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青山商事 - 青山五郎

栄枯盛衰 ロードサイド出店 価格破壊の旗手 本業低迷

青山商事の創業者・青山五郎。東京大学や東京工業大学に進学した兄たちに対し、中卒という自らの経歴にコンプレックスを抱いていた。そこで、商売で日本一を目指すために青山商事を創業した。

イラストは筆者作成(参考:1993/6/28日経ビジネス)

紳士服大手の栄枯盛衰

  • ロードサイドに集中出店
  • 1974年に青山五郎(青山商事・創業者)は同業他社に先駆けてロードサイドへの出店を決断。低価格スーツを大量に仕入れることで原価を低減し、出店面では賃料の安いロードサイドに集中した。販売面では利益連動型の報酬によって従業員のモチベーションを維持しつつ、広告宣伝に惜しみなく投資することで業容の拡大を目論む。

  • 価格破壊の旗手へ
  • 売上高の増大によって原価を引き下げるという好循環により、1991年に青山商事は紳士服業界で国内売上高No.1を達成。バブル崩壊直後の1993年頃には銀座出店を成し遂げ、「価格破壊の旗手」として注目を浴びた。

  • カジュアル進出の失敗
  • 1990年代に青山五郎はスーツに次ぐ経営の柱としてカジュアルウェアに注目。2003年にスーツとカジュアル分野を合わせて売上高1兆円の構想を提唱するが、カジュアル分野ではファーストリテイリングが展開するユニクロが台頭。青山商事はSPAの構築に遅れ、カジュアル分野でユニクロの後塵を拝した。

  • スーツ需要の低迷
  • 2010年代を通じてオフィスカジュアルが浸透しつつあり、スーツ需要そのものが低迷。青山商事はスーツ業界において相対的に好業績を維持しているが、本業の低迷、多角化の頓挫という二重苦を抱えている。

    目次

  • 青山商事 - 基本情報
  • 売上高 - 過去推移

    売上構成比 - 過去推移

    売上高利益率 - 過去推移

    従業員数 - 過去推移


  • 青山五郎の半生
  • 1960年代 高学歴の兄にコンプレックスを抱く

    1960年代 既製服のスーツに着目


  • モータリゼーションの進展
  • 1960年代 自動車社会の到来

    1970年代 ロードサイドの発展


  • スーツの価格破壊
  • 1970年代 兄が府中市長選に敗北し、脱府中を志向

    1970年代 米国視察+業界初の郊外展開

    1980年代 完全買取制+報酬設計

    1990年代 売上高1兆円構想


  • スーツ需要の低迷
  • 2000年代 カジュアルウェアでユニクロが台頭

    2010年代 オフィスカジュアルの浸透


    青山商事 - 基本情報

    売上高 - 過去推移

    単位:億円

    出所:有価証券報告書、会社四季報、調整額はその他から差し引いた


    売上構成比 - 過去推移

    単位:%

    出所:有価証券報告書、会社四季報


    売上高利益率 - 過去推移

    単位:%

    出所:有価証券報告書、各種報道資料


    従業員数 - 過去推移

    単位:名

    出所:会社四季報


    青山五郎の半生

  • 1930年 広島県府中市に生まれる(五男)
  • 1949年 広島県立旧制府中中学を卒業
  • 1949年 日本専売公社に入社
  • 1964年 同公社を退職し、青山商事を設立
  • 1969年 年商1億円を突破
  • 高学歴の兄にコンプレックスを抱く

    1930年に青山五郎は宮大工の父のもとに生まれ、5男(男6人・女1人)として育った。兄のうち、2人が東京大学へ、残りの2人が東京工業大学に進学し、五郎も「わしも東大に絶対に行くんじゃ」[1994/1/31日経ビジネス]と意気込んでいたが、中学時代に原因不明の病気を患い、大学進学を諦めざるを得なかった。

    両親は五郎を心配し、東京への進学ではなく、地元に残るように希望したため、五郎は不本意ながらも自宅の近くの専売局(現JT)の府中支局に入社した。入社後はたばこ原料であるたばこ葉の平均単価を算出する仕事などに従事する。

    だが、五郎は東京の大学に進学した兄に対するコンプレックスを抱き続け、学問ではなく商売で日本一になることを望んだ。そこ、1964年に五郎(34歳)は専売公社を退職して独立を決意。自宅を改造して、府中の商店街に青山商事を創業し、紳士服の販売に従事する。ただし、儲けるために海産物など様々な品目を取り扱ったため、青山"商事"という商号をつけたという。


    青山家の兄弟について(1994年時点)

    長男:(建設会社を起業)

    二男:(病死)

    三男:青山行雄(読売テレビ会長)

    四男:青山春雄(府中市長)

    五男:青山五郎(青山商事創業者)


    青山五郎(青山商事社長、1993年)

    私は病気のために進学できなかった。「30歳になったら、独立して商売をやろう。商売なら東大に行かなくても一流になれる」と考えていた。窮すれば通じるとか、人間鍛えればたいていのことができるか言いますね。日本一になろうという執念が苦労に耐えさせた。怠惰の修正が一番怖い。みんなと同じことをしていては何もできません。執念と苦労が、だれにも考えられない発想を生むのです。

    1993/6/28日経ビジネス「10年後には売上高1兆円に・青山五郎氏」

    既製服のスーツに着目

    1960年代のスーツはオーダーメイドが主流で、高額な商品だった。そこで、青山五郎は「スーツは、工員の給料の何倍もして、普通の人には手が出なかった。安くする方法を考えれば、売れる」[1994/1/31日経ビジネス]と考え、低価格スーツを既製服として提供することを目論むが、設立間もない青山商事に信用はなく仕入に苦労した。販売面では専売公社時代の人脈を頼りにしたという。

    (補足)青山商事の経営は軌道に乗らず、仕入は現金、販売は月賦という悪いサイクルに突入し、資金繰りが悪化。創業期の青山商事を支えたのは、青山五郎の小学生時代の同級生たちで、同級生は自宅を担保に出すなど、青山五郎を全面的に支えたと言われている。

    それでも青山商事は徐々に業容を拡大し、1969年3期に売上高1億円を突破した。


    モータリゼーションの進展

  • 1966年 トヨタがカローラを発売
  • 1969年 高島屋が二子玉川にSCを新設
  • 1974年 大店法の規制強化
  • 自動車社会の到来

    1964年にトヨタ自動車(石田退三・会長)は自動車の普及のために、大衆乗用車カローラの量産体制を整える方針を決断した。1965年から1966年にかけて、上郷工場および高岡工場を稼働させ、カローラの量産による大衆乗用車の価格引き下げを目論んだ。

    (補足)1966年11月までにおける上郷・高岡の2工場への投資額は約290億円に及んだ(トヨタの1965年11期の純利益は273億円)。莫大な投資資金はトヨタ自動車の自己資金と、日本長期信用銀行およびワシントン銀行を中心とする金融機関からの借入で賄った。

    1966年にトヨタ自動車は大衆乗用車カローラを発売するとともに、乗用車10車種の値下げを決断。量産による値下げと、日本人の所得上昇という波に乗り、日本はカローラの登場によって自動車社会に突入した。

    石田退三(トヨタ自動車工業社長、1965年)

    5万台じゃあ、まだまだ。6万〜7万台。やはり日本にも月産10万台の会社が2〜3社できなくちゃあ困る...(中略)...(筆者注:月産10万台時代がいつ来るかは)わからんが、東名高速ができて、日本を縦貫するハイウェイが完成すれば、必ず、そういった時代がくる

    1965/01/01ダイヤモンド「石田退三・月産10万台40%輸出」


    ダイヤモンド(1965)

    この高岡工場にかけるトヨタの意欲は、相当に雄大なものである。第1期工事での月産能力は1万2000台だが、近い将来、ここを大衆車の量産センターにする意向で、月産数万台を見込んでいる。...(中略)...自動車業界はまた、トヨタ旋風のショックを受けるだろう

    1965/09/12ダイヤモンド「"カローラ"発売への体制を敷くトヨタ自動車」

    ロードサイドの発展

    自動車社会の到来により、日本各地で道路網が整備された。公共交通の便が悪い地方(群馬県や愛知県の平野部など)を中心に、駅前ではなくロードサイドに小売店舗が出現し、小売業をとりまく競争環境が激変した。

    1969年には高島屋が二子玉川に日本初の郊外型のショッピングセンターを新設。その後、ダイエー、ジャスコ(イオン)などのGMS各社もショッピングセンターを道路沿いに新設するが、1974年に日本政府は大店法による規制を設けて、大規模店舗の出店を制限した。このため、1980年代を通じてロードサイドには小規模な店舗が相次いで出現した。


    ロードサイド店の展開+価格破壊

  • 1969年 200社とボランタリーチェーンを形成
  • 1970年 府中市長選挙で兄が落選
  • 1972年 米国のショッピングセンターを視察
  • 1974年 業界初のロードサイド店を開業
  • 1978年 同業他社も相次いで郊外店を出店
  • 1980年 青山商事・店舗数16店
  • 1985年 青山商事・店舗数50店
  • 1987年 株式上場
  • 1990年 青山商事・店舗数277店
  • 1991年 国内紳士服業界で売上No.1
  • 1992年 銀座二丁目に出店
  • 1992年 オンワード樫山が取引中止を宣告
  • 1992年 中国製スーツ比率10%
  • 1993年 公正取引委員会が二重価格を問題視
  • 兄が府中市長選に敗北し、脱府中を志向

    1970年に青山五郎の兄・春雄が府中市長選挙で、同郷の北川鉄工所の社長・北川実夫に敗北した。北川鉄工所は府中本社の上場企業で、地元の名士であったことから、府中に拠点を置く青山商事は地元での商売が難しくなった。このため、青山商事は府中を離れて商売する必要が生じた。

    すでに、1968年に青山商事は全国280社の洋服店によるVC(ボランタリーチェーン)を結成し、台頭するスーパーによる紳士服販売に対抗することを目論んでいた。青山商事は各地域の有力企業とともにVCを形成し、その中には「AOKIホールディングス(長野)」、「はるやま商事(岡山)」など、のちに青山商事の競合となる企業も含まれたという。

    そして、選挙の敗北を受け、地方展開を本格化させるために、青山五郎は台頭しつつあったショッピングセンターに着目。1969年に尼崎店を新設し、1972年までの3年間に7店をダイエー店内にオープンした。

    ところが、1972年ごろから日本経済が不景気に突入し、スーツの販売も低迷した。また、ショッピングセンターは地元商店街との軋轢を生んだため、日本政府は大店法を制定し、大型店舗の出店を制限した。このため、青山商事は自力での店舗展開を余儀なくされる。

    米国視察+郊外展開

    1972年に青山五郎はVCの加盟店(300名)とともに、米国視察を実施。サンフランシスコでショッピングセンターを訪問し、顧客がマイカーでショッピングする生活スタイルを目の当たりにする。

    そこで、青山五郎は充実した品揃えを実現した大型店の展開を発案。理想的な品揃えとして、スーツ1200着、ブレザー700着、ズボン1200本、礼服400着を販売するために、150坪が必要と計算し、従来の店舗(30坪)の約5倍の面積を確保できる郊外に出店地域を絞った。

    1974年4月に青山商事は日本初となるロードサイド紳士服店「洋服の青山(西条店)」を新設。幹線道路である国道2号線沿いに店を構えたが、前代未聞の店舗であったため同業社は「青山は大丈夫か」と噂したという。集客のために、青山商事は店の半径15kmの全戸に毎週末チラシを配布して店の存在をPRし、西条店は開店から半年後に経営が軌道に乗ったという。

    西条店の成功を受け、青山商事はロードサイド店舗の展開を強化。各店舗の開業に際して多額の広告宣伝費を投入し、開店直後から大量に集客することで、初年後からの黒字化を達成するモデルを構築した。広告宣伝にあたっては、電通と協力して徹底的な商圏分析を実施している。

    (競合)青山商事の郊外展開の成功をうけ、同業他社も郊外店の積極出店を志向した。1979年にはアオキ(AOKI HD)が長野市に郊外店を出店。はるやま商事は1978年に岡山県倉敷市に郊外店を出店。コナカは1978年に東京都町田に郊外店を出店した。

    青山商事 店舗数 - 過去推移

    単位:店

    注:1985年3期は見込み

    出所:1984/11/26日経ビジネス「郊外出店ズバリ、紳士服で群抜く成長の青山商事」

    青山五郎(青山商事社長、1984年)

    郊外店舗は繁華街の店と違って目的買いの客が多いので、店員が少なくて済み、人件費を抑えられる。その結果、粗利率が上がる。その分で広告・宣伝を集中的に展開できる。宣伝をすれば売り上げが増える。売り上げが増えれば大量仕入れが可能になり、仕入れ価格を安くできる。これが粗利益率をさらに高める。この好循環です

    1984/11/26日経ビジネス「出店ズバリ、紳士服で群抜く成長の青山商事」

    スーツの値下げ+報酬設計

    青山商事はスーツの値下げをするために、仕入先から現金で商品を買い取る「完全買い取制」を導入した。また、仕入れる製品の販売価格帯を3〜4万円に絞ることで、スーツ1種類の仕入れ量を増大(1万着〜)させて原価を抑制。一般的価格帯が7〜8万円のスーツを、青山商事は3〜4万円で大量販売することで利益を出し、生み出した利益を広告宣伝に投入して、さらに売り上げを増大させた。

    仕入先は、1984年時点ではグンゼや日本毛織などの国内メーカーが主体であったが、1994年に青山商事は中国国営の第二毛紡紡織会社と合弁会社を設立し、本格的な中国生産を開始したものと推察される。

    また、従業員へのインセンティブとして、青山商事は店長に店舗利益の1%を還元する制度を導入した。青山商事の店舗では従業員がやる気を出すために、「ライバル社に勝つ」という旨の掛け声をかけて業務を遂行するなど、様々な手法でモチベーションの向上を図った。

    (解説)1992年の時点では、一般社員でも、毎月一定額以上を売り上げた場合は月に5〜20万円の特別報酬を得ることができた。ちなみに、26歳の店長でも成果を残していれば年収1000万円を超えることも珍しくなかったという。

    青山商事 売上高 - 過去推移

    単位:億円

    注:1985年3期は見込み

    出所:1984/11/26日経ビジネス「郊外出店ズバリ、紳士服で群抜く成長の青山商事」

    鈴木史良(服良社長、1994年)

    買い取り制自体は、昔からある仕組みで青山さんが発明したわけではない。商品を売り切る力をつけようと猛烈な努力をしたのがすごい

    1994/1/31日経ビジネス「公取委にも譲らぬ負けん気・青山五郎氏」

    カジュアル+紳士服+海外=1兆円構想

    1987年に青山商事は株式を上場。1991年に売上高でタカキューを抜き、日本一のスーツ販売店となったが、ロードサイドでは競合紳士服店を含めて2000店に到達し、市場は飽和に向かいつつあった。

    そこで、青山商事は業容を拡大するために東京進出を決断し、1992年10月8日に高級店が立ち並ぶ銀座二丁目に「洋服の青山(287㎡)」を出店した。銀座店は開店1ヶ月で売上3億円を達成し、好調なスタートを切った。出店に際しては、バブル崩壊による銀座の賃料の低下(補償金約3億円、賃料6万円/坪)も追風となった。1990年代を通じて青山商事は、都心部における出店を強化する。

    (補足)銀座に格安スーツの店が出現したことで、青山商事は「価格破壊の旗手」と言われた。日経ビジネスは「飽和の郊外紳士服店・都心出店が大当たり」[1992/12/14日経ビジネス]と注目した。

    また、カジュアルウェアへの進出を決断し、JCペニーと提携。青山商事はカジュアルウェアとスーツの2つの業態を国内と海外で伸ばすことで、2003年に売上高1兆円を目指す構想を提示した。

    青山五郎(青山商事社長、1993年)

    既存タイプの店の上限は、750店とみています。これをこの3年間で実現する。今後は東京が出店の中心になります。この秋は新店の65%、来春は80%が東京です。だんだん東京で伸びていく。東京の店は今、平均で年商10億円。全店平均1店当たりの年商は4億2000万円。郊外型の2.5倍ですよ。750店までの進展のほとんどが東京、関東圏になりますから、1店当たりの年商が今の2.5倍の7億円として全部で5250億円になる。

    さらに米国の流通業とて販売提携して来年の春からカジュアルを取り扱う店を出す計画です。これが1店舗2億8000万円として、これが最終的には1000店舗、2800億円ですか。...(中略)...海外でも1000店程度展開してみようと。すべての店ができあがる10年後、西暦2003年には、紳士服、カジュアル、海外の3部門合わせて1兆円にしよう、という構想を立てています。

    1993/6/28日経ビジネス「10年後には売上高1兆円に・青山五郎氏」


    スーツ需要の低迷

  • 1997年 青山五郎が会長就任
  • 2000年 スーツカンパニーを開店
  • 2003年 売上高1706億円(1兆円に及ばず)
  • 2005年 青山理が社長就任
  • 2005年 政府がクールビズを提唱
  • 2008年 青山五郎が逝去(77歳)
  • カジュアルウェアでユニクロが台頭

    1990年代を通じてカジュアルウェア分野ではファーストリテイリングが全国展開を推し進めるとともに、いち早くSPAを構築。1998年にはユニクロ原宿店を開業し、"フリース旋風”を起こすなど、日本のカジュアルウェア分野におけるSPAの代表企業となる。

    他方、青山商事のカジュアルウェアは販売面で苦戦し、2003年3期の売上高は1760億円にとどまった。他方、2003年8期のファーストリテイリングの売上高は3097億円であり、青山商事はスーツからの業態転換に失敗した。

    ファーストリテイリング・青山商事 売上高 - 過去推移

    単位:億円

    出所:有価証券報告書、青山商事は2000年以降、ファーストリテイリングは2002年以降連結決算

    オフィスカジュアルの浸透

    1990年代を通じて格安スーツ業界では、青山商事、AOKI、はるやま商事、コナカの4社間で競争が激化。また、中価格帯ではファイブフォックス(コムサ)や、ユナイテッドアローズなどが都心部におけるスーツの販売を本格化させたため、所得の高い都心部における低価格スーツの需要は伸び悩んだ。そこで、2000年に青山商事は中価格帯の新業態「スーツカンパニー」を都心部でスタートさせたが、需要拡大の切り札にはならなかった。

    (補足)1993年頃に青山商事は2500円スーツを投入するが、供給が間に合わず、品質の悪いスーツを仕入れて販売。このため、クリーニング時に型崩れするなど、消費者の「洋服の青山」に対するスーツのイメージが悪化した。このため、スーツ購入に際して、所得の高い消費者は中価格帯を支持したものと推察される。

    2005年に日本政府がクールビズを制定し、オフィスでのスーツ着用の風潮が徐々に薄れ始めたこともスーツ業界に打撃を与えた。加えて、女性の社会進出や、IT企業におけるオフィスカジュアルの浸透などにより、スーツ需要は徐々に減少している。すでに、2019年の時点で米国ではオフィスカジュアルを採用する企業数は50%以上[2019/3/14ITmeciaビジネス]に及んでいる。

    2019年3期決算では、青山商事、はるやまHD、AOKI HD、コナカ(2018.9期)の紳士服の大手4社がそろって減益決算を発表。国内におけるオフィスカジュアルの浸透により、各社とも苦境に立たされている。

    紳士服大手4社 - 純利益(親会社帰属)

    単位:億円

    注:親会社に帰属する当期純利益、コナカは9期

    出所:1984/11/26日経ビジネス「郊外出店ズバリ、紳士服で群抜く成長の青山商事」


    参考文献

    雑誌・新聞

    1965/01/01ダイヤモンド「石田退三・月産10万台40%輸出」

    1965/09/12ダイヤモンド「"カローラ"発売への体制を敷くトヨタ自動車」

    1984/11/26日経ビジネス「郊外出店ズバリ、紳士服で群抜く成長の青山商事」

    1992/12/14日経ビジネス「青山商事・の郊外紳士服店・都心出店が大当たり」

    1993/6/28日経ビジネス「10年後には売上高1兆円に・青山五郎氏」

    1994/1/31日経ビジネス「公取委にも譲らぬ負けん気・青山五郎氏」

    1995/6/12日経ビジネス「青山商事、失地回復に苦闘」

    2019/3/14ITmeciaビジネス「スーツ姿のビジネスマンが「時代遅れ」になる日」

    書籍・その他

    有価証券報告書

    会社四季報

    青山商事webサイト


    事例一覧