吉本興業 - 中邨秀雄

#業態転換 #2019/7/27(初稿) #8/28(改稿)

中邨秀雄(なかむら・ひでお)。1959年頃より吉本興業のテレビ局向けの制作事業を上司の八田竹男とともに拡大し、映画館経営からの業態転換を実現した人物。テレビ路線は既存社長からの反対を受けたが、それでも八田と中邨の両氏はテレビ路線を押し通した。テレビ進出の功績により、1977年に八田が吉本興業社長に就任し、1991年には中邨が同社長に就任した。

イラストは依頼作成(参考:1992/5/11日経ビジネス)

映画館→テレビ制作への業態転換

  • 前史:主力事業は映画館運営

  • 背景:映画産業の斜陽化

  • 決断:毎日放送と提携(1959年)

  • 結果:お笑いの王者(1993年)

  • 考察:業態転換の成功は奇跡に近い

  • 吉本興業 - 基本情報

    売上高 - 過去推移

    単位:億円

    出所:有価証券報告書、会社四季報


    売上構成比 - 過去推移(推定含む)

    単位:%

    出所:有価証券報告書、会社四季報


    売上高利益率 - 過去推移

    単位:%

    注:1960年〜1996年は単体決算、1996年〜2009年は連結決算、2009年以降は非上場化のため不明

    出所:会社四季報


    従業員数 - 過去推移

    単位:名

    出所:会社四季報、吉本興業webページ


    吉本興業 - 歴史(決断前史)

    吉本興業の創業は、1912年に大阪天神橋の「第二文芸館」を買収し、寄席の経営に参入したことに始まる。戦前の全盛期には関西を中心に全国35箇所の寄席を運営し、出演芸人のマネジメントも行う垂直統合型のエンターテイメント企業となった。だが、出演芸人が吉本本社の意向を無視して当時の新興メディアであったラジオに出演して問題になるなど、吉本の経営陣は芸人の扱いに難渋したという。

    そこで、1930年代に吉本興業は当時台頭しつつあった映画産業に着目し、1933年に映画部を設立。1934年には東宝と提携して映画館の投資を主軸に据えて、旧来の芸人のマネジメントを縮小した。そして、戦時中に多くの寄席と映画館が焼失し、所属芸人も戦地で相次いで戦死したため、終戦直後の吉本興業は映画館の会社として経営再建を図る。

    この結果、吉本興業は1950年代の映画ブームの波に乗り、映画館運営の会社として復活を遂げた。

    林正之助(吉本興業社長、1954年)

    当社の基礎は、亡くなった吉本せいが大正3年に創立した吉本興業部ですが、その発足は専ら演芸を中心とした寄席の経営でした。それを昭和六年に吉本興業合資会社と改め、さらに演芸人の育成、指導機関の設置、演劇、映画への業務拡張に勤め、その経営劇場、寄席などは大阪を本拠として神戸、京都、和歌山、名古屋、東京、横浜など各都市に35を算え全国に地盤をもつまでになりました。ところが第二次世界大戦の戦災で京都花月劇場、東京浅草花月劇場を残しただけで、殆ど焼けてしまい、あるいは大損害をうけたわけです。

    終戦後の二十三年一月に、戦災を免れた東京花月劇場と新世界グランド劇場の現物出資、その他株主の出資により現在の吉本興業株式会社を設立したのですが、時代に応じて映画部門にその業務分野を大いに伸ばしてきたわけです。

    1954/12/1経済展望「現代の象徴=映画・演芸」


    時代背景:映画産業の斜陽化

  • 1958年 テレビ普及率16%
  • 1960年 映画斜陽論の台頭
  • 1963年 テレビ普及率90%
  • 1965年 映画各社が制作部を縮小
  • 1971年 大映が倒産
  • 1978年 日活が債務超過へ
  • 1993年 日活が倒産(会社更生法)
  • 映画斜陽論の台頭

    1960年前後にテレビが日本の家庭に普及したことで、映像コンテンツを取り巻く競争環境が激化した。この頃から、映画産業の斜陽化が叫ばれるようになったが、多くの映画業界関係者は斜陽論を否定して「大作を作れば生き残れる」と主張するなど、1960年前後の時点では将来に対する明確なコンセンサスは存在しなかった。

    堀久作(日活社長、1960年)

    映画は、もう時代に遅れた、斜陽産業である、という声をきく。これが、外部の声ならばまだいい。ところが、同業者の社長仲間さえも「映画は斜陽だ」と自ら言っているのには驚くほかない。こういう人は自らの無能をさらけだしている以外の何物でもない。彼らは事業家ではない。単なるプロデューサーである。...(中略)

    映画はテレビに食われるというが、現在の日本映画の状態をもって「テレビに食われた」とするならば、それは経営者としての責任をまぬがれない。テレビはテレビの限界があり、映画はテレビの限界を越した企画をすれば良い。

    1960/10/15実業の日本「映画は斜陽産業ではない・堀久作」

    映画産業の斜陽化

    映画業界の関係者の淡い期待は裏切られ、1960年代を通じて日本の映画館の入館者数は急激に減少した。ピーク時の1958年には11.2億人の入場者数を誇ったが、1963年には5.1億人、1969年には2.8億人へと急減し、映画制作会社(東宝、大映、日活、東映、松竹)および映画館の運営会社の経営が相次いで行き詰まった。1971年には映画制作会社の重鎮であった「大映」が倒産し、映画産業の経営の行き詰まりが決定的となる。

    なお、映画斜陽論を全面的に否定した日活(堀久作・社長)は虎の子の不動産(丸の内日活)を売却し、映画事業に投資したが時代の趨勢に抗うことができず、1978年に債務超過に陥った。その後も日活は業績を回復することができず、1993年に会社更生法の適用を受けて実質的に倒産した。

    週刊東洋経済(1970年)

    映画は1950年代末期から1960年の初めをピークとして、1960年代は急ピッチな衰退の歴史をたどった。...(中略)..映画製作者は大げさに言えば、映像文化の旗手であり、時代の最先端に立って、風俗、流行などをリードするものだ。そして確かに1950年代には映画はそうした文化現象のリーダーとしての役割を果たしていた。

    だが、すでにその時代は去っている。にもかかわらず、過去の遺構がそのまま存在してきたのであり、かつて映画の盛況を支えた大衆の存在を前提とした製作態度がいま持って続けられている。

    1970/05/02週刊東洋経済「映像革命下に苦悩する映画産業」


    決断:1959年 毎日放送と提携

  • 1959年 毎日放送と提携
  • 1959年 うめだ花月劇場の開業(映画館を転換)
  • 1962年 吉本新喜劇の放送開始(うめだ花月)
  • 1972年 テレビ番組制作に本格参入
  • 1980年 東京進出を決断
  • 1982年 吉本総合芸能学院の創設
  • 1990年 ダウンタウンが爆発的なヒット
  • テレビ局との共存共栄

    1959年に吉本興業は関西に拠点を置くテレビ局との共存共栄を図るため、芸人プロダクション事業の復活と、テレビ放送を前提とした劇場の新設を決断した。なお、劇場の新設にあたっては、既存映画館を新陳代謝ことで対応した。

    しかし、林正之助(吉本興業・社長)は収益の上がる映画事業を縮小することに反対。それでも、現場社員の八田竹男はテレビの発展を見据えてテレビ制作事業への参入を断行した。

    八田竹男(吉本興業、社長1986年)

    昭和34年にテレビと共存共栄という路線を選びました。当時は、映画はもちろん芝居もテレビを敵視していたときです。つまり、3館の劇場プラステレビという広い活躍の場をもっていることが芸人を引きつけており、かつ育てているのだと思います。

    1986/4/12週刊ダイヤモンド「つねに大衆の半歩前をいくのが理想的です・八田竹男」

    1959年に吉本興業は梅田花月劇場(映画館)を閉鎖し、演芸場「うめだ花月劇場」を新設した。うめだ花月の開業に合わせて、吉本興業は同時期に開局した関西系のMBSテレビ(毎日放送)と提携し、演芸場を利用したテレビ制作事業を本格化。テレビ局に対してテレビ番組を放映するための、「舞台」と「芸人」という2つのコンテンツを供給するビジネスをスタートする。

    テレビ制作事業の詳細については、1961年の吉本興業の有価証券報告書に「生き生き」と書かれている。

    吉本興業・有価証券報告書(1961年3期)

    演芸部門については、当社唯一の演芸場である"うめだ花月劇場"では、従来の寄席形式より脱皮した新企画のもとに若い年代の顧客層を対象として吉本ヴァラェティ及びステレオ・コント等の異色ある番組を編成し、顧客動員については専任の動員係を設け団体動員を積極的に推進し新しい顧客層の開拓を図り、"うめだ花月劇場"よりの舞台中継放送は、株式会社毎日放送と提携し、毎週2本のテレビ中継番組及び毎月1回のラジオ公開中継の各テレビ・ラジオ放送局へ当社製作の番組を積極的に提携放送し、特に朝日放送テレビ、毎日放送テレビへ各々毎週一回当会社テレビ制作室企画製作によるスタジオ番組を提供しているほか、当社所属の芸能人をその放送番組に出演せしめている。

    1961/3吉本興業「有価証券報告書」

    なお、1960年代のテレビ局側は、放送コンテンツを必要としたが、映画産業はテレビを敵視したため、所属俳優のテレビ出演を拒否することが多かった。このため、テレビ局としてはコンテンツの仕入れ(番組および出演者)を満足に行えない状況にあり、吉本興業のテレビとの共存方針は「渡りに船」であったものと推察される。

    そして、1962年から毎日放送は「よしもと新喜劇」の放送を吉本興業が所有する「うめだ花月」にて開始し、毎週土曜日に放映した。このコンテンツは長寿番組となり、吉本興業の演芸がテレビを通じて人気を博すきっかけとなり、吉本のテレビ制作事業は徐々に軌道に乗った。

    1970年代までに吉本興業は既存映画館を「花月」に転換して、テレビ向けの制作事業を拡大した。なお、うめだ花月は毎日放送向け、なんば花月は朝日放送向けの拠点として活用し、テレビ局ごとに「花月」の棲み分けを行った。

    1970年3月時点における吉本興業の興業拠点配置図

    イラストは筆者作成(有価証券報告書の記載住所を参考にした)


    吉本興業 劇場別興行収入(1960年4月-1960年9月)

    単位:万円

    出所:有価証券報告書


    吉本興業 劇場別興行収入(1969年10月-1970年3月)

    単位:万円

    *なんば花月=旧千日前グランド劇場、*常磐座は閉鎖

    出所:有価証券報告書


    社内抗争の発生

    1963年に林正之助が「病気」を理由に社長を退任し、実弟の林弘高が代表取締役社長に就任した。弘高社長はテレビなどの芸能ではなく、当時ブームになりつつあったボーリング場などの娯楽施設を事業の中心に据えたため、現場社員が推進していた「テレビ派閥」は解体寸前に陥った。

    1964年に吉本興業は大阪に「ボウル吉本」を開業し、58レーンを擁する西日本最大のボーリング場を大阪の中心部・なんばに開業。さらに、1968年頃に林弘高は演芸部門の縮小を決断し、八田竹男などのテレビ制作担当者を左遷した。このため、八田の部下であった中邨秀雄(のちの吉本興業・社長)は前途に失望して同社の退職を決意し、うどん屋を営む独立計画を練ったという。

    しかし、ボーリング場への参入は機材と建物を準備するだけで可能なために参入障壁が低く、1970年までに同業他社との厳しい競争に陥った。そして、ボーリングブーム自体も1970年初頭に過ぎ去ったため、林弘高社長が率先したボーリング事業は頓挫した。

    そして偶然にも、1970年に林弘高が「病気」を理由に社長を退任し、林正之助が社長職に復帰した。社長交代に伴い、ボーリング事業を推進していた林弘高側の役員の多くが吉本興業を退職し、社内では八田・中邨を中心とするテレビ+演芸を押す社員が主導権を握り、吉本興業のテレビ路線に拍車がかかる。

    一連の騒動は、実質的に吉本社内で勃発した、経営方針の違いによるクーデターによるものと推察される。後年、八田社長は「ボーリング場」の経営について、揶揄した発言を残しており、林弘高社長のボーリング路線と、八田・中邨のテレビ路線の間には深い溝があったものと考えられる。

    八田竹男(吉本興業社長、1986年)

    わたしらの仕事は、例えばボウリング場のように、景気がいいとなれば、カネと土地があれば始められる、というのとは違います。わたしらの"商品"は、そう簡単に作れません。だから、競争相手もなかなか現れません。自動車や家電製品のように計画生産できるわけではありませんからね。この財産は大きいと思います。

    1986/4/12週刊ダイヤモンド「つねに大衆の半歩前をいくのが理想的です・八田竹男」

    ユニット制作方式を考案

    1969年に毎日放送は吉本興業の支援のもとで、バラエティー番組「ヤングおー!おー!」の放送を開始。視聴ターゲット層は若者で、コメディードラマが中心であった従来のお笑い番組を一新し、様々な企画によってお笑い芸人を引き立てる異色の番組としてスタートして反響を呼んだ。

    そして、1972年には吉本興業は、毎日放送の「ヤングおー!おー!」に対して番組企画とタレントの斡旋をセットで行う「ユニット制作方式」を発案し、テレビ制作の段階から芸人を売り込む手法を確立した。テレビ番組制作の本格化に合わせて、吉本興業は「うめだ花月」にテレビ機材を設置するなど、テレビ局との共存共栄を一段と深めた。

    フジテレビなどキー局に売り込み

    1980年までに日本の各家庭にカラーテレビが普及し、一つの家庭に「1台以上」のテレビが置かれるようになった。この変化によりテレビは家族向けメディアから、個人向けメディアというテイストも帯び、1980年代に10〜20代の若者だけに評価される番組が成立した。この結果、1980年前後に個性豊かな若者が活躍する「漫才ブーム」が巻き起こる。

    1980年前後の漫才ブームにより、若手芸人がテレビ番組を通じて一夜でスターになる時代が到来し、明石家さんま、北野武(ツービート)、タモリ、島田紳助(紳助・竜介)、B&Bなどがテレビ番組で活躍した。ブームの火付け役となったテレビ番組「THE MANZAI」は第五回(1980年12月30日)の放送で視聴率32%を記録した。

    漫才需要の増大を受け、1980年に吉本興業の中邨秀雄(取締役制作部長)は「情報発信量は東京が9に対して大阪が1。ならば東京のテレビ局を利用して、東京から上方の文化を発信すればいい。漫才ブームはそのための突破口」[1994/2/28日経ビジネス]と考え、マンションの1室を借りて東京事務所を新設。漫才ブームに乗るために、吉本の芸人をフジテレビなど、東京のキー局に売り込んだ。

    だが、東京進出は大阪の劇場に出演する売れ筋芸人を送り出すことになるため、吉本興業の社員の70%が東京進出に反対した。それでも、中邨取締役は大阪での劇場出演ではなく、東京進出を優先させ、フジテレビなどの東京に拠点を置くキー局にバラエティー番組向けの芸人を売り込んだ。

    吉本総合芸能学院の創設

    漫才ブームによって、増大する芸人需要に応えるために、1982年に吉本興業は吉本総合芸能学院(通称NSC)を設立して新人芸人の供給体制を整えた。従来の芸人は徒弟制度によって育ったが、吉本興業は学校を通じた教育により定期育成する方針を打ち出した。

    デビューを望む芸人にとっても、大阪の劇場で下積みができる吉本興業は同業他社に比べて魅力的であり、お笑い芸人を目指す若者がNSCに殺到した。このため、俳優や歌手を目指す若者が大挙して東京の事務所を目指したのに対し、お笑い芸人を目指す若者たちは、大阪の吉本興業の門を叩いたと言われている。

    1993年時点で吉本興業はタレント400名を抱え、うち50名と専属契約を締結し、トップ10位のタレントには、1人平均1億円/年の報酬が支払われた。残りの350名のタレントは仕事ごとに契約を締結するが不安定な身分であり、専属契約の締結を目指して仲間同士で切磋琢磨したという。

    NSCは1期生「ダウンタウン」の発掘・育成に成功したことで名声を高め、順調に立ち上がった。NSCの新設により、吉本興業はお笑い芸人の一貫生産(仕入〜育成〜テレビ局への売込み)を実現し、同業他社とは全く異なる芸人養成システムを作り上げた。

    中邨秀雄(吉本興業社長、1992年)

    異質を重視し、常に変化する努力をしています。2軍の養成を盛んやっているわけです。明石家さんまをイメージチェンジしようたって、永年の間に作られたキャラクターは簡単に変えられない。それなら次に出るやつを変わったキャラクターにするのが大事です。新しい人間をいつでも出せるように構えておく。

    お笑いの世界は相撲と同じで、横綱や大関の人数には限りがある。そうした連中がのさばるといずれ飽きられます。常にライバルを用意するなどの下の力を強くすることで彼らを刺激し、お笑いの世界がより面白くなる。実社会と同じですよ。

    1992/5/11日経ビジネス「編集長インタビュー・中邨秀雄氏」

    映画館跡地の不動産転用

    1960年に吉本興業は大阪心斎橋に賃貸用の吉本ビル(心斎橋2-24-1)を新設し、不動産事業に参入した。大阪の中心部に位置し、地下鉄御堂筋線の心斎橋駅から近いという立地条件によって、吉本ビルには日立製作所、ポーラ化粧品などの大企業が入居した。

    また、1980年代に吉本興業は老朽化した演芸場および映画館の廃止を決断し、跡地を賃貸ビルとして開業することで不動産収入を確保した。芸能プロダクションという不安定な収入を、不動産という副収入で安定化し、吉本興業の業績を利益面で支えた。

    中邨秀雄(吉本興業社長、1992年)

    本来ならば制作部門が100%であるべきなんですが、浮き沈みがある。僕は6年周期と言うてますが、下り坂のときに支えとなる関連事業が必要なわけです。タレントは売れなくなったからといってバーゲンするわけにいかないし、倉庫に積んでおくわけにもいかんわけです。この商品は文句をいいますからね。いつ芽を吹き返すか分からんし、下からのし上がってくる人間がでてくるかもしれない。本業を補完する事業と合わせてトータルで大きくせざるを得ない。

    1992/5/11日経ビジネス「編集長インタビュー・中邨秀雄氏」


    結果:お笑いの王者

    業態転換に成功

    1980年代までに吉本興業は主力事業をテレビ制作にシフトし、業態転換を完了した。1959年に参入したテレビ制作事業は、参入から約20〜30年を経て吉本興業の売り上げの大半を占める本業となり、1990年代に吉本興業は「お笑いの王者」として賞賛された。

    日経ビジネス「"お笑いの王者"東京進出」(1993年)

    直営の劇場を持つことで所属タレントを常に訓練できるし、同時に「優秀なスタッフが集まってくる拠点も確保できる」(木村取締役)。直営劇場が同社の"お笑い芸"の質の向上に大きな役割を果たしているのだ。

    また劇場に加え、激しく競争し合う膨大なタレント予備軍を抱えているのも強みだ。「関西では、歌手や俳優の志望者は上京するが、それ以外で面白いことをしたい人は吉本の門をたたくしかない」(木村取締役)。現在、"吉本の芸人"は約400人に達する。

    1993/11/1日経ビジネス「"お笑いの王者"東京進出」

    ただし、1990年代を通じてテレビ局は制作費用が安価なバラエティー番組を充実させたことから、テレビ向けの芸人の安定的な需要が生まれ、各プロダクション間における「芸人」の売り込み競争が激化。この結果、吉本興業は業態転換には成功したが、売上高純利益率のピークは1980年代で、1990年代以降の利益率は低迷傾向にある。

    売上高利益率 - 過去推移

    単位:%

    注:1960年〜1996年は単体決算、1996年〜2009年は連結決算、2009年以降は非上場化のため不明

    出所:会社四季報


    考察:業態転換の成功は「奇跡」に近い

    現在、吉本興業といえば「お笑い芸人の会社」という共通認識が形成されているが、かつては映画館経営を主体としていたことはすでに忘れ去られてしまった。映画館や映画制作会社の多くが1970年代以降に倒産の憂き目にあったことを考えれば、吉本興業の業態転換は「例外中の例外」という成功事例であった。

    しかも、業態転換先の顧客が、映画産業が目の敵にする「テレビ局」であった点が興味深い。そして何よりも、1960年代の吉本興業の社長がテレビ派閥を幾度となく潰そうとしたが、頃合になると社長が「病気」になるという、なんとも「不思議な幸運」に恵まれた。おそらく、外からはうかがい知れない力学が働き、壮絶な抗争を経た結果として、テレビ派閥が実権を握ったのだろう、と筆者は推測している。

    テレビ反対派の社長が退任するという「奇跡」にも恵まれ、かろうじて吉本興業は現場社員の推進するテレビ制作を継続できた。そして、1980年代に各家庭にテレビが「2台」行き渡り、テレビ視聴の若者市場という新しいフロンティアが生まれた時に、吉本興業のテレビ路線は「漫才ブーム」に対する芸人+番組コンテンツを、フジテレビなどのキー局に売るという形で開花した。

    しかし、興味深いことに、2010年代を通じてYouTubeなどのインターネットを媒体とした「新興芸人(YouTuber)」が生まれつつあるが、この市場を開拓したのは、UUUMなどの新興企業であり、老舗の吉本興業ではない。ネットの普及により新興芸人にとっての「リアルな演芸場」の魅力が薄れ、吉本興業が半世紀前に描いた戦略ストーリーはすでに崩れ去ってしまった。

    したがって、今の吉本興業には「業態転換に成功した」という実績はあるが、「業態転換を志向する」というDNAは組み込まれていない。今後、よほどの方針転換を行わない限り、吉本興業の長期的な先行きは厳しい。



    参考文献

  • 1954/12/1経済展望「現代の象徴=映画・演芸」
  • 1960/10/15実業の日本「映画は斜陽産業ではない・堀久作」
  • 1970/05/02週刊東洋経済「映像革命下に苦悩する映画産業」
  • 1986/4/12週刊ダイヤモンド「つねに大衆の半歩前をいくのが理想的です・八田竹男」
  • 1992/5/11日経ビジネス「編集長インタビュー・中邨秀雄氏」
  • 1993/11/1日経ビジネス「"お笑いの王者"東京進出」
  • 1994/2/28日経ビジネス「挑む・中邨秀雄氏」
  • 1998/10/19日経ビジネス「テレビ時代に乗り人気タレント輩出」
  • 2012/8/12ORICON NEWS「NSC伝説の1期生・前田政二インタビュー(下) 」
  • 2017/6/5ダイヤモンドonline「吉本興業・大崎洋社長に聞く、デジタル化で変わるお笑いの未来」
  • 2018/8NewPIcks連載「吉本興業・大崎洋社長」
  • 吉本興業「有価証券報告書」
  • 会社四季報