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東急百貨店 - 山本宗二(百貨店の神様)

経営者の決断 東急百貨店 成熟期 百貨店の神様 再開発-渋谷 プロ経営者 経営再建

1960年代の渋谷地図。薄赤色は商業が盛んと推察される区域。イラストは筆者作成。

決断サマリー

  • 高低差の街"渋谷"での百貨店経営に苦戦
  • 1934年に東急電鉄は百貨店事業に参入するために、渋谷駅直結のターミナル百貨店(東急百貨店)を開業した。当時、東京の百貨店は銀座や日本橋などの中央区に立地していたが、東急はターミナル百貨店という市場を東京で初めて開拓した。終戦後の1950年代に東急百貨店(渋谷駅本店)は増床を重ね、1坪当たり売上高で新宿伊勢丹や日本橋三越を凌駕して東京No.1に躍り出るなど、ターミナル百貨店の躍進に注目が集まった。

    しかし、1960年代に突入すると東急百貨店は渋谷における地形的な制約から渋谷本店における増床が困難となった。ターミナルの渋谷駅が渋谷川の形成した谷底に位置するために、東急百貨店は店舗の増床が厳しく、業績拡大の足かせとなっていた。このため、競合の新宿・伊勢丹が増床によって売上を拡大する一方、東急百貨店の劣勢が鮮明となる。

  • 大物スカウトで経営再建を図る
  • 東急電鉄の創業家・五島昇は東急百貨店の再建を決断し、1963年に「百貨店の神様」と言われた山本宗二(伊勢丹常務)をスカウトした。当時、経営者のスカウトは珍しく、異例とも言える競合他社への移籍劇は日本の経済界で話題となった。

    山本宗二は東急百貨店の副社長に就任。不振の池袋店の売却、経営陣の入れ換え、人員削減(自然減)による固定費の抑制、渋谷道玄坂の小学校跡地の買収+本店新設、長野・札幌・吉祥寺などの地方鴎外店舗の充実を決断。だが、1971年に山本副社長が急逝したため、五島昇は後任として田中正佐(大丸元副社長)を東急百貨店の副社長としてスカウトし、プロ経営者に百貨店経営を一任した。

  • 地方郊外への展開で成功
  • 東急百貨店は渋谷での業容拡大に苦戦したが、1970年代を通じて札幌・長野・吉祥寺などの地方郊外店で売上を拡大。純利益率は1〜2%と低い水準であったが、売上高が着実伸びていたため、経済雑誌は「東急旋風」と高く評価した。

    東急百貨店は伸び悩む利益率を改善するため、1977年より財テクを本格化。赤松専務が率いる財務部は積極的な株式運用により短期利益を創出したが、1990年代のバブル崩壊により巨額損失を抱え込む要因となった。1992年1月に東急百貨店は財テク関連の特別損失を約380億円計上した。

  • 百貨店業態の構造不況を受けて上場廃止へ
  • 1990年代を通じて無印良品、ユニクロ、ルミネ、ユナイテッド・アローズ、ニトリといった専門店が台頭し、満遍なく商品を取り扱う百貨店の優位性が消滅した。百貨店業界では業界再編が進み、2008年には三越と伊勢丹が経営統合するなど業界トップ企業も苦境に陥る。

    東急百貨店も経営不振に陥ったため、1999年に旧白木屋(日本橋店)を閉鎖し、跡地を売却することで再建費用を捻出した。そして、2005年に東急電鉄は東急百貨店を完全子会社化(上場廃止)を決断し、東急百貨店の独立経営は幕を閉じた。

    目次

  • 東急百貨店 - 基本情報
  • 売上高 - 過去推移

    売上構成比 - 長期推移

    営業利益率 - 長期推移

    従業員数 - 過去推移


  • 東急百貨店の歴史
  • 1930年代 ターミナル百貨店 in 渋谷駅

    1950年代 "東急城"に対する地元商店の反発

    1950年代 白木屋(日本橋)の買収


  • 渋谷・新宿・池袋の発展
  • 1920年代 関東大震災による民族大移動

    1960年代 新宿・池袋・渋谷の発展


  • [決断社史]全社リストラ+新店舗投資
  • 1. 山本宗二(伊勢丹元常務)が副社長就任

    2. 池袋店の売却

    3. 役員更迭・人員削減(自然減)

    4. 本店新設(道玄坂)

    5. 地方郊外店の新設


  • 東急百貨店消滅(上場廃止)
  • 1960年代 渋谷・道玄坂本店が軌道に乗らず

    1970年代 地方店舗が好調。"奇跡の立ち直り"

    1990年代 財テク百貨店〜特損380億円

    2000年代 旧白木屋閉鎖〜上場廃止


    東急百貨店 - 基本情報

    売上高推移 - 1955年〜1995年(単体決算)

    単位:億円

    出所:有価証券報告書、会社四季報


    売上構成比 - 1962年〜2001年(単体決算)

    単位:%

    出所:有価証券報告書

    注:地方郊外店は吉祥寺店、札幌店、町田店の3店をカウント。長野店は単体決算に反映されないため除外。1980年1月はデータの都合上欠落


    売上高純利益率 - 過去推移

    単位:%

    出所:会社四季報

    注:1955年〜1996年は単体決算、1997年〜連結決算。1958年は決算期変更につき省略。1955年〜1957年は11期、1959年〜2005年は1月期決算


    従業員数推移 - 1962年〜2005年(単体決算)

    単位:名

    出所:有価証券報告書、会社四季報


    東急百貨店の歴史

  • 1934年 渋谷駅構内に百貨店(東館)を開業
  • 1938年 玉電を買収(玉電ビル=西館)
  • 1948年 東急電鉄より百貨店事業を分社化
  • 1950年 東急百貨店を全館復旧
  • 1950年 池袋店を新設
  • 1951年 渋谷店東館を増床(5〜7階)
  • 1954年 渋谷店西館を増床
  • 1956年 白木屋の経営に参画
  • 1958年 白木屋を吸収合併(1:1)
  • 1959年 ハワイにシロキヤを出店
  • 1961年 旧白木屋店舗と池袋店が不振
  • ターミナル百貨店 in 渋谷駅

    1934年に東急電鉄(五島慶太・創業者)は経営の多角化を図るために百貨店事業への参入を決断。東急東横線の終着駅である渋谷駅(宮益坂側)に東急百貨店を開業した。当時の東京における百貨店各社は、新宿三丁目、日本橋、銀座といったターミナル駅から少し離れた商業の中心地に百貨店を擁したのに対し、東急電鉄は駅直結のターミナル百貨店という市場を東京で初めて開拓した。

    1938年に東急は百貨店と鉄道事業を拡大するために、競合会社・玉川電鉄を買収。玉川線(現田園都市線・二子玉川〜渋谷)と渋谷駅前の道玄坂に位置する玉電ビルを取得し、渋谷駅の宮益坂と道玄坂の2箇所に百貨店を確保した。玉電の買収により、東急は渋谷駅というターミナル百貨店市場をほぼ独占する。

    しかし、当時の小売の中心地は東京の東側に位置する日本橋や銀座であり、渋谷に位置する東急百貨店は「田舎の百貨店」[1973東急社史]と揶揄されたという。

    東京の百貨店業界では、1940年に開催が予定された幻の東京オリンピックに向けて各社が増床を積極的に行う。松坂屋は銀座、高島屋は日本橋、伊勢丹は新宿において大規模な増床計画を策定し、設備投資が盛んとなる。

    東京都内の百貨店 - 売上高(1ヶ月あたり) 1935年時点

    単位:百万円

    出所:東急社史・数値は推定を含む

    "東急城"に対する地元商店の反発

    1945年の終戦直後に東急電鉄は財閥解体の指定を受け、1948年に百貨店事業を東急百貨店(当時の社名は"東横")として分社化した。1950年に東急百貨店は渋谷以外の商圏を開拓するために、池袋駅前に東急百貨店(当時の名称は東横百貨店)を新設する。

    1950年代を通じて東急電鉄は渋谷におけるビルの建設を実施。1953年には渋谷駅前の宮益坂方面に東急文化会館を新設し、渋谷を闇市主体の街から近代的なビルが立ち並ぶターミナルへと変貌させた。

    東急百貨店においても渋谷における百貨店の増床を実施。1951年に東館の5〜7階を増床し、1954年には旧玉電ビル(西館)の増築(地下2階〜地上11階)を実施した。積極的な増床により、1953年に東急百貨店渋谷店は都内の百貨店の売上高第4位に浮上。1坪あたり売上高では、東急百貨店渋谷店が都内第1位となり注目を集めた。


    東京都内の百貨店 - 1坪あたり売上高(1ヶ月あたり) 1953年時点

    単位:万円

    出所:1953/07/21ダイヤモンド「膨張力に富む東横百貨店」


    しかし、東急百貨店の発展は、渋谷の地元商店街の反発を買った。東急電鉄と東急百貨店は駅構内を中心に商施施設を充実させたため、渋谷の旧来の商業圏である道玄坂方面の人の流れが途絶えてしまう。地元商店と地元政治家は東急の各種施設を「東急城」として批判するなど、東急は対応に追われた。

    事態を打開するために、東急電鉄(五島昇・2代目創業家)は東急百貨店のみならず、渋谷の商業全体を発展させることを約束した。

    東急批判が高まった背景には副都心競争の激化という要因もあった。1960年代には新宿・池袋・渋谷の各ターミナル駅の乗降客が急増したものの、渋谷は新宿に比べてオフィスビルや商業施設の充実で出遅れたため、関係者の間では焦りが生じていた。

    自民党系渋谷区某議員(1966年)

    渋谷の発展が大きく停滞し、渋谷が発展から取り残されているのは、東急のエゴイズムにある。故人を誹謗したくはないが、強盗慶太といわれた五島氏の経営戦略が、結局は渋谷の発展を阻害しているのだ。(中略)

    東急城と地元では言っているほどだ。映画産業が華やかだったころ、東横時代劇の大オープンセットを東急城と言っとったが、あれと同じように、東横デパート、文化会館、新しくできた渋谷東急ビル、東光ストアを総称して、東急城と呼んでいるわけだ。全く城のように他者の侵入を許さない。鉄道の乗り換え客や乗降客を、コンクリートの城下で囲ってしまって、一歩も外に出そうとしない。城下町はさびれる一方だよ

    同じ副都心の新宿があれほど発展して、東京商工会議所の支部まで開設されているのに、渋谷にはこれといって目立った大型の商店が育たない。城下町を育てないでいて、城の発展があり得る道理がないよ

    1966/6月刊経済「渋谷の発展を阻害するもの――落日の街に共倒れするか東急コンツェルン」

    白木屋(日本橋)の買収

    1950年代を通じて日本橋の老舗百貨店・白木屋は深刻な経営危機に陥った。白木屋の日本橋本店は、北は三越、南は高島屋に挟まれた立地で、永大通りの拡幅工事によって店舗面積が削られるという悲劇もあり、業績不振に陥った。

    そこで、白木屋の"伝統"に目をつけた戦争成金・横井英樹は、財界でのステータスを手に入れるために白木屋の買収を決意。だが、白木屋が猛反発したため「白木屋騒動」が勃発した。

    事態を収束するため、1956年に五島慶太(東急創業者)は白木屋の買収に名乗りを上げた。五島は百貨店事業で日本一の三越を凌駕するために、白木屋の買収を目論む。1956年に五島慶太は横井英樹を退けて白木屋の株式を取得。1958年に東急百貨店が白木屋を合併した。

    だが、東急百貨店は経営難の白木屋を抱えたことで、増収減益に陥った。


    東急百貨店 売上高純利益率 - 過去推移

    単位:%

    出所:会社四季報

    注:1958年は決算期変更につき省略。


    新宿・池袋・渋谷の発展

  • 1923年 関東大震災
  • 1946年 新宿で歌舞伎町が誕生
  • 1965年 新宿淀橋浄水場の閉鎖(新宿副都心開発)
  • 1971年 池袋巣鴨拘置所の閉鎖(サンシャイン池袋)
  • 関東大震災による民族大移動

    江戸時代から明治時代にかけて、主な交通手段は「水運」であった。このため、東京では日本橋・両国・浅草・秋葉原といった河川や運河を利用できる下町に人口が集中した。商業の中心は東京の隅田川周辺であり、ウォーターフロントにおける職住近接が東京の一般的なライフスタイルであった。

    だが、1923年に発生した関東大震災が東京に住む人々のライフスタイルを変えた。関東大震災によって隅田川周辺の東京の主な町は廃墟と化し、ある人は東京を見捨てて関西へ、ある人は被害が少なかった東京の西側の郊外に移住する。この結果、1920年代以降に東京では西側の中心地である渋谷、新宿、池袋の3都市が繁華街として発展した。

    イラスト:筆者作成

    人々の郊外への移住を促した移動手段が「電車」である。すでに明治時代に鉄道は存在したが、当時は蒸気機関車を用いた遠距離輸送が主体であり、日常的な近距離輸送には適していなかった。だが、1920年代に普及した電車は近距離の大量輸送が容易であり、人々の日常の足として定着。"通勤"という言葉もこの頃に定着する。

    首都圏では関東大震災以後に電車の黄金時代を迎える。1920年代には中央線の電化、1930年代には東急東横線や小田急電鉄の全通により、利便性の良い郊外の範囲が拡大した。東京に住む人々の生活圏は、鉄道の伸長に合わせて郊外に拡張され、「住宅は郊外、オフィスは都会」という職住分離が進行する。

    時事新報(1925)

    こうして今や東京は大震災を境にして水面に落ちた油のように末広がりに郊外に向ってふくらんで行きつつある。言葉通り大東京である。こうした郊外の大発展に伴って都会生活者の生活様式に大きな変化が来た。変化とは何かと云えばオフィスは都会に、住宅は郊外にと云う傾向である。

    ...(中略)...人群れて電車敷かれ、電車敷かれて人更に群る、原因と結果と相順環して近年の郊外電車は正に言葉通り電車の全盛時代を画している。

    1925/12/1時事新報「都会から郊外へ」

    新宿・池袋・渋谷の発展

    1945年の終戦後も新宿・池袋・渋谷への人の流入は止まらなかった。1960年代には「副都心競争」と呼ばれ注目を集めた。特に、新宿駅は中央線・小田急線・西武新宿線・京王線・丸ノ内線・山手線などの基幹路線が乗り入れる利便性に加え、旧淀橋浄水場を高層ビル街として再開発できるというスパースが存在したことから、副都心競争で優位に立った。

    一方、池袋と渋谷は新宿に比べて開発が遅れた。特に渋谷は、渋谷川によって形成された高低差が土地利用上のネックとなり、大規模ビルの建設が難しいという問題を抱えた。このため、渋谷は自然の制約条件によって副都心競争で劣勢となる。

    五島昇(東急電鉄・創業家、1964)

    副都心とか渋谷のウェイトをもっとあげることが私の仕事だ。渋谷のウェイトが足りないと副都心競争に置き忘れられてしまう。一日の流入、流出人口の数は百四十万人。池袋や新宿と同じですよ。機能如何によっては、副都心として十分やっていける(中略)

    端的に言って、東急が力をいれなければ、渋谷は浅草になってしまうと思うんだ。浅草は副都心競争から完全に脱落している。あれだけの人間を送り込んでも仲見世だけではダメだ。戦争後電鉄も百貨店も何もしなかったむくいが来ていると思う。(中略)

    地下鉄の二号線というのが、中目黒で分岐して北千住にいっちゃう。中目黒渋谷間が盲腸になる。玉川線が銀座線に乗り入れする三号線が完成すると、玉川線の三分の一は直通して銀座に行く。三分の二の人間が渋谷に到着する。三分の一減ったものを如何におぎなって行くか。バス・ターミナルの場所があるか。スリバチの底がごちゃごちゃとしてスペースがない。機能的にするには、広場を立体的に利用する以外は考えられない。(中略)

    (筆者注:渋谷を)若い人の町にしたい。銀座は中年層の町ですよ。幸い渋谷には東横の沿線に相当の学校があるし、学生と若い人たちが健康的に遊べることを考えておかにゃならない。そういうことをして人をあつめて、間接的に援護射撃してゆく。

    1964小田ミツ著「トップマンと事業」


    全社リストラ+新店舗投資

  • 1963年 山本宗二をスカウト(副社長就任)
  • 1963年 役員を一部更迭
  • 1964年 池袋店を東武に売却
  • 1964年 人員採用の抑制
  • 1966年 ながの丸善と業務提携
  • 1967年 本店を新設(渋谷道玄坂)
  • 1970年 本店・渋谷駅店を増築
  • 1971年 山本宗二が逝去
  • 1972年 田中正佐をスカウト(副社長就任)
  • 1973年 さっぽろ東急百貨店を新設
  • 1974年 吉祥寺店を新設
  • 1. 山本宗二(伊勢丹元常務)が副社長就任

    1963年8月1日に伊勢丹の常務・山本宗二が30年間勤め上げた伊勢丹の退社を決め、問屋などの関係者に挨拶状を送付した。山本宗二は「東の山本(伊勢丹)、西の田中(大丸)」と呼ばれる百貨店業界の実力者であったが、伊勢丹を退職した理由は公にされず、去就に注目が集まった。当時の日本百貨店新聞は伊勢丹について「会社としては強力な機関車を失った」と報道したと言われている。また、伊勢丹の創業家・小菅家も、なぜ山本が伊勢丹をやめるのかを知らなかったという。

    山本宗二。小樽商科大学を卒業後、1930年代に新宿へ進出して間もない伊勢丹に入社。1963年に伊勢丹常務を退職し、東急百貨店の副社長に就任。イラストは筆者作成(1964小田ミツ著「トップマンと事業」に掲載された写真画像を参考に作成した)。

    伊勢丹の退職後、山本宗二には様々な会社からオファーがあった。東急、西武、東レ、京王百貨店、ホンダなどから声がかかったという。

    そして、最終的に山本宗二は五島昇(東急電鉄・創業家)からのスカウトに応じ、東急百貨店の副社長に就任することを決意。1963年10月に東急百貨店は山本宗二の副社長就任を公表し、百貨店業界に激震が走った。特に、伊勢丹に与えた衝撃は大きく、山本宗二は伊勢丹の小菅に対して挨拶に出向かなかったため、小菅はスカウトを快く思わなかったとも言われている。

    日本では珍しかった経営層のスカウトということもあり、大衆週刊誌も山本宗二の移籍劇に着目。1963年に週刊サンケイは「経営者スカウト第一号」[1963/10週刊サンケイ]という記事を掲載し、山本宗二のスカウトは戦後の日本経済界で初めて注目を浴びた事例となった。

    また、経済雑誌・財界は山本宗二のスカウト劇について「三原監督に長嶋をくっつけてスカウトするようなものだ」「TBSがフジテレビから鹿内信隆を引き抜くようなものだ」「いや東京新聞が朝日の永井大三をスカウトするようなもの」[1963/10/1財界]と評価した。

    山本宗二(伊勢丹常務→東急百貨店副社長)

    (記者の問)伊勢丹とともに生きてこられた山本さんがライバル会社に移られたことを、異例とも、ドライとも云われていますが・・・

    (山本の答)目新しいことでもなく、異例でもない。他にも例はある。わたしだけがたたかれるのは心外である。またドライと評する向きもあるが、これも習慣の差でしかない。昔、御維新の時、チョンマゲをとられた武士はなげかわしい、生きていられないといったものだ。習慣を変えるとおかしいと思うのだろう。

    1963/12実業界「良いカラーを植え付ける・山本宗二」


    五島昇(東急電鉄・創業家)

    百貨店のことは何もしらないから、山本君に身柄そっくりあずけたようなものだ。こっちは百貨店外の環境づくりをひきうけた。流れてくる人をフルにうけとめてくれるのを山本くんにやってもらう。東横の社長をやってしくじったら、東急の社長を辞めなくちゃならない。ちょっとやってみてやめるというわけに行かない。とっておきのエースを送りこんでいるわけ。...(中略)...百貨店の商売に関しては山本君で充分ですよ。副都心とか渋谷のウェイトをもっとあげることが私の仕事だ。

    1964小田ミツ著「トップマンと事業」


    小菅丹治(伊勢丹・創業家)

    引き抜かれる方も間ぬけだが、引き抜く方も非情だなァと思う。でも、これは仕方ないことかもしれないな。世の中が悪いんだから。山本君が、アチラに移るということも、ここを辞めてからあとに話があったんだと思いたい。...(中略)...山本君は、仕事師だから、ここにいても仕事はないし、松坂屋や高島屋の例をみても、従業員で、いかに手腕があっても、社長にはなれない。山本君も、これ以上いても、社長にもなれないんだから、と考えたのかもしれない。

    1963/10週刊サンケイ「経営者スカウト第1号!――東横百貨店に引き抜かれた伊勢丹山本重役の場合」

    2. 池袋店の売却

    1964年に東急百貨店は不振が続いていた池袋店(東横池袋店)の売却を決断した。売却先は東武百貨店であり、東武は買収店舗を別館として開業した。東急による池袋店の売却により、池袋で存続した百貨店は東武、西武、丸物、三越の4店となり、東急は競争から脱落する。

    (補足)1960年代に丸物の池袋店は業績不振により店舗を西武に売却。西武は旧丸物店舗をパルコ池袋店として開業した。また、2009年に三越は池袋店を閉鎖して土地を投資法人に売却。旧三越の店舗にはヤマダ電機が入居している。

    山本宗二(1964年)

    たしかに売り上げは減る。池袋東横は撤収した。おもてに現れたことは、ものすごく消極的のようだが、わたくしの考えは、反対に大変な積極作戦だ。損をすることをやめて行けば、プラスになるのはきまっている。この道の行きつくところは、株主のためであり、従業員のためであり、社会のためであると信じている。あのままでいったら、減配どころか無配になるところでしたよ。どうせ外部にあらわれた目先きのことで、不平不満な人もいますよ。けれども、本当に健全な事業体にするには、通らなければならない道なんですよ。(中略)

    池袋の東横を手放す問題にしても、西口の発展を考えたときに、当然そうすべきだとわかっていても、百貨店屋という立ち場だけだったら、なかなか出来ない。けれども、東急の事業という大きな立ち場から考えたら小さなことですよ。

    1964小田ミツ著「トップマンと事業」

    3. 役員更迭・人員削減(自然減)

    1963年より山本副社長は東急百貨店の取締役の解任を実施。1962年1月時点の全16名の取締役のうち、1968年1月の時点で取締役に残留したのは五島昇を含む6名のみであった。したがって、山本副社長は5年かけて東急百貨店の経営を担ってきた取締役の半数以上を入れ換えた。

    また、山本副社長は人員の自然減による削減を実施。1962年1月時点の従業員数4461名(単体)は、1970年1月までに同2971名に削減した。

    東急百貨店 従業員数推移 -(単体決算)

    単位:名

    出所:有価証券報告書、会社四季報


    4. 本店を新設(渋谷道玄坂)

    1963年に東急電鉄(五島昇・社長)は渋谷駅から徒歩5分の場所に位置する"大向小学校"の跡地を渋谷区より買収。さらに1964年に五島昇は西武百貨店の渋谷進出を認め、ライバルとの協業による渋谷の活性化を図った。

    イラストは筆者作成

    東急電鉄は小学校跡地の土地購入に際して、東急は渋谷区との間に「①渋谷区は1964年6月30日までに商業地域(従来は住居地域指定地)に指定替えする、②当社はこの土地に、区民の福祉の増進と文化の向上に寄与する施設を建設(スポーツセンターその他)する」[東急社史]という案を提示するが、当初、東京都渋谷区はこの案を黙殺する。

    動かない行政に対し東急を含めた地元関係者が反発。渋谷区町内会連合会は「渋谷の発展は商業地域を広げることにかかっている。副都心を目指す渋谷は、駅前が狭いうえ、商店街の栄通り1丁目、宇田川町、大向通 り、神宮前通りなどの盛り場が都の都市計画で居住地域に指定され、ビルや娯楽施設の建築が制限されていた。これが渋谷の発展を遅らせた原因でもある」[東急社史]という考えを表明した。

    地元の意向を受け、1966年に東京都は渋谷の当該地区における商業開発を容認。居住指定を解除し、渋谷の宇田川および道玄坂周辺を商業地域に指定した。

    行政の方針転換を受け、1966年に東急電鉄(五島昇・社長)は渋谷開発を設立し、電鉄が東急百貨店に対して賃貸する方式で小学校跡地に百貨店を新設する方針を決断した。

    1967年11月に東急百貨店は旧大向小学校跡地に東急百貨店本店を開業する。だが、百貨店法の規制を受けて売り場面積は1.7万㎡に制限されたため、小学校跡地の敷地を完全に活用することはできなかった。1970年に東急百貨店は許可を得て、渋谷駅と道玄坂本店の増床を実施したが、小学校跡地の大半は未活用のままであった。

    (補足)東急は大向小学校の跡地を完全利用するため、1989年に「bunkamura」を開業する。

    五島昇(1964年)

    大向小学校の跡二千坪を買っちゃった。スポーツ・センターを作る。ボーリング、アイス・スケート、スポーツ・ショップが主体でね。駅から五百メーター離れたところに人を引っ張るのは可成り大変なんだが、途中ずっと賑やかなところがあるから、人の流れは出来る。渋谷の町に二つの拠点をつくる。延べ坪一万三千坪のビルで、本年夏からかかって明後年春の完成の予定だ。駅ともう一つの拠点をつくって人口の流動を計ろうという狙いだ。NHK放送センターが出来ると、二万人の人間がくる。渋谷に集まる人口も増えて行く。

    1964小田ミツ著「トップマンと事業」

    5. 地方郊外店の新設

    1966年に東急百貨店は長野市内に拠点を持つ"ながの丸善"と提携し、地方都市への進出を図る。東急百貨店は経営不振に陥っていた"ながの丸善"に対して、東急社員を社長として派遣し、人員削減と店舗の移設を決断。市街地に存在した店舗を、長野駅前に移転する大規模な立地転換を行い、駅前における集客に賭けた。

    また、1973年に東急百貨店はさっぽろ店、1974年に(東京)吉祥寺店を相次いで開業。ともに駅前に店舗を立地させることで集客を目論んだ。


    東急百貨店消滅(上場廃止)

  • 1971年 田中正佐が副社長就任(元大丸副社長)
  • 1977年 転換社債を発行(財テクの本格化)
  • 1978年 東急百貨店の好調が経済雑誌で話題に
  • 1981年 三浦守が副社長就任
  • 1989年 創業家・五島昇が逝去
  • 1991年 財テク関連で380億円の特別損失を計上
  • 1992年 三浦守が会長就任
  • 1999年 旧白木屋(日本橋店)を閉鎖
  • 1999年 三浦守が会長退任
  • 2005年 東急電鉄が東急百貨店を完全子会社化(上場廃止)
  • 道玄坂本店が軌道に乗らず

    道玄坂本店の開業後も東急百貨店の売上は停滞した。1964年1月時点の東急百貨店の全社売上高387億円に対し、1968年1月時点の同売上高は356億円にとどまった。このため、経済雑誌は山本副社長について「神様もメッキがハゲれば タダの人か!」[1969/05実業の世界]という厳しい評価を下す。その後、1971年に山本宗二は急逝した。

    山本副社長の急逝という緊急事態に陥り、五島昇(東急・創業家)は再びスカウト人事を実施。大丸で辣腕を振るっていた田中副社長を東急百貨店の副社長としてスカウトし、東急百貨店の経営を一任した。

    (補足)西武百貨店も渋谷では百貨店経営に苦戦。東急と西武の2社は渋谷という商業地を盛り立てられず、副都心競争で新宿を凌駕することは叶わなかった。

    実業の世界「山本神様でもダメだった?」

    現在の渋谷地区の特性は、 恵まれたヒーターランド(新宿や池袋と比べて消費者の量的、質的なラインがきわめて高い)をもちながら実際の消費者吸収率が非常に悪い。言い換えると各路線から渋谷に集まってくる消費者が渋谷を素通りして新宿や都心に流れていってしまう率が多いのである。(中略)

    これまでこうした現象が起こるのは、渋谷にデパートが1店(旧東横)しかないからだ とされていたが、西武の進出でデパートが3店に増えた今、そうして理由は当てはまらない。そして東急が本当にダメなデパートなら、新しい西武がもっとのしあがっても良い筈なのだが実際は違う。(中略)

    渋谷という地区はそういう意味からなんとも掴みにくい、難しいブ ロックということになりそうだ。しかし、だからといって渋谷をこのまま気勢のあがらないB級副都心にとどめておくのは、立地的に見ただけでもあまりに歯がゆい。

    1969/05実業の世界「山本神様でもダメだった?」

    (補足)渋谷における小売業の成功はパルコの出現まで待つ必要があった。1973年に西武百貨店の子会社・パルコが渋谷店を開業。パルコは若者(20代学生〜社会人)をターゲットに据えたのは東急と西武と同様であったが、駅から徒歩10分という悪立地の店舗条件を克服するために、店舗周辺の街づくりを実施。公園通り、スペイン坂などを命名するなど、渋谷の宇田川長界隈を若者好みの商業地雨へと変貌させた。パルコの街づくりは成功し、従来は道玄坂に限られた渋谷の商圏は、NHKが隣接する宇田川方面に拡大する。

    地方店舗が好調。"奇跡の立ち直り"

    1970年から1973年にかけて日本経済は高度経済成長の終盤期にさしかかり、所得の増加に基づいた好景気に突入した。若者の消費行動が盛んとなったため、小売業にとって売上拡大の追い風となった。

    東急百貨店は札幌、長野、吉祥寺といった新設店舗を中心に売上の拡大に成功。札幌店は2年で黒字化に成功するなど、地方百貨店の成功が東急の売上拡大に貢献した。業界内では東急百貨店の立ち直りは「東急旋風」1978経済界とまで言われたが、売上高純利益率は1〜2%程度を推移した。

    補足:札幌進出の立役者は三浦専務、吉祥寺進出の立役者は田中副社長と言われる。三浦専務は地方百貨店の成功により東急百貨店の副社長(社長は創業家の五島昇)という実質的な経営者に抜擢された。

    日経ビジネス(1978年)

    (筆者注:昭和)30年代末の東急百貨店しか知らない人間が今日の同社を見れば、その立ち直りぶりは奇跡としか思えないだろう。それほどまでに、かつての東急百貨店は惨たんたる有様だったのである。「伊勢丹から山本さん(宗二氏)を迎えた当時、実質的に完全な赤字会社でしたからね」(三浦守東急百貨店副社長)...(中略)...

    業界では「取るに足らない存在」として半ば無視されていた同社の名を一躍クローズアップさせたのは一にかかって新店舗の成功だ。札幌、そして吉祥寺。

    1978/8/28日経ビジネス「東急百貨店・凝滞沈滞の中、新設店が例外的成長」

    財テク百貨店〜特損380億円

    本業の百貨店業の利益率が伸び悩んだため、1977年に東急百貨店は米ドル建てによる転換社債(CB)を発行。百貨店業界では日本初の海外での起債となり注目を集めた。以降、財務担当者の赤松氏が中心となって東急百貨店は財テクを実施し、本業の低収益を副業でカバーする。

    1980年代に東急百貨店は同業他社に比べて積極的な金融商品の運用によって利益を捻出した。このため、東急百貨店は"財テク百貨店"ないし、"闘う財務部"とも呼ばれたが、1991年頃からの日経平均株価の下落により財テクが行き詰まる。

    1992年1月期に東急百貨店は16億円の最終赤字を計上。赤字の原因は、財テクの失敗に伴う証券運用清算損270億円と大和証券との株式の飛ばしに関わるトラブルの110億円、両者をあわせた合計380億円の特別損失を計上であった。

    飛ばし損失の経緯:東急百貨店は1990年春から「飛ばし(含み損を抱えた株式を転売すること)」により転売された株式を大和証券の仲介により購入。1992年までに7回かけて905億円の株式を購入し、当初は922億円で大和証券に売却する約束をした。だが、バブル崩壊に伴う日経平均株価の下落により東急百貨店が保有する株式の時価が300億円に割れ込んだため、大和証券は購入を拒否。このため、東急百貨店は600億円の損失を被る形となり、東京簡易裁判所に調停を依頼。最終的に大和証券が490億円、東急百貨店が110億円の損失を計上する形で決着がついた。なお、大和証券の社長は飛ばし損失の責任を取り辞任した。

    三浦守(東急百貨店・会長、1992年)

    本業の利益率の低さをカバーするために、財テク依存体質を意識的につくっていたということもあります。資本市場から調達したコストの低い資金を株などで運用して収益を上げた。そんなことから、どんどん財テクにのめりこんでいったのです。...(中略)...

    ほかの百貨店に比べて、財テクを盛んにやっていたことは知っていました。しかし、あまり気にかけていなかった。バブル景気に沸いた時期、赤松君に「パチンコじゃないけど、玉がたくさん出たんだからもう景品と取り換えた方がいいんじゃないの。あんまりやると、玉がなくなっちゃうよ」と冗談を言った程度です。本当にうかつだった。

    1992/5/11日経ビジネス「挫折の奇跡・三浦守氏」

    旧白木屋閉鎖〜上場廃止

    1992年の財テク損失計上以降、東急百貨店の経営者人事は迷走した。まず、1989年に創業家の五島昇が逝去し、東急グループの中心人物が不在となった。1992年に三浦守が財テク損失の処理を遂行するために東急百貨店の会長に就任し、秋山恒雄が社長に就任。だが、1995年に秋山社長が退任して内山徹が社長に就任し、三浦守は会長職を続投した。

    この間、東急百貨店の業績は改善しなかった。このため、五島昇亡き後の東急電鉄本社は東急百貨店の経営方針に不満を抱いたと推察される。

    (補足)小売業界では1990年代から2000年代に専門店が勢力を拡大し、百貨店という業態の競争力を削いだ。地方百貨店は相次いで経営破綻し、都心部の百貨店は業界再編が活発化した。

    1999年に東急百貨店は日本橋店(旧白木屋)の閉鎖を決断。財テクや百貨店事業で抱えた損失を埋め合わせるために、白木屋跡地を民間都市開発推進機構に買戻特約付きで売却することでリストラ費用を捻出する。売却額は約516億円であった。同年に東急百貨店の三浦守は会長を退任し、五島家の薫陶を受けた経営トップが不在となった。

    東急電鉄はグループの再建のために、2005年に東急百貨店の完全子会社化を実施。東急百貨店は上場を廃止し、独立経営に幕を閉じた。

    荒井今朝雄(東急百貨店常務・日本橋店店長、1999年)

    内山徹社長から、閉店の話を聞いたのは、昨年9月のことでした。実は、私としては20年ぶりに1階系商品売り場を改装する考えを持っていました。そんな時期にいきなり「閉店する」という社長の言葉を聞いて、驚きました。300年以上続いてきた歴史に幕を閉じる、それも自分が・・・。すぐには受け入れがたい思いでした。だた、私も取締役として会社全体の厳しい状況は分かっていましたので、寂しい思い、悔しい思いをこらえ、「会社の生き残りのために仕方ない」と自分に言い聞かせて納得しました

    1999/2/22日経ビジネス「敗軍の将、兵を語る・荒井今朝雄氏[東急百貨店日本橋店店長]」


    参考文献

    新聞・雑誌記事

    1936/9/15中外商業新報「百貨店法必至と見て拡張・新設続出す」

    1953/07/21ダイヤモンド「膨張力に富む東横百貨店」

    1963/10財界「経営者スカウト第一号登場――伊勢丹常務から東横副社長になった山本宗二」

    1963/10週刊サンケイ「経営者スカウト第1号!――東横百貨店に引き抜かれた伊勢丹山本重役の場合」

    1963/12実業界「良いカラーを植え付ける・山本宗二」

    1966/06月刊経済「渋谷の発展を阻害するもの――落日の街に共倒れするか東急コンツェルン」

    書籍・その他

    有価証券報告書(東急百貨店)

    会社四季報

    東急電鉄社史

    1964小田ミツ著「トップマンと事業」