新規参入
  • 1978年 アメリカに現地法人を設立
  • 1979年 ミニラボの販売を開始
  • 1981年 ドイツに現地法人を設立
  • 1985年 和歌山に本社工場を新設
  • 1996年 大証二部に上場
  • 1997年 東証一部に上場
  • 米兵向け写真館で成功

    ノーリツ鋼機の創業者・西本貫一は1915年に和歌山県の農家に生まれた。当初、西本は農家を継ぐ予定であったが、日中戦争に従軍した際に左手を負傷し、農家を継ぐことが難しくなった。このとき西本貫一は将来に絶望するが、気を取り直して子供の頃に好きだった写真に携わることを思いついた。そして、1943年に西本貫一(当時28歳)は和歌山市内に「報国写真館」を開業した。

    1945年の終戦時に西本は近隣の写真店よりも早く営業を開始。戦時中に主要な写真現像機材を疎開させており、戦時中の空襲の影響を最小限に抑えることに成功したため、他の競合店よりも早く営業を開始できた。

    終戦後、西本は写真店の名前を「西本スタジオ」に改称し、和歌山に上陸した米兵相手の商売で店を繁盛させた。米兵は故郷の家族に対していち早く自分の無事を伝えるため、現像された写真を必要とした。そこで西本は、本来ならば念を入れて行う洗浄作業の時間を短縮して対応するなど、米兵のニーズに応えた。このため、米兵は西本スタジオに殺到し、西本スタジオは繁盛した。

    ちなみに、西本は写真の現像を公定価格の十倍の価格で実施。西本家には米兵が現金の代わりに置いていった冷凍肉、砂糖、タバコが大量に溢れかえったという。

    写真現像機械の能率化

    終戦直後の日本は慢性的な電力不足による停電が頻発した。このため、写真店では印画紙の水洗いの機械が途中でストップすることが多々あり、商売のネックとなっていた。

    そこで、西本は水車動力の水洗機材を開発して全国の写真館に向けて販売。停電時でも確実に動く洗浄機として各地の写真店から喜ばれ、累計1万台を販売したという。そして、1956年に西本貫一はメーカーとして本格的な経営を行うためにノーリツ鋼機を新設。すでに運営していた西本スタジオとは分離して経営を行うことを決めた。

    1960年代にノーリツ鋼機は白黒写真向けの現像機材、続いてカラー写真向けの現像機材を開発してラインナップを拡大。写真現像機材の主要メーカーとなった。

    西本貫一(1995年)

    当時は進駐軍がおおぜいやってきて、写真館は大盛況でした。ところが電力事情が悪くてよく停電します。そうなると印画紙の水洗ができなくなってしまいます。これを克服しようとして、水車の原理を応用した自動印画水洗機を開発しました。これは従来一時間かかっていた工程が三十分でできる。おまけに水道代半額、電気代はゼロという大きなメリットがあります。すぐに全国から注文が殺到して一万台も売れました。

    1995/1産業新潮「西本貫一」

    ミニラボで世界シェアNo.1

    1978年にノーリツ鋼機は45〜60分で写真を現像できる小型機械「ミニラボ」を開発。従来の写真店は現像を行うために、富士フイルムが経営する現像所にフイルムを納入して現像を委託しており現像までに日数を要した。このため、ミニラボは写真店の中で現像ができる画期的な機械として大きな注目を集めた。

    ところが、ノーリツ鋼機の動きを受けて、富士フイルムもミニラボを開発。このため、西本貫一は富士フイルムの下請けになるか、ノーリツ鋼機を廃業するかなど、様々な対策を考えた末に、富士フイルムが手薄な米国でミニラボを販売することを思いつく。このとき、ノーリツ鋼機の経営幹部は全員米国進出に反対したが、西本は米国進出を独断した。

    すぐに西本貫一(当時60歳)は渡米。現地では幸運にも、競合のペコ社でマネージャーを務めていた米国人のスカウトに成功して現地人材を得た。1978年にノーリツ鋼機は5億円(当時の年間利益と同額)を投資してノーリツ・アメリカ・コーポレーション(NAC)を設立し、商社経由ではなく自社経由でミニラボの販売体制を整えた。

    カナダのナイアガラの滝で「ONE HOUR PHOTO」という広告を出稿したところ大反響を呼び、ノーリツと取引をしたい写真店が殺到。米国は国土が広いため、写真店がミニラボを自前で持つ効果が大きかった。ノーリツ鋼機は米国市場で順調に業容を拡大。1983年度は売上高経常利益率30%という驚異的な好業績を記録し、輸出比率80%というグローバル企業に変貌した。


    ノーリツ鋼機 売上高 - 過去推移

    単位:億円

    出所:各種報道資料


    2001年の時点でノーリツ鋼機はミニラボで世界シェアNo.1(46%)、国内シェアNo.1(50%)を確保。同じく富士フイルムは世界シェア20%、国内シェア38%を確保しており、ミニラボ市場ではノーリツ鋼機と富士フイルムが厳しい競争を繰り広げた。

    西本貫一(1995年)

    いくらノーリツ鋼機の製品が優秀でも、現像されるフイルムがあってこその現像機なのですから、フイルムメーカーと真正面から対決することは避けなければなりません。だからといってこのままではただの下請け企業に甘んじることになってしまいます。いろいろ考えた結果、米国へ進出してそこでわが製品を売りまくろうと決意しました。

    私の父もかつて米国で事業らしいことをしていたことがあります。しかし、私はこの進出計画を話したところ、会社の幹部は全員が反対です。だがこのままではジリ貧になるばかりです。よろしい、わしが自分で行ってくる!と立ち上がりました。

    1995/1産業新潮「西本貫一」


    カメラのデジタル化

  • 1960年代 露出計算機構の自動化
  • 1980年代 ピント調整機構の自動化
  • 1990年代 デジタルカメラが普及
  • 2013年  コダック社が倒産
  • 露出機構の自動化

    カメラにおける自動化ないしデジタル化は約半世紀をかけて、(1)露出計算機構、(2)ピント調整機構、(3)写真フィルムの順序で進行した。

    まず、1960年代に露出計算の自動化が進行する。従来のカメラは最適な光量(絞り/シャッタースピード)を手動で計算する必要があった。このため、写真フイルムへの露光時間が長すぎた場合は現像写真が白くなり、逆に露光時間が短すぎた場合は同じく黒くなる、という失敗リスクを撮影者は抱えていた。

    煩わしい露出の設定の自動化に貢献した技術が、当時普及しつつあった電子計算機である。カメラの本体に計算機を据え付けることで、煩雑な露出計算を瞬時に行えるカメラが登場。露出による失敗が減ったことから、カメラには露光計算装置が標準装備されるようになった。

    1960年にオリンパスは世界初の実用的な自動露出計算機構を備えた「オートアイ」を発売し、露光の自動化が決定的となった。

    ピント機構の自動化

    露出の自動化が達成された後も撮影者を悩ませたのがピントであった。当時の写真はピントを自分で調整する必要があり、ピンボケという失敗リスクを撮影者は抱えていた。

    ピントの自動化に貢献した技術が、小型モーターとレーザーの普及である。適切なピントを測定するには、ピントを合わせる被写体までの正確な距離を測り、瞬時にピントリングを回転させる動力が必要であった。この2つの技術が1980年代に出揃い、カメラはマニュアルフォーカス(MF)からオートフォーカス(AF)の時代に突入する。

    1985年にミノルタは世界初のAF一眼レフ「α-7000」を発売してオートフォーカスの時代に突入した。

    また、1987年にキヤノンはAFに対応した「EFレンズ群」を充実させる決断を下し、従来のAF非対応のレンズの開発から撤退。この捨て身の決断により、1990年代にキヤノンは一眼レフで国内シェアNo.1を獲得した。一方、競合のニコンは国内シェア首位からNo.2に転落するなど、AF対応が業界の明暗を分けた。

    (解説)キヤノンはレンズ群のAF化によって、それまでのユーザーが使用してきたMFのレンズユーザーを見捨てる決断をした。一方、ニコンは昔からのMFユーザーを重視し続けたため、AF化に出遅れてしまう。

    写真フイルムのデジタル化

    カメラのデジタル化が最も遅かったのが写真フィルムの分野である。フィルムは日光が大敵であるため、撮影者は撮影直後に画像をチェックすることができず、写真の仕上がりは現像するまで分からなかった。このため、撮影者は撮影後に写真フイルムを自分で巻き取り、町の写真屋に持参して現像を依頼する必要があった。

    だが、2000年代を通じてデジタルカメラが全世界に普及。2000年頃のデジタルカメラは、フイルムカメラと比べて画質が著しく悪かったため、コダックや富士フイルムの経営者はデジタルカメラによるフイルムカメラの代替はあり得ないと語っていた。だが、2005年頃からデジタルカメラの画質がフイルムに比べて遜色のない水準に到達して状況が一変する。

    2005年以降に高画質なデジタルカメラが全世界に普及し、写真フイルム市場は急激に縮小した。写真フイルム業界の巨人と言われたコダック社は2013年に倒産。一方、富士フイルムは主力事業を写真フイルムから、液晶パネル向けフイルムへと転換して倒産を免れた。


    創業家(大株主)が社長を更迭

  • 2008年 株主総会で全役員を更迭
  • 2009年 創業家(西本博嗣)が取締役に就任
  • 2009年 社内にM&A選定チームを創設
  • 2009年 メリルリンチより若手をスカウト
  • 2010年 和歌山工場に関わる減損損失を計上
  • 2010年 西本博嗣が代表取締役社長に就任
  • 2010年 ドクターネットを買収
  • 2012年 いきいき株式会社を買収(ハルメク)
  • 2013年 日本医療データセンターを買収
  • 2015年 テイボーを314億円で買収
  • 2015年 本社を和歌山から東京に集約
  • 2016年 祖業(写真ラボ)を投資ファンドに譲渡
  • 社長を含む取締役5名を更迭

    2005年にノーリツ鋼機の創業者・西本貫一が社長職の在職中に90歳にて逝去。後継として佐谷勉が社長に就任したが、デジタル化が進行する中でミニラボのビジネスを重視する方針を継続した。

    2008年6月27日にノーリツ鋼機は株主総会を実施。この総会で創業家(株式50%弱を保有)は取締役の選任議案を否決し、別の取締役を選任する旨の修正動議を提出。株主総会では挙手による採決が行われ、修正動議が可決された。創業家による経営陣に対するクーデターが成功し、取締役は社長と副社長を含めた5名が更迭される。


  • 2008年3月時点の取締役(カッコ内は入社年)
  • 代表取締役社長...佐谷勉(1976入社)

    代表取締役副社長...喜田孝幸(1973入社)

    取締役...三原勝(1979入社)

    取締役...岡本逢行(1983入社)

    取締役...上村雄一(大和銀行出身、2005入社)

    取締役...前田正宏(トーマツ出身、2005取締役就任)

  • 2009年3月時点の取締役
  • 代表取締役社長...茶山幸彦(みずほ銀行出身)

    取締役...森本治平(警察官出身)

    取締役...西本博嗣(創業家)

    取締役...吉田広務(三菱商事出身)

    取締役...前田正宏(トーマツ出身)

    出所:有価証券報告書


    修正動議の起案を主導した人物は、西本貫一の娘と結婚した西本博嗣(当時38歳)と思われる。2000年代に西本博嗣は佐谷などの経営陣に対してフイルム向けの新事業を育てるように進言してきたが、経営陣は聞き入れなかった。このため、2008年の株主総会で大株主として取締役5名の非選任を決断したと推察される。西本博嗣は2009年にノーリツ鋼機の取締役、2010年4月に同社代表取締役社長に就任し、経営者としてノーリツ鋼機の経営に携わる。

    また、当初、創業家はカーライルと組んでMBO(非上場化)を実施する予定だったらしいが、最終的には上場を維持したまま経営再建を図ることになった。MBOが撤回された理由は不明である。

    西本博嗣(にしもと・ひろし):1970年生まれ。1993年に近畿大学商学部卒業し、ノーリツ鋼機に入社。入社の面接時に「社長になる以外に何か仕事があるんですか?」という考えを披露した逸話が残っている。入社後は社長秘書などを務めた。その後、創業社長の娘と結婚したが、ノーリツ鋼機の写真ラボにこだわる経営方針に嫌気がさし2006年に退社。2007年にベンチャー企業「ミックスライティング」を創業するなど、社外で経営経験を積んだ。イラストは筆者作成。

    西本博嗣(2017年)

    ノーリツ鋼機に対しては、創業家としての立場から当時の経営陣に対して様々な提言をしてきましたが、まったく変わらなかったので、2008年の株主総会で動議を出して経営陣全員に退陣して頂き、2009年に取締役、2010年からは代表取締役として直接経営に関わってきました。

    2017/5/18Kabutan「<トップインタビュー> ノーリツ鋼機 西本博嗣社長に聞く」

    祖業を縮小して投資ファンドに売却

    2010年にノーリツ鋼機は祖業と決別するために写真ラボ事業に関わる減損損失の計上を実行した。2010年3月期に和歌山工場における土地・建物・設備などの減損損失を計上し、146億円の特別損失を計上。同年の最終赤字が206億円(当時の売上高は279億円)という巨額の水準に達した。

    ただし、ノーリツ鋼機は写真ラボ事業で稼いだ現預金及び短期性有価証券を約340億円保持しており、基本的に無借金経営を貫いていたことから、豊富なキャッシュの存在によって経営危機を回避することができた。

    ノーリツ鋼機は写真機器事業の縮小を実施。2016年に同事業を別会社「ノーリツプレシジョン」として投資ファンドに譲渡した。譲渡の際、創業家はファンドに対して「社員が安心して働けて、地元和歌山に貢献できる企業に再生してほしい」という条件を提示したという。譲渡した新会社の社長にマッキンゼー出身の星野達也が就任し、再建をスタートさせた。

    補足:譲渡時点のノーリツプレシジョンの売上高は約100億円で、従業員600名(うち国内300名)を抱えていた。売上高は全盛期の1/10の水準に落ち込んでいた。

    星野達也(ノーリツプレシジョン・社長)

    社員は疲弊し去って行き、新たな投資もできずあとは自然死を待つ、というようなボロボロの状況でした。創業の事業でしたが、本社機能からは切り離し、最後は自分たちでは再生できないからと、創業家は事業をファンドに売りました。...(中略)...ファンドを通して売り手のノーリツ鋼機からきた、「雇われ副社長(当時)」へのリクエストは短期的な利益を出して高く売る、というものではありませんでした。社員が安心して働けて、地元和歌山に貢献できる企業に再生してほしい、という中・長期的な内容です。

    2017/10/18NIKKEI STYLE「売上高が9分の1に激減 プロ経営者は再建できるか」

    M&A専門チームを自社内に設立

    西本博嗣は新事業の立ち上げに際して、自社内における新事業の創出に加えて、企業買収という道を模索する。だが、金融機関はノーリツ鋼機の関わるディールに興味を示さなかたため、西本博嗣は自社内でM&Aチームを創設する方針を決めた。

    2009年に西本博嗣はM&Aの案件調査を行う「NKリレーションズ」をノーリツ鋼機の子会社として設立。同時にメルリリンチ日本証券の投資銀行部門に勤めていた倉森和幸を迎え入れるなど人材の確保に奔走。2011年に倉森(当時31歳)はノーリツ鋼機の取締役に抜擢されるなど、西本博嗣は若い外部人材の積極的な登用を図った。

    積極的な企業買収の実施

    2010年にノーリツ鋼機は企業買収の第一号としてドクターネット(1995年創業)を買収し、写真ラボとは全く無関係の医療支援事業に進出。2012年にはいきいき株式会社(=ハルメク)を買収し、50代女性向けにエイジングケア情報を提供するメディア事業に進出した。

    2015年には約314億円を投じて「テイボー(旧帝国製帽)」の株式を投資ファンドなどから買収。テイボーは祖業の帽子製造で培ったフェルトの加工技術に強みがあり、マッキーペンなどのペン先で世界シェア50%を確保していた。買収時のテイボーの業績(14年3月期)は売上高84億円、営業利益18億円(利益率21%)で、資産内容は純資産96億円であった。ノーリツ鋼機はテイボーの良好な資産内容と競争力のある事業を評価して、約314億円という巨額買収を決断したものと推察される。

    また、2015年6月にノーリツ鋼機は本社機能を東京都港区(麻布十番)に集約し、創業地である和歌山を離れた。

    西本博嗣

    M&Aを行いながら時代に合った事業を展開していきました。後継の人達も創業の事業を守らなきゃいけないという、事業を守ることが先に来ていてお客様を見ていなかったのですね。何かと事業をやり続けるということを目標にしてしまっていた。それに下の人たちが引っ張られましたよね。ですから私が会社に入った時に、今までと全く違うことをやりますよと言ったら相当抵抗されました。

    創業者の西本氏は、困っている人がいる、それを解決することがお金儲けになる、その一環として写真事業を始めた、すると人に喜ばれた、いろいろ要望が来る、それを叶える、また喜ばれる・・・という繰り返しの中で、たまたま写真事業をやっていただけなんです。そこが原点だと私は思っているので、何かにニーズがあって困ったことがあって問題があった時に、自分が今何だというのは関係ないんですよね。

    だからこそ事業の方向性や分野をどうこうとか、「事業を1000億、2000億と拡大していきます」と言わないのは、この本来の目的、原点を邪魔するからなんです。

    KENJA GLOBAL「事業継承・西本博嗣」(https://www.kenja.tv/president/det7n2zb.html)


    その後の経過

    本項目は、2028年頃(社長更迭から20年経過)をメドに執筆する。


    参考文献

    新聞・雑誌記事

    1976/1中小企業金融公庫月報「ニーズをとらえた写真用品メーカー」

    1985/2近代中小企業「世界制覇にピタリ照準、知る人ぞ知るノーリツ鋼機」

    1995/1産業新潮「西本貫一」

    2001/6/26日経金融新聞p7「ノーリツ鋼機、前下半期、初の連結営業赤字に」

    2017/5/18Kabutan「<トップインタビュー> ノーリツ鋼機 西本博嗣社長に聞く」

    KENJA GLOBAL「事業継承・西本博嗣」(https://www.kenja.tv/president/det7n2zb.html)

    書籍・その他

    ノーリツ鋼機のあゆみ

    有価証券報告書、決算短信


    事例一覧