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ピジョン - 仲田祐一

創業期 製品開発 おっぱい社長 1960年代

理想の哺乳瓶の開発に邁進した仲田佑一・ピジョン創業者。数百人の成人女性の乳首を合法的に「研究」することで他社の追随を許さない製品を世に送り出した。

イラストは筆者作成

仲田社長、成人女性100名のおっぱいを吸う

  • 理想の哺乳器を開発
  • 1950年代までの哺乳器の性能は今ひとつで、国内には粗悪品が出回っており、母乳の出ない世の中の母親を困らせていた。そこで、仲田祐一(ピジョン・創業者)は理想の乳首部位を開発するために、数百名に及ぶ水商売の女性の乳首を吸うことで、赤ちゃんが吸いやすい哺乳瓶を開発した。このため、週刊誌は仲田社長を「おっぱい社長」と描写するなど、一時的に話題をさらった。

  • 病院販路の開拓
  • 1960年代を通じてピジョンは粉ミルクメーカーとともに病院販路を開拓。日赤病院がピジョンの哺乳瓶の利用を推奨したこともあり、ピジョンは生後間もない赤ちゃんが最初に使用する哺乳器メーカーとなった。赤ちゃんは使い慣れた哺乳瓶を吸い続けるため、必然的に母親はピジョンの哺乳瓶を継続購入することになり、ピジョンが一度築いた牙城を崩すメーカーは現れなかった。

  • 国内シェア70%を半世紀維持
  • 1968年から2018年の50年間にかけて、哺乳器分野でピジョンは国内70%という高シェアを維持している。


    目次

  • 長期業績推移
  • ピジョン 売上高 - 過去推移

    ピジョン 売上高営業利益率 - 長期推移

    ピジョン 従業員数 - 過去推移


  • 仲田祐一の半生
  • 1930年代 勝手に副業するサラリーマン

    1940年代 シベリア抑留を自制心で乗り切る

    1940年代 ブローカー業で巨利を得る

    1950年代 哺乳器会社の内部抗争に勝利


  • 粉ミルクの普及
  • 1950年代 乳児死亡率の激減

    1950年代 粉ミルクの普及

    1950年代 樹脂容器の普及


  • 哺乳器の開発
  • 1. 数百人の女性の乳首を吸う

    2. 家庭危機の回避

    3. 製品開発+特許取得

    4. 病院販路の掌握


  • 哺乳瓶の国内市場を独占
  • 1960年代 国内シェア80%


    ピジョン - 基本情報

    売上高 - 過去推移

    単位:億円

    出所:有価証券報告書、会社四季報


    売上高利益率 - 過去推移

    単位:%

    出所:有価証券報告書


    従業員数 - 過去推移

    単位:名

    出所:会社四季報


    仲田祐一の半生

  • 1910年 新潟県直江津生まれ
  • 1925年 直江津農商を卒業
  • 1925年 近藤忠商店に入社(室内装飾商)
  • 1935年 満州大連でデパートに勤務(家具関係)
  • 1945年 ソ連国境付近の重機関部隊に配属
  • 1945年 シベリアに抑留
  • 1947年 舞鶴に帰港.日本に復員
  • 1947年 ブローカー業で巨利を得る
  • 1951年 ドウフ貿易(初代ピジョン)の経営に参画
  • 1952年 同社の社長に就任
  • 1955年 同社の資金繰りを改善
  • 年不詳 株主と対立し内部抗争が勃発
  • 年不詳 職務停止命令を2回受ける.裁判沙汰へ
  • 1958年 裁判で勝訴
  • [20代]勝手に副業するサラリーマン

    1925年に15歳の仲田は生まれ故郷である直江津農商を卒業し、神戸に拠点を持つ近藤商店に入社。最初の職業選択の際、月給7.5円の近藤忠と、同15円の東京の画材店の2つオファーがあったが、仲田の父親は「若者が高給をもらってもいいことはない。給料が安い方へ行け」とアドバイスした。そこで、仲田はあえて給料の安い近藤忠に入社する。その後、東京の画材店に入社した同郷の5名は全員が数年以内に辞めたのに対し、仲田は近藤忠で働き続けることができたため、父のアドバイスに感謝したという。

    仲田祐一(1969年)

    なぜあのとき父が「月給の安い方へいけ!」といったのかというと、理由は簡単で、要するに若いものがたくさん給料をとれば、いいことはおぼえない、少ない方が身のためだ、という考えだったと思います。大変地味で堅実な考え方でありました。...(中略)...私はこういう堅実な父親の考え方、また近藤商店での堅実な商売のやり方の影響を受けて、やはり堅実な生き方を覚えたのだろうと思いますが、いまもそれを大変いいことだったと考えています。

    1969/1オール生活「終始一貫、赤ちゃんの心でやり抜く執念・仲田祐一」

    ところが、1935年に仲田は部下が起こした不祥事に対する会社の対応に納得できず、10年間勤務した近藤商店を退職。近藤商店の重役の口ききによって、仲田は満州・大連の幾久屋百貨店に転職した。退職に際して、近藤商店の主人は仲田に「終始一貫」という言葉を贈っており、円満に退職したものと推測される。

    仲田は中国大陸で百貨店に勤務しつつ、郷里の父親から貰った2000円(当時の大卒初任給は73円)を元手に、リンゴ園や家具工場などのサイドビジネスを展開。しかも、これらの製品を勝手に百貨店に並べて販売した。このため、仲田の行動を面白くないと思う人物が責任者に密告。仲田は重役に呼びつけられるものの、"会社に損失は与えていないという理由"でお咎めはなかったという。

    [30代]シベリア抑留を自制心で乗り切る

    1945年の終戦直前に仲田は満州で召集を受け、ソ連国境付近の重機関部隊に配属された。しかし、ソ連参戦と日本の降伏により、仲田は生きたままソ連に捕らえられてしまう。その後、仲田は日本に帰国することなく、極寒の地・シベリアに抑留され、生と死をさまよう過酷な生活を経験した。

    抑留生活では栗やトウモロコシが支給されたものの、栄養素が少ないために食物であったため、抑留者は空腹を満たすことができなかった。しかし、栄養素のない食べ物で無理に空腹を満たそうとすると、逆に胃を壊してしまうため、結果として早死にしてしまう傾向があったという。実際に、仲田の周りの抑留者のうち、空腹を満たすために他人の食物を拝借した人間は、次々と帰らぬ人となった。

    過酷な抑留生活の中で、仲田は空腹を満たすことではなく、生きて日本に帰って「やり残した仕事をする」という大目標を設定し、あえて食欲を抑制した。この結果、仲田は2年間の抑留生活を生き残り、1947年に日本の舞鶴港に到着して抑留生活に終止符を打った。ちなみに、シベリアに抑留された仲田の所属分隊は当初13名いたが、抑留生活で生き残ったのは仲田を含めた2名だけで、残りの11名はシベリア抑留中に亡くなっている。

    仲田祐一(1969年)

    ガツガツ食べたいのですが、食って死ぬのはつまらない。ここがガマンのしどころと、一生懸命自制しました。丈夫で早く帰国して、やり残している仕事をやりたい---。私にはこの大目的があったからです。「仕事をしてうんと稼いで、稼いだお金で腹一杯うまいものを食べればいいじゃないか」私はこの強固な自制心のおかげで、無事に元気に帰国できたわけですが、あのとき、もし、そういう大目的を持たないで、今日その日のひもじさのために負けていたら、いまの私もあり得なかったと思います。

    1969/1オール生活「終始一貫、赤ちゃんの心でやり抜く執念」

    [30代]ブローカー業で巨利を得る

    日本への帰国後、仲田は近藤商店時代のツテをとたどり、ある織物商の支店の経営を引き受けた。

    そして、仲田は週刊誌から「大バクチ」[1968/10/15実業の日本]と形容されるほどの勝負に出た。まず、東京都庁から交通局職員向けの制服(オーバー)1万着を受注し、毛織物メーカーに1万着を発注。だが、毛織物工場は仕入資金を持ち合わせていなかった仲田からの注文を受け付けなかった。そこで、仲田は以前勤めていた近藤商店に相談。近藤商店の主人は仲田を信頼して手形を出した。これにより仲田は、毛織物工場にオーバー1万着を発注し、約束通りに東京都への納入を果たす。

    仲田は1万着というブローカー業で巨利を獲得。利益の一部を、後述する初代ピジョンの株式の取得と、茅ヶ崎での自宅建設に使用した。

    仲田祐一(1979年)

    一万着といえば、伊藤忠みたいな大問屋でも手に負えない時代ですから、われながらよくやったと思います。当時は入札といっても裏工作が通るような時勢でしたが・・・。そういえばあのときの儲け、実は税金を払ってませんですなァ。いいや税金なんて知らなかったのですよ

    1979/1週刊読売「現代リッチマン物語・仲田祐一さん」

    [40代]哺乳器会社の内部抗争に勝利

    1950年頃に仲田は次の商売のネタを探していた。そこへ、たまたま"将来有望な会社があるので株を持たないか?"と仲田に話を持ちかけた人物がいた。その会社とは、"ピジョン"という商標で哺乳器をデパートに販売するドウフ貿易で、当時は台湾人が経営していた。

    仲田は、哺乳器の将来性を予測し、同社の株式の取得を決断。60万円分の株式を取得するとともに、先方の要請を受けて同社の常務に就任した。当初、仲田は1週間に1度出社する条件で引き受けた。

    だが、ドウフ貿易の経営状況の厳しさは事前に通知されておらず、結果として仲田は騙される形となった。周囲の人は経営から手を引くように仲田にアドバイスするが、仲田は哺乳器の将来性を見込み、1952年に同社の社長に就任。同社の資金繰りは想像以上に厳しかったため、仲田は自宅を担保に入れて資金をやり繰りした。

    仲田は同社の資金繰りを1955年頃までに改善。ところが、経営が軌道に乗ると、今度は同社のY専務が仲田の追い出しを画策したため、経営陣の内部分裂が発生した。詳細な経緯は不明だが、特許や商標に関するイザコザがあったものと推察される。このため、1955年から3年間、仲田は裁判所に通い詰めたという。

    仲田は裁判に勝訴し、ピジョンの経営権を掌握。1957年に仲田は新生ピジョン(ピジョン哺乳器本舗)を設立し、ピジョンの実質創業者となった。

    仲田祐一(1969年)

    戦後復員したわけですが、その後しばらくは衣料ブローカーのような仕事をしました。この仕事である程度お金ができたとき、知人の金融業者からつぶれかかったピジョン哺乳器の経営に参加するように頼まれたのです。株式を30万株もって常務に入ってはみたものの、経営はすでに支離滅裂、当の金融業者さえ逃げ出してしまったのですが、私はピジョン哺乳器のやっている仕事自体は悪くないと思い、なんとかして会社を立ち直らせてみようと決心したのです。

    たとえお金がもうからない仕事でも、将来よって立つべき男子一生の仕事を持つべきだと考えたのです。これは、近藤商店をやめるとき、社長から送られた「終始一貫」という言葉が頭に残っていたからです。終始一貫身命を賭する、というためには、自分が惚れるに足る仕事でなければならないが、丁度ピジョン哺乳器の仕事は将来性もあり、次代を担う赤ちゃんをお客様に迎えるというユメもあって、私にはピッタリでした。「よし、苦労は承知でこの仕事に体当たりしてみよう」

    しかし、正直なところ昭和30年までの5年間は、私にとってまったく血みどろの戦いでした。...(中略)...いろいろの訴訟を23回もやったことがあります。裁判所の判例にまで載った大裁判でしたが、とうとう勝ちました。これもやりかけたことはトコトンまで命ある限りやろう、という執念の勝利だったと思います。

    1969/1オール生活「終始一貫、赤ちゃんの心でやり抜く執念・仲田祐一」


    粉ミルクの普及

  • 1920年 乳児死亡率16%台
  • 1923年 明治乳業が粉ミルクを発売
  • 1945年 抗生物質が日本にも普及
  • 1950年 乳児死亡率6%台
  • 1950年 粉ミルクが普及
  • 1955年 森永ヒ素ミルク事件
  • 1955年 米の大豊作が続く
  • 1961年 母乳vs人工栄養論争
  • 乳児死亡率の激減

    21世紀の日本における乳児死亡率は0.3%以下であるのに対し、大正時代の日本の乳児死亡率は16.5%に及んだ。つまり、子供を10人産んだとしても、そのうち1〜2人は生まれて1年以内に逝去してしまう時代であった。

    このため、大正時代の日本では乳児死亡率が高いことを理由に「日本の人口はだんだん減る」[1924/5/21読売新聞]という言説まで存在した。赤ちゃんの死亡原因は様々であるが、栄養摂取に問題があるケースが24%、呼吸器に問題があるケースが21%を占め、もっとも死亡率が高い地域は人口が密集して衛生状態の良くない大阪であったという。

    しかし、1920年代以降、サルファ剤を始めとする化学療法剤が普及。1945年の終戦直後には、日本でもストレプトマイシンが普及し、死の病と恐れられた結核が治療可能となった。また、1950年代に化学肥料と農薬が普及し、農村では豊作が相次いだため、日本人(母親)の栄養状態も改善した。同時期には粉ミルクが普及したことで、赤ちゃんの栄養状態も向上。この結果、乳児死亡率は著しく低下し、1950年には6%台となった。

    乳児死亡者数(出生数100人あたり) - 長期推移

    単位:人

    出所:長期統計(厚生労働省大臣官房統計情報部人口動態・保健社会統計課「人口動態統計」)


    粉ミルクの普及

    粉ミルクが普及する前は、生後ママもない赤ちゃんの栄養源は母親の母乳に限られていた。このため、母親がなんらかの事情で母乳が出せない場合、赤ちゃんは栄養摂取が難しく、栄養不足による死亡も珍しいことではなかった。このため、人類にとって、母乳の代替品である粉ミルクの普及が宿願であった。

    (補足)1700年頃にパリの病院では100人の乳児に対して牛乳栄養を与えたものの、90人が死亡するなど、当時は母乳に勝る栄養摂取源は存在しなかった。

    19世紀に技術面では真空乾燥技術、科学知識面では正しい育児法が時間をかけて欧米に定着し、20世紀初頭までに粉ミルクが徐々に普及した。国内では1920年に森永乳業、1923年に明治乳業がそれぞれ育児用ミルク事業に参入し、粉ミルクによる育児法が徐々に定着。1950年に乳製品の統制が解除されたことで、ビタミンなどの栄養素が入った粉ミルクが普及し、母乳が出ないときに粉ミルクの利用が利用できるようになり、赤ちゃんの栄養状態が改善して乳児死亡率の改善に大きく寄与した。

    ところが、1955年に森永ヒ素ミルク事件が発生。森永乳業・徳島工場で製造された乳児向けの粉ミルクに、ヒ素が混入するという事件が発生し、100人以上の乳児が死亡。このため、国内では「母乳か人工栄養か」という論争が巻き起こったが、最終的に栄養素入りのミルクの利便性が支持され、国内でも時間をかけて粉ミルクが徐々に普及した。

    赤ちゃんグラフィック(1963)

    母乳が足りないために赤ちゃんの発育が思わしくなかったり、おかあさんが勤めを持っていて、再び仕事に出なければならないときは、母乳がよいとわかっていても、混合栄養にしなければなりません。そのほか、おかあさんの不時の外出のためとか、現在はどうにか足りているが、将来母乳不足になりそうだと思われる人で、その準備のため、母乳のほかに、ときどきミルクを与えるというのがあります。

    ...(中略)...このごろは、人工栄養や混合栄養のとき牛乳よりもミルクを使う方が圧倒的に多くなりました。これはわが国の粉乳製造の技術がたいへん進歩したために、ミルクのほうが消化、吸収がよく、清潔で、いつもきまった成分のものを与えることができるという長所があることと、そのほかにビタミンを加えてあったり、牛乳のもつ欠点をいろいろ補って、成分のうえでも母乳に近くなったからです。

    1963主婦の友社「赤ちゃんグラフィック7〈育て方と病気〉」

    樹脂容器の普及

    1947年に中東で大規模油田が発見され、日本にも石油化学工業の時代が到来し、1950年代を通じて石油由来の樹脂の大量生産が可能となり、発展途上国の日本においても最新の樹脂が普及した。

    1958年頃から日本でも新しい樹脂「ポリカーボネード」が注目を浴びた。ポリカーボネートはドイツのバイエル社が開発した熱可塑性樹脂の一つで、透明性と耐衝撃性に優れていたため、ガラス容器の代替が期待できる樹脂として注目を浴びた。

    ダイヤモンド(1953年)

    (筆者注:合成繊維を含めたプラスチック製品は)今でこそ微々たる産業だが、欧米に於ける発展の現状と、日本の国情とを思うなら、これこそ、我国輸出産業のホープとして、大きな活躍を期待されるものと言わねばならない。プラスチックス製品といっても、まったくの新製品は少く、大半は従来からある日用雑貨類、繊維製品、機械器具、玩具など、様々な品物を、それらに適したプラスチックスで作った製品である

    ...(中略)...原料面、生産費及び製品の多様性や、需要の広さ等、様々な方面からみて、プラスチック製品こそこれからの輸出産業として、強力に育成すべきものであり、又、外貨獲得の大宗となるべき資格を充分備えたものと言える。

    1953/6/1ダイヤモンド「プラスチックス工業を振興せよ」

    国会図書館デジタルコレクション - ポリカーボネート

    単位:件「ポリカーボネート」で登録された資料の件数・年別)


    哺乳器の開発

  • 1957年 仲田祐一が新生ピジョンを創業
  • 1958年 関西で乳首研究の開始
  • 1960年 ナイロン樹脂製哺乳器の開発
  • 1961年 国内の乳首研究の完了
  • 1962年 乳首の国際研究を実施
  • 1962年 週刊誌が"オッパイ社長"を特集
  • 1962年 ポリカーボネート製哺乳器の開発
  • 1962年 日本赤十字病院がピジョン製品を推奨
  • 1963年 全国各地に営業所を新設
  • 年不詳  明治乳業(粉ミルク)と病院販路を開拓
  • 1. 数百人の女性の乳首を吸う

    1950年代のピジョンの哺乳器の国内シェアはわずか10%程度であり、哺乳器を扱う会社は国内に約50社存在する乱戦市場であった。厳しい競争を勝ち抜くために、仲田は哺乳器の製品開発に注力する方針を固め、最も重要な部品である哺乳器の「乳首」をリアルに再現する方法を考える。

    乳首の再現にあたっての問題は、最終顧客である赤ちゃんから使い心地の感想を聞くことができないという点であった。そこで、仲田は自分自身が赤ちゃんの気持ちを理解するために、成人女性の乳首を研究することを決意。成人女性の乳首を、実際に吸うことで、理想の哺乳器の乳首を開発することを思いつく。

    問題になったのは、研究に協力する成人女性を集めることであった。そこで、仲田は関西の知り合いのホステスに「乳首を吸われてもいい水商売の女性」の紹介を依頼。約5〜6年かけて、仲田は数百人の成人女性に相応の金額を支払ったうえで乳首を吸い、赤ちゃんが理想とする乳首の感覚を獲得した。さらに、仲田は海外のおっぱい事情を研究するために渡欧もしている。

    仲田祐一(1962・渡欧について)

    筆者注:下記文章は週刊誌で仲田が発言したとされる文章を掲載している。この文章が本当に仲田の発言を示すものかは不明である

    (筆者注:海外女性の乳首の研究について)なにしろ、私は女と寝ることが目的じゃない。乳房の探求が目的ですからね。すると、おかしいじゃないかというんです。

    ...(中略)..(筆者注:水商売の女性に100ドルを支払っても)女はまだ納得しないんですな。なぜ寝ないんだ。私が気に入らんのか。侮辱するな、とこうなんです。私は乳房を吸おうとしたが、そんなこと許してくれない。しかし、いくら日本語が通じるといったって、研究のためだとか何だとか、そんな複雑なこと通じやしませんよ・・・

    ...(中略)...しかし、実に大きな、手ざわりのある、立派な乳房でしたなあ。ああいうのは、日本ではちょっとお目にかかれませんでしたね。・・・だが、その女は、ちゃんと子供を産んだ乳房でしたよ。17、18のころに産んだのでしょうが、そういうとピタリと当たって、女はビックリしてました。他人にはわからぬ程度の微妙な変化でも私にはピタリとわかる。いかに他国の女でも、下腹部を見るよりも、私には、はっきりわかるのですよ

    1962/1週刊現代「実録・オッパイ社長洋行記」

    2. 家庭危機の回避

    1961年までに仲田祐一は女性の乳首を数百人吸う研究を完了。ところが、1962年に週刊誌が仲田社長の乳首研究について「実録・オッパイ社長洋行記」と題した特集記事を掲載してしまう。

    この記事が仲田の妻と娘の目に入ってしまい、仲田家の空気が凍りついたという。当時、仲田家では娘の縁談話が進んでいたため、仲田祐一は縁談の破断という最悪の事態を覚悟したという。

    間も無く、娘の縁談相手から雑誌記事の確認の電話がかかってきた。ここで機転を利かせたのが仲田の息子で、文筆家の永井荷風の作風について"エロではなく文学"であると解釈したうえで「父さんのしてることだって仕事上のことと思えば許せるんじゃないの」と主張した。この主張を縁談相手に説明したところ、理解されたため、幸いにして破談は回避されたという。

    週刊現代「実録・オッパイ社長洋行記」(1962年)

    読者の皆さんの中には、"970人の女の乳首を吸い歩いた世にもうらやましき男"---オッパイ社長の素的な噂話を聞いたことのある方も多いだろう。そのオッパイ社長が、この記事の主人公、仲田祐一氏なのである。

    仲田氏は、赤ちゃんを産んだ女たちの乳房に触れると、指先で乳首をつまみ、ひっぱり、そして口にふくんで吸ってみる。...(中略)...哺乳器の乳首の原型ができると、仲田氏は、目を閉じて指でつまみ、口に含んで、不良品をどんどんはねていく。言葉にはあらわせない指先と唇の感覚だけで製品の良否を判断し、その結果現在愛用されているピジョン哺乳器ができあがった...(以下略)

    1963/12週刊現代5(48)「実録・オッパイ社長洋行記」

    3. 製品開発+特許取得

    1960年代を通じて、ピジョンは仲田の研究成果を生かして哺乳器を相次いで発売。1963年にはポリカーボネート製の哺乳器を発売し、壊れやすかった瓶製哺乳器にかわる新しい哺乳器を発売した。樹脂製の新しい哺乳器は、お母さんたちの旅行など、外出時に重宝されたという。

    また、ピジョンは各製品についてパテントを取得しており、乳首の穴あけ用装置についても特許を取得。特許によって競合他社の追随を防止した。

    4. 病院販路の掌握

    ピジョンは哺乳器の販売拡大に当たって、明治乳業などの乳業メーカーと協力関係を構築。ピジョンは入院中の母子に粉ミルクとともに哺乳瓶をプレゼントすることで、お母さんと赤ちゃんが最初に使う哺乳瓶の地位を確立した。また、1962年に日赤病院がピジョン製品の哺乳器(ポリカーボネート製)の利用を推奨するなど、医師からの信頼も獲得する。


    哺乳瓶の国内市場を独占

  • 1963年 紙おむつに参入
  • 1966年 ピジョン哺乳器本舗→ピジョンに社名変更
  • 1968年 哺乳器国内シェア80%
  • 1970年 紙おむつ国内シェア40%
  • 1981年 紙おむつ戦争でシェアを喪失
  • 2015年 哺乳器国内シェア70%
  • 国内シェアの維持

    1960年代を通じてピジョンは良質な哺乳器を安く提供することに成功。ある雑誌が行った哺乳器の性能/品質テストでは、ピジョンと東京マミー本舗の2製品が最高の「A」ランクを獲得したが、ピジョン製品は競合品よりも数十円安い価格で哺乳瓶を販売していた。このため、ピジョンは競合と比べて、価格と性能の両方で優位に立つ。

    1968年までにピジョンは哺乳器の国内シェアを約80%確保。1960年代頃の哺乳器業界では、赤線本舗、マミー本舗といった競合企業が存在したが、これらの会社は現在、見当たらない。したがって、ピジョンとの競争に敗れ、消滅したものと思われる。

    2010年代の時点でも、ピジョンは哺乳器で国内シェア70%を確保しており、ピジョンは哺乳器というニッチな市場でシェアNo.1を獲得している。

    ピジョン 売上高 - 過去推移

    単位:億円

    出所:1965週間読売、1968/10/15実業の日本


    実業の日本(1968年)

    高度成長にわく産業の一隅に、まことに可愛らしいが絶対的な需要を持つ製品で、着々と地歩を築いている企業、それが哺乳びんをはじめ育児用品の代表メーカー、ピジョン...(以下略)

    1968/10/15実業の日本「根性で築いた育児用品ブーム」


    参考文献

    新聞・雑誌記事

    1922/11/8読売新聞朝刊p5「日本の人口はだんだん減る」

    1924/5/21読売新聞p4「千人生れて百七十三人が死ぬ・近年益ます増加の乳児死亡」

    1953/6/1ダイヤモンド「プラスチック工業を振興せよ」

    1961/4/18読売新聞朝刊p11「満員ニッポン・7年後には1億」

    1963/12週刊現代5(48)「実録・オッパイ社長洋行記」

    1968/10/15実業の日本「根性で築いた育児用品ブーム」

    1969/1オール生活「終始一貫、赤ちゃんの心でやり抜く執念・仲田祐一」

    書籍・その他

    有価証券報告書

    会社四季報

    1963主婦の友社「赤ちゃんグラフィック7〈育て方と病気〉」

    長期統計(厚生労働省大臣官房統計情報部人口動態・保健社会統計課「人口動態統計」)


    事例一覧