日本興業銀行 - 池浦喜三郎

#業態転換 #海外投資 #2019/9/23

イラスト:筆者作成(参考:1977/4/11日経ビジネス)

グローバル金融機関への転身

  • 前史:設備投資資金の融資

  • 背景:金融自由化

  • 決断:ロンドン現地法人の新設(1975年)

  • 結果:興銀消滅(2002年)

  • 社史的意義
  • 興銀は、本業の産業金融からグローバル金融機関への転換を図るものの、本業の国内事業で多額の不良債権を抱えて統合消滅という結末を迎えた。1970年代に東大生がこぞって就職するエリート銀行であったが、時代の趨勢に逆らうことはできず、企業経営としてのグローバル化は頓挫した。

    だが、興銀がハーバード・ビジネス・スクールなどに留学生として送り出した社員の層は厚く、元興銀出身の三木谷浩史氏が楽天を創業するなど、グローバル人材の輩出では卓越した成果を残した。


    日本興業銀行 - 基本情報

    経常利益 - 過去推移

    単位:億円

    出所:会社四季報


    融資先業種別構成比 - 過去推移

    単位:%

    出所:各種報道資料。インフラは電力および運輸


    決断前史:設備投資資金の融資

    産業金融として高度経済成長を実現

    興銀の創業は1902年であるが、長期信用銀行として本格的な活動を開始したのは終戦直後の1950年代以降である。

    終戦により日本経済は壊滅的な打撃を受け、日本は国全体として資金難に陥った。このため、日本経済が高度成長を果たすためには製造業を復活させる必要があり、そのためには莫大な設備投資が欠かせなかったが、ほぼ全ての日本企業は資金難という課題に直面した。

    終戦後の日本では大蔵省が日本の金融機関を統括し、1952年に長期信用銀行法を制定して、長期金融を担う金融機関として興銀と長銀の2行に独占的な業務を与えた。以降、1950年代から1960年代にかけて興銀は長期金融機関として、債券を地方銀行などの金融機関に売ることで資金を調達し、調達した資金を日本の製造業に融資することで、設備投資資金を供給した。

    このため、日本企業が設備投資によって成長を志向する際は、興銀や長銀といった長期金融機関から融資を受けることが必要であり、これらの銀行は日本産業界に対する資金の資源配分を握る強い立場を獲得する。興銀は、東京大学を卒業した集材が集い、天下国家を論じる銀行とも言われた。

    しかし、長期金融機関の意義は、企業や銀行に資本蓄積が少なく、直接金融が主流ではない時代に適合するものであり、企業が自己資金を蓄えてギャップが解消された時には存在意義が薄れるという問題を持っていた。この点について、興銀行内では、長銀法制定以前に問題を指摘する行員もいた。

    池浦喜三郎(1950年・のちの興銀頭取)

    債券発行銀行が活躍できる環境は、資本の蓄積が貧弱であるにもかかわらず長期資金の需要が活発であるというギャップがある場合なのであって、蓄積が進むにしたがって企業の自己金融が可能となり、預金銀行も長期貸出を行うようになる、

    また証券市場も発達して株式、社債が発行できるようになってくると、当然興銀のような銀行は、取引先が以上のような調達方法により得ない、換言すれば二流、三流化している必然性がある。将来資本蓄積が進んできた場合、本行の貸出ピッチは鈍くなる。次に縮小する

    2000/10/2日経ビジネス

    日本産業界の野戦病院

    1960年代を通じて興銀は設備投資資金の融資とともに、過当競争によって苦境に陥った日本の大企業の救済および再編を主導するスタンスをとる。1961年に興銀頭取に就任した中山素平は「新資本主義論」を提唱し、競争に脱落した企業を救済することで、地元経済への影響を最小限に抑えるという信念を貫き、企業の救済に奔走する。

    興銀は、1965年の日産・プリンスの合併や、1970年の富士・八幡製鉄による新日鉄の発足などを取りまとめ、高度成長から安定成長へと推移する経済環境の中で、企業の合併再編を促した。このほかには、水俣病への補償問題に苦しむチッソ(熊本)への救済、飯野重工業(舞鶴)への救済など、地域社会に大きな影響を持つ会社の存続にも手を差し伸べた。

    このため、興銀は「日本企業の野戦病院」とも言われ、興銀は救済のためにカネとヒト(興銀社員)を救済企業に送り出して企業再建のプロフェッショナルとなる。1978年の時点で興銀が融資先の上場企業に派遣している役員は150名に及び、日本の上場企業の社長になるには、興銀に入行することが近道とも言われた。

    日本産業界の再編の旗振り役となった中山素平は、1968年に興銀の取締役会長、1970年に相談役に就任して業務の一線から退いた。1960年代の興銀を率いた中山素平は「興銀中興の祖」として賞賛を浴びている。

    日経ビジネス(1984年)

    「財界の鞍馬天狗」、「無私無欲の名調整役」、「日本の明るい黒幕」、そして「社会のシナリオライター」。中山に冠せられたさまざまな呼び名からは、見方によっては「定見がなく、常に中庸を追うオポチュニスト」といったイメージも浮かぶ。だが、中山が数々の産業救済や季語湯合併のサンバ役を演じて「ミスター再編成」といわれた背景には、日本経済の将来を見越した、中山なりのはっきりしたビジョンがあった...(中略)

    産業再編成というテーマの前には、ギラギラした、むき出しの企業エゴのぶつかり合いという課題も立ちはだかっていた。こんな環境の中で、中山がスンナリと調整役を果たし得たのは、ひとつには今回の取材でもさんざん検証させられた「限りなくし恬淡な人柄」そのものであり、いまひとつの背景は、産業向け長期金融の最大の担い手として黄金時代を迎えていた興銀、それに君臨する王として、そのパワーを存分に使ったことであろう。

    1984/12/24日経ビジネス「シリーズ人・中山素平氏」

    興銀無用論

    1971年のニクソンショック、1973年のオイルショックにより日本経済の高度成長は幕を閉じ、安定成長の時代へと推移して設備投資への資金需要が低下した。

    加えて、1960年代を通じて日本企業は自己資金を蓄え、ADRなどの海外における直接金融を充実させるSONYのような企業も現れたため、興銀や長銀のような間接金融を主体とする金融機関の存在意義が徐々に薄らいだ。

    1970年代後半には「興銀無用論」[1978/2/25週刊東洋経済]が台頭し、長銀法によって守られた長期金融機関は時代にそぐわないという意見が噴出したが、興銀の経常利益は好調に推移しており、興銀としては今まで蓄えた利益を、次の時代に何に投じるかが問題となった。

    中山素平(興銀元頭取・1978年)

    ぼくが頭取の時は、ちょうど日本経済は高度成長期にあり、再編成といっても合併などで企業を強いものにする、国際競争力をつけるという前向きで単純な目標をもてばよかった。しかしいまは、経済全体の成長率が落ち、しかもオイル・ショック以降世界は新しい国際分業を模索する時代にさしかかっている。

    興銀自身も流通産業や住宅産業にカネを貸し始め、重化学工業中心の融資では納まらなくなってきている。興銀の専門性が薄れ多様化に向かっているが、これもやむをえまい。興銀に知恵がなくなったのではなく、僕らの時代の単純な知恵から、より高度なより複雑な知恵が興銀に求められているにすぎない。

    1978/2/25週刊東洋経済「したたかな興銀・その実像」


    時代背景:金融自由化

    護送船団方式の確立〜終焉

    終戦直後の日本政府は、大蔵省が実権を握る形で「できる限り金融機関を倒産させない」という方針の元、護送船団方式による運営を行った。このため、金融機関はそれぞれのテリトリーで確実に収益を確保する代わりに、領海侵犯を行うことが許されなかった。

    だが、1970年代にニクソンショックが起こり、金融自由化という世界の趨勢が日本にも到来したため、日本における護送船団方式について、米国などの先進国から批判を浴びた。欧米の金融機関にとって、日本進出を図ろうにも、大蔵省を中核とするテリトリーが確立されており、外資金融の進出が実質的に規制されていた。

    そこで、日本政府は1970年代より逐次金融の自由化を実施。1980年代には東証会員権を欧米系金融機関に付与するなどの自由化を実施し、1990年代の金融ビックバンによって大蔵省を頂点とする護送船団方式に終止符を打った。この間、メリルリンチやゴールドマンサックスが東京支店を新設して、日本上陸を果たしている。

    台頭する外資金融機関の陰で、1990年代を通じて日本の金融機関は大蔵省という後ろ盾を失い、バブル崩壊による不良債権問題にも苛まれたために、山一証券や日本長期信用銀行のように消滅する金融機関も出現した。興銀や各都市銀行などは業界内での経営統合を模索し、メガバンクとして生き残りを図る。


    決断:グローバル金融機関への転身

  • 1. 池浦喜三郎の頭取就任
  • 2. 海外進出の本格化
  • 3. 若手育成に投資(ハーバード留学など)
  • 4. 国内中小企業向け融資の積極化
  • 1. 池浦喜三郎の頭取就任

    1975年に池浦喜三郎が興銀の頭取に就任し、1991年に取締役相談役を退任するまでの約16年間にわたって興銀の経営を担った。

    池浦頭取は最重要課題として海外市場の開拓を掲げ、日本国内の金融業務に変調していた興銀を、JPモルガンのようなグローバル金融機関を参考にしつつ転換することを試みる。

    池浦喜三郎(興銀相談役・1990年)

    私はかなり大胆に日本興業銀行の国際化を推し進めてきました。時には反対派からリスクが大き過ぎるとか、いろいろ言われました。地球的にものを考えていかなくてはいけない。こう訴えて「地球ですか」と驚かれたこともありました。今でこそ世の中はグローバリゼーションなどと格好良く言っていますが、30年くらい前にこういう考え方をする人はあまりいなかったのです。

    興銀は第二次世界大戦中の軍需産業への金融で相当なダメージを受けました。その後いろいろな過程を経て再建され、27年に長期信用銀行として自主的な経営ができるようになったのです。私は終戦直後から企画部門にいたのですが、興銀の第一の課題は、国内産業を立て直すためにおカネを融通することでした。でも、それだけでは先細りです。国内の復興をやりながら、機会があれば海外取引を広げる必要がある。日本は海外から資源を買って、それを製品として輸出しなければ成り立たない国だとかなり早いうちから考えていました。

    これは歴史を読めばわかることです。経済というものは、その国で経営していても、充実してくれば当然よそとの交流がなければ成立しないし、発展しない。幕末を見ても、欧州の歴史を見てもそうです。歴史を学ぶことは、過去を見るだけでなく、先を読んでいくのに役に立ちます。波を見ているのではダメです。海面下の大きな流れ、つまり潮を見ていかないと。

    1990/10/8日経ビジネス「有訓無訓」

    2. 海外進出の本格化

    1975年に興銀はすでに進出していたロンドン支店を発展させる形で、全額出資によるロンドン現地法人を設立。日本では規制の関係上難しかった証券業務にロンドンにて参入し、経営のグローバル化および直接金融への参入を本格化した。

    なお、1975年時点の興銀の海外拠点は、支店3、現地法人4、駐在員事務所5に過ぎなかったが、1987年までに支店7、現地法人11、駐在員事務所22へと拡充している。海外展開の現場では、石原秀夫や藤沢義之などの海外経験が豊富な興銀社員が現地法人の責任者を務めた。

    ただし、海外展開にあたっては、国内本社の反対派に対する説得工作と、大蔵省に対する交渉が必須で、池浦頭取はこれらの交渉に苦労したという。

    池浦喜三郎(1987年)

    海外進出にあたって、行内の説得が大変だったのはもちろんですが、それよりずっと苦労したのは、役所との折衝でした。都市銀行に比べると、興銀は海外進出をずっと遅くまで許可されなかったのです。...(中略)

    しかし、お役所っていうのは、本当に業界にきつく当たる時がある。それまで縛っておいて、ある日突然海外に出ていいって言われたって、すぐにできるものではありません。日本の銀行が最初に支店を出したのはロンドンですが、興銀がロンドン支店創立10周年を祝っている時に、都市銀行は支店の30周年を迎えていました。お役所のやり方が結果として非常に不公平な事態を招くことがありますね。

    1987/10/26日経ビジネス「進化の研究・日本興業銀行」

    3. 若手育成に投資(ハーバード留学など)

    興銀の海外展開のネックになったのが、海外に精通した人材が少ない点にあった。そこで、1980年代に興銀は若手社員を積極的に海外のビジネススクールに留学させて、英語および国際的な人脈を構築させることを促した。

    1980年代に興銀はハーバード大学に対して寄付を行っており、社員の積極的な受け入れを請願したものと思われる。

    1987年の時点で、興銀の男性社員2500名のうち、600名が海外経験者となった。また、日本企業におけるMBA取得者数で興銀は150名で日本一となり、2位三菱銀行135名、3位新日鉄100名、4位東京銀行90名、5位三菱商事73名と続き、日本企業として最も多くのMBA取得者が働く企業となった。この結果、興銀の社内では、国内出身者ではなく、海外出身者が幅を効かせるようになったという。

    池浦喜三郎(興銀会長・1987年)

    人もどんどん留学させてきた。忙しくて出せないという反発がある時期もあった「急病で入院させたつもりでハーバードへやればいいんだ」と説得して出してきた。また新規採用に当っては各部署からの申請の数字に、あえて20人の上乗せを行い、それをすべて海外展開に充てる方策もとった。

    1987/10/26日経ビジネス「進化の研究・日本興業銀行」

    新卒者の採用面では、興銀は1970年代から優位な立場にあり、1975年には東京大学の卒業生「17名」[1975/10/27日経ビジネス]を採用しており、日本で最も多くの東大卒業生を採用する企業として、日本で最も優秀な人材の確保に成功している。

    就職市場からの評判の良さは継続し、1990年に日経ビジネスが公表した「読者が選んだ"息子に薦める43社」[1990/4/9日経ビジネス]というアンケートでは、1位ソニー、2位ホンダ、3位NEC、4位NTT、5位興銀という調査結果を公表した。1990年の時点でも、興銀は就職先として支持を集めていた。

    4. 国内中小企業向け融資の積極化

    1980年代を通じて興銀は海外事業を拡大する一方で、設備投資金融という需要を失った国内事業の再建を急いだ。1970年代より、興銀は国内では外食産業やサービス業などの三次産業の分野への融資を進めており、ロイヤル、長崎オランダ村、オリエンタルランドに対して大規模な融資を行っていた。

    1987年に興銀は歴史上初となる「中期経営計画」を策定し、国内大企業に対する取引の強化とともに、不動産開発に対する大規模融資の積極化を決めた。当時は東京湾岸部の再開発が積極化していた時期で、これらの開発には大規模な投資が必須であったため、資金の運用難に直面していた興銀にとって渡りに船の案件であった。

    また、興銀は各支店における新規融資の開拓を実施。各支店にノルマを設定して融資先を新規開拓することで収益を確保する道を模索する。従来の支店の役割は、地銀などの地域金融機関に債券を売ることが主な内容だったが、1980年代からは一般の都市銀行と同じく、融資先の開拓が重要な目標となった。

    この結果、1977年時点で興銀の融資先は大企業69.2%・中堅中小企業30.8%であったのに対し、1987年には大企業56.8%・中小企業43.2%と、中小企業への融資比率を増大させた。また、融資先の業種は製造業が減少し、1987年には不動産およびサービス業が約77%を占めた。

    1987年の興銀の国内業務のテコ入れは、興銀の復活を期待させるものとして大きな注目を集めた。

    日経ビジネス(1987年)

    日本興業銀行は迷っていた。この日本のエスタブリッシュメントを代表する銀行にとっても、金融の国際化、自由化、証券化が絡み合いながら押し寄せてくるグローバリゼーションの波はあまりにも激しく、また急だった。海外では都銀に後れをとった拠点の整備に盲信し、国内では今まで利益の基盤であった制度の防衛に走る。興銀は対応に追われ、方向性を見失った。

    しかし、いま興銀は迷いを振り払い、自らの生きる道を見定めた。大企業を中心とした事業金融こそ興銀の原点と自覚したのだ。...(中略)...大企業は決して枯渇した成長性のない市場ではない---興銀はこう考えた。リストラクチャリングは新たな産業と資金需要を生む。東京湾岸開発など大型プロジェクトでも主役は巨大な資産を持つ大企業群だ。そこにビジネスチャンスがある。

    1987/10/26日経ビジネス「進化の研究・日本興業銀行」


    結果:興銀消滅(2002年)

    興銀神話の崩壊

    1970年代以降に、日本企業が直接金融や自己資金による設備投資を本格化させたことを受け、日本興業銀行が債券を発行するという競争優位性が崩れた。このため、興銀は中小企業分野を開拓することで融資額を増大させ、特に不動産などの多額の資金が必要な産業に資金を貸し出すものの、これらの融資が1990年のバブル崩壊による地価下落で莫大な不良債権に化けた。

    1990年代を通じて興銀は国内における不動産融資の不良債権の処理問題に悩まされ、1996年に1699億円の経常赤字に転落した。1991年に発覚した料亭女将への1500億円の乱脈融資(尾上縫事件)や、興銀の融資先であった百貨店「そごう」の破綻により、日本経済界における信用力も失ってしまった。

    このため、興銀重役の中でも興銀を見切る動きが活発化し、1994年に興銀の元副頭取・石原秀夫がゴールドマンサックスの日本法人の会長に就任した。大物の電撃的な転職により、邦銀の影響力の低迷と、米系外資系投資銀行の台頭という潮流が明確になった。

    石原秀夫(興銀副頭取→ゴールドマンサックス証券)

    一年以上前から話はありましたが、当時は興銀リースの再建中で、受けることはできませんでした。しかし、1993年度決算が黒字になり、再建を軌道に乗せることができたので受けることにしました。これまで外国証券会社に行くのは証券界出身が多く、銀行出身は珍しいですが、これは銀行と証券の垣根の低下がもたらした現象でしょう...(中略)

    日本で働いているのは米国人と比較的若い日本人です。ゴールドマンが今後、外国会社としてでなく、日本に十分根を張った会社として顧客にサービスを提供するためには、日本での仕事のやり方に習熟した者が役に立てる面があるでしょう。私の興銀での40年の経験を役立ててもらって日本的な仕事のやり方をとり入れ、ゴールドマンを日本に根付かせることが私の役割だと思っています

    1994/04/12日経金融新聞p3「興銀リース社長石原秀夫氏」

    興銀・第一勧銀・富士銀行の経営統合

    1997年頃に興銀は最後の頼みの綱として、投資銀行業務へのシフトにより生き残りを図るが、1996年から日本政府が推進した金融ビックバンによる不良債権処理問題を避けることが難しくなり、単独存続が困難となる。そこで、2000年に興銀は富士銀行および第一勧銀との経営統合により「みずほ銀行」を発足することを決断し、実質的に消滅する道を選択した。

    なお1990年代後半には不良債権問題に端を発する銀行重役の自殺が相次ぎ、1997年に第一銀行の宮崎邦次元頭取が自殺、1999年には日本長期信用銀行の上原隆元副頭取が自殺している。

    2002年にみずほ銀行が発足し、興銀は産業金融を担った100年の歴史に終止符を打つ。

    日経ビジネス(2000年)

    みずほフィナンシャルグループは税制整備を待って2002年4月、持ち株会社のもと完全統合を果たす。興銀創設100年に当たる年。設置法・長期信用銀行法の施行以来ちょうど50年ともなる節目の年に、興銀は名実とも姿を消す。日本経済が興銀を見捨てたのか、興銀が日本経済を見切ったのか。...(中略)

    75年に池浦頭取が就任したころから四半世紀に及んだ呼応銀の苦悩は、興銀自身とともに終わった。選んだ名「みずほ」に、当初興銀行員の多くは不満だった。フランス人にホは発音できないし、英文表記IBJで築いたのれんが露と消える。が、これでよかった。御影石で覆う興銀のあの軍艦ビルのどこを歩いたところで、日本語以外は今も聞こえない。我らが選良(エリート)銀行も、豊葦原瑞穂の国のもの以外ではあり得なかった。

    2000/10/2日経ビジネス「サヨナラ、日本興業銀行」

    元興銀マンが楽天を創業

    1995年11月に日本興業銀行の社員であった三木谷浩史(31歳)は同社を退職し、1997年2月にインターネット商店街を運営する楽天を創業した。三木谷氏は一橋大学を卒業後に興銀へ新卒入社し、アメリカのハーバードビジネススクール(HBS)へ社費留学しており、HBSでは周囲の学生が起業する姿を目の当たりにして、起業を決意したという。

    楽天は創業から3年を経た2000年4月に株式上場を果たして有力なネットベンチャー企業へと成長し、元興銀マンの活躍として注目を浴びた。なお、2000年の時点で楽天には興銀出身者が8名参画しており、エリート人材の流出としても話題に上がった。

    三木谷浩史(2001年)

    (筆者注:ハーバードでは)『コンサルティング会社のパートナーをやっている』と言ってもさほど尊敬はされないが、小さくても自分で店を始めたという話は賞賛される。同級生との会話では『夢は何だ?』という話がよく持ち上がって、銀行で出世したいなんて言える雰囲気じゃなかった

    2001/8/20日経ビジネス「フォーカスひと・三木谷浩史氏」

    日経ビジネス(2000年)

    従来、日本では有名大学から一流企業に就職し、年功賃金の下で1つの企業に勤め上げるのがエリートコースだった。だが97年の山一証券、98年の日本長期信用銀行など相次ぐ大型破綻を契機に大企業神話が崩れ、大企業に居続けることを逆にリスクと感じる人たちが増え始めた。

    2000/7/3日経ビジネス「知的ベンチャーのすすめ」



    参考文献

  • 1969/10日経ビジネス「興銀はどこへ行く」
  • 1975/10/27日経ビジネス「人材を独り占めする金融・商社大手」
  • 1978/2/25週刊東洋経済「したたかな興銀・その実像」
  • 1984/12/24日経ビジネス「シリーズ人・中山素平氏」
  • 1987/10/26日経ビジネス「進化の研究・日本興業銀行」
  • 1990/10/8日経ビジネス「有訓無訓」
  • 1994/04/12日経金融新聞p3「興銀リース社長石原秀夫氏」
  • 2000/7/3日経ビジネス「知的ベンチャーのすすめ」
  • 2000/10/2日経ビジネス「サヨナラ、日本興業銀行」
  • 2001/8/20日経ビジネス「フォーカスひと・三木谷浩史氏」