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パルコ - 増田通二(渋谷パルコ開業)

経営者の決断 パルコ 成熟期 創業期 成功は絶望的 業態転換 経営再建 再開発-渋谷

1973年頃の渋谷の地図。イラストは筆者作成

決断サマリー

  • 百貨店から不動産業への業態転換
  • 1950年代の池袋駅周辺は百貨店が乱立し、西武、東武、東急、東京丸物(まるぶつ)、三越の5社が厳しい競争を繰り広げた。このうち、1960年代に東急と東京丸物は池袋における百貨店戦争で敗れ、東急は池袋店を東武に売却。東京丸物は経営不振に陥ったために、店舗と経営権を西武百貨店に売却した。よって、西武百貨店は東京丸物を"西武百貨店とは競合しない形"で再建する必要が生じた。

    そこで、西武百貨店の増田通二は東京丸物の再建に奔走。1969年に増田は"丸物"という名前で再建することを諦めて、「パルコ」として再建する方針を決断した。1969年に増田は旧東京丸物店舗を「パルコ」として新装開業し、1970年には社名を東京丸物からパルコに変更。百貨店ではなくデベロッパーへの業態転換を試みた。

  • 渋谷のイメージを一新した渋谷PARCO
  • パルコは積極的な広告宣伝投資により若者の集客を目論むが、ヤングマーケットの中心は池袋ではなく、渋谷と原宿であった。そこで、1973年にパルコは渋谷進出を決断。店舗の立地は渋谷駅から数百メートル離れた場所で、小売業としての成功は「絶望的」と揶揄された場所であったが、パルコは"まちづくり"によって悪い立地条件を克服する。

    まず、渋谷店に面する通りを「公園通り」、単なる坂道を「スペイン坂」と命名することで、パルコの店舗周辺のブランドイメージを創出。地元と協力しつつパルコの店舗周辺を商業地区として再開発することで、渋谷の街を「若者が外で散歩しながらショッピングを楽しめる場所」へと変貌させた。渋谷パルコの成功により、1970年代に渋谷は「若者ファッションの街」というポジションを得る。

  • 渋谷のオフィス化に出遅れる
  • 1980年代に同業他社は相次いでデベロッパーに参入。東急は109、JR東日本はルミネ、イオンはイオンモールなどの新業態を開発し、パルコの希少価値が相対的に低下した。さらに、バブル崩壊により、パルコの親会社である西武百貨店がバブル崩壊により経営危機に陥り、2001年に森トラストがパルコの株式を20%取得。2012年にはJフロント・リテイリングが株式を取得するなど、パルコの経営は安定せず積極的な投資の機会を逃す。

    他方、渋谷地区では1990年代から2010年代にかけて東急電鉄が大規模な再開発事業を推進。渋谷駅前に大型オフィスビルを相次いで開業し、インターネット産業を積極的に誘致することで、渋谷を「(ネット産業に携わる)大人の街」へと変貌させた。渋谷のオフィス化の流れに対し、パルコは小売を主軸とする不動産業からの転換に遅れる形となった。

    目次

  • パルコ - 基本情報
  • 売上高 - 過去推移

    営業利益率 - 過去推移


  • 東京丸物の経営再建
  • 1960年代 東京丸物の経営再建

    1960年代 パルコ(不動産業)に業態転換


  • 若い女性の消費拡大
  • 1960年代 女性進学率の上昇

    1970年代 若者のファッション消費の増大


  • 渋谷・新宿・池袋の発展
  • 1920年代 関東大震災による民族大移動

    1960年代 新宿・池袋・渋谷の発展

    1970年代 渋谷と原宿にファッション店が集積


  • パルコ渋谷店の開業
  • 1. パルコ渋谷店の開業

    2. パルコの地方展開


  • 業態転換に成功
  • 1970年代 渋谷進出で成功

    1980年代 社員の流出

    1990年代 デベロッパーの競争激化

    2010年代 渋谷のオフィス化に出遅れ


    パルコ - 基本情報

    売上高 - 過去推移

    単位:億円

    出所:有価証券報告書。2019.2はIFRSを適用


    売上構成比 - 過去推移

    単位:%

    出所:有価証券報告書、決算説明資料。※16.2は全店売上高合計を100%として算出。


    売上高営業利益率 - 過去推移

    不採算店舗(地方店舗など)の閉鎖により収益性を改善。

    単位:%

    出所:有価証券報告書および証券39(3)。2018年以降はIFRSに移行したため省略


    東京丸物の経営再建

  • 1956年 日本政府が百貨店法を制定(増床規制)
  • 1957年 池袋駅前に東京丸物を開業
  • 1960年 丸物の創業経営者(中林社長)が逝去
  • 1966年 東京丸物が経営危機(18億円の最終赤字)
  • 1966年 西武百貨店が東京丸物の株式を取得
  • 1967年 東京丸物を閉店
  • 1969年 旧東京丸物を「パルコ」として新装開業
  • 1970年 社名を東京丸物から「パルコ」に変更
  • 東京丸物の経営再建

    1950年以降に池袋駅周辺にターミナル百貨店が次々と開業した。駅の西口には東横百貨店(東急)と東武百貨店、駅の東側には西武百貨店と東京丸物(まるぶつ)と三越が進出し、1960年代には5つの百貨店が競争を繰り広げた。

    最初に脱落したのは人の流れが少ない西口に店舗を構えた東横百貨店であった。1963年に東急百貨店は東横池袋店を東武百貨店に売却し、池袋から撤退した。続いて、1967年に東京丸物が経営不振に陥り、西武百貨店が経営に参画。東京丸物は百貨店法の制定後に開業した店舗のため床面積が狭く、西武百貨店の牙城を崩すことができなかった。

    1968年時点で東京丸物の坪あたり売上高は8万円、西武百貨店池袋店は同24万円。東京丸物は1957年の開業から1968年までの11年間連続で赤字を計上していたという。

    1962年ごろの池袋駅周辺の百貨店地図。イラストは筆者作成

    1968年に西武百貨店(堤清二・社長)は東京丸物の経営権を取得。西武の狙いは、競合他社の進出の防止にあり、ダイエーなどのスーパーの進出を阻むための消極的な買収であった。

    このため、西武百貨店は旧東京丸物の扱いに難渋する。東京丸物は店舗面積が小さいため百貨店業態として経営するには困難が伴った。このため、西武百貨店とは競合しない形で何からの再生を行うという難題が生じた。

    (補足)百貨店法:百貨店の増床により周辺の中小商店へと打撃を抑えるために、百貨店の増床を実質的に制限する規制。1956年の百貨店法の制定後、百貨店各社は自由意志に基づく増床が困難となった。

    そこで、堤清二(西武百貨店・社長・創業家)は西武百貨店の中途社員の増田通二(41歳)に白羽の矢を立て、東京丸物の再建を依頼した。当初、増田は「月々2億円の赤字を出していたこともあって、その時はもうダメかと思ったな」[1977/2/14日経ビジネス]という心境であったという。

    増田通二:1926年生まれ。東京都世田谷区育ち。父は日本画家で堤康次郎(西武グループ創業者)と親交があった。東京大学を卒業後は一般企業に就職せず、定時制学校の社会科の教員を務める。その後、食堂の料理人を経て、35歳で西武流通グループに入社。西武百貨店の渋谷進出を実務面で支え、続いて東京丸物の再建を主導した。

    イラストは筆者作成(参考:1973/5/26ダイヤモンド)

    増田通二(1987年)

    池袋は隣に西武(百貨店)があるから同じことはできない。当初はそれでも丸物そのものの再建にあれこれ手を尽くしたがラチがあかない

    1987/3証券アナリスト「時代・感性・都市のオルガナイザー」


    堤清二(西武百貨店・創業家、1979)

    丸物の再建を彼に任せようと考えたのは、普通のサラリーマンには無理な仕事だと思ったからです。サラリーマンはどうしても本社の顔をうかがってしまうから、こういう仕事には向かない。独自の発想といいセンスを持つ増田のような男でなければ駄目だと考えました。

    彼はあのとき、サラリーマンにはもう飽きていた。彼のような男は、自分の個性を発揮し、独自の発想を生かせるような仕事でないと飽きてしまうんです。ずいぶんと苦労しただろうと思う。(中略)しかし彼はいやしいところのない男だ。そういう男でなければ人を使えない。そこで丸物の仕事を彼に任せることにしたのです。

    1979/8プレジデント「増田通二・"入りサラで花開いた職人気質"」

    パルコ(不動産業)に業態転換

    1969年に増田通二は、東京丸物を賃貸ビジネス(不動産業)として再建する方針を決定した。また、ブランドイメージを一新するために店舗名を「パルコ」と改称し、1969年にパルコ1号店を池袋駅前(旧東京丸物店舗)に開業した。パルコは百貨店ではなく若い女性向けのファッションなどの専門店を束ねた「不動産業者」であった。

    パルコは賃貸収入以外に、広告宣伝費の分担など様々な工夫を凝らした契約体系を考案した。パルコが投じる広告宣伝費(売上高の2.5%)についてはパルコとテナントが平等に負担するが、広告実施の主導権はパルコが握った。また、保証依託金制度によってパルコはテナントから資金を確保して店舗の建設資金等にあて、さらに最低保証売上と逓減歩合制度を導入してパルコとしては安定的な収入を獲得した。

    このため、経営体力のないテナントはパルコから撤退したため、一部ではパルコを恨む声があったという。だが、入居希望のテナントが後を絶たなかったことから、パルコはテナントの流動性を確保でき、消費者から見ても常に最先端のショッピングができる場となった。

    だが、開業当初のパルコ池袋店は経営に苦戦したという。その理由は、(1)そもそもパルコという名前に知名度がなかったこと、(2)池袋という土地はファッションの集積地としては難しい立地であったこと、(3)大学生(特に女性)や若い社会人の購買力が向上する数年前にパルコを開業したこと、の3点にあった。

    苦境を打開するためにパルコは「広告制作連絡局」を設置。積極的な広告出稿やイベント企画を実施し、若者がパルコに興味関心を抱くように宣伝を行った。だが、1960年代後半の若者ファッションの中心地は赤坂・六本木・青山界隈であり、パルコ池袋店は不利な立地条件にあった。

    増田通二(1979年)

    いろいろな処方箋が出ました。半分はホテルにして半分はデパートにするとか、西友ストアー半分、丸物半分でやるとか。しかし結論として、当時の池袋はどちらかというとデパートの町で、デパートは大きくなっても町は大きくならないという状況があった。本当に将来的な消費傾向からいけば、やはり町作りをしなければいけない、ということなんです。

    新宿や渋谷に魅力があるのは、専門店の魅力、バラエティーですね。その意味で、池袋には決定的に専門店のバラエティーが足りなかった。それとファッションマーケットです。それで思い切って全部専門店にしようということになった

    1979/8プレジデント「増田通二・"入りサラで花開いた職人気質"」


    若い女性の消費拡大

  • 1960年 "女子大生亡国論"の論争
  • 1969年 雑誌「non-no」創刊
  • 1971年 経済雑誌が若者消費に注目
  • 1971年 雑誌「anan」創刊
  • 1971年 雑誌「POPYE」創刊
  • 1975年 雑誌「JJ」創刊
  • 1975年 SHIPS設立
  • 1975年 ユナイテッド・アロース創業
  • 1976年 ファイブ・フォックス創業
  • 女性進学率の上昇

    1970年代まで女性の大学進学率は低く、大学に進学する若者は男性に偏っていた。だが、1960年代を通じて日本経済が豊かになると、男女問わず子供に大学教育を受けさせる家庭が増加。従来の女性は15〜18歳で働くことが主流であったが、1970年代までに18歳の女性が大学に進学するという選択肢が一般化した。

    ところが、女性の大学進学に対する風当たりは冷たかった。1960年代には”女子学生亡国論”という言説が登場して流行語になった。当時の日本では「大学に学ぶ動機も男性に比べて消極的」[1970/11/19読売新聞夕刊]という差別的な言説もあり、女性に対する風当たりが強かった。

    読売新聞(1970年)

    「女子学生亡国論」が話題になって、10年近くが経つが、今年の5月1日現在で文部省が調べた大学と短大の基本調査速報によると、女子学生は短大をきらって大学に押しかける兆候を見せているのが注目される。(中略)短大から大学へ、女子学生が移動する傾向はこれからも続きそうだ。(中略)

    どうして満足しなくなったのか、女子学生や教官たちの意見を総合してみると次の3つになるようだ。第一は大学生の生活を、女の一生でもっとも充実した楽しい時期だと彼女たちはとらえているので、2年の短大より4年の大学を選ぼうとしていること。第二は、短大は女の園なので、男子学生がいる共学大学に魅力を感じていること。これは第一の理由と関係がある。第三は、親のふところが豊かになったので、嫁入り道具の一つとしての"学歴"を大学卒にしてやるゆとりができたこと。(中略)

    かくて、大学の文学部の52%、教育学部の51%、芸術系学部の59%は女子によって占められた。だが、法学、経済学部などの分野になると女子は5%、工学部では1%にも満たない。さらに大学院になると、女子学生の姿をさがすことがむずかしくなる。ウーマン・パワーとか、ウーマン・リブというけれど、大学に関する限り、女性の力はまだ男性に及ばないし、大学に学ぶ動機も男性に比べて消極的なのも気にかかる。

    1970/11/19読売新聞夕刊p1「ふえる女子学生」

    若者のファッション消費の増大

    1970年から1973年にかけて日本経済は好景気に沸いた。このため、この頃に若者の消費活動が活発化した。特に、レジャーやファッションへの消費が増大する。

    1970年代に若者消費が活発化したことを受け、ファッション雑誌が創刊ラッシュを迎えた。1969年には「anan」、1971年には「non-no」と「POPYE」、1975年には「JJ」がそれぞれ創刊され、時代に敏感な若者のバイブルとなる。

    また、ファッション雑誌の台頭に合わせて、零細アパレル企業(セレクトショップ)が次々と誕生した。1975年にはユナイテッドアローズとSHIPSが誕生し、「POPPYE」などのファッション雑誌を活用した宣伝により業容を拡大するなど、若者向けファッションが産業として成立する時代が到来した。

    日経ビジネス(1971)

    いまや、若者は、時間的余裕ばかりでなく、"可処分所得"の点でも、豊かな存在。ヒマとカネを、どれほどレジャーに注ぎ込んでいるだろうか。まず、代表的レジャーともいうべき旅行に月1回以上でかけているのは、男性で20〜24歳、女性では10代。費用は1回平均で約1万円(注:現在価値:約5万円)といったところ。40代以上の年齢層と比べて、回数は2倍、1回の費用は全く同じ水準だ。質的にも量的にも、レジャーを満喫しているようである。(中略)

    女性の服装の多様化もさることながら、最近は男性も、幅広のネクタイ、カラーシャツと、おしゃれへの関心が著しい。(中略)衣料品全般にいえることは「マスコミ宣伝」「チラシ広告」「POP広告」などが、ほとんど効果をもたない点で、むしろ「店の人の推奨」のほうが、お客に訴える力が大きいことを調査は教えている。

    1971/07/12日経ビジネス「予想外に健全な若者のレジャー」


    新宿・池袋・渋谷の発展

  • 1923年 関東大震災
  • 1946年 新宿で歌舞伎町が誕生
  • 1964年 地下鉄日比谷線の開業(六本木の発展)
  • 1965年 新宿淀橋浄水場の閉鎖(新宿副都心開発)
  • 1971年 池袋巣鴨拘置所の閉鎖(サンシャイン池袋)
  • 1978年 地下鉄半蔵門線が青山一丁目まで開業
  • 1979年 地下鉄千代田線の全通(原宿の発展)
  • 関東大震災による民族大移動

    江戸時代から明治時代にかけて、主な交通手段は「水運」であった。このため、東京では日本橋・両国・浅草・秋葉原といった河川や運河を利用できる下町に人口が集中した。商業の中心は東京の隅田川周辺であり、ウォーターフロントにおける職住近接が東京の一般的なライフスタイルであった。

    だが、1923年に発生した関東大震災が東京に住む人々のライフスタイルを変えた。関東大震災によって隅田川周辺の東京の主な町は廃墟と化し、ある人は東京を見捨てて関西へ、ある人は被害が少なかった東京の西側の郊外に移住する。この結果、1920年代以降に東京では西側の中心地である渋谷、新宿、池袋の3都市が繁華街として発展した。

    イラスト:筆者作成

    人々の郊外への移住を促した移動手段が「電車」である。すでに明治時代に鉄道は存在したが、当時は蒸気機関車を用いた遠距離輸送が主体であり、日常的な近距離輸送には適していなかった。だが、1920年代に普及した電車は近距離の大量輸送が容易であり、人々の日常の足として定着。"通勤"という言葉もこの頃に定着する。

    首都圏では関東大震災以後に電車の黄金時代を迎える。1920年代には中央線の電化、1930年代には東急東横線や小田急電鉄の全通により、利便性の良い郊外の範囲が拡大した。東京に住む人々の生活圏は、鉄道の伸長に合わせて郊外に拡張され、「住宅は郊外、オフィスは都会」という職住分離が進行する。

    時事新報(1925)

    こうして今や東京は大震災を境にして水面に落ちた油のように末広がりに郊外に向ってふくらんで行きつつある。言葉通り大東京である。こうした郊外の大発展に伴って都会生活者の生活様式に大きな変化が来た。変化とは何かと云えばオフィスは都会に、住宅は郊外にと云う傾向である。

    ...(中略)...人群れて電車敷かれ、電車敷かれて人更に群る、原因と結果と相順環して近年の郊外電車は正に言葉通り電車の全盛時代を画している。

    1925/12/1時事新報「都会から郊外へ」

    新宿・池袋・渋谷の発展

    1945年の終戦後も新宿・池袋・渋谷への人の流入は止まらなかった。1960年代には「副都心競争」と呼ばれ注目を集めた。特に、新宿駅は中央線・小田急線・西武新宿線・京王線・丸ノ内線・山手線などの基幹路線が乗り入れる利便性に加え、旧淀橋浄水場を高層ビル街として再開発できるというスパースが存在したことから、副都心競争で優位に立った。

    一方、池袋と渋谷は新宿に比べて開発が遅れた。特に渋谷は、渋谷川によって形成された高低差が土地利用上のネックとなり、大規模ビルの建設が難しいという問題を抱えた。このため、渋谷は自然の制約条件によって副都心競争で劣勢となる。

    そこで、1967年に東急が道玄坂に東急百貨店を新設。1968年には西武が渋谷駅前に西武百貨店を新設し、商業地としての渋谷の発展を目論むが、百貨店法による店舗面積の規制に阻まれ、十分な成果を上げることができなかった。

    実業の世界(1969)

    現在の渋谷地区の特性は、 恵まれたヒーターランド(新宿や池袋と比べて消費者の量的、質的なラインがきわめて高い)をもちながら実際の消費者吸収率が非常に悪い。言い換えると各路線から渋谷に集まってくる消費者が渋谷を素通りして新宿や都心に流れていってしまう率が多いのである。(中略)

    これまでこうした現象が起こるのは、渋谷にデパートが1店(旧東横)しかないからだ とされていたが、西武の進出でデパートが3店に増えた今、そうして理由は当てはまらない。そして東急が本当にダメなデパートなら、新しい西武がもっとのしあがっても良い筈なのだが実際は違う。(中略)

    渋谷という地区はそういう意味からなんとも掴みにくい、難しいブ ロックということになりそうだ。しかし、だからといって渋谷をこのまま気勢のあがらないB級副都心にとどめておくのは、立地的に見ただけでもあまりに歯がゆい。

    1969/05実業の世界「山本神様でもダメだった?」

    渋谷と原宿にファッション店が集積

    1960年代に国道246号線(青山通り)および六本木通りの拡幅工事が実施され、自動車交通の利便性が向上した。

    イラスト:筆者作成

    また、1960年代には日比谷線、1970年代には千代田線および半蔵門線が開業し、東京西側の郊外から都心へのアクセスが向上し、1970年代初頭には地下鉄開通予定地の地価が高騰した。

    (補足)1960年代から1970年代にかけて、恵比寿・広尾・六本木は東急東横線〜日比谷線、渋谷・表参道・青山一丁目は東急田園都市線〜半蔵門線、原宿・赤坂は小田急線〜千代田線が乗り入れた。

    地下鉄の開業に合わせて、赤坂・六本木・青山・原宿・渋谷の商業が活発化した。特に、東急沿線の郊外には裕福な家庭(郊外&マイホーム)で育った若者が多く、鉄道を利用して渋谷や原宿などの都心でショッピングを楽しんだ。このため、1970年代に渋谷と原宿には個人経営のファッション店が集積した。

    特に、原宿は山手線の接続駅という恵まれた立地条件の割に、賃貸料が安いという理由でファッションベンチャー企業が集積し、若者文化の発祥の地として注目を集めた。

    日経ビジネス(1974)

    原宿が現在の姿に近くなったのは昭和30年代末から。ミユキ族の流れが原宿に入り込む一方、あめかけアパートの異名があったセントラルアパートに××コンサルタントやデザイナーというカタカナ職業家が住みつくようになる。そして彼らに対応して出てきたブティックと共に風俗をリード、ファッションの原宿としてその名を高めるようになった。(中略)

    そうこうするうちに原宿は変貌する。代々木公園まで延長された地下鉄千代田線が、このあと小田急に接続する。人の流れの変化は原宿に一層の変化をしいるだろう。

    1974/7/8日経ビジネス「原宿・ファッションビジネス街に変身中」


    パルコ渋谷店の開業

  • 1973年 渋谷パルコ開業(Part1)
  • 1975年 札幌パルコ開業
  • 1975年 渋谷パルコ開業(Part2)
  • 1976年 岐阜パルコ開業(旧地方百貨店・山勝)
  • 1976年 千葉パルコ開業(旧地方百貨店・田畑)
  • 1977年 大分パルコ開業(旧西友店舗)
  • 1981年 渋谷パルコ開業(Part3)
  • 1. パルコ渋谷店の開業

    イラスト:筆者作成

    1973年にパルコ(増田通二・西武百貨店常務)は渋谷進出を決断。出店場所は西武百貨店が所有していた渋谷宇田川町の土地(大成建設の社宅跡地)で、渋谷駅からは数百メートル離れた坂の上に立地していた。加えて、出店地域の周辺(宇田川町)は教会や社宅が存在する閑静な住宅街で、商業が盛んな地区ではなかった。このため、小売業としての成功は絶望的と言われていた。

    そこで、増田通二は渋谷パルコの出店とともに、地元と協力して渋谷パルコ周辺地域のまちづくりを同時並行で実施。坂については「スペイン坂」、道については「公園通り」と命名したうえで綺麗に整備し、時代の先端感を醸成した。

    1973年6月14日にパルコは渋谷店を開業。延べ床面積は2.8万平方メートル、地上10階地下4階、専門店140店を擁する店舗で、最上階には西武劇場を併設して若者の集客を目論んだ。また、開業に際して「すれ違う人が美しい、渋谷公園通り」というキャッチフレーズを宣伝文句として活用した。

    ダイヤモンド(1973)

    "坂道ファッション"をうたう渋谷パルコがオープンする。ファッションとは新しい価値の創造。高低の変化がそれを生むという。西武百貨店取締役・増田通二さんにその意見を聞いた。(中略)

    西武百貨店、渋谷パルコの誕生で増田さんの描く渋谷再開発の夢は、その土台がやっとできたといえる。ハイ・センスの客が渋谷に集まってきて、ファッション・タウンとして、生まれ変わるのは、これからのことだ

    1973/5/26ダイヤモンド「渋谷に咲いた西武百貨店・増田通二のファッション学」


    増田通二の回想

    ナショナル・ブランド商品の時代から欲望商品の時代へ移ってきて、明らかに商売のやり方が変わり、ファッション・ビジネスなら、例えば駅から1000m離れている不便な場所でも成り立つという可能性が強まってきた。ただ、このようなハンディのあるロケーションの場合、単体での出店ではだめで、「街づくり」をすることにより、ハンディキャップを解消できる。

    「渋谷パルコ」は駅から500m余り離れた坂の上にあり、(中略)商業立地として不利な条件と受け取られがちであったが、当社は渋谷という街を銀座・赤坂・青山といった国道246号線上にある一大ファッション・ゾーンの中核になり得る。

    1987/03証券アナリストジャーナル「増田通二」

    2. パルコの地方進出

    1970年代を通じてパルコは地方にも進出。地方では、大型スーパーの進出により地元の老舗百貨店の経営が行き詰まる例が相次いでおり、西武グループは同業の不採算店舗を「パルコ」という新しい業態として再建することで、グループの売上高を増大させることを目論んだ。

    増田通二(1979年)

    ファッションのマーケットが東京なり大阪なりの集中型になりすぎているし、むしろ要求は地方都市で強いんです。実際の供給と情報がアンバランスなんで待望感が強くある。また、大都市でパルコをやる場合には、すでに成熟している需要を吸収すればいい、むしろ、よその取りこぼしを集めてくるという感じだが、地方都市ではマーケットをクリエートするところからやる。やってみたらそっちのほうが面白いし、成長性もあります。学生服を一枚ずつ脱がせてこっちのものを着せるわけだから・・・。

    1979/8プレジデント「増田通二・"入りサラで花開いた職人気質"」


    業態転換に成功

  • 1981年 企業文化デザイン賞を受賞
  • 1987年 株式上場
  • 1989年 増田通二が会長職を辞任(総会屋事件)
  • 1999年 最終赤字29億円を計上
  • 2001年 森トラストがパルコの株式を20%取得
  • 2006年 岐阜パルコを閉鎖(以降、地方店を閉鎖)
  • 2007年 渋谷パルコ(Part2)の閉店
  • 2012年 Jフロントが森トラストからパルコ株式を取得
  • 2015年 渋谷パルコ(Part1)の休業
  • 2016年 渋谷パルコ(Part2)の閉店
  • 2019年 渋谷パルコ(Part1)再オープン
  • 渋谷進出で成功

    渋谷パルコ売上高 - 過去推移

    単位:億円

    出所:有価証券報告書、パルコ決算説明資料、各種報道資料。1973年は初年度予想額


    パルコ渋谷店は順調に業容を拡大。パルコのみならず、パルコ渋谷店を中心とした周辺地区の商業も活発化したため、パルコは渋谷という街を活性化させる街づくりにも成功した。従来の渋谷の繁華街は、東急百貨店のある駅前ないし、道玄坂周辺であったが、パルコの開業によって人の流れが宇田川町の方向に形成された。

    また、1974年にNHKが日比谷から渋谷に移転し、NHKと取引を行うクリエーターが渋谷界隈に拠点を置いたことから、渋谷に対するイメージが向上。1975年には東急田園都市線が開通して渋谷の利便性が向上したことも追い風となる。

    渋谷パルコの成功により対抗意識を燃やした東急は、東急ハンズと109を相次いで渋谷に開業。渋谷において、若者消費の店舗が充実したため、1970年代から1980年代を通じて渋谷は「若者の町(大学生〜20代独身社会人)」という評判を獲得した。

    1981年にパルコは渋谷における街づくりに関して「企業文化デザイン賞」(日本文化デザイン会議)を受賞し、社会的評価も得た。

    1980年代を通じてパルコは地方都市への出店を拡大することで売上を増大させ、1987年に株式上場を果たす。

    だが、1989年にパルコの幹部が総会屋(暴力団関係者と推察される)に対して現金を渡して逮捕されたことから、増田通二はパルコの会長職を辞任した。後継として山田晶義がパルコの経営を担い、地方展開の積極化による全国展開を推し進めた。

    ダイヤモンド(1979年)

    渋谷の繁華街は駅前と道玄坂だった。しかし、昭和43年に西武百貨店が、48年にパルコができるに及んで、形勢が逆転、パルコ前の公園通りがファッション化し、いつしか若者はそこにたむろするようになった。一方、道玄坂は終戦後そのままになっているような飲食店、洋品店、雑居ビルが立ち並び、お世辞にも美しいとは言えない状態だ。

    1979/2/10週刊ダイヤモンド


    増田通二(1979)

    僕らの仕事は、一言で言えば女性研究。まさに女性研究株式会社です。女性のテーマがなくなると、パルコのテーマもなくなる。女性の矛盾なり、問題がある限り、パルコは迷わず進むことができる。(中略)女性の持つ前向きの姿勢に共感することが、女性専科デパートの仕事であると、僕はむしろ信仰に近い気分でいる。異議をさしはさまず、深く考えず、女性の前向き運動の旗だけふっているんです。(中略)

    価値の変動に素直なのは女性だ。もともと権力に関係がない。女性は可能性を信じますからね。男は過去のいきがかりのウェイトが高く、その場で前向きの姿勢に転換するのは至難の技だ。僕は丸物を全部ひっくり返して全然違うものをつくるつもりだったから、男の社員を相手にしなかった。

    1978/6中央公論経営問題「増田通二・女性研究こそ商売の秘訣」

    社員の流出

    1988年の上場を境にパルコ社内の雰囲気が大きく変化し、業績が好調にもかかわらず、従業員の流出を発生させた。この時期にパルコを見切った社員に岸田雅裕(2014年にA.T.カーニー日本法人の代表に就任)がいる。

    岸田雅裕(2015年)

    昔のパルコは株式は店頭登録をしているだけで、大学の掲示板にも載っていなかったので、よほど変わった人しか来なかった。(中略)第一部指定になってからは、有名大学を出て、他社で採用されなかった人も来る会社になってしまった。私はそんなふうにパルコがチャレンジングではなくなってくる感じに違和感を抱いたので、パルコを嫌いになる前に退職しました

    2015岸田雅裕著「コンサルティングの極意」

    デベロッパーの競争激化

    1990年代に専門店業界では競争が激化。都心部ではJR系のルミネ、地方郊外ではイオンが業容を拡大したため、パルコのデベロッパーとしての希少価値が低下。パルコの競争力も低下し、1999年に28億円の最終赤字を計上した。

    さらに、パルコの親会社であったセゾングループ(西武百貨店)はバブル崩壊による不動産投資の失敗により多額の負債を抱えてしまう。2001年にパルコの親会社は森トラストに、2011年にはJフロントリテイリング(大丸・松坂屋)が新しい親会社になり、パルコの経営方針が定まらなかった。この間、パルコは地方の不採算店の閉鎖により利益率を改善するものの、積極的な投資を行わなかった。

    週刊東洋経済(2014年)

    パルコはかつての輝きを失う。流行を担う10代、20代の若い世代でパルコの黄金時代を知る消費者はもはやいない。この世代にとってパルコは駅ビルと同列のファッションビルの一つに過ぎないのである。

    2014/10/11週刊東洋経済

    渋谷のオフィス化に出遅れ

    パルコの経営が迷走する一方、2000年代に東急電鉄が渋谷駅周辺に高層ビルを積極的に新設。渋谷駅構内のマークシティーや桜丘町のセルリアンタワーを竣工し、渋谷を「若者消費の町」から「大人が働く町」へと変貌させてネットベンチャーの集積地を創り上げた。

    一方、パルコは渋谷のオフィス化の潮流に乗り遅れた。2015年にパルコは渋谷パルコ(Part1)の建て替えを決断。新しいビルは、オフィスとパルコを併設した複合施設を予定している。


    参考文献

    新聞・雑誌記事

    書籍・その他


    事例一覧