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ファーストリテイリング - 柳井正

経営者の決断 創業〜成長期 世界分業/SPA 原点は宇部

宇部興産の企業城下町「銀天街」の衰退から逃れることに成功した紳士服店"小郡商事"の店主・柳井正。日本を代表する企業の一つであるファーストリテイリングの実質的な創業者

イラストは筆者作成(参考:1996/1/15日経ビジネス)

決断サマリー

  • 宇部の商店街「銀天街」の衰退
  • ファーストリテイリングの前身は、宇部新川駅前の商店街に店を構えた紳士服店"小郡商事"である。銀天街は宇部興産本社のすぐそばにあり、1950年代までは宇部で産出される石炭を採掘する現場に近かったことから、石炭景気による好況に沸いた商店街であった。だが、1960年代の石油輸入自由化に伴い、石炭は斜陽化。宇部興産の宇部市内の拠点に勤める従業員数は徐々に減少し、自動車の普及による郊外の発展という変化もあり、1980年代までに駅前商店街である銀天街の活況は失われた。

  • GAPを模範にSPAを構築
  • 銀天街の小郡商事の店主であった柳井正は、1980年代にGAPが提唱したSPAというビジネスを日本企業でも実現するため、1991年に小郡商事の商号をファーストリテイリングに変更。販売は西日本のロードサイド、生産は中国(同業他社は国内生産にこだわった)、デザインは大阪とニューヨークというグローバルなサプライチェーンをいち早くカジュアルウェア分野で構築し、安くて品質の良い普段着の市場を開拓。また、経営体制の充実のため、1997年より柳井正(大株主 兼 経営者)元伊藤忠やマッキンゼーの30代の人材を受け入れるとともに、古参取締役を説得の上で退任させ、取締役の若返りを実施した。

  • 時価総額1兆円の小売業へ
  • 1998年にファーストリテイリングは原宿への出店し、1900円のフリースを大量に販売することでフリース旋風を巻き起こした。ユニクロのブランドが日本で認知され、一時は時価総額1兆円をつけ、日本を代表する小売業となった。

    目次

  • ファーストリテイリング - 基本情報
  • 売上高 - 過去推移

    売上構成比 - 過去推移

    売上高利益率 - 過去推移

    従業員数 - 過去推移


  • 宇部興産の栄枯盛衰
  • 1890年代 宇部興産の創業

    1960年代 宇部興産の人員削減

    1980年代 小郡商事の経営危機


  • GAP日本上陸
  • 1960年代 リーバイス販売店の創業

    1990年代 リーバイス価格の自由化

    1990年代 GAPの日本上陸


  • サプライチェーンの構築
  • 1980年代 ファーストリテイリングを提唱

    1990年代 ロードサイドに集中出店

    1990年代 30代人材を取締役としてスカウト

    1990年代 都心出店+フリース広告


  • 国内小売・時価総額No.1
  • 2000年代 時価総額1兆円

    2000年代 フリース旋風の終焉

    2010年代 グローバル展開の本格化


    ファーストリテイリング - 基本情報

    売上高 - 過去推移

    単位:億円

    出所:有価証券報告書、会社四季報、各種報道資料


    売上構成比 - 過去推移

    単位:%

    出所:有価証券報告書、会社四季報


    売上高営業利益率 - 過去推移

    単位:%

    出所:有価証券報告書


    従業員数 - 過去推移

    単位:名

    出所:会社四季報


    宇部興産の歴史

  • 1897年 宇部興産の創業
  • 1930頃 柳井政雄が炭鉱労働に従事
  • 1949年 柳井等が小郡商事を開業
  • 1964年 宇部興産が希望退職者を募集
  • 1967年 宇部興産が石炭採掘から撤退
  • 1974年 青山商事がロードサイドに出店
  • 1986年 宇部興産が希望退職者を募集(1300名)
  • 1987年 青山商事が株式上場
  • 宇部興産の創業

    ※ファーストリテイリングの前身"小郡商事"は宇部興産の企業城下町である山口県宇部市・宇部新川駅前の商店街に店舗を構えており、宇部興産の栄枯盛衰と密接に関わっているため、本項目では宇部興産の歴史を解説する。

    宇部興産の歴史は明治時代に山口出身の渡辺祐策が、地元の宇部の経済を発展させるため、宇部で産出される石炭採掘のために地元出資による"匿名組合沖ノ山炭鉱組合"創業したことに始まる。1897年より石炭事業を開始し、1950年代までの半世紀の間、宇部の街は炭鉱を中心に栄えた。また、渡辺は宇部の発展のために、様々な公共施設を充実させるなど、町の発展の立役者となる。

    だが、石炭資源は有限であることから、1920年代に渡辺祐策は「石炭を掘りつくしてしまうと、宇部は火が消えたようになる。だからお前たち2人で世界中を歩いて、宇部に持ってきてもいいような仕事を探してこい」[日経新聞連載(私の履歴書・中安閑一)]と部下に命じ、石炭業からの脱却を目指す。渡辺の指令を受けた宇部興産の部下は、海外におけるセメント工場や化学工場を視察。宇部興産を石炭会社から、セメントと化学の兼業メーカーに転身するきかっけとなった。

    創業者の渡辺は宇部の発展のために尽くしたため、地元から「神様」と慕われたという。また、戦前の宇部興産の株主の大半は宇部の人々であり、同社の株主総会は地元のお祭りの様相を呈したと言われている。1945年の終戦の時点で宇部興産は4000人の従業員を擁し、宇部経済を支える大企業となった。

    (補足)ファーストリテイリングの創業者・柳井正の親戚の柳井政雄は、1920年代に宇部興産の炭鉱で働いていた。

    中安閑一(宇部興産・会長)

    「渡辺翁の口癖は「宇部百年の大計」であった。すべてを宇部発展のためにおき、私利私欲を捨ててその実現にあたられた宇部郷党の鏡のような人である。したがって、翁の功績は、たんに今日の宇部市の鉱業的な発展についてばかりでなく、公共福祉、教育、文化事業などおよそ宇部市のものならばほとんど、その発展になんらかの寄与をされている。当時から、宇部人にとっては、まさに"神様であった"

    日経新聞連載(私の履歴書・中安閑一)

    宇部興産の人員削減

    1950年代に石油が日本にも普及し、1962年に日本政府が石油輸入の自由化を決定したため、相対的に高コストな国内石炭業は行き詰まる。宇部興産も例外ではなかったが、1950年代を通じて化学とセメント事業を拡大しており、石炭からの業態転換に成功した。このため、宇部興産の多角経営は経済界の注目を浴びた。

    ただし、宇部興産は国際競争力を維持するために合理化を推進したため、業態転換の過程で人員削減を決断している。1963年に宇部興産は本山鉱(従業員582名)と沖ノ山鉱(従業員3500名)の閉山に伴い、基524名の希望退職者を募集。1967年には宇部鉱業所の閉鎖に伴い、同事業所に勤務する職員205名と鉱員1945名のうち、700名を配置転換、残りの1450名は再就職の支援を実施した。

    他方、配置転換先となった化学事業の拠点は東京の千葉に存在したことから、配置転換によって宇部市を去った従業員も多いと推察される。

    1970年代に入ると、セメント事業と化学事業も、業界における供給過剰が問題となり、宇部興産も合理化を強いられた。特に、1985年のプラザ合意による円高ドル安の進行が打撃となり、1986年に宇部興産は1300名の希望退職者の募集を決断し、日経新聞は夕刊の一面記事で「宇部興1300人削減」[1986/11/27日経新聞夕刊]と報道。宇部興産の従業員数は減少し、企業城下町である宇部新川駅前の商店街の凋落が決定的となった。

    日経新聞「宇部興1300人削減」

    一人当たり売上高を増やし経営基盤の確立を狙う措置だが、地域経済にも深刻な影響が出そうだ。同社は化学、セメント、機械・プラントなどの総合メーカーだが、今回の不況で人員整理に乗り出すのは化学大手では初めて

    1986/11/27日経新聞夕刊p1「宇部興1300人削減」

    小郡商事の経営危機

    1971年に柳井正(宇部市出身)は早稲田大学政治経済学部を卒業し、ジャスコに入社した。だが、サラリーマンが合わず8ヶ月で退職し、地元の宇部に戻り、父の営む紳士服店"小郡商事(1946年に柳井正の父・柳井等が創業)"の店主となった。小郡商事は宇部興産のお膝元である宇部新川駅前の銀天街のメンズショップとして、柳井は約12年間、店舗運営に従事した。

    だが、早稲田大学を卒業した柳井は「宇部興産や県庁に勤める友人が主流。僕は大学出なのに洋服屋の店主。恥ずかしかった」[1996/7/9日経流通新聞]という感情を抱いていたという。

    街の商店に過ぎなかった小郡商事を襲ったのは、宇部興産のリストラであった。1986年に宇部興産は合理化のために全従業員の16%(1300名)の人員削減を決断。以降、宇部新川駅前の商店街は急速に廃れ、小郡商事の店主であった柳井正は、斜陽産業の街「宇部」からの脱出が喫緊の課題となる。

    また、1970年代を通じて宇部市周辺でも道路網が徐々に整備されたため、郊外人口が増加し、宇部新川駅前の商店街の立地条件が悪化。紳士服業界では、1980年代に新興企業の青山商事がロードサイド店"洋服の青山"を展開(1985年時点で54店舗)したため、小郡商事を取り巻く競争環境が悪化した。

    青山商事 売上高 - 過去推移

    単位:億円

    出所:1984/11/26日経ビジネス「郊外出店ズバリ、紳士服で群抜く成長の青山商事」

    柳井正(ファーストリテイリング社長、2016年)

    私は1949年に、山口県宇部市という炭鉱の町に生まれました。石炭の産出地ですから、戦後復興期に大変栄えていた記憶があります。しかし、石炭から石油へとエネルギー革命が起こり、炭鉱は閉山、人口は減少していきました。...(中略)

    産業の衰退に伴い、あれほど賑わっていた商店街も多くの店舗が閉店していきました。現在では他の多くの商店街と同じようにシャッター通りとなっていて、われわれの店があった場所も更地になっています。本当に寂しい限りです。過去の話ですが、これが私の原点です

    2016/06商業界「店は客のためにあり、店員とともに栄える」


    GAP日本上陸

  • 1969年 D.Fisherが米サンフランシスコにて創業
  • 1976年 NY証券取引所に上場
  • 1987年 ロンドン進出
  • 1994年 アジア進出/ギャップジャパンを設立
  • 1995年 Gap日本一号店を開業(数寄屋橋阪急)
  • 1999年 Gap原宿店を開業
  • リーバイス販売店の創業

    GAPの歴史は、1969年にD.G.Fisherが誰もが気軽に着用できるジーンズを販売し、人口増加が著しいカリフォルニア州(サンフランシスコ)にてリーバイス製品を取り扱うGAPを創業したことに始まる。GAPはリーバイスの販売店としてヒッピーたちに支持された。商品の75%が男性向けだったが、購買客の40〜45%は女性であったという。

    ところが、創業1年目で売り上げが停滞。そこで新聞への広告出稿、陳列の改善、在庫管理を徹底し、1時間ごとにレジの販売記録を紙のノートに写してデータを収集して分析(当時はPOSが存在しなかった)して経営状態を改善。売れるジーンズのデザインやサイズなどの情報を集めて販売を改善することで売上低迷から脱却した。

    1970年にはサンノゼに2号店を出店し、1975年までにアメリカ全土で97店舗を出店。1976年にGAPは創業7年目で株式上場を果たす。この時点でGAPの売上高に占めるリーバイス製品の比率は75%に及んだ。

    GAP Inc. 売上高 - 過去推移

    単位:100万ドル

    出所:李(2009)

    ジーンズ価格の自由化

    その直後、1977年にジーンズ業界に大変革が訪れた。従来はジーンズの製造元であるリーバイスが小売価格を設定したが、米国政府は自由な価格設定を阻害しているとして、価格の自由化を要請した。これを受け、ジーンズ業界は自由価格競争の時代に突入し、ディスカウントストアなどでも販売されるようになった。GAPはリーバイス製品によるマージンの確保が難しくなり、再び経営が行き詰まる。

    そこで、Fisher社長はコンピューターによる在庫管理システムを導入し、販売の機会ロスを回避。さらに、リーバイス製品への依存を断ち切るために、低価格自社ブランド「GAP」を開発した。

    また、大量生産によるコストダウンを図るため、1978年に香港商社"利豊集団"と提携し、生産地工場を統括する合弁会社を設立。それまでの商品調達は米国内が中心であったが、1980年代を通じて中国などの東南アジアの生産工場からの調達にシフトしてコストダウンを図った。1987年にGAPは合弁会社への出資比率を20%から100%に引き上げ、グローバルでの調達体制を構築した。

    リーバイス:19世紀にカリフォルニア州でゴールドラッシュが起こり、世界各地から同州に移住した人々に作業着としてのジーンズを販売することで業容を拡大した。ジーンズ501は不朽の名作と言われた。だが、1980年代にGAPがリーバイスの取扱量を縮小したことで業績が急激に悪化。米国西海岸のカジュアルウェア業界の覇権は老舗のリーバイスから新興のGAPへとシフトした。

    1987年にGAPは自らのビジネスモデルを「SPA(specialty store retailer of private label apparel)」という概念として提唱した。GAPは世界で始めてSPAを構築することで、低価格かつ高品質の商品を販売する体制を整えた。1992年にはリーバイス製品と決別し、商品構成はGAPが100%となり、売上高は25億ドルを突破。GAPは売上規模で米国1位のリミテッドに次ぐ第2位の企業に成長した。

    利豊集団(Li&Fung):1906年に中国広州で創業された輸出商社で陶磁器や宝石、象牙等を取り扱った。中国共産党の台頭を受けて1949年に香港に拠点を移し、おもちゃなどの労働集約製品の輸出を担い1973年に株式を上場。1979年の中国の解放政策を受けて、中国本土における工場ネットワークを構築。GAPなどの欧米企業に製造拠点として紹介することでサプライチェーンの「オーケストレーター機能」を担うグローバル企業となった。SCM構築の立役者は馮兄弟で、1970年代に米国・ハーバードビジネススクールに留学しており、帰国後も米国人脈を生かして利豊集団をグロール企業へと変貌させたものと推察される。

    GAPの日本上陸

    1993年頃から米国におけるGAPを取り巻く競争環境が激化。1990年代を通じてGAPは販売商品を充実させるために浴室製品やシャンプーなどにも参入するが、芳しい成果は残せなかった。1995年には委託工場における劣悪な労働環境が一部メディアに取り上げられたことで問題となるなど、GAPの社会的信用も揺らいだ。

    そこで、GAPは活路を海外に見出すために、本業のファッション分野で海外進出を推進。1993年にフランスへ進出し、1994年にはアジア進出を決断。1995年に数寄屋橋阪急百貨店にGAPの日本一号店を出店し、日本上陸を果たした。

    1998年までにGAPは都心部を中心に日本で31店舗を展開した。カーキ色のパンツを大々的に販促し、日本の業界関係者は「原宿に出かけて驚いた。カーキ、カーキ、カーキ。まるで、軍団のように若者がカーキ色を着ていた」[1998/08/22日経新聞夕刊]と驚嘆したという。

    (補足)1996年4月にBill Fisher(GAP Inc.社長)は日本の宇部市にあるファーストリテイリングの本社を訪問し、柳井正社長を質問攻めにしたという。

    日経新聞(1998年)

    新進の外資系大型衣料品店が人気だ。カップルや親子連れなど、10〜30代の男女でにぎわっている。代表格は今年八月末に東京・渋谷に出店したスペイン発の「ZARA」...(中略)...抑えられた価格で、デザイン性に優れ、サイズも豊富。この三つの魅力を備えた、もう一つの外資系大型衣料品店が米国発の「GAP」...(中略)...欧州、米国とそれぞれ“出身地”は違うものの、一人一人の需要にこたえるために大量に商品を置く、という商法が共通項か。どちらも列島へのますますの出店を構想中。国産ブランドを脅かす存在になりそうだ。

    1998/12/19日経新聞朝刊p35「豊富できめ細かい品ぞろえ」

    GAP Inc. 売上高 - 過去推移

    単位:100万ドル

    出所:李(2009)


    サプライチェーンの構築

  • 1984年 ユニクロ1号店を広島市に出店
  • 1985年 (プラザ合意=円高ドル安)
  • 1985年 ユニクロをロードサイドに出店
  • 1988年 全店にPOSを導入
  • 1989年 大阪事業所を開設(自社企画拠点)
  • 1989年 宇部市に配送センター(1994年閉鎖)
  • 1991年 商号をファーストリテイリングに変更
  • 1992年 北九州と中京地区に集中出店
  • 1993年 人事制度・情報システムの更新
  • 1994年 広証に上場(130億円を調達)
  • 1996年 東京事業所を開設(自社企画)
  • 1996年 山東省にニチメンと合弁設立(生産)
  • 1997年 外部人材のスカウトを実施
  • 1998年 フリースに広告投資
  • 1998年 都心店の新設(原宿店開業)
  • ファーストリテイリングを提唱

    1980年代後半に柳井正は香港を訪問し、欧米のアパレル企業が中国企業に生産を委託する経営に衝撃を受け、小郡商事でもグローバルなサプライチェーンの構築を試みる。まず販売面で、1984年に広島にユニクロ1号店を開業し、1985年には下関市にロードサイド1号店を開業した。このうち、ロードサイド店は都心店とは違い顧客層が幅広く、定番商品が効率よく売れたため、小郡商事はロードサイドに集中出店する方針を固める。

    サプライチェーンの構築のため、1988年にPOSを全店に導入し、1989年に大阪吹田に自社ブランドの企画事務所を設立。同年に宇部市に配送センターを設置し、西日本において企画〜物流〜販売のサプライチェーンを構築した。また、同時期に中国での本格的な委託生産を開始したものと推察される。1996年には総合商社のニチメン(現双日)と提携し、山東省に合弁会社を設立して生産拠点を拡充させたが、一方で長年関係を築いてきた国内生産拠点との取引を取りやめた。

    また、ユニクロをSPAとして軌道に乗せるため、1991年に柳井正は商号を小郡商事からファーストリテイリングに変更。だが、当時の日本ではSPAの概念は浸透しておらず、社名変更に疑問を抱く業界関係者もいた。

    柳井正(ファーストリテイリング社長、1994年)

    (筆者注:記者の問)「ファーストリテイリング」という社名だけでは、業態や業種が今一つはっきりしませんが

    (筆者注:柳井の答)欧米のカジュアルウエア専門店チェーン、例えば米国のリミテッド、ギャップなどの店舗運営のシステムはファーストフードそのものです。売れ筋商品をそろえ、客は男女、年齢を問わないノンセックス、ノンエージ。簡素な店舗で素早いサービス、それに独自の商品と値ごろ感。早い小売業(ファーストリテイリング)というコンセプトは欧米では普通の考え方です。...(中略)...

    今までの小売業について共通しているのは、自社の価値観の欠如ではないでしょうか。商品はもちろん、時代に合わせたポリシーがない。看板を取り払うと何の区別もできない。販売主お品もメーカーの意向によって大きくぶれているのが現状です。メーカーがつくるものを商品の基本にしていたのでは、価値観が一定しないのは当然のことです。しかし、私は販売する商品ははじめからないことを前提にしてきました。客の要望を商品化することに小売業としての価値があるのではないでしょうか。国内に手本がないだけに試行錯誤ですが、やっと手ごたえが出てきました。

    1994/8/16日経流通新聞p2「ファーストリテイリグ社長柳井正氏(上)簡素な店」

    ロードサイドに集中出店

    1991年によりファーストリテイリングは北九州および中京圏におけるロードサイドへの集中出店を開始する。当該地区は自動車の普及率が高いため、重点的な出店地域に定めた。ベンチマークとしては日本マクドナルドと青山商事の出店戦略を参考にしている。

    また、大量出店と同時に物流センターを充実させることで、商品の迅速な補給体制を整える。1995年までに九州、関西、東海地区などに全国5箇所に物流センターを分散配置した。柳井は「ノウハウがないのに、小売業が自社で配送センターを持つ必要はない」[1995/4/17日経ビジネス]と判断し、倉庫業者とのリース契約により配送網を構築した。このため、物流拠点の詳細な配置は不明である。

    (補足)急速な出店を行うために、1993年にファストリは新しい人事制度を策定。また店員教育を強化するため、従業員教育に業界内でも定評がある鈴屋出身の堀端氏を迎え入れて現場教育を任せた。

    ロードサイドへの出店により、ファーストリテイリングは顧客としてのファミリー層を獲得し、ユニセックスの商品を1000〜1900円で販売する体制を構築する。出店の資金を確保するために、1994年にファーストリテイリングは広島証券取引所に株式を上場し、150億円の資金調達を実施した。

    1997年までにユニクロは西日本・中京圏に177店舗、東京を含めた東日本に88店舗の展開を完了した。1997年の時点では店舗網はロードサイドが主体で、首都圏への出店も都心部ではなく、小田原や八王子といったロードサイドが中心であった。

    だが、郊外出店が徐々に行き詰まり、1998年12月に日経ビジネスは「小売業回の風雲児、カジュアル衣料店「ユニクロ」が失速している。本部による画一的な店舗運営が、消費者ニーズとの乖離を招いた」[1998/12/21日経ビジネス]と指摘。このため、ファーストリテイリング社内も、将来に悲観的な空気が渦巻いたという。

    (補足)出店においては土地の賃貸方式を採用。1997年8期における地代家賃の支出は43億円(売上高比5.7%)であった。また、FCではなく直営店での出店を重視した。

    柳井正(ファーストリテイリング、社長・1996年)

    毎年30店舗ずつ出店して、1995年末で210店舗になりました。デザイナーはニューヨークで、生産はアジア、市場は日本、というグローバルな製造小売業の仕組みができたのを機に、出店ペースを毎年50店舗に増やしました。このまま業績が順調に推移すれば、2000年に500店舗、売上高1000億円を達成する予定です。...(中略)

    「価格破壊」なんて言っているのはおこがましいと思うんですよ。日本は商品の価格が外国と比べて非常に高い。今は価格が正常化する過程にあると思っています。でも、現在の小売業の仕組みでは、価格破壊はできません。日本の小売業は従業員が多いから人件費率は高いし、家賃の高いところに出店している。固定費比率が高いから、商品の粗利率も大きく取る。こんな店は、価格破壊者とは言えない。一方、ディスカウンターというと何かを犠牲にして安い値段にしているとか、安い値段も一時的というイメージがありますよね。安く売るシステムをきちんとつくらないと、継続的な価格の引き下げはできません。

    1996/1/15日経ビジネス「柳井正氏・経営に感性はあまり必要ない」

    ファーストリテイリング店舗数 - 過去推移

    単位:店

    出所:有価証券報告書、会社四季報、各種報道資料


    30代人材を取締役としてスカウト

    1995年にGAPが日本に上陸し、数寄屋橋阪急に出店したことを受け、ファーストリテイリングはカジュアルファッションのグローバル競争に巻き込まれた。だが、1995年までの同社の取締役は柳井正よりも年上の人間が多く、1994年の株式上場によって古参幹部はまとまった資金を手にしたため、リタイアモードに突入する人もいたという。

    そこで、柳井正は人材会社を通じて若い人材を取締役として抜擢することを決め、1997年に伊藤忠出身の沢田貴司をファーストリテイリングの取締役としてスカウトした。また、古参取締役について、柳井は直談判のうえ、辞職を促すことで取締役の若返りを断行した。

    1999年8期までに柳井正(ファーストリテイリング大株主・50歳)は取締役の総入れ替えを完了。伊藤忠出身の沢田貴司(42歳)を副社長に抜擢し、マッキンゼー出身の堂前宣夫(30歳)、ダイエー出身の中嶋修一(36歳)、日本IBM出身の玉塚元一(37歳)、伊藤忠出身の森田正敏(38歳)を新たに取締役に迎えて若返りを図った。


    ファーストリテイリング取締役(1997年8期)

    代取社長 :柳井正(1972入社、1949生)

    取締役会長:加藤信義(山口銀行専務、1933生)

    専務取締役:菅剛人(ミキヤ出身、1947生)

    常務取締役:浦利治(1960入社、1945生)

    常務取締役:沢田貴司(伊藤忠出身、1957生)

    取締役  :岩村清美(1976入社、1952生)

    取締役  :堀端雄二(鈴屋出身、1953生)

    取締役相談:柳井等(小郡商事創業者、1919生)


    ファーストリテイリング取締役(1999年8期)

    代取社長  :柳井正(1972入社、1949生)

    取締役副社長:沢田貴司(伊藤忠出身、1957生)

    専務取締役 :堀端雄二(鈴屋出身、1953生)

    常務取締役 :堂前宣夫(マッキンゼー出身、1969生)

    常務取締役 :森田政敏(伊藤忠出身、1961生)

    取締役   :中嶋修一(ダイエー出身、1963生)

    取締役   :玉塚元一(日本IBM出身、1962生)

    出所:有価証券報告書。赤字は退任、青字は新任取締役


    玉塚元一(ファーストリテイリング社長、2018年)

    柳井さんがすごいのは、ずっと昔から働いている古参の役員を一人ひとり説得して退いてもらい、代わりに僕とか、ファミリーマートの社長になった澤田貴司さんとか、マッキンゼーから来た堂前宣夫さんなどを大挙して招いたんですね。大胆な血の入れ替えをしたわけです。それがちょうど1000億円の壁の手前にいたときのことですが、この後、1000億円から3000億円になるかならないかという『プラトー(高台)』にいると彼は本当に思っていて、そのために構造を大きく変えなくてはいけないという強い信念を持っていたわけです

    2017/8/24日経ビジネス「当事者意識と自立心のない社員は要らない」

    都心店出店+フリース広告

    1998年10月にファーストリテイリングは冬の目玉商品"フリース"を1,900円で売り出すとともに、大規模な広告宣伝を実施。1999年8期の広告宣伝費は66億円(売上高比5.9%)、2000年8期は同100億円(売上高比4.4%)を投資した。

    また、1998年11月にファーストリテイリングは首都圏初の都心型店舗としてユニクロ原宿店を開業。ユニクロを郊外のロードサイドブランドではなく、都心にも進出し、全国ブランドへの飛躍を図る。原宿店では開業にあたって、1回のショーウインドーと入り口付近をフリースで埋め尽くし、安いフリースを全面的に訴求した。

    (補足)原宿店の購買客は若者が多かったが、誰もユニクロというブランドは知らず、フリースを買いに来た顧客が多かったという。土日の原宿店は長い行列ができ、テレビやファッション雑誌がユニクロを紹介したことで、ユニクロの知名度が全国区となった。

    売上高比率・コスト構造 - 過去推移

    単位:%

    出所:有価証券報告書

    (補足)生産面では1999年度に委託工場を従来の1/3(130→40箇所)に絞り込み、サプライチェーンの簡素化を志向。見切りロスの削減、品質の安定を目論んだ。また、店舗運営では画一的な運営から能動的な運営に移行するためにスーパーバイザー部を新設した。なお、国内物流面では1999年に東日本と西日本に大型物流センターを新設して対応している。

    柳井正(ファーストリテイリング社長、1998年)

    我が社には7年ごとに転機が訪れるようだ。「ユニクロ」の1号店を広島市に開いたのが1984年。当時は単なる「カジュアルショップ」だった。91年に店舗数が22店に達した時、将来の多店舗展開に備えて組織や情報システムを見直した。98年の今回は「カジュアルチェーン」から「カジュアル産業」への変革と言ってよいだろう。...(中略)

    「いつでも、どこでも、誰でも着られるベーシックなカジュアル衣料を、市場最低価格で継続販売する」という「ユニクロ」の原則からは絶対に外れないようにする。当然、人件費などの経費も従来通り低く抑える。個店対応を軌道に乗せられるかどうか。来年が正念場だ。

    1998/12/21日経ビジネス「失速「ユニクロ」挽回なるか」


    国内小売・時価総額No.1

  • 2000年 時価総額1兆円を突破
  • 2002年 デザイン研究所の設立
  • 2002年 食品事業に参入(2004年撤退)
  • 2006年 東レと業務提携を締結
  • 時価総額1兆円

    1999年から2000年にかけてユニクロでフリースが飛ぶように売れたため、メディアは「フリース旋風」として注目し、ユニクロのブランドが全国区で知られるようになった。販売量の増加による原価の引下げにより、2000年8期にファーストリテイリングはファッション業界では驚異的な水準である営業利益率26.5%を記録した。2000年には時価総額が1兆円を超え、ファーストリテイリングは日本を代表する小売業となった。

    日経ビジネス(2000年)

    この冬、ファーストリテイリングの実力を世に知らしめる"事件"が起こった。軽くて保温性の高いことで人気の防寒着、フリースを800万着売りさばくというのだ。日本の人口が1億2600万人だから、単純計算すれば15人に1人はユニクロでフリースを買うことになる。この販売量は日本の小売業でダントツの1位。ダイエー、イトーヨー堂など大手スーパーも競ってフリースを投入したが、数量はユニクロより1ケタ少ないはずだ。「信じられない。驚異的な数字だ」ある大手スーパーの幹部はうなる。

    1900/1/1

    フリース旋風の終焉

    フリース旋風は一時的なブームに終わり、ファーストリテイリングの営業利益率は2000年8期のピークを境に、2001年8期は24.4%、2002年8期は14.6%へ低下したため、ネットバブルの崩壊という煽りも受け、同社の時価総額は2002年3月に2407億円へと低迷した。

    2000年代前半にファーストリテイリングはロンドンへの海外進出、農業分野への参入を試みるが、いずれも早期に撤退。2000年代のファーストリテイリングは国内のユニクロ事業を中心に業容を拡大した。

    日経ビジネス(2000年)

    (記者の問)「ユニクロ」の勢いが弱まってきた理由として、第一に考えられるのが、商品のマンネリ化です。消費者がユニクロの服を着ることに飽きている指摘は多い。この点について、柳井社長はどう考えますか。

    (柳井の答)ある意味でマンネリも仕方ないんじゃないかと思っています。というのは、我々は生活に密着している商品を取り扱っているわけで、新商品を売る企業じゃない。あくまで生活に密着したベーシックなカジュアルウエアを売るという業態なんです。ただ、そうは言いながら、やはりシーズンごとに新鮮味は出していかないといけない。そのあたりのバランス、これがやっぱり崩れているんじゃないかと思います。というのは、これまでが順調に売れすぎたんで、自分たちは変えたと思っていても、知らないうちに従来と同じような品番、色構成、デザインのものを出していた。今後はバランスを考えながら、少しファッションの方に振りたい。...(中略)

    成長しない企業というのは、僕は意味がないと思うんです。できたらこれからも急成長をしたいと思っています。...(中略)...やっぱり売上高で1000億円を3000億円にしましょうとか、3000億円を1兆円にしましょうと言って初めて経営者じゃないですか。私はこれからも成長にこだわっています。

    2002/2/18日経ビジネス「第二特集・ユニクロ、次の一手」

    グローバル展開の本格化

    ※ファーストリテイリングのグローバル展開については、海外展開を本格化させた2010年頃から20年を経た時点(2030年以降)で執筆する。


    参考文献

    新聞・雑誌記事

    1984/11/26日経ビジネス「郊外出店ズバリ、紳士服で群抜く成長の青山商事」

    1986/11/27日経新聞夕刊p1「宇部興1300人削減」

    1994/8/16日経流通新聞p2「ファーストリテイリグ社長柳井正氏(上)簡素な店」

    1996/1/15日経ビジネス「柳井正氏・経営に感性はあまり必要ない」

    1998/08/22日経新聞夕刊

    1998/12/19日経新聞朝刊p35「豊富できめ細かい品ぞろえ」

    2000/1/17日経ビジネス「ユニクロ、一品集中で急上昇」

    2002/2/18日経ビジネス「第二特集・ユニクロ、次の一手」

    2016/06商業界「店は客のためにあり、店員とともに栄える」

    2017/8/24日経ビジネス「当事者意識と自立心のない社員は要らない」

    書籍・その他

    日経新聞連載(私の履歴書・中安閑一)

    有価証券報告書

    会社四季報

    2009早稲田商学第420・421合併号「アメリカにおけるSPAモデルの生成と発展」李雪


    事例一覧