東急電鉄 - 五島昇

#国内投資 #2019/9/16

イラスト:筆者作成(参考:1984/10/1日経ビジネス)

多摩田園都市の構想発表(1953年)

  • 前史:五島慶太が東急電鉄を起業

  • 背景:東京圏の人口増加

  • 決断:多摩田園都市の開発

  • 結果:居住人口の増加(2万人→52万人)

  • 考察:都心→郊外→都心

  • 社史的意義(国内投資)
  • 東急電鉄は東京郊外の果樹園地帯であった「多摩田園都市」の開発を主導し、1950年代から1990年代にかけて当該地区(5000ha )の人口を約2万人から約50万人に増加させ、鉄道路線を新設することで、東京で働くサラリーマンの居住地として開発した。多摩田園都市の建設は、東京圏における人口吸収に大きな役割を果たしており、社史的意義があると判断した。

    なお、本稿では多摩田園都市を立案した五島慶太(東急・創業者)ではなく、多摩田園都市という壮大な計画を実現するために、現場で奔走した五島昇(五島慶太の長男)をキーパーソンとして取り上げた。


    東急電鉄 - 基本情報

    多摩田園都市(約5000ha) - 人口推移

    単位:万人

    出所:東急グループ「第135期事業報告」


    東急電鉄 営業収入 - 過去推移

    単位:億円

    出所:有価証券報告書、会社四季報


    東急電鉄 売上構成比 - 過去推移

    単位:%

    注:70.3以前の「その他」には不動産を含む

    出所:有価証券報告書、会社四季報


    東急電鉄 営業収入利益率 - 過去推移

    単位:%

    出所:会社四季報


    決断前史:五島慶太が東急電鉄を起業

    土地+鉄道モデルを東京で実践

    日本における電鉄(電車)の普及は、20世紀初頭に発電所が各地に建設されたことに始まる。1910年代までの電鉄会社は主に電力会社の子会社として運営され、発電所の余剰電力を鉄道に活用する旨で建設された路線が多かった。電鉄の路線計画も、すでに繁栄している町や、集客が期待できる寺社仏閣への大量輸送手段として企画されることが当時の常識であった。

    この「電鉄は余剰電力の有効活用策にすぎない」という常識に挑戦したのが、小林一三と五島慶太の2人であった。小林一三は関西で「電鉄経営=不動産+鉄道」を実現するために阪急電鉄を創業。鉄道を敷設する前に沿線の土地を買収し、鉄道開通後に売却することで、地価上昇による売却益と鉄道旅客という安定収入源を獲得した。阪急電鉄の成功を東京で実践したのが、東急電鉄の創業者・五島慶太であった。

    五島慶太は1923年に目黒蒲田電鉄(現東急)を開業して鉄道事業に参入。当時は荒地だった東京大田区・田園調布を高級住宅街として開発することで鉄道の乗客を創造し、鉄道と不動産業の融合に成功した。1923年9月には関東大震災が勃発した影響で、甚大な被害を受けた東京下町から東京西側への移住者が大量に発生した幸運も重なり、東急の創業期は順調に業容を拡大した。

    東洋経済(1925年)

    もっとも、創立当初は沿線開発のため多大な犠牲を払わねばならぬ状態にあったが、創立翌年には大震災勃発して当社のためには思はぬ幸せをもたらした。すなわち、大岡山には東京高等工業が浅草より移転したるをはじめ、沿線住宅が急激に発展するに至ったので、それだけ、当社の営業成績も急に良くなってきた。

    1925/9/19東洋経済「目黒蒲田電鉄の利益増進と東京横浜電鉄」

    自殺回避〜東急東横線の全通

    五島慶太は目黒蒲田電鉄で獲得した収益で、本格的な鉄道事業への参入を決意。渋谷〜田園調布〜横浜桜木町を結ぶ東横電鉄(東急東横線)を企画して「東京横浜電鉄」を設立し、新路線の開通を試みた。だが、東横線は目黒蒲田電鉄と違って営業距離が長く、東急が主導する形の沿線の開発は困難であった。そこで、五島慶太は慶応大学を東横線沿線の日吉に誘致するなど、乗客の誘致に奔走する。

    だが、東横線の開業時の経営は惨憺たる結果に終わる。原因は横浜桜木町への全通が遅れたことにあり、当初、横浜側の終着駅は「神奈川駅(1950年廃止)」であり、横浜の繁華街と直結していなかった。このため、東京から横浜方面の乗客は国鉄東海道線や、京急線を利用したため、東急東横線は基幹輸送で競争劣位にあった。1930年には昭和恐慌による経済不況もあり、五島慶太は資金難に陥って自殺を考えるほどに追い込まれる。

    五島慶太(東急創業者・1958年)

    1929年から1933年に至る財界大不況に遭遇するに及んで、ふたたび私はほとんど自殺を考えるに至るほどの苦しさを経験せざるを得なかった

    1958五島慶太「七十年の人生」

    それでも、五島慶太は「軽便鉄道法」の拡大解釈により、鉄道運営資金を国から獲得することに成功し、資金繰りを改善した。

    1932年に東急東横線が横浜・桜木町駅まで全通し、不採算路線が一転してドル箱路線へと化けた。五島慶太は東横線の成功により、東京私鉄業界で資金力のある地位を獲得し、弱小電鉄会社(池上電鉄=東急池上線・玉川電鉄=東急田園都市線[渋谷〜二子玉川]など)を相次いで買収することで路線網を拡大した。

    また、1930年代から1950年代を通じて五島慶太は百貨店業(東急百貨店)、製造業(東急くろがね)、航空業(東亜国内)、映画事業(東映)にも参入し、東急グループを形成し、日本財界でも存在感を発揮した。

    五島昇(東急電鉄社長・1973年)

    目黒蒲田電鉄は、田園調布、洗足などの街づくりのために計画、設立されたものであります。その後、東京横浜電鉄、池上電気鉄道、玉川電気鉄道などを合併して電鉄業の基盤を固め、逐次、遠征開発という趣旨から、流通、観光サービス、文化事業などが付随して誕生し、今日の東急グループが形成されてきたわけです。

    東急電鉄50年史


    時代背景:首都圏の人口増加問題

    郊外開発の本格化

    1945年の終戦直後から東京への人口流入が増加して社会的な大問題となった。特に、中国大陸からの引き揚げ者や、行き場を失った軍人らが仕事の多い都会に集中したため、住宅不足の問題が顕在化した。当時の住宅は木造家屋が主体であり、都心部は低層木造住宅がすでに密集していたことから、都心部の人口増加は生活環境の悪化をもたらした。

    1956年に日本政府は首都圏整備法を制定し、人口流入を阻止する方針を決めた。この法律の趣旨は、東京郊外にグリーンベルトを設け、無秩序な住宅開発を阻止するという規制であったが、実際には旺盛な開発需要を前に規制は機能せず、郊外の宅地開発が急速な勢いで進んだ。

    読売新聞(1956年)

    首都圏のねらいはものすごい勢いで流入する都心部の人口増加防止で、このためには周辺地帯に人口を呼ぶ産業、学園などをもつ衛生都市を強力に育成、整備しなければならないことだ。

    在都内区部の人口増は毎年20万人前後、このままでは永久に二部事業、住宅難、交通地獄は解消されず、夏は断減水、台風がくれば堤防は潰れて浸水する。水便所のための下水はできない。すべての原因がめちゃくちゃな人口増にあるわけだ

    1956/08/16読売新聞朝刊p7「首都圏の構想きまる」


    決断:多摩田園都市の開発+新玉川線新設

  • 1. 多摩田園都市の構想発表
  • 2. 土地買収の開始〜農地法違反の疑い
  • 3. 創業者逝去+不採算事業の整理
  • 4. 田園都市線の部分開業+利益確保
  • 5. 新玉川線計画を延期(1回目)
  • 6. 新玉川線計画を延期(2回目)
  • 7. 新玉川線計画の遂行(予定投資額:純利益40年分)
  • 多摩田園都市の構想発表

    1953年に五島慶太(東急電鉄・創業者)は増大する首都圏の人口を収容するため、多摩丘陵における大規模な宅地開発を決断。1953年に五島慶太は"城西南地区開発趣意書"を周辺自治体に提出し、本格的な土地買収を開始する。

    当該地区は農業が盛んな丘陵地区で、梨・栗・いちごなどの果物栽培が盛んな農村であった。

    なお、1953年から3年を経た1956年に日本政府は「首都圏構想」を公表し、郊外における無秩序な開発を抑制する方針を打ち出した。したがって、五島慶太の多摩地区の宅地開発の構想は、日本政府の意向に反する計画であったが、五島慶太は郊外開発計画を取り下げることなく、計画を続行している。

    五島慶太(東急電鉄創業者・1953年)

    いま試しに東京駅を中心として約40kmの半径をもって円を描いて見ると、東の方は千葉、土浦、大宮、北西の方は川越、八王子、相模原町、西南の方は藤沢、横須賀などがこの円に含まれている。この円内で一番開発されておらないで、山林、原野そのままのところは二子玉川より厚木大山街道に沿って鶴間、座間、海老名地方に至る地域である

    そこで私はこの厚木大山街道に沿って、約400〜500万坪の土地を買収して、第二の東京都を作りたいと思う。厚木大山街道に沿って、400〜500万坪の区画整理をして、これに東京都の人口を移植するのだ

    これをやるのは、やはり東京急行電鉄が一番適当であると考えるが、独立した個別の会社としてもよいと考えている。いずれにしても、1つの会社がその400〜500万坪の土地を買収し、これに道路、下水、ガス、電気を引き込み、かつその他公共施設を設けて完全な住宅地として売り出す方法以外に東京都の人口をここに呼ぶ方法がないと思う

    現在の土地所有者がたとえ組合を作ってみても、道路、下水、水道、ガス、電気などの設備をこの膨大なる地域に、その組合をもって施工することのできないことは明らかである

    1953/09産業と経済「東京の衛生都市をつくること」

    土地買収の開始〜農地法違反?

    1950年代を通じて、五島慶太の長男・五島昇が、多摩地区における土地買収交渉にあたる。溝の口から長津田にかけて4ブロックに分けたうで、それぞれの土地を買収し、区画整理を実施する方針を進めた。ただし、鉄道敷設計画を公表すると、土地価格が高騰する懸念があったため、当初は鉄道の敷設地区を隠して買収を行った。

    まず、五島昇は溝の口付近の土地買収を開始したが、土地所有者の農家は五島の提案になかなか耳を貸さなかった。このため、五島昇は一升瓶を持って農家を訪問し、土地買収の同意書を一つずつ集めていった。

    ところが、農地の売買は「農地法」によって制限されたため、東急の買収行為が違法とみなされる可能性があった。1954年に横浜地裁は勝手に農地を買収した疑いで、五島昇に対して「農地法違反」の疑いをかけたため、多摩田園都市の開発は暗礁に乗り上げる。

    しかし、1950年代を通じて東京圏の人口が増加し続けたため、行政は東急の開発を結果として容認する形となり、農地法違反も疑いも晴れた。1950年代後半には行政も東急の再開発に協力するようになり、多摩田園都市の開発が進む。

    1958年に川崎市は正式に農地の宅地転換を許可し、1961年に東急は野川地区における区画整理事業を完了。多摩田園都市の第一弾となる東京寄りの最初の地区の開発を完了した。なお、開発資金は、土地の「青田売り」によって、適宜捻出したと言われている。

    ただし、1960年ごろから多摩地区における再開発の機運が高まったため、1953年時点は坪単価500円が、1966年には同5万円を記録し、わずか10年強で約100倍に高騰した。このため、東急電鉄は土地を完全に買収する方式を諦め、土地所有者との協力によって多摩田園都市を開発する方向に舵を切る。

    創業者逝去+不採算事業の整理

    1954年に五島慶太の長男・五島昇(37歳)が東急電鉄の社長に就任し、東急グループの創業者である五島慶太は社長を退いた。1959年に東急電鉄の創業者である五島慶太が逝去すると、五島昇が東急グループの経営を引き継いだ。

    なお、1960年代を通じて五島昇は東急グループの問題会社「東急くろがね」「東洋精糖」「東映」の各事業の整理を実行し、鉄道と不動産といった祖業を東急グループの事業の中心に据えている。

    田園都市線の部分開業+利益確保

    1961年の東急は野川地区における区画整理事業を完了したものの、交通手段に欠いたため、入居者集めに苦労した。そこで、1960年に東急は溝の口〜中央林間における鉄道免許を取得し、田園都市線を新設する方針を公表した。鉄道路線免許の取得により、東急が本気で多摩田園都市を開発することが公知となり、区画整理事業も一気に進んだ。

    免許取得から5年を経た1966年に、東急は田園都市線(溝の口〜長津田)を開業。多摩田園都市に鉄道路線が開通したことにより沿線の利便性が一気に向上し、多摩田園都市における居住人口も徐々に増加する。1960年の当該地区の人口は2.5人であったが、田園都市線の開業後の1970年には10.3万人へと激増した。

    ただし、1966年の田園都市線の編成数は4両であり、沿線の開発も進行途上にあり、輸送量も多いわけではなかった。このため、田園都市線は1ヶ月に1億円の赤字を計上していたと言われている。

    実業の世界(1966年)

    現状では電車を走らせるごとに赤字の積み重ねとなり、月に1億円が赤字となるなしいが、もっともこんなことは百も承知...(中略)...私企業としての東急がやる以上、ソロバンの無視のことはやれまい。これが当たれば、土地で儲け、家で儲け、電車で儲け、なかなかこたえられない話だが、それにしてもとてつもない大計画だ

    1966/12実業の世界「都市開発にかける五島昇」

    他方、宅地開発地区の不動産収入は好調で、東急電鉄の利益の5割強が多摩田園都市建設に関連する事業で確保しており、鉄道の赤字を多摩田園都市の開発事業(分譲など)で補った。

    ダイヤモンド(1967年)

    社運をかけて乗り出した多摩田園都市建設はほぼ、系悪どおりに町づくりが進行し、そこからあがる年間収入は41年度で五〇億円を突破し、全営業収入の二割、利益面では五割強寄与する収入源に成長した。多摩田園都市建設はこれからが最盛期を迎え、年間六〇億円台の安定した収入を確保していける見通しだという。

    1967/10/9ダイヤモンド「東京急行電鉄グループ・"利益なき膨張"から"実りある長期繁栄へ"」

    新玉川線計画を延期(1回目)

    1960年代における多摩田園都市の最大のネックは、鉄道路線にあった。1966年に長津田〜溝の口を開業したものの、田園都市線は大井町線に接続しており、終着駅は大井町であった。このため、東京都心部の渋谷に通勤するためには、田園調布で東急東横線に乗り換えるか、二子玉川にて東急玉川線に乗り換える必要があった。なお、玉川線は実質的な路面電車であり、輸送量は1〜2両と少ないうえに、国道246号線という幹線道路上を走行したため、渋滞による遅延も日常的に起こった。

    したがって、多摩田園都市における鉄道アクセスを改善するには、玉川線に変わる新玉川線(二子玉川〜渋谷)を早期に開業する必要があった。東急としては1950年代に新玉川線の計画を立案し、地下鉄銀座線(最大6両)との相互直通運転を前提とした地下路線として開業する計画があったが、1964年の東京オリンピックを前に国道246号線を拡幅する工事を優先することになり、東急の計画は頓挫した。だが、銀座線との相互直通運転は編成の増強が難しいことから、結果として吉と出た。

    山戸松身(東急電鉄常務・1978年)

    歴史を語るのに「イフ」は禁物であるが、東京オリンピックの開催や社内の経済事情などがなく、免許後直ちに新玉川線が作られていたら今日どうなっていたであろうか。新玉川線は銀座線の延長線として建設され、膨張する区部や田園都市の人口と16m車6両連結という輸送限度にはさまれて、その対応に苦慮していたに違いない。思えば生みの陣痛に悩む期間が長かったこそ、新玉川線は理想な形で世に生まれてきたといえよう

    1978/05交通公論「新玉川線20年」

    新玉川線計画を延期(2回目)

    その後、新玉川線の計画は実行されないままにあったが、モータリゼーションの進展による国道246号線の交通量増加によって東急玉川線の維持が困難となり、1960年代後半に新玉川線の計画が再び持ち上がった。1965年に都市交通新議会は「田園都都市線の直通経路は旧大井町線を経由する事なく、別途最短路を経由する事が望ましい」[1978/05交通公論]と明示し、新玉川線の計画がスタートする。

    だが、国道246号線の地下に新玉川線を新設するには莫大な設備投資が必要で、1967年の計画では投資額300億円が必要と算出された。この金額は東急の年間純利益・約17億円をはるかに上回る規模であり、投資後の償却で収益が圧迫される可能性があった。したがって、莫大な投資額がネックとなり、新玉川線の新設計画はなかなか実行されなかった。

    なお、東急の社内では「新玉川線の必要性は充分に認めながらも、会社の前途を考えれば軽々には踏み切れないという苦悩が重く会社を支配した」[1978/05交通公論]と言われている。

    ダイヤモンド(1967年)

    渋谷〜二子玉川園の軌道を高速鉄道にかえる新玉川線建設も大きな課題だ。新玉川線建設には、田園都市線建設時に行ったような町づくりを並行して進め、当面の収支をつぐなう---という手を打つことができない。いわば、目先の見返りを期待できない投資である。しかし新玉川線を建設することによって、渋谷を拠点とする東京急行とそのグループ会社の長期的繁栄の基礎が築かれる。新玉川線建設の社会的公共的要請も強い。

    目先の利益だけを考えれば、とうていできない難工事を、果たしてどう具体化していくか。東急グループには、じつに多種多様な企業が錯そうしているが、その大もとになっているのは電鉄-バスという公共事業である。その社会的な事業を基礎に、いろいろな事業が枝葉をのばし、多角的な発展をしている。東急グループとしては、公共の利益、大衆に対するサービス思想というものを忘れてはならない。

    グループの内部固めはほぼ終わったところであるが、公共内在の事業に対してどんな新しい経営を展開していくか。五島昇をはじめとして、東急経営陣の真価が問われるのはむしろこれからである。

    1967/10/9ダイヤモンド「東京急行電鉄グループ・"利益なき膨張"から"実りある長期繁栄へ"」

    新玉川線計画の遂行(予定投資額:純利益40年分)

    1972年に田中角栄(日本国・首相)は日本列島改造計画を提唱し、インフラを主体とした公共投資の積極化を決断し、新玉川線の建設資金を確保できる見通しが強まった。田中内閣は鉄建公団を通じた鉄道新線の建設支援を表明し、建設資金の金利負担を25年間軽減する施策を表明した。

    資金の目処が立ったことを受け、東急は新玉川線(二子玉川〜渋谷)の建設を正式に決定した。1972年における投資予定額は約720億円であり、当期純利益の約40年分の投資(1972年3期の純利益は18億円)が予定された。

    1977年に東急電鉄は新玉川線(渋谷〜二子玉川)を開業。1978年には長津田〜二子玉川〜渋谷〜地下鉄半蔵門線青山一丁目までの直通運転が実現し、多摩田園都市と東京都心部が最短距離で直結した。

    五島昇(1989年)

    私も自信は全くなかったし、東急グループの中で成功すると思っていた人間は一人もいなかっただろう。特に地下鉄の新玉川線はどう見ても採算が合うとは思えなかった...(中略)...執念だけで突っ走ったように思う

    1989/03/14日経新聞朝刊p32「鉄道増強」


    結果:居住人口の増加(2万人→52万人)

    多摩田園都市計画の完了

    1984年に東急電鉄は、田園都市線を中央林間まで全通させ、多摩田園都市プロジェクトを実質的に完了した。1986年までに東急がプロジェクトに投じた資金は累計で6000億円〜7000億円に及んだと言われる。1990年代までに田園都市線沿線は開発し尽くされ、田園都市線は首都圏での指折りの混雑路線となり、東急の鉄道事業を支えた。

    なお、1998年時点で東急グループが保有する不動産(多摩田園都市以外も含む)の含み益は7312億円に達した[1999/2/22日経ビジネス]

    日経ビジネス(1986年)

    東急グループのすべてを決めたのが、多摩田園都市の開発だった。東急グループの隆盛を決め、今その開発の収束にいかに備えるかという大問題をグループに突きつけている。

    多摩田園都市にどれほど多くのものを頼っているかは、本業である鉄道事業が依然健全経営を続けている理由を知ればよくわかる。東急電鉄の初乗り運賃は大手私鉄の中で最低の80円である。原価主義に基づき運輸大臣の認可で運賃は決められるのだから、それが最も安いということは、コストも比例して低いという証左になる。生産性向上はもちろん合理化と売り上げ増加で決まる。東急の場合、旅客が一貫して増え続けているという点で非常に恵まれている。

    それはとりもなおさず、多摩田園都市に代表される沿線開発の進行によって、沿線人口が恒常的に増えてきた結果なのである。東急電鉄の営業距離は100.7キロメートルで大手私鉄の中で9番目。東武鉄道の約5分の1、西武鉄道と比べても6割弱の距離である。ところが旅客人員は年間8億人で大手私鉄でトップ、なお毎年3%ずつ増えている。...(中略)

    「我々は今、慶太翁のまいた種の実りを刈りとっているわけだ」というのが横田専務の結論である。まかれた種に水をやり肥料をやりするうちに、大きく育ったのが、東急グループ成長の実相なのである。

    1986/6/23日経ビジネス「東急グループ・堅実路線に走る実務家達」

    五島昇(1989年)

    1964年の東京オリンピック、1970年の大阪万博に向け日本経済の成長ぶりはすさまじく、「20世紀の奇跡」と世界から注目されていた。池田内閣の所得倍増計画と不動産ブームで地価も上がった。

    多摩田園都市はこのような時代背景の中でのプロジェクトであり、日本、とりわけ東京だからこそ成功した地域開発事業だった。逆に言えば、日本の「奇跡」がなければ成功のおぼつかないリスクの大きな事業でもあったのだ

    1989/03/16日経新聞朝刊p32「多摩田園都市」


    考察:都心→郊外→都心

    1950年代から1990年代にかけて、東京では多摩田園都市などの郊外が開発され、首都圏の居住地は都心ではなく郊外に広がった。郊外が優勢となった時代を先駆的に創り出した点で、東急の「多摩田園都市計画」の功績は大きい。ただし、この現象は「ドーナツ化現象」と呼ばれ、郊外の居住人口の増大をもたらしたが、逆に都心部の人口減少を加速したことを見逃してはならない。

    1969年に日本政府は「都市再開発法」を制定し、都心部における再開発を促した。1990年代のバブル崩壊により土地価格が下落すると都心部の再開発計画が相次いで進行し、高層マンションの普及とともに、人口の都心回帰現象が顕著になる。この間、森ビルは東京都港区の六本木や赤坂の大規模再開発を行い、都心回帰の先駆けとなる再開発を成功させた。

    これは、東急の「人口増加を郊外開発で吸収する」というストーリーが崩れたことを意味する。現に、1990年代から2000年代にかけて東急グループは経営危機に陥り、創業家(3代目・五島哲氏)も経営から退いた。

    東急グループとしては、都心回帰の趨勢に対応するために、1990年代から2020年代にかけて渋谷駅周辺における再開発を推進し、渋谷をインターネット関連企業が集積するオフィス街へと発展させる計画を遂行している。したがって、事業投資の主軸を「大企業サラリーマンに生活基盤+移動手段を売る」というBtoC(多摩田園都市)から、「渋谷駅周辺でオフィスを供給する」というBtoB(渋谷再開発)に軸足を移しつつある。

    東急のオフィス事業の主な顧客は、サイバーエージェントや、グーグル日本法人などのインターネット企業である。したがって、オフィス街としての渋谷の発展が、東急の将来のカギを握る。

    なお、2019年に東急電鉄は社名を「東急」に変更して鉄道事業の分社化を決定したが、都心回帰の趨勢への対応=業態転換の本格化を示す決定と見て良いだろう。



    参考文献

  • 1925/9/19東洋経済「目黒蒲田電鉄の利益増進と東京横浜電鉄」
  • 1953/09産業と経済「東京の衛生都市をつくること」
  • 1956/08/16読売新聞朝刊p7「首都圏の構想きまる」
  • 1958五島慶太「七十年の人生」
  • 1960/2/06ダイヤモンド「東京急行は二大計画に着手」
  • 1966/12実業の世界「都市開発にかける五島昇」
  • 1967/10/9ダイヤモンド「東京急行電鉄グループ・"利益なき膨張"から"実りある長期繁栄へ"」
  • 1978/05交通公論「新玉川線20年」
  • 1984/10/1日経ビジネス「デマンドサイドから物申す・五島昇」
  • 1986/6/23日経ビジネス「東急グループ・堅実路線に走る実務家達」
  • 1987/5/11日経ビジネス「シリーズ人・五島昇」
  • 1991/5/06日経ビジネス「東急グループ・戦略なき五島王国の行方」
  • 1999/2/22日経ビジネス「負け組集団・東急の土壇場」
  • 東急電鉄50年史
  • 東急グループ「第135期事業報告」
  • 五島慶太「七十年の人生」
  • 日本経済新聞連載・私の履歴書(五島慶太)
  • 日本経済新聞連載・私の履歴書(五島昇)