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ピジョン - 仲田祐一(実質創業者)

経営者の決断 ピジョン 創業期 オッパイ社長 新製品開発 高シェア長期維持 クーデター シベリア抑留

ピジョンの実質創業者である仲田祐一。イラストは筆者作成

決断サマリー

ボロ会社を立て直すため、数百人の成人女性の乳首を吸って哺乳器を開発した男

ピジョンの実質創業者である仲田祐一は、理想の哺乳器を開発するために数百人の女性の乳首を吸ったため、週刊誌から「オッパイ社長」と面白おかしく書かれた変わった人物であるが、その半生は壮絶であった。

仲田祐一は30代の時に満州の戦場で終戦を迎え、そのままソ連によってシベリアに抑留された。抑留者が栄養失調によって相次いで死亡するなかで、仲田は「日本に帰って仕事がしたい」という大目標を掲げることで、生きるモチベーションを維持し、2年間の抑留生活を経て郷里への帰国を成し遂げた。仲田と同じく抑留された所属分隊は13名いたが、生還できたのは仲田を含む2名だけであった。

帰国後、仲田は平和産業である哺乳器の将来性に目をつけ、"ピジョン哺乳器"の商標と特許を持つドウフ貿易(創業者は台湾人)という倒産寸前の会社の社長に就任。社長就任中にクーデターにあうという災難があったが、裁判で勝訴して経営権を取得。1957年に仲田は新生ピジョンを設立し、本格的にピジョンの経営をスタートさせる。

だが、1950年代時点で哺乳器メーカーは国内に数十社存在しており厳しい競争が繰り広げられていた。そこで、仲田は哺乳器で最も難しい「乳首」の製品開発に注力。顧客である赤ちゃんのかわりに、自らが成人女性数百名の乳首を吸うことで理想の乳首を研究した。折しも、最先端の素材としての各種樹脂が実用化された時期だった事が追い風となり、ピジョンは次々と新製品を開発した。

だが、成人女性の乳首を吸うという新製品開発は常識では考えられなかったため、当時の週刊誌は仲田社長を「オッパイ社長」と題した記事を発表した。このため、仲田家では長女の縁談の話が破談の危機に陥ったことがあったという。

各種の苦難を経て理想の乳首の完成させた後、ピジョンは販売面でも工夫を凝らした。赤ちゃんが最初に哺乳器を使う場所である病院に対して、哺乳器のプレゼントキャンペーンを実施。赤ちゃんは最初に病院に置かれたピジョンの哺乳器に慣れる傾向があり、母親は離乳するまでピジョン製品を購入し続けるため、病院の攻略はピジョンがシェアを維持するための強力な武器となった。

捨て身の製品開発と、病院販路の掌握によって、1968年までにピジョンは哺乳器の国内シェア80%を確保。2000年代を通じて、ピジョンは中国市場でも哺乳器の販売を本格化させ、かつての日本市場と同様に病院販路を構築することで業容の拡大に成功している。

目次

  • 長期業績推移
  • ピジョン 売上高 - 過去推移

    ピジョン 売上高 - 長期推移

    ピジョン 売上高営業利益率 - 長期推移

    哺乳器国内シェア - 長期推移


  • 実業家・仲田祐一の半生
  • 1930年代 [20代]勝手に副業するサラリーマン

    1940年代 [30代]シベリア抑留を自制心で乗り切る

    1940年代 [30代]ブローカー業で巨利を得る

    1950年代 [40代]哺乳器会社の内部抗争に勝利


  • 乳児死亡率の激減
  • 1920年代 乳児死亡率16%台

    1950年代 乳児死亡率の激減

    1950年代 粉ミルクの普及


  • 石油化学工業の発展
  • 1950年代 石油化学の時代

    1950年代 日用品フロンティアの誕生


  • 乳首の実地研究を開始
  • 1960年代 1. 数百人の女性の乳首を吸う

    1960年代 2. 家庭危機の回避

    1960年代 4. 病院販路の掌握


  • 国内シェア80%
  • 1968年  国内シェア80%

    1980年代 おむつ市場でシェア喪失


    ピジョン - 基本情報

    ピジョン売上高 - 過去推移

    単位:億円

    出所:1965週間読売、1968/10/15実業の日本


    ピジョン 売上高 - 長期推移

    単位:億円

    出所:有価証券報告書、各種報道資料より


    ピジョン売上高営業利益率 - 長期推移

    単位:%

    出所:有価証券報告書


    哺乳器国内シェア - 長期推移

    単位:%

    出所:各種報道資料、ピジョン公式webより作成


    実業家・仲田祐一の半生

    従業員の決断 仲田祐一 キャリア半生 シベリア抑留 クーデター 血みどろの戦い

  • 1910年 新潟県直江津生まれ
  • 1925年 直江津農商を卒業
  • 1925年 近藤忠商店に入社(室内装飾商)
  • 1935年 満州大連でデパートに勤務(家具関係)
  • 1945年 ソ連国境付近の重機関部隊に配属
  • 1945年 シベリアに抑留
  • 1947年 舞鶴に帰港.日本に復員
  • 1947年 ブローカー業で巨利を得る
  • 1951年 ドウフ貿易(初代ピジョン)の経営に参画
  • 1952年 同社の社長に就任
  • 1955年 同社の資金繰りを改善
  • 年不詳 株主と対立し内部抗争が勃発
  • 年不詳 職務停止命令を2回受ける.裁判沙汰へ
  • 1958年 裁判で勝訴
  • [20代]勝手に副業するサラリーマン

    1925年に15歳の仲田は生まれ故郷である直江津農商を卒業し、神戸に拠点を持つ近藤商店に入社。最初の職業選択の際、月給7.5円の近藤忠と、同15円の東京の画材店の2つオファーがあったが、仲田の父親は「若者が高給をもらってもいいことはない。給料が安い方へ行け」とアドバイスした。そこで、仲田はあえて給料の安い近藤忠に入社する。その後、東京の画材店に入社した同郷の5名は全員が数年以内に辞めたのに対し、仲田は近藤忠で働き続けることができたため、父のアドバイスに感謝したという。

    仲田祐一(1969年)

    なぜあのとき父が「月給の安い方へいけ!」といったのかというと、理由は簡単で、要するに若いものがたくさん給料をとれば、いいことはおぼえない、少ない方が身のためだ、という考えだったと思います。大変地味で堅実な考え方でありました。...(中略)...私はこういう堅実な父親の考え方、また近藤商店での堅実な商売のやり方の影響を受けて、やはり堅実な生き方を覚えたのだろうと思いますが、いまもそれを大変いいことだったと考えています。

    1969/1オール生活「終始一貫、赤ちゃんの心でやり抜く執念・仲田祐一」

    ところが、1935年に仲田は部下が起こした不祥事に対する会社の対応に納得できず、10年間勤務した近藤商店を退職。近藤商店の重役の口ききによって、仲田は満州・大連の幾久屋百貨店に転職した。退職に際して、近藤商店の主人は仲田に「終始一貫」という言葉を贈っており、円満に退職したものと推測される。

    仲田は中国大陸で百貨店に勤務しつつ、郷里の父親から貰った2000円(当時の大卒初任給は73円)を元手に、リンゴ園や家具工場などのサイドビジネスを展開。しかも、これらの製品を勝手に百貨店に並べて販売した。このため、仲田の行動を面白くないと思う人物が責任者に密告。仲田は重役に呼びつけられるものの、"会社に損失は与えていないという理由"でお咎めはなかったという。

    [30代]シベリア抑留を自制心で乗り切る

    1945年の終戦直前に仲田は満州で召集を受け、ソ連国境付近の重機関部隊に配属された。しかし、ソ連参戦と日本の降伏により、仲田は生きたままソ連に捕らえられてしまう。その後、仲田は日本に帰国することなく、極寒の地・シベリアに抑留され、生と死をさまよう過酷な生活を経験した。

    抑留生活では栗やトウモロコシが支給されたものの、栄養素が少ないために食物であったため、抑留者は空腹を満たすことができなかった。しかし、栄養素のない食べ物で無理に空腹を満たそうとすると、逆に胃を壊してしまうため、結果として早死にしてしまう傾向があったという。実際に、仲田の周りの抑留者のうち、空腹を満たすために他人の食物を拝借した人間は、次々と帰らぬ人となった。

    過酷な抑留生活の中で、仲田は空腹を満たすことではなく、生きて日本に帰って「やり残した仕事をする」という大目標を設定し、あえて食欲を抑制した。この結果、仲田は2年間の抑留生活を生き残り、1947年に日本の舞鶴港に到着して抑留生活に終止符を打った。ちなみに、シベリアに抑留された仲田の所属分隊は当初13名いたが、抑留生活で生き残ったのは仲田を含めた2名だけで、残りの11名はシベリア抑留中に亡くなっている。

    仲田祐一(1969年)

    ガツガツ食べたいのですが、食って死ぬのはつまらない。ここがガマンのしどころと、一生懸命自制しました。丈夫で早く帰国して、やり残している仕事をやりたい---。私にはこの大目的があったからです。「仕事をしてうんと稼いで、稼いだお金で腹一杯うまいものを食べればいいじゃないか」私はこの強固な自制心のおかげで、無事に元気に帰国できたわけですが、あのとき、もし、そういう大目的を持たないで、今日その日のひもじさのために負けていたら、いまの私もあり得なかったと思います。

    1969/1オール生活「終始一貫、赤ちゃんの心でやり抜く執念」

    [30代]ブローカー業で巨利を得る

    日本への帰国後、仲田は近藤商店時代のツテをとたどり、ある織物商の支店の経営を引き受けた。

    そして、仲田は週刊誌から「大バクチ」[1968/10/15実業の日本]と形容されるほどの勝負に出た。まず、東京都庁から交通局職員向けの制服(オーバー)1万着を受注し、毛織物メーカーに1万着を発注。だが、毛織物工場は仕入資金を持ち合わせていなかった仲田からの注文を受け付けなかった。そこで、仲田は以前勤めていた近藤商店に相談。近藤商店の主人は仲田を信頼して手形を出した。これにより仲田は、毛織物工場にオーバー1万着を発注し、約束通りに東京都への納入を果たす。

    仲田は1万着というブローカー業で巨利を獲得。利益の一部を、後述する初代ピジョンの株式の取得と、茅ヶ崎での自宅建設に使用した。

    仲田祐一(1979年)

    一万着といえば、伊藤忠みたいな大問屋でも手に負えない時代ですから、われながらよくやったと思います。当時は入札といっても裏工作が通るような時勢でしたが・・・。そういえばあのときの儲け、実は税金を払ってませんですなァ。いいや税金なんて知らなかったのですよ

    1979/1週刊読売「現代リッチマン物語・仲田祐一さん」

    [40代]哺乳器会社の内部抗争に勝利

    1950年頃に仲田は次の商売のネタを探していた。そこへ、たまたま"将来有望な会社があるので株を持たないか?"と仲田に話を持ちかけた人物がいた。その会社とは、"ピジョン"という商標で哺乳器をデパートに販売するドウフ貿易で、当時は台湾人が経営していた。

    仲田は、哺乳器の将来性を予測し、同社の株式の取得を決断。60万円分の株式を取得するとともに、先方の要請を受けて同社の常務に就任した。当初、仲田は1週間に1度出社する条件で引き受けた。

    だが、ドウフ貿易の経営状況の厳しさは事前に通知されておらず、結果として仲田は騙される形となった。周囲の人は経営から手を引くように仲田にアドバイスするが、仲田は哺乳器の将来性を見込み、1952年に同社の社長に就任。同社の資金繰りは想像以上に厳しかったため、仲田は自宅を担保に入れて資金をやり繰りした。

    仲田は同社の資金繰りを1955年頃までに改善。ところが、経営が軌道に乗ると、今度は同社のY専務が仲田の追い出しを画策したため、経営陣の内部分裂が発生した。詳細な経緯は不明だが、特許や商標に関するイザコザがあったものと推察される。このため、1955年から3年間、仲田は裁判所に通い詰めたという。

    仲田は裁判に勝訴し、ピジョンの経営権を掌握。1957年に仲田は新生ピジョン(ピジョン哺乳器本舗)を設立し、ピジョンの実質創業者となった。

    仲田祐一(1969年)

    戦後復員したわけですが、その後しばらくは衣料ブローカーのような仕事をしました。この仕事である程度お金ができたとき、知人の金融業者からつぶれかかったピジョン哺乳器の経営に参加するように頼まれたのです。株式を30万株もって常務に入ってはみたものの、経営はすでに支離滅裂、当の金融業者さえ逃げ出してしまったのですが、私はピジョン哺乳器のやっている仕事自体は悪くないと思い、なんとかして会社を立ち直らせてみようと決心したのです。

    たとえお金がもうからない仕事でも、将来よって立つべき男子一生の仕事を持つべきだと考えたのです。これは、近藤商店をやめるとき、社長から送られた「終始一貫」という言葉が頭に残っていたからです。終始一貫身命を賭する、というためには、自分が惚れるに足る仕事でなければならないが、丁度ピジョン哺乳器の仕事は将来性もあり、次代を担う赤ちゃんをお客様に迎えるというユメもあって、私にはピッタリでした。「よし、苦労は承知でこの仕事に体当たりしてみよう」

    しかし、正直なところ昭和30年までの5年間は、私にとってまったく血みどろの戦いでした。...(中略)...いろいろの訴訟を23回もやったことがあります。裁判所の判例にまで載った大裁判でしたが、とうとう勝ちました。これもやりかけたことはトコトンまで命ある限りやろう、という執念の勝利だったと思います。

    1969/1オール生活「終始一貫、赤ちゃんの心でやり抜く執念・仲田祐一」


    乳児死亡率の激減

    マクロトレンド 人口増減 医薬品業界

  • 1920年 乳児死亡率が16%台
  • 1950年 乳児死亡率が6%台
  • 1950年 粉ミルクが普及
  • 1955年 森永ヒ素ミルク事件
  • 1961年 母乳vs人工栄養論争
  • 乳児死亡率16%台

    21世紀の日本における乳児死亡率は0.3%以下であるのに対し、大正時代の日本の乳児死亡率は16.5%に及んだ。つまり、子供を10人産んだとしても、そのうち1〜2人は生まれて1年以内に逝去してしまう時代であった。

    このため、大正時代の日本では乳児死亡率が高いことを理由に「日本の人口はだんだん減る」[1924/5/21読売新聞]という言説まで存在した。赤ちゃんの死亡原因は様々であるが、栄養摂取に問題があるケースが24%、呼吸器に問題があるケースが21%を占め、もっとも死亡率が高い地域は人口が密集して衛生状態の良くない大阪であったという。

    読売新聞(1924年)

    我国の乳児死亡率は近年益々増加の傾向を示しイタリーに次いでスペーインと同じ位になっている。...(中略)...この原因につき当事者の語る所に依れば我国の気候が湿気が多いのと食物と生活様式の不備にあるらしいといふ...(以下略)

    1924/5/21読売新聞p4「千人生れて百七十三人が死ぬ・近年益ます増加の乳児死亡」


    読売新聞「日本の人口はだんだん減る」(1922年)

    十年前までは人口過剰で苦しめられた日本が、近頃では反対にだんだん人口の増加率が減ってゆく...(中略)...死亡者の中乳児と肺結核患者の死亡率が最も高く、乳児は死亡総数の四分の一、肺結核患者は七分の一に当たる。ソコで目下大問題となっているのはこの乳児死亡率...(以下略)

    1922/11/8読売新聞朝刊p5「日本の人口はだんだん減る」

    乳児死亡者数(出生数100人あたり) - 長期推移

    単位:人

    出所:長期統計(厚生労働省大臣官房統計情報部人口動態・保健社会統計課「人口動態統計」)


    乳児死亡率の激減

    1920年代以降、サルファ剤を始めとする化学療法剤が普及。1945年の終戦直後には、日本でもストレプトマイシンが普及し、死の病と恐れられた結核が治療可能となった。また、1950年代に化学肥料と農薬が普及し、農村では豊作が相次いだため、日本人の栄養状態も改善した。この結果、乳児死亡率は著しく低下し、1950年には6%台となった。

    他方、乳児死亡率の低下にもかかわらず、ほとんどの日本人は今まで通りにたくさん産むことを志向したため、ベビーブームが日本に到来した。1961年には日本の人口が1億人を超えることが予想されたが、当時の新聞は「満員ニッポン・7年後には1億」[1961/4/18読売新聞]と報道して人口増加に懸念を表明していた。

    読売新聞(1961年)

    わが国の人口がこのように急速にふくれあがってきたのは戦後の出生ブームと、寿命が延びたこと。...(中略)..."出生と寿命"まったくもっておめでたい話で"1億ニッポン"にせまってくるわけだが、こうなってくると目の前にうかんでくるのは"満員電車"...(中略)..."1億ニッポン"よろこんでいいやら悪いやら・・・。

    1961/4/18読売新聞朝刊p11「満員ニッポン・7年後には1億」

    粉ミルクの普及

    1950年代を通じて、ビタミンなどの栄養素が入った粉ミルクが普及。母乳が出ないときの粉ミルクの利用により、赤ちゃんの栄養状態が改善した。

    ところが、1955年に森永ヒ素ミルク事件が発生。森永乳業・徳島工場で製造された乳児向けの粉ミルクに、ヒ素が混入するという事件が発生し、100人以上の乳児が死亡。このため、「母乳か人工栄養か」という論争が巻き起こったが、ミルクの利便性に軍配が上がり、時間をかけてミルクが徐々に普及した。

    赤ちゃんグラフィック(1963)

    母乳が足りないために赤ちゃんの発育が思わしくなかったり、おかあさんが勤めを持っていて、再び仕事に出なければならないときは、母乳がよいとわかっていても、混合栄養にしなければなりません。そのほか、おかあさんの不時の外出のためとか、現在はどうにか足りているが、将来母乳不足になりそうだと思われる人で、その準備のため、母乳のほかに、ときどきミルクを与えるというのがあります。

    ...(中略)...このごろは、人工栄養や混合栄養のとき牛乳よりもミルクを使う方が圧倒的に多くなりました。これはわが国の粉乳製造の技術がたいへん進歩したために、ミルクのほうが消化、吸収がよく、清潔で、いつもきまった成分のものを与えることができるという長所があることと、そのほかにビタミンを加えてあったり、牛乳のもつ欠点をいろいろ補って、成分のうえでも母乳に近くなったからです。

    1963主婦の友社「赤ちゃんグラフィック7〈育て方と病気〉」


    石油化学工業の発展

    マクロトレンド 技術革新 日用品業界

  • 1945年 石油化学工業の発展
  • 1951年 花王が合成洗剤を発売
  • 1962年 ピジョンがPC製哺乳瓶を発売
  • 1961年 アンネが生理用ナプキンを発売
  • 1981年 ユニチャームが幼児用おむつを発売
  • 石油化学の時代

    1947年に中東で大規模油田が発見され、日本にも石油化学工業の時代が到来する。

    1950年代には樹脂素材でイノベーションが続出し、1950年代を通じてナイロン、ポリカーボネートといった日用品の容器にも応用できる樹脂が次々と誕生した。樹脂は容器革命をもたらし、おもちゃ分野では従来のブリキの代替、哺乳器分野では従来のガラスの代替に用いられるなど、日用品の素材が次々と移り変わった。

    ダイヤモンド(1953年)

    (筆者注:合成繊維を含めたプラスチック製品は)今でこそ微々たる産業だが、欧米に於ける発展の現状と、日本の国情とを思うなら、これこそ、我国輸出産業のホープとして、大きな活躍を期待されるものと言わねばならない。プラスチックス製品といっても、まったくの新製品は少く、大半は従来からある日用雑貨類、繊維製品、機械器具、玩具など、様々な品物を、それらに適したプラスチックスで作った製品である

    ...(中略)...原料面、生産費及び製品の多様性や、需要の広さ等、様々な方面からみて、プラスチック製品こそこれからの輸出産業として、強力に育成すべきものであり、又、外貨獲得の大宗となるべき資格を充分備えたものと言える。

    1953/6/1ダイヤモンド「プラスチックス工業を振興せよ」

    日用品フロンティアの誕生

    1950年代以降の日用品業界では新素材を用いた新興メーカーによる下克上が頻発した。1950年代には合成洗剤分野で花王、1960年代には哺乳器分野でピジョン、1970年代には生理用品分野でアンネ(1980年代にライオンが救済合併)、1980年代には紙おむつ分野でユニチャームが、それぞれ既存勢力を抑えて急成長を遂げた。いずれも当時最先端の化学素材を用いることで下克上に成功した。

    また、1970年代には芳香剤や防虫といった、嗜好的な要素を含む日用品のフロンティアが誕生。フマキラー、アース製薬、小林製薬、エステーといった企業が、生活者の細かいニーズを汲み取る製品開発によって、業容を拡大した。


    数百人の成人女性の乳首を吸う

    経営者の決断 ピジョン 創業期 製品開発 家庭危機 オッパイ社長

  • 1957年 仲田祐一が新生ピジョンを創業
  • 1958年 関西で乳首研究の開始
  • 1960年 ナイロン樹脂製哺乳器の開発
  • 1961年 国内の乳首研究の完了
  • 1962年 乳首の国際研究を実施
  • 1962年 週刊誌が"オッパイ社長"を特集
  • 1962年 ポリカーボネート製哺乳器の開発
  • 1962年 日本赤十字病院がピジョン製品を推奨
  • 1963年 全国各地に営業所を新設
  • 年不詳  明治乳業(粉ミルク)と病院販路を開拓
  • 1. 数百人の女性の乳首を吸う

    1957年に仲田は新生ピジョン(ピジョン哺乳器本舗)を創業し、企業経営に本腰を入れた。

    1950年代のピジョンの哺乳器の国内シェアはわずか10%程度であり、哺乳器を扱う会社は国内に約50社存在する乱戦市場であった。厳しい競争を勝ち抜くために、仲田は哺乳器の製品開発に注力する方針を固め、最も重要な部品である哺乳器の「乳首」をリアルに再現する方法を考える。

    イラスト:筆者作成

    乳首の再現にあたっての問題は、最終顧客である赤ちゃんから使い心地の感想を聞くことができないという点であった。そこで、仲田は自分自身が赤ちゃんの気持ちを理解するために、成人女性の乳首を研究することを決意。成人女性の乳首を、実際に吸うことで、理想の哺乳器の乳首を開発することを思いつく。

    問題になったのは、研究に協力する成人女性を集めることであった。そこで、仲田は関西の知り合いのホステスに「乳首を吸われてもいい水商売の女性」の紹介を依頼。約5〜6年かけて、仲田は数百人の成人女性に相応の金額を支払ったうえで乳首を吸い、赤ちゃんが理想とする乳首の感覚を獲得した。さらに、仲田は海外のおっぱい事情を研究するために渡欧もしている。

    1960年代を通じて、ピジョンは仲田の研究成果を生かして哺乳器を相次いで発売。1963年にはポリカーボネート製の哺乳器を発売し、壊れやすかった瓶製哺乳器にかわる新しい哺乳器を発売した。樹脂製の新しい哺乳器は、お母さんたちの旅行など、外出時に重宝されたという。

    また、ピジョンは各製品についてパテントを取得しており、乳首の穴あけ用装置についても特許を取得。特許によって競合他社の追随を防止した。

    仲田祐一(1962・渡欧について)

    筆者注:下記文章は週刊誌で仲田が発言したとされる文章を掲載している。この文章が本当に仲田の発言を示すものかは不明である

    (筆者注:海外女性の乳首の研究について)なにしろ、私は女と寝ることが目的じゃない。乳房の探求が目的ですからね。すると、おかしいじゃないかというんです。

    ...(中略)..(筆者注:水商売の女性に100ドルを支払っても)女はまだ納得しないんですな。なぜ寝ないんだ。私が気に入らんのか。侮辱するな、とこうなんです。私は乳房を吸おうとしたが、そんなこと許してくれない。しかし、いくら日本語が通じるといったって、研究のためだとか何だとか、そんな複雑なこと通じやしませんよ・・・

    ...(中略)...しかし、実に大きな、手ざわりのある、立派な乳房でしたなあ。ああいうのは、日本ではちょっとお目にかかれませんでしたね。・・・だが、その女は、ちゃんと子供を産んだ乳房でしたよ。17、18のころに産んだのでしょうが、そういうとピタリと当たって、女はビックリしてました。他人にはわからぬ程度の微妙な変化でも私にはピタリとわかる。いかに他国の女でも、下腹部を見るよりも、私には、はっきりわかるのですよ

    1962/1週刊現代「実録・オッパイ社長洋行記」

    注:刊行後50年が経過しており、著作権は失効していると判断した

    2. 家庭危機の回避

    1961年までに仲田祐一は女性の乳首を数百人吸う研究を完了。ところが、1962年に週刊誌が仲田社長の乳首研究について「実録・オッパイ社長洋行記」と題した特集記事を掲載してしまう。

    週刊現代「実録・オッパイ社長洋行記」(1962年)

    読者の皆さんの中には、"970人の女の乳首を吸い歩いた世にもうらやましき男"---オッパイ社長の素的な噂話を聞いたことのある方も多いだろう。そのオッパイ社長が、この記事の主人公、仲田祐一氏なのである。

    仲田氏は、赤ちゃんを産んだ女たちの乳房に触れると、指先で乳首をつまみ、ひっぱり、そして口にふくんで吸ってみる。...(中略)...哺乳器の乳首の原型ができると、仲田氏は、目を閉じて指でつまみ、口に含んで、不良品をどんどんはねていく。言葉にはあらわせない指先と唇の感覚だけで製品の良否を判断し、その結果現在愛用されているピジョン哺乳器ができあがった...(以下略)

    1963/12週刊現代5(48)「実録・オッパイ社長洋行記」

    この記事が仲田の妻と娘の目に入ってしまい、仲田家の空気が凍りついたという。当時、仲田家では娘の縁談話が進んでいたため、最悪の場合は縁談の破断を覚悟しなくてはならなかった。

    間も無く、娘の縁談相手から雑誌記事の確認の電話がかかってきた。ここで機転を利かせたのが仲田の息子であった。息子は文筆家の永井荷風の作風について"エロではなく文学"であると解釈したうえで「父さんのしてることだって仕事上のことと思えば許せるんじゃないの」と主張した。この主張を縁談相手に説明したところ、理解されたため、幸いにして破談は回避されたという。

    3. 病院販路の掌握

    ピジョンは哺乳器の販売拡大に当たって、明治乳業などの乳業メーカーと協力関係を構築。ピジョンは入院中の母子に粉ミルクとともに哺乳瓶をプレゼントすることで、お母さんと赤ちゃんが最初に使う哺乳瓶の地位を確立した。また、1962年に日赤病院がピジョン製品の哺乳器(ポリカーボネート製)の利用を推奨するなど、医師からの信頼も獲得する。


    国内シェア80%

  • 1963年 紙おむつに参入
  • 1966年 ピジョン哺乳器本舗→ピジョンに社名変更
  • 1968年 哺乳器国内シェア80%
  • 1970年 紙おむつ国内シェア40%
  • 1981年 紙おむつ戦争でシェアを喪失
  • 2015年 哺乳器国内シェア70%
  • 国内シェアの維持

    1960年代を通じてピジョンは良質な哺乳器を安く提供することに成功。ある雑誌が行った哺乳器の性能/品質テストでは、ピジョンと東京マミー本舗の2製品が最高の「A」ランクを獲得したが、ピジョン製品は競合品よりも数十円安い価格で哺乳瓶を販売していた。このため、ピジョンは競合と比べて、価格と性能の両方で優位に立つ。

    1968年までにピジョンは哺乳器の国内シェアを約80%確保。1960年代頃の哺乳器業界では、赤線本舗、マミー本舗といった競合企業が存在したが、これらの会社は現在、見当たらない。したがって、ピジョンとの競争に敗れ、消滅したものと思われる。

    2010年代の時点でも、ピジョンは哺乳器で国内シェア70%を確保しており、ピジョンは哺乳器というニッチな市場でシェアNo.1を獲得している。

    実業の日本(1968年)

    高度成長にわく産業の一隅に、まことに可愛らしいが絶対的な需要を持つ製品で、着々と地歩を築いている企業、それが哺乳びんをはじめ育児用品の代表メーカー、ピジョン...(以下略)

    1968/10/15実業の日本「根性で築いた育児用品ブーム」


    参考文献

    新聞・雑誌記事

    1922/11/8読売新聞朝刊p5「日本の人口はだんだん減る」

    1924/5/21読売新聞p4「千人生れて百七十三人が死ぬ・近年益ます増加の乳児死亡」

    1953/6/1ダイヤモンド「プラスチック工業を振興せよ」

    1961/4/18読売新聞朝刊p11「満員ニッポン・7年後には1億」

    1963/12週刊現代5(48)「実録・オッパイ社長洋行記」

    1968/10/15実業の日本「根性で築いた育児用品ブーム」

    1969/1オール生活「終始一貫、赤ちゃんの心でやり抜く執念・仲田祐一」

    書籍・その他

    1963主婦の友社「赤ちゃんグラフィック7〈育て方と病気〉」

    長期統計(厚生労働省大臣官房統計情報部人口動態・保健社会統計課「人口動態統計」)


    執筆後記

    当初は、筆者が風の噂で聞いた「おっぱい社長」とは何ぞや、という好奇心が執筆動機でしたが、調査を通じて浮かび上がったのは、ピジョンの実質創業者の仲田祐一さんの強靭な「生き抜く力」です。シベリア抑留の話は、凄まじいの一言でした。


    事例一覧