日活 - 堀久作

#国内投資 #2019/9/23

イラスト:筆者作成(参考:1961/6/1経済展望)

映画産業は斜陽に非ず

  • 前史:石原裕次郎で大ヒット

  • 背景:映画斜陽論の台頭

  • 決断:映画制作の続行(1960年)

  • 結果:会社更生法の適用(1993年)

  • 社史的意義
  • 日活はにテレビに侵食される映画産業を「斜陽に非ず」と判断し、東京日比谷の一等地の土地を売却してまで映画制作の継続を図ったが、映画の凋落に抗うことができず、1993年に倒産した。1950年代には「太陽族」という文化を創出するなど、一時代を築いた名門企業の凋落として社史的意義があると判断した。


    日活 - 基本情報

    国内映画館 - 入場者数推移

    単位:億名

    出所:有価証券報告書、会社四季報


    日活 営業収入 - 過去推移

    単位:億円

    出所:有価証券報告書、会社四季報


    日活 営業収入構成比 - 過去推移

    単位:%

    出所:有価証券報告書、会社四季報


    日活 営業収入利益率 - 過去推移

    単位:%

    出所:有価証券報告書


    決断前史:現代劇で躍進

    堀久作による日活再建

    日活の歴史は、1930年代に倒産危機に陥った老舗映画会社(日活)を、堀久作が再建させるために経営権と株式を握ったことに始まる。

    日活再建のために堀は、財務体質の改善を最優先課題に据え、高利債を低利債に乗り換えることで負担を減らすとともに、千葉銀行に支援を依頼。当時の映画産業は水ものであり銀行が映画会社に有することは前例がなかったが、千葉銀行の関澄専務は日活への融資を決断し、日活は財務面で息を吹き貸す。

    続いて、堀久作は映画制作のテコ入れを決断。1930年代の主流は無声映画であったが、堀はいち早く音声付き映画への転換を役員会に提案した。だが、当時の日活役員は、地方の映画館の設備が貧弱で音声付き映画に対応できる映画館が少ないことを理由に、堀久作の案に反対した。それでも、堀久作は反対を押し切り、全ての映画を音声映画に転換する方針を決行した。

    1934年に堀久作は音声映画を制作するために、東京調布に大規模な鉄筋コンクリートによる撮影所を新設。だが、投資金額が莫大であったため、日活は倒産するという噂も立ったが、各方面からの融資により資金を捻出した。

    音声映画への転換と新鋭撮影所の新設により、日活は音声映画で復活を遂げ、堀久作は日活の経営再建を成功させ、映画制作会社の大手に躍り出る。

    堀久作(日活社長)

    同業者間では日活がつぶれるというので、ひそかにこれを願っていたのが、生き返って、しかも日本で初めてのウェスチングのトーキー・システムを入れたり、劇場を整備したりしたから、あらゆる中傷が飛んだ。日活は女優を提供して銀行の重役を買収したとか、大蔵省がああいう不良な会社へ金を貸すのを黙っているのは何事だ、預金者はえらい迷惑をしている、といったような当初がどんどん大蔵省あたりへも舞い込むので、大蔵省もたまげてしまった

    日経新聞連載(私の履歴書・堀久作)

    石原裕次郎の発掘に成功

    1950年代は日本の娯楽産業の頂点に映画が君臨し、日活も映画文化の醸成に寄与した。日活が一躍注目を集めたのが、無名の若手・石原裕次郎を起用した「太陽の季節」のヒットで、若者からの支持を集めた。

    開放的かつ暴力的という異色の現代劇「太陽の季節」は日本中に賛否を巻き起こしつつも、日活の興行収入を増大させた。太陽の季節のヒットを契機に、石原裕次郎は日活のスターとして活躍し、日活は「現代劇の日活」という地位を確立する。

    読売新聞(1956年)

    (注:太陽の季節のヒットは)一般家庭を悩ましている。それは、これを扱った映画なり小説なりの内容が、性本能プラス暴力的スリルを本質的な部分となし、これを肯定する...(中略)...だから決して健康的なものではなく、何よりもいけないことは、男女間系にとって大切な紐帯である内面的な美も芯もない...(中略)...この世代が戦争の惨苦を知らぬ点からみて、その暴力はファシズムに通じ戦争に通じる危険がある

    1956/07/16読売新聞朝刊p1「人間喪失の太陽族」


    時代背景:テレビの急速な普及

    映画館入場者数の半減

    1950年代を通じて日本の各家庭にテレビが普及。このため、映像メディアを楽しむために休日に映画館に行くというスタイルが廃れ、家のお茶の間でテレビを視聴するという新しい生活様式が徐々に定着した。テレビの普及スピードは凄まじく、1957年には世帯普及率7.8%だったが、1960年には44.7%に達した。

    1960年前後には「映画産業の斜陽化」が各方面で叫ばれるようになったが、業界関係者はより優れた映画を作れば生き残れると考えるなど、映画の斜陽化を否定する考えも根深く残っていた。だが、1958年から1962年にかけて映画館の入場者数が42%減少すると、斜陽化が決定的となる。

    このため、映画制作に従事する大手5社、日活、東宝、東映、大映、松竹の動向に注目が集まった。

    ダイヤモンド臨時増刊(1961年)

    いまや、映画界は、テレビの普及、スポーツの盛行などの攻勢にあって、斜陽化の道をたどっている。33年の11億人あまりをピークとして毎年減少の一途にある。今年は9億人を割るだろうと予想され、その先も、7億人ぐらいまでに低下するのではないかと、推測されている。

    わすかに、映画会社としては、入場料金の引き上げ、入場税の減免で、収入の減少を小幅に食い止めているにすぎない。頭打ちになった収入を、弱肉強食で、いくら多くをとるかに、かけているのが現在の映画業界である。

    1961/9/10ダイヤモンド臨時増刊「東映 対 東宝」


    決断:映画制作の継続

  • 1. 映画の斜陽化を否定
  • 2. 不動産・観光事業の推進
  • 3. 無配転落・映画回帰
  • 4. 人材流出を阻止できず
  • 5. 日活会館の売却で赤字補填
  • 6. 堀久作の逝去
  • 7. ポルノ映画路線に転換
  • 1. 映画の斜陽化を否定

    1960年に堀久作(日活社長)は、映画の斜陽化を否定し、より良い映画を制作することで現状を打破できると宣言した。

    堀久作(日活社長・1960年)

    映画は、もう時代に遅れた、斜陽産業である、という声をきく。これが、外部の声ならばまだいい。ところが、同業者の社長仲間さえも「映画は斜陽だ」と自ら言っているのには驚くほかない。こういう人は自らの無能をさらけだしている以外の何物でもない。彼らは事業家ではない。単なるプロデューサーである。

    映画はテレビにくわれる宿命にあるというが、1959年度においては年間11億人もの観客を動員しており、今年度も少なくともこれと同等の数字は見込まれている。...(中略)...映画は人の感情に訴えるものであってそこから逸脱して主観的に自分の考えで映画を作って客が入らぬから「映画は斜陽」などというのは大間違いである。映画は大衆の感情にアピールするものでなければならない。

    映画はテレビに食われるというが、現在の日本映画の状態をもって「テレビに食われた」とするならば、それは経営者としての責任をまぬがれない。テレビはテレビの限界があり、映画はテレビの限界を越した企画をすれば良い。

    1960/10/15実業の日本「映画は斜陽産業ではない・堀久作」

    2. 不動産・観光事業の推進

    終戦直後の1947年に、堀久作は東京日比谷の米軍向け資材置き場であった土地を買収して「日活国際会館」の建設を決断。東京日比谷の一等地に土地を保有することで、日活は不動産事業をスタートさせた。

    1950年代を通じて、日活は東京芝における高級賃貸住宅「日活アパート」の建設や、江ノ島における水族館建設、東京調布における日活撮影所の新設、九州小倉におけるホテル建設を決断するなど、不動産およびレジャーを中心とした経営の多角化を推進した。

    なお、1960年には日活ホテル(東京日比谷・日活国際会館)にて、当時の大スターであった石原裕次郎と北原三枝が結婚式をあげ、日本国内の注目を浴びた。ホテルで結婚式を盛大にあげるスタイルは、日活ホテルにおける石原夫妻の結婚式に始まるといわれるなど、日活は映画以外の生活文化も創出した。

    週刊東洋経済(2012年)

    現代のような結婚式と披露宴が普及したのは、60年に日活ホテルで執り行われた、石原裕次郎氏と北原三枝さんが原型といわれている。日本の結婚式とは両家が主催する披露宴で、結婚する新郎新婦を招待客にお披露目するスタイルだ。

    2012/8/25週刊東洋経済「『ゼクシィ』商法の光と影」

    3. 無配転落・映画回帰

    国内における映画館の入場者数は、1959年の11.2億人をピークに1963年には5.1億人へと半減し、映画産業の行き詰まりが鮮明となった。

    映画制作を主体とする日活の経営も徐々に暗転し、多角事業における焼却負担が重いこともあり、1962年に無配に転落。1963年7月期には3億円の最終赤字に転落した。日活の大株主である千葉銀行は、日活への支援を続けた。

    日活は無配転落を受け、経営陣の不動産・レジャー進出といった多角化路線が労働組合から否定され、再び映画制作に注力する方針を打ち出した。無配転落によって日活社内における経営陣の発言力は低下し、労働組合の発言力が強まり、挙げ句の果てには、経営陣は労組に見下されてしまった。

    根本梯二(日活労組委員長・1973年)

    外部からいろいろウワサが多いが、日活は映画で生きてきたし、これからも映画で生きるしかない。ベアやボーナスが多いというが、それでも世間並み以下ではないか。....(中略)...日活がこれほどまでに落ち込んだのは経営陣が無策で、実行力がなく、それにつけこんだ外部資本の画策があったからだ。

    1973/9/8週刊東洋経済「四面楚歌・日活を見放す周囲の声」

    4. 人材流出を阻止できず

    経営陣の発言力の低下を受け、一部の日活の重役(江守専務など)は同社を見切り、退職している。日活の経営の内情について、堀久作の娘婿の藤井氏(新日鉄相談役)は以下のように語っている。

    藤井(堀社長の娘婿)

    僕は日活という会社とは何の関係もないが、娘婿のため、そのたびに銀行に頭を下げたり、土地や建物を買ってくれるよう頼み回った。堀久作前社長には丸ノ内日活売却当時(1964年)から、経営を早く転換しなくちゃダメだと、なども口をすっぱくして忠告したんだが、彼も映画で一つの時代をつくっただけに、なかなか映画に見切りをつけることができなかった。組合もまた根っからの映画人のため、転換には応じられないという。...(中略)

    いまでなお映画に執着しており、もう一種の特異体質になっている。私もずい分余計な苦労をさせられた

    1973/9/8週刊東洋経済「四面楚歌・日活を見放す周囲の声」

    5. 日活会館の売却で赤字補填

    日活は経営再建を図るため、所有する不動産を売却することで、映画制作事業の延命を図る。

    不動産売却は1969年より本格化し、博多日活ホテルを城山観光へ約15億円にて、日活アパート(東京芝)を秀和レジデンスへ約5億円でそれぞれ売却し、多角化事業の柱であったホテルと不動産賃貸から撤退し、捻出した売却益で映画事業の赤字に補填した。

    1970年には、東京日比谷の一等地にある「日活会館」の売却を決断。同ビルおよび土地を76億円で三菱地所に売却して、繰越欠損を約30億円から約14.4億円へと半減させた。日活の収益源として期待された優良不動産の売却により、経営の行き詰まりが決定的となる。

    また、1969年に日活は東京調布の「日活撮影所」の売却を決断したが、労組が撮影所の売却に反対したため訴訟問題に発展した。最終的に1977年に従業員が主導する形で日活が撮影所を買い戻すが、1979年に撮影所の一部を分譲マンションとして売却して資金を捻出するなど、自転車操業が続いた。

    週刊東洋経済(1970年)

    七〇年代最初の日である今年の元旦、某スポーツ紙の一面トップ記事が、日活の本社ビル売却をセンセーショナルに報道した。昨年の撮影所売却につぐ日活城本丸の落城は、多くの人々に、映画もついに来るところまで来てしまった、との印象を与えた。...(中略)

    映画製作者は大げさに言えば映像文化の旗手であり、時代の最先端に立って、風俗、流行などをリードするものだ。そしてたしかに五〇年代には映画はそうした文化現象のリーダーとしての役割を果たしていた。だが、すでにその時代は去っている。にもかかわらず、過去の遺構がそのまま存続してきたのであり、かつて映画の盛況をささえた大衆の存在を前提とした製作態度が今もって続けられているわけだ。

    1970/5/2週刊東洋経済「映像革命下に苦悩する映画産業」

    6. 堀久作の逝去

    1973年に堀久作は日活の社長を退任。後任の社長に大株主である堀家の出身者が就任したが、すでに経営の実権は労組が握っており、社長に意思決定権はなかったものと推察される。

    なお、堀久作は社長退任の1年後、1974年に逝去。以降、堀雅彦は日活の経営ではなく、家業として株式を保有する江ノ島における水族館経営に軸足を移した。

    業界関係者(1972年)

    日活の社長はただ社長という名がついているだけだ。何もわかっていない。実際はその下の者がみんな切り盛りしており、また一方では組合委員会が真の実力者だという声もでているほどで、社長は頭からバカにされている

    1973/9/8週刊東洋経済「四面楚歌・日活を見放す周囲の声」

    7. ポルノ映画路線に転換

    日活は映画制作を継続するために、1971年に従来のプライドを捨て、集客効果の高いポルノ映画を制作したところ、偶然にもヒットしたため、官能路線に転換した。1970年初頭はビデオが各家庭に普及しておらず、官能映像は映画館で視聴する以外に方法がなかったため、日活は辛うじて映画事業を継続できた。

    しかし、1980年代までに日本の各家庭にVHSが普及すると、官能映像作品を映画館ではなく、各家庭で見ることが一般化した。このころにはアダルトビデオを制作する監督(村西とおる氏)や、アダルトビデオの流通を担う企業(DMM)などが急成長を遂げ、日活のポルノ路線も行き詰まった。


    結果:会社更生法の適用(1993年)

    負債総額約500億円で倒産

    1993年に日活は約500億円の負債を抱えて会社更生法の適用を申請して倒産した。管財人としてはナムコ創業者の中村雅哉が名乗りを上げ、日活の精算業務に従事。ナムコとしては、日活を買収することで念願であった映像・映画事業に参入した。

    1997年に日活は営業黒字に転換し、2000年に調布の日活撮影所を売却した利益により、120億円の負債を一括弁済して更生手続きを完了した。なお、撮影所の売却先は、ナムコ創業家の個人会社であり、ナムコが身銭を切る形となった。

    中村雅哉(ナムコ創業者・2002年)

    ベンチャー企業の支援が重要だと言われていますが、私はベンチャーを助けることにはあまり積極的ではないんです。日活やフェニックス電機といった更生会社の再建には、実際に自らが社長になったり、資金といった更生会社の再建には、実際に自らが社長になったり、資金を出したりして関わっています。会社がつぶれて生活に困っているけれど、何とかしようという思いを持っている人たちに力を貸すことの方が、ベンチャーに対する思いよりも強いですね。

    2002/11/25日経ビジネス「有訓無訓」

    江ノ島水族館のV字回復

    1973年の堀久作の日活社長の退任により、堀家は実質的に映画館事業の一線から退いたが、家業としては水族館経営に軸足を移した。なお、江ノ島水族館の創業時の資本関係は不明であるが、日活から切り離されていたものと推察される。その後、1990年代末に水族館の老朽化という問題に直面した。

    そこで、堀一族出身の堀一久(江ノ島マリンコーポレーション・社長)は床面積を3倍にした新水族館の新設を決断。2002年に増資を決断して、新たに小田急電鉄、トヨタ自動車、東京電力が新しく法人株主となり、リニューアル資金を調達したうえで改装を実施した。

    リニューアルの結果、1998年に年間30万人だった入場者数が、2015年代には185万人に拡大。堀一久は堀家の宿願であったレジャー事業を軌道に乗せた。ただし、同社は株式を公開していないため、利益率の推移は不明である。



    参考文献

  • 1956/07/16読売新聞朝刊p1「人間喪失の太陽族」
  • 1960/10/15実業の日本「映画は斜陽産業ではない・堀久作」
  • 1961/6/1経済展望「映画を限りなく伸ばすもの・堀久作」
  • 1961/9/10ダイヤモンド臨時増刊「東映 対 東宝」
  • 1967/1/9ダイヤモンド「映画・5社の生き残り競争・いよいよ激化」
  • 1970/5/2週刊東洋経済「映像革命下に苦悩する映画産業」
  • 1973/9/8週刊東洋経済「四面楚歌・日活を見放す周囲の声」
  • 2002/11/25日経ビジネス「有訓無訓」
  • 2012/8/25週刊東洋経済「『ゼクシィ』商法の光と影」
  • 2018/2/8BIZ DRIVE「新江ノ島水族館は大胆な発想の転換で新ビジネス創出」
  • 日経新聞連載(私の履歴書・堀久作)
  • 会社四季報